聞こえる声々
珍しく早く帰宅出来た。仕事柄早く帰れることは珍しいのだが。こういうときに応募作品に集中できればいいと思ったが、思った通り、そううまくはいかなかった。少し休憩といった名目でベッドにごろりとなると、もうすでに術中にはまってしまったのかもしれない。そういう時に限って、眠気という奴は襲ってくる。何とか負けじと負けじと気を強く持って対抗していると、あっという間にいつもと変わらぬ時間になってしまう。反省せねばなるまい。早く寝たので早く起きることにした。少しでも執筆を進めるためだ。いつもなら進まない執筆も珍しくすんなりと書けた。
内容は別としてだが。ふと狭い部屋の中を、広い視野で見回す。普段、急いでいる気持ちでは見えない何かを感じることが出来るかもしれない。
蟻が一匹。テーブルの上にいた。そそくさとテーブルの上をあの小さい足で精一杯歩いている。珍しい客人だなと私は思い、じっーとその蟻を観察していた。瞬きもせず、ただただ時が止まったかのように。蟻がようやく素早く、動き始めた。玄関の隙間をすり抜け、近くの砂地まですたすたと時間はかかったが歩いてきた。よく見てみるとそこには蟻地獄の巣があった。その穴に蟻が入ってしまうともう出てこれない罠だ。落ちるんじゃないぞ。私がそう思っていると、どうやら先客がいた。
穴に見事に落ちて、逃げ出すために必死にもがいている。それでも蟻地獄の罠からにげだすことは出来ない。手を貸そうかと思ったがそれは手伝ってはいけないことだ。私はせっかくここまで連れてきた蟻を不憫に思ったが、
仕方ないと思い、自室に戻ろうとした。その時だ。その蟻が蟻地獄の中に飛び込んだのは。
そして中でもがいていた蟻はその蟻の登場により、踏み台にすることにより、中から脱出することが出来た。脱出した蟻はまるで何事もなかったかのように戻っていく。私は蟻地獄の巣の中に取り残された蟻を見て、不憫に思った。
「後悔はないわ」
すると頭に言葉がするりと舞い込んできた。周囲を見回しても何もいない。いるとすれば本当に蟻くらいだ。後悔はないわか。確かにこの蟻は自らこの蟻地獄の中に入り、仲間の蟻を助けた。だからそう言ってもおかしくはない。カラスの件もあったので蟻が喋り始めたとしてもそう驚ろいていない。そんな自分に少し驚きを覚え、滑稽だった。
「後悔があるとすれば、私が君を助けないことだ」
私はそう言い、蟻地獄の巣から、蟻を助けた。蟻は驚いていたが、私にお礼を言ってくれた。
「ありがとう」
と。照れるわけではないが、それでもいいことをした気になった。対したことはしていないのに。この蟻が仲間を助けたことに触発されて、身体が動いてしまった。
「別にいいですよ。二匹ともお互い怪我がなくてよかった」
私は蟻二匹に怪我がなかったことを確認する。
蟻は私に対して何度も何度もお礼を言ってくれた。
これが私と慈愛に満ちた世界平和を願う蟻との出会いだった。
応募作品の締め切りが、刻一刻と迫っている中で、私の作品は完成するつもりが脱線してしまい、大きな迷える子羊が出来てしまった。
またこの暑さは異常だ。何度仰いでもその仰がれた風が生ぬるいのだ。自室にクーラーなどない。額に汗を滲ませながら、キーボードを打つ。手書きでなくてよかったと思う。手書きであれば、この暑さと汗で書いた原稿用紙がぺたぺたと手の甲にくっつくからだ。パソコンならば、そういう心配はないが。パソコン本体の熱量で部屋の気温が数度上がるのだ。どちらも良い点と悪い点がある。
私が芥川賞に選ばれたいと思ったのは、今のこのありきたりな生活に終わりを告げたいと思ったからだ。職場では年下に馬鹿にされ、
上司からの評価も良い方ではない。仕事も出来る方でもない。
私生活も決して喜ばれるものではないだろう。
家を出て、ひとり暮らしを始めたが、結局は職場とアパートを行き来するだけでプライベ
ートの時間などありはしない。結局アパートでやることは執筆活動と寝ること。ただそれだけだ。
自分でいうのもなんだか言い辛いけど、つまらない人生だろうと。
はっきりと分かっていた。だからこそ芥川賞に選ばれて周囲をあっと言わせたいのだ。その三文字は聞いただけでも、人の目つきが変わる。凄い賞だ。受賞すると、マスコミに多く取り上げられ、本の売れ行きも上がる。だからこそまずはその芥川賞に選ばれるために作品を描き上げなければならない。新聞や文芸誌に掲載されて作家としてデビューしないと、まずは始まらないのだ。努力だけで受賞できる賞とは思っていない。もちろん、運だけでも取れない。受賞したらまずはこんな狭い空間からおさらばだ。そして次はクーラーのある快適な部屋に入るんだ。もちろん、バスとトイレが別々の部屋に。おかげでバスとトイレが一緒なためにカビが非常に生えやすい。もうそろそろこんな生活は嫌だ。小説が書ければいいとは思っていたけど、万全の状態で書くにはある程度環境が整っていないといけないことに気がついた。そして毎日りんごを片手にかじりながら小説を書く。想像しただけで気持ちいい。そんなことを考えながらこの熱い真夏の執筆活動が幕を上げた。
夏は嫌いだ。何故なら煩わしいものがたくさんあるからだ。
まずはこの暑さ。この焼け焦げる暑さは何とかならないだろうか。日差しが否応なく激しく照りつけ、肌を蝕むように焼く。
汗。こいつも嫌いだ。何故ならこいつは衣類を汚すからだ。さらに汗を掻くと衣類が汗を吸う。これがまた気持ちが悪いのだ。じっとりと湿った衣類が肌にくっつく。それが嫌で嫌で仕方がなかった。またそのまま放置すると冷たく、体温を奪う暴挙にでる。本当に厄介だ。
ミーンミーンミーン。うるさいくらいのセミの鳴き声。しかも時刻は夜だ。夏以外はこの時間帯は非常に快適な執筆に適した時間だというのに、夏は違う。暑くて少しは風の通りをよくしようと窓を開けるとセミの大コーラスが聞こえてくる。クーラーがある人達はそれほど気にはならないであろうが、私の部屋には前述したようにクーラーがないのだ。
とほほとこんな時思ってしまうが。セミには関係ない。どこでも力強くミンミンミンと鳴いている。彼らの一生で陽の目を見ることが出来る期間は大体七日間だ。この短い間に彼らは自分の子孫を残すことで必死だ。まるで小説家になりたくてもなれない人達のようだ。
私はもちろんそれには含まれていないが。この七日間で雌にどれだけアピールするかで決まる。同姓ながらがんばれと同情したくもなる。死にたくないセミに出会ったのを今でも覚えている。彼はとにかく主張していた。逞しく放たれる鳴き声は雌の心をすぐに射止め、彼の役目は一周間のの初日で終わってしまった。それからの彼は毎日泣いていた。まるで自分の理性という蓋が亡くなってしまったかのように泣いた。死への恐怖。日に日に彼の泣き声は次第に弱々しくなっていった。私もその声を聞いていた。初日に聞いていたあんなに逞しい鳴き声も、今では弱々しい子羊が鳴くような悲鳴にも似たものとなっていた。
「死にたくねぇ」
彼の心の叫びが毎晩伝わってきた。私はその声を聞いていた。聞いていることしか出来なかった。仮に自分に何ができるのと問う。自分は彼に対して何も出来ないだろう。何も出来ない私は彼と顔を会わせる資格はない。
「しにたくねぇ、しにたくねぇ、しにたくねぇ……」
苦痛に顔を歪めたセミの顔が脳裏に浮かんだ。
彼には線香を今でも捧げている。今でもセミの鳴き声が聞こえてくると死にたくないセミの彼を思い出す。たった一週間しか彼とはいれなかったけど、今でも彼のことは忘れることはない。
真夏の太陽とさよならをして、ようやく秋がやってきた。色々と学門の秋、食欲の秋と言葉であるように。私にとっては秋はやはり、応募作品を終えるために神様に与えられた執筆の秋といえるだろう。ここででかして応募しないと私の夢は藻屑へと消えてしまう。私が書いている小説はこうだ。何も取り柄のない男が発起して芥川賞に受賞するために、命をすり減らしてまで、作品を書くが、応募した文芸誌では鳴かず飛ばずで、結局芥川賞にかすりともしなかったが、最後に贈呈会場まで向かう話だ。流れはもうすでに完成しているので後は文章を書いて肉付けするだけだ。
仕事から帰ってきては夜な夜な作品に打ち込む。あながち小説家とはこういうものではないのであろうかという気持ちが伝わってくる。
書いているのだ。自分の人生のように、その登場人物の半生を。感極まって泪してしまう。私はそこまで打ち込んでいた。もうこのまま終わりまで駆け抜けるしかない。筆が自然と進んだ。あんなに停滞していたのがウソのようだった。無事作品は印刷まで完成し、表紙も完成して、あとは郵送するだけになった。
仕事の帰りに、自分の命の一部のように原稿用紙を抱える。誰かに盗まれないように、きちんと守りながら、郵便局まできちんと向かう。中身をきちんと確認して原稿用紙を切れないように何重にも重ねた封筒に入れる。折れていないかどうかきちんと確認して、封をする。
よし。
心の中で確認よしの合図を出して、郵便局の受付に渡した。きちんと受領印も押され、あとは郵送されるだけになった。賽は投げられた。あとは当選してデビューするだけだ。そして芥川賞がそこからようやく見えてくる。
心が少し軽くなったような気がした。余裕が出てくる。いつもなら投稿しただけで満足していたが、今回はきちんと結果が出ないと駄目なのだ。だが少しだけ休息は必要だ。久々に今詰めてやったのだ。精神が肉体を凌駕していて成せた行いだけに、終わって一息付いたら一気に身体に疲れが押し寄せてきた。
さて帰るか、自宅ではボロくて、埃臭いがこの世で一番優しく迎え入れてくれるベッドが待っている。おそらくベッドにダイブした瞬間にもう睡魔に襲われるだろうな。そう確信した。欠伸がものの数分おきに出始める。かなり眠い。アパートの自室の鍵を開け、電気を点けると、我が家が待っていてくれた。
「ただいま」
誰からも返答はないが、私はそう言った。上着を脱ぎ捨て、期待を裏切ることなく、ベッドにダイブ。微妙な柔らかさと硬さが堪らない。予想通り、睡魔が襲ってきた。本当に早いもんだ。あっというまに身体の自由が奪われていく。寝るのがこんなにも心地いいものとは思わなかった。
私の前に一匹のカエルが現れた。仏頂面で常に何かぶつぶつとつぶやいている。少しばかりこのカエルの出番はおそかったのかもしれない。しかし、このカエルの出現はこれから私に降りかかるであろう現実の火の粉であった。このカエルは私が自室に帰るときまってベッドの上にいた。居心地がいいのか、中
々そこから動こうとしない。まるで自分の姿の生き写しだと感じた。スター気取りのカエルと命名した。態度が大きく、別に何をしたわけでもなく、偉そうだ。そしていつもだらりと休んでいる。
時は一年前の冬。肌も凍てつく、雪の翼が地面に落ちる頃だったのを覚えている。人の群れが忙しなく、街の中を動きまわり、人影ばかりが目立っていた。カラスの声が聞こえてきた。カーカーと耳に直接語りかけるようにその声は聞こえていた。思い悩んでいた
。大切な一人息子を東京という得体のしれない場所に上京させるかどうか悩む親心のように、かたや給料日で得た軍資金を利用し、一世一代の大勝負に出るかのような。そんな気持ちだ。
近くにカラスが一匹寄ってきた。特に何かしようというわけではなく、カラスはこっちをじっーと見ているのが印象的だった。その黒色の身体よりもさらに黒い瞳で、自分よりも大きな私を観察しているかのようだ。私はそのカラスの横を素通りした。そうするとカラスは一度こっちをちらりと見て、心なしか弱くカーと鳴いて、羽音を立てて、その場を飛び去った。
この日も私が職場に到着すると、スタッフの往来が著しく激しく、慌ただしかった。誰も何を言わないが、息遣いや雰囲気で伝わってくる。自分たちのことで一杯一杯でそんな状況を知らない人達が、建物に入って来て、何か異変があったかもしれないと察する程、妙な感覚だった。ぴりぴりと激しい感情が肌に突き刺さる。今に始まったことではないが。ここはそういった類の雰囲気や感情とは無縁の場所のはずではなかったであろうか。安心感や安らぎ。そういうものが普通あるのではないか。こういった負の感情は病気と同じで伝染するのだ。それは分かっているスタッフのはずだが。誰しもが皆、生き急いでいるような感じがした。ため息が出てしまった。
そんな時は、決まって私は自動販売機で飲み物を買った。そしてその嫌な負の感情の空気を吸い込んだ体内を洗い流すように、飲み物を飲む。勢いよくごくりごくりと。その場にいる人々に見せつけるように。最後に空っぽになったペットボトルに負の感情を閉じ込めるようにして、蓋をしてフリースローのようにゴミ箱に投げ捨てた。ペットボトルがゴミ箱の淵というリングに音を立てて当たり、中に吸い込まれた。その音のおかげで周囲の視線が一気に集まるが、私にはそよ風の如くだったのを思い出した。
私は介護という仕事に慣れ始めていた。いや正確にいうと戦力にならないと現場が回らないということで、無理くり叩き上げられ、慣れさせられたと言ったほうが正しいかもしれない。始めは嫌で嫌で仕方がなかったが、月日と私に介護を指導してくださった人のおかげで、何とか今のところは問題なく、仕事を行えている。
そして人と人の対面を繰り返している内に、その人の物言わぬ声が叫びとなって聞こえてくるようになった。始めは私自身が壊れておかしくなってしまったかのかという錯覚に陥った。具体的には分からないが、その人の感情の状態がなんとなくだが、分かるまでになっていた。
生の感情が相手の身体を通して伝わってくる。
これは私の探究心と心をそそった。子供心のように、心が踊ったのを思い出す。愉悦にも似た感情が私の心を支配して、世界が一気に変化したかのような感覚に襲われ、一瞬不安になったが、その感覚は次第に日にちが経つにつれて、薄れていった。そういうものだと頭で理解したのかもしれない。
感受性が豊かになり、小説を書こうと思いたったのはクリスマス・イヴだった。世間が毎年このイベントにざわめき立ち、街全体がクリスマス一色に染まっていた。妙なエネルギーが感じられた。そのエネルギーをもらったかのように、私の小説を書く熱意が沸々と湧き上がってきた。自分の言葉を文字で書き記してから、すでに十年の月日が経過していた。作品も何作かは完成はしていたが、棒にも端にもかからない作品ばかりだ。何かが足らないと自分自身で悶々とした日々を過ごしていたが、結局は自分のやる気と、その目標に対する熱意だということが、最近になってようやく分かり始めてきた。自分自身をよくよく理解していなかった。