屁理屈並べ
私の身体を突き動かしていたのは、なんだったのであろうか? 興味と言おうか、少し期待をしていたのであろうか、はたまた、ただのきまぐれと言おうかーー。
芥川賞。この三文字の何の変哲のない言葉に、私の心は翻弄され、歪められ、夢を魅せられた。今もその幻夢の中に、私はただ立ちすくしている。何も手に付かない、付くはずもない。
芥川賞の受賞作品が発表されるのを固唾を呑んで待っていた。この待っている時間がえらく長く感じられた。その結果を私は、今か今かと恋い焦がれ、乙女のように、飼育されている魚が餌をもらう時のように、口をぱくぱくと見せびらかすようにして待ち望んでいる。
この頃から、私はことさら芥川賞関連のことになると熱心になっていた。首ったけだ。何をしてもそのことばかり考えている。どこからとも無く、誰かが私に明示し、語りかけてくれるかのように、過敏に反応し、落ち着きがなかった。毎日が楽しくてしょうがなかった。職場の同僚の優しさや心遣いが心に染みる反面、滑稽に見えたのを覚えている。この職場には満足しているし、何も問題があるわけではない。だからこそ、私がもし芥川賞を受賞したらどうなるであろうか。にやにやと皆の表情を見て、想像するが誰も始めは信じてくれないだろう。既成事実を示し、証明すれば問題はなかろう。そうすれば、じわりじわりとボディーブローのように効いてくるはずだ。皆の見る目が変わり、私は一晩にして、すぐにスターになれるはずだ。地味で目立たなかった私の変貌ぶりに、皆はどう感じ、反応してくれるだろうか。顔がついついにやけてしまう。私を見る目が変化し、以前とは違う得体の知らない人物がそこにいると思われてしまうのではないだろうか。それほど、変わってしまうかもしれない。しかし、それを望んでいる。その思いがあるからして、私は書き記したのだ。渾身の一作を。
大切な日の朝。胸の中でむずむずと絡みあったものが強く引き締められるような感覚に陥り、私は目を覚ました。ぼろぼろで人が生活するのにぎりぎりのスペース。布団を敷くと、ほとんど歩く場所すらままならない空間に私はぽつんと眠気眼でいる。いつもなら仕事にいく準備だが、今日は休みを頂いている。
芥川賞の授賞式があるからだ。
結局、私の書いた作品は遂に、文芸誌にも、または新聞にも掲載されることはなかった。それでも何かの間違いはあるのかもしれないであろうという期待から、芥川賞の受賞作品が発表されるまで、亀のように首を長くして待っていたが、発表されたのは、ある女性の名前だった。あぁ、私が応募した文芸誌でデビューした女性の名前だ。特徴的な名前だから頭の片隅に残っていた。さらにそのデビュ
ー作で芥川賞を受賞するなんて。後頭部を激しく強打されたような感覚に陥った。
終わった。紛れも無い真実を眼前に見せつけられた。私の長い旅路はあっという間に終止符を打たれた。
嫌だ。感情が激しく、混ざり合い、一つの形になった。私はこの夢から覚めたくなかった。もし、今ここで覚めようものなら、私の今まで行ってきたことや、感じてきたことは一切が無駄になる。
嫌だ。また口に出して、確かめる。この夢から覚めないためにはどうすればいいのか。考えに考え抜いた結果、私を助けてくれたのは、お金でもなく、親しい友人でもなかった。私を助けてくれたのは私自身だった。それが最善の一手であるのか、それは分からないが、この夢から覚めないという最低限のノルマはクリアしていた。私が導きだした答えは、とても簡単でありふれた稚拙な発想から出た答えだった。インターネットで芥川賞の贈呈式の日取りと場所を確認する。
私が夢を見続けるために選んだ選択は、実に単純明快だった。夢を見ることが出来なくなるのなら、夢をまた見ることを続ければいいという結論に辿り着いたのだ。まるで子供のような考えだが、その時の私は、とにかく夢から覚めないようにすることに必死だった。
そして今日、私は芥川賞の贈呈式に向かう。
コートのポケットの中に忍ばせたのは受賞者の写真。自宅にある果物ナイフ。会場内部の大体の雰囲気はインターネットで検索して、把握していた。心臓が激しく波打っている。運動のときとはまた違い、今にも胸の中から飛び出そうだ。それほどの高鳴りを覚えている。
急いで大通りまで出ていき、手を上げて、タクシーを止めた。運転手が行き先を聞いてきた。私は、夢の続きが見れる場所の名前を告げた。今は虚ろ気な表情だが、会場に当着する頃には憤怒の如き、形相で見据えているはずだ。
肉食獣が草食獣を見据えて、品定めするのに似ている。命を握っている肉食獣に、その目の前で怯えている草食獣の姿が容易に想像できた。そこで私は、気がついた。怯えているのは果たして、その会場で怯えることになる受賞者なのか、現状で夢を失うことに怯えている自分なのか。少し滑稽に思えてくる。そんな私の感情とは裏腹にタクシーの足取りは非常に軽かった。
はっきり言ってこの世界は不平等でかつ、ずるい奴が得をする。真面目一辺倒でがんばっていたところで、それは傍目にはよく映るが、別に給料を多くもらえるわけではなく、他に見返りがあるわけじゃない。長いものには巻かれ、媚びへつらい、仕事もある程度の仕事量でそれに見合う対価を貰い、顔が良ければいい。容姿だけは悪いよりもいいほうがいい。そんな分かりきった世の中に私達は飼育され、放牧されている。自由は多いが非常に狭い空間だ。決まり事や守ることはたくさんあり、それを守らないと白い目で見られる。
人と違う行動をすると非常に目立つのだ。
くだらねぇ。
見えない鎖に繋がれ、身動き一つ取るのも非常に困難で、息苦しい。そんな制約された世界でいて何が楽しいんだ?
愛は地球を救う。こんな言葉を吐いた奴がいた。そんな目にも見えないもので人が救えるのか、疑問に思ったことがある。お金のように物を買うために使用する道具でなければ、
拳銃のように己を守るものでもない。愛とかいう不確かなもので何が救えると言うんだ。はぁ。
ため息を深く付いた。
これじゃあ、読者の共感を得られないのを知っていた。突っ張ったところ、少数派の意見は多数派の意見に飲み込まれる。結局は数なのだ。
「この話もダメだ」
キーボードを叩いていた手を止めて、その場に倒れこんだ。また無駄な時間を過ごしてしまった。後悔する。結局また構想の練り直しだ。
くあああ。
欠伸が出た。かれこれ八時間ぶっ通しでディスプレイに向かい合っていたので無理もない。
疲れた。
目がしぱしぱし始めて、一気に疲労が押し寄せる。折角の休みも結局パソコンと自宅デートで終わってしまった。
しかも収穫はほぼなしという……。
虚しさが込み上げてくる。これであれば外に出かけて、外食や書店のも回ってきたほうが、まだ花も実もある内容だったはずだ。
私はフローリングに無造作に転がっているウィダーインゼリーの空を見つめた。休みはこれについつい頼ってしまう。
あぁ……。
深く瞳を閉じる。眼の奥にある疲れを取り除くように、目の周りを軽く、揉みほぐす。温めればいいのだが、もうどうせ寝るので、その考えは却下した。本来ならば寝るのもおしいのだが仕方ない。いいアイディアとお話が起きたら浮かんでることを期待して私はむんずとパソコンのディスプレイから立ち上がり、
そのまま顔面から布団の上に倒れこんだ。重さで羽毛布団が軽く宙に浮き、その場で軽く埃が舞った。
瞳を閉じると、私の意識はすでに飛びたっていた。あっという間に眠りについてしまったのだ。
小説家。非常に興味がそそられる職業だ。収入もその人によりけりで、第一線でバリバリ本が売れている作家もいれば、デビューしても、次に続く作品がなく、デビュー前とあまり変わらない作家もいる。なんとも因果な職業である。私がこの因果な職業に興味を持ち、書き始めたのはちょうど十年前だった。高校時代。青春まっしぐら。何故だか分からないが、その時に小説を書くという行為が流行っていた。理由はよく覚えていないが、私を含め、数名が作品を書いてきて、皆がそれを読んでいた。その当時はパソコンというツールがなかったため、原稿用紙に手書きというスタイルであった。作品を読まれて、皆から面白おかしく笑われた記憶がある。それから十年間紆余曲折はあったものの、今もこうして書いている。当時に比べて大きな変更は、手描きからパソコンになり、完成した作品はしかるべきところには投稿して小説家デビューを狙っている。だが未だにいい結果はでていない。
また、かつての稚拙だった文章も多少なりとは小説らしい文章になってきた。あくまでもそれらしいだが。
小説家になるために条件がないのも、私が選んだ理由でもある。この世は資格も
ちょうど今から一年前の春に私は彼と出会った。小説家になりたいと思ってはいるが、中々いいアイディアも出ず、日々を何となく退屈に過ごしている私に少しの光明をもたらしてくれたのが彼だった。その日はたまたまの休日だったが、急遽上司から連絡が入り、職場に出勤することになった。休日出勤なぞ、面倒この上ないなと内心思いながら、出勤する。明らかにやる気が出ない。休みと決まっていた日に呼び出されれば、やる気がでないのは当たり前だと開き直る。私のその日の仕事内容は散々だった。いつもはこぼさない消毒液はホールにぶちまけるわ。各階のゴミ捨てをすることになったのだが、そんな日に限ってエレベーターが故障点検に入り、何度も階段を降りたり、昇ったり。それだけならよかったもののゴミ袋に穴が空いていて、中身を階段でぶちまけた時は、大層いたたまれなくなった。なんで私が……しかも本来は出勤日ではない休日に出勤しているのにこんな目に合うとは。激しい怒りの火が幾重にも絡みあい、憎悪という炎になり、燃え上がる。
その対象は、今日休んだスタッフと上司に向けられた。
あまりに頭に血が上り、胸糞が悪いので、この建物から外に出た。心を落ちつかせるために外の風に当たる。しかし、ここでも私を苛立たせるものが一つ。ゴミ捨て場にゴミが大量に捨てられており、その匂いを全身で浴びてしまったのだ。一体誰が、こんな大量にゴミを捨てたんだ。心を落ち着かせるために外に出たのに、それが逆効果になってしまった。
ううう……。
泪が出そうになった。怒りを通り越して自分が惨めに思えてきた。誰か、慰めてくれよ。
「おいおい、元気だしなよ。それにゴミを出したのは君だよ」
カーカーカー。頭に響き渡るカラスの鳴き声と、どこからともなく声が聞こえてきた。私は周囲を見渡したが、あるのは大量の香るゴミ袋とそのゴミ袋の穴から、中の残飯を、器用にクチバシでつついている目障りなカラスだった。
気のせいか。そう思い、そのゴミ捨て場を後にしようとした私にまた誰かが話しかけてくる。
「酷いな。目障りだなんて。それに慰めてくれよって言ったのは君のはずだよ」
カーカーカ―というカラスの鳴き声と重なるように、また声が聞こえて、私は周囲を見渡す。
「目の前、目の前。いるでしょ」
目の前で引っ切り無しに鳴いているカラスが一羽いる。自分をまるでアピールしているかのようだ。
なんでカラスがしゃべってる。疑問に思ったがそれは直ぐさま自分の中で考えが完結した。
私はあまりに自分がみじめになり、いたたまれなくなったため、冷静に物事を考えることが出来なくなったのだ。
「まぁ細かいことはいいっこなしさ。慰めてあげるよ。さぁさぁ」
陽気なこのカラスの物言いが新鮮だった。このカラスのうさんくさい話し方が、私がおかしくなっている証拠かもしれない。
「優しく頼みます」
私はそう答えて、このカラスの話に乗るように、ゴミ捨て場の前に座り込んだ。カラスと視線を同じくするためだ。もうどうにでもなれ。周囲にはどう写っているであろうか。この時の私はそんな周囲のことよりも、このカラスと会話するほうに必死だった。
これが私がロックミュージシャンになりたいカラスとのファーストコンタクトだった。
春の陽気な過ごしやすい気候に反比例するかのように、私の執筆活動は停滞の一途を辿っていた。この悶々とした気持ちの捌け口が無くて、私はそれをただ蓄積させていくだけだった。しかもこの感情は厄介なことに、黙っていても、消えていくものではなく、渦を巻き、とぐろを巻き、心の中に巻き付いている。そんな気持ちで筆が進むはずがなかった。
少しでも何か前に進む突破口があれば、何かきっかけがあれば少しでも前に進むことができるというのに。もしくはこの悶々とした気持ちが晴れないことにはどうしようもないのだ。スカッとするようなことはないだろうか。
あろうはずもない。この狭い、鬱屈した空間の中で気持ちが晴れることなど。しかし、この鬱屈した空間こそが今の私にとってどんな空間よりも居心地がよいのだ。このボロくて硬いベッドシーツや隅が切れかかっているタオルケットは格別だ。どんな上等な生地を使用している柔らかいベッドシーツや保温機能があるタオルケットよりもとても居心地がいい。これは何といわれようが私の中では変わることのない事実だ。そして何よりも私をあっという間に夢の世界へと誘ってくれる旅の道具でもある。こんな事をしていれば、ますます文芸誌に応募する作品の完成が遅れてしまう。しかし、このベッドの居心地というと、まさに天に昇天されるがごとき、気持ちよさだ。これに逆らうには、私の稚拙な頭では抗う術が思い浮かばなかった。ベッドに入ったら最後。もはや打つ手がなかった。ベッドに入った後悔の念と心地よさの快感。この二つは混ざり合い混沌と化す。明日こそは続きがどんどん書ければいいな。私は淡い期待を残し、意識を完全に現実から断ち切った。私の場合、このようなケースが多々ある。控えねばなるまい。
「そうそう、その心地よさ分かるね」
カラスが私の言葉に同調した。私が昨夜、自分に起きたであろうことを簡潔に彼に説明したのだ。
「分かるか。あの心地よさは異常だ。どんなことも中断させてしまう魔力がある」
昨夜のことを思い出し、私はベッドの心地よさの快感に負けた自分を恥じた。
「まぁね。おいらも寝床に入ると一気に眠くなるからなぁ。だから寝床に入る前にやるべきことはきちんと終わらすことにしている」
カラスは瞬きしながら、私に話しかけてくる。
まるで同じカラス同士に話しかけるように。
「それが最善の一手だと思う。けれどベッドの近くにいると誘惑という強大な存在が手招きしてるんだ」
想像するだけで恐ろしい。巨大な大きな黒い手が私をベッドに無理やり誘っている光景が浮かぶ。
「なんだい、そりゃ。君は作家さんにでもなるつもりかい」
カラスが尋ねてくる。あぁ、彼にはまだ話していなかったようだ。
「言ってなかったっけ? 私は小説を書いてるんだ。職業といえるにはほど遠いけどね。それでも目標は、芥川賞受賞だ」
カラスがぱちくりさせている。
うーん、驚かせすぎたかな。それとも信じていないのか。そもそもカラスが芥川賞なんて分かるものなのか。
「そうなのかぁ。目標はおおきくだね。ちなみに僕の夢はロックミュージシャンになることさ」
カーと言う鳴き声が聞こえた。えっ? 一瞬彼が何と言ったか、分からなかった。聞き間違えでなければロックミュージシャンといったはずだ。
「ロックか……」
彼のいい間違えじゃないかどうか、確認するように聞いた。
「そうそう。テレビに写ったのをたまたま見たんだけど、見たら痺れてさ。それから毎日、なれるように発声練習してる」
そういうと彼はカーカーと自慢の美声を披露した。どうやら彼は冗談でいっているわけではないらしい。表情からしてそんなことをいっている感じはしない。聞いた時は半信半疑だった。それはとても彼にとって失礼なことだった。
「イカしてるじゃないか。その目標自体がロックだぜ」
私はここで彼からいい案を頂いたかもしれない。いい小説の題材になるぞ。私は彼をそのまま私の書いてある小説の中の登場人物の一人として登場させることにした。彼に許可を求めたら、二つ返事で許可してくれた。ここでロックミュージシャンになりたいカラスが初めて私の物語の中に登場することになる。