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放浪

作者: 早田将也

赤茶色の乾ききってひび割れた地面。

雲1つないが砂埃や塵によってくすんでいる空。

葉と水分がなくなって折れた木々。

干上がった川。

原型を留めていない金属やコンクリー片。

ここには今や何も残っていない。

昔は自然豊かな場所だった。

深い緑色の木々が生い茂り、小鳥のさえずりや小川の流れる音、風によって音楽を奏でる草や小動物によって木の実落とされる音など優しく活気に満ちた音に溢れていた。

今は砂利を踏む足音以外、何も音がしない。

この不毛な大地に生命の営みがまったく感じられない。

いや、偶然にも生き残っている人間と犬がいた。

もうどれくらいこの生活を続けているのだろう。

日数を数えることも途中でやめてしまった。

「歩けど歩けど見渡す限り赤茶色の地面と枯れた草木ばかり。ここも何もないわ。」

人間の方はそばを歩いている犬に話しかける。

残念そうに犬の顔を見た。

犬も人間の困り果てた顔を見た後、悲しそうに顔を伏せた。

短い脚と長い胴体の体躯を持つ犬種はコーギー。

名前はモン。

数年前から連れ添っている大切なパートナーだ。

犬にしては顔の表情が豊かで、頭がいい。

飼い主だから、贔屓目に見て、そう感じるのだろうか?

運動神経はそれほどよくない。

額の白い毛がハートの形をしていて何ともかわいらしい。

「そんな顔しないで。きっと緑の草木が残っているところがみつかるわ」

自分の様子がモンに不安を与えないようにしなければ。

人間は声や表情に明るさを演出する。

人間の名前は桜井亜紀。

以前は国立研究所に務める若き生物研究者。

顔は鼻筋の通った端正な顔つきをしていた。

疲れや乾燥した空気のせいで若いのに小さな皺がいくつかできていた。

肌は小麦色に焼けている。

すらりと背が高く黒髪は腰の位置まである。アーモンド形の瞳がモンに向かって優しく微笑む。

1人と1匹は再び歩き出した。

「そろそろ食料も水もなくなってきたわ……急がないと」

拠点を転々と移動しながら北や南へ旅をしていたが、近場の捜索はあらかた終わっていたので、今回の旅は拠点から少し離れていた。

「どうしてこんなことになっちゃったのかしら、数年前までは何億という人間がひしめきあいながら生きていたのに……あの日を境に……」

亜紀は何度も繰り返している問を口にした。



数年前、ある日を境に世界は一変した。

その日、亜紀とモンは、地球上で最も地中深いところにあるホテルに泊まっていた。

地下数百メートルまで掘ら下げたホテルは、日常の騒音は何も聞こえない。

それがこのホテルの売りらしい。

地下に掘られた理由にはほかにも理由があるらしい。

実はこの国は、このホテルが立てられた時代には戦争が絶えない地域だった。

核兵器の恐怖にさらされ、家庭にも核シェルターを所有するところもあったという。

そこで、ここのホテルのオーナーはどんなに地上が戦火に見舞われようとびくともしないようなホテルを立てようと考えたのだ。

そういう経緯があって建てられた場所だ。

戦争がなくなった今では、ちょっとした観光名所にもなっていた。

ありとあらゆる騒音に囲まれた現代社会では新鮮な感覚であった。

このホテルには上司の山口と同僚の大分、福岡、宮崎も1つ上のフロアに泊まっていた。

九州地方の県名がついた変わった名前の同僚は亜紀と仲が良かった。

研究者としての亜紀は、まだ若く、新米だったのだが、その熱意と知識はベテランの研究者に引けを取らなかった。

亜紀自身、このホテル特に用事はなかったのだが、同じ研究所に務める上司に強く勧められ、職員旅行として上司と同僚と泊まることにした。

実のところ、研究続きで、忙しい毎日を過ごしていたのだが、地上の雑音から完全に隔離された地中深くの無音の世界を心行くまで楽しんでみたかった。

多少の好奇心が無かったといえば嘘になる。

しかしその選択が2人の運命を大きく分けた。

夕食を終え、特にやることもなくモンの頭をなでながらソファの上でくつろいでいると、

何やらカタカタ置物が揺れ始めた。

それから床や壁が揺れているのを感じた。

最初はかすかに感じるくらいだったが、瞬く間にものすごい揺れにかわっていく。

何事かと思い、モンと亜紀は素早く立ち上がった。

「地震かしら……」

ズドーン

すると突如、とてつもない爆音が鳴り響いた。雷がすぐそばで落ちたような、はたまた、大型トラックが目の前で正面衝突するような音が部屋中、いや、ホテル中に鳴り響いた。

音だけで地下に掘ってあるホテルが崩れるのではないかと思うほど空気が震え、物が倒れた。

地下深く掘られ、日常との騒音が無縁なホテルとはよく言ったものだ。

拷問に等しいほどの轟音だ。

全身の肌や心臓に音による震えを感じる

亜紀とモンは全身で恐怖を感じた。

一気に頭に血流が流れ込み、目の前は真っ白になる。

動物の根源的な恐怖を感じさせるような低く大きな爆音で気を失った。

遠くなる意識の中、非常ベルが鳴り響いているような気がした。




どれくらい時間が経っただろう。

亜紀が目を覚ますと、先ほどの爆音のせいで耳がきこえなかった。

おまけに部屋の照明も消えている。

真っ暗だ。

「いったい……何が……」

耳鳴りが残る耳を抑えながら起き上った。

立ち上がろうとするも、体がこわばり、バランス感覚をつかさどる三半規管がおかしくなっているのか、体のバランスが取れない。

亜紀は立ち上がることをやめ、四つん這いになって、自分の持ち物を探した。

真っ暗な部屋の中、手探りで自分のカバンを探し出す。

カバンの中から携帯電話を取り出し、携帯の懐中電灯の機能を立ち上げる。

散乱した部屋の中が照らし出される。

振動によって、部屋のオブジェが倒れている。

周囲を見渡すとモンが倒れていた。

「モンいたのね。良かった。モン、起きて」

モンを揺さぶり起こす。

モンはビクッとして、興奮した様子で起き上がった。

身をかがめ唸っている。

亜紀はモンを落ち着かせようとなだめる。

混乱する気持ちはよくわかる。

自分だって今何が起こっているのか、なにをすべきなのかが分からない。

しかし慌てて行動することが一番ダメだというのは理解できた。

とにかく落ち着くことが一番だ。

モンは亜紀のおかげで次第に落ち着きを取り戻すことができた。

亜紀とモンが落ち着いたので、亜紀は情報収集することにした。

今の状況と、このホテル周辺の情報を収集することが最優先事項だ。

まずは部屋の中のテレビをつけた。が、電源がつかない。

「部屋の電気が消えているのだから、当たり前か」

しかし、亜紀はホテルに宿泊するときに聞いた説明を思い出した。

部屋の中には停電のために備えられているバッテリー式のコンセントがある。

非常時のために各部屋に配備されている予備のバッテリーにコンセントを差し替えてテレビをつける。

どのテレビ局の放送もやっておらず、ザーという砂嵐の音だけが部屋に鳴り響く。

携帯を見てみるが、もともとこのホテルは地下深くにあるので、いずれにせよ電波は届かない。

ラジオも同様だ。

亜紀は壁にかかっている時計を見た。

時刻は午前10時。

気絶したのは23時過ぎだったから、かなり時間がたっている。

ほかに室内でできることもなく外の様子を見ることにした。

同じフロアに泊まっていた上司と同僚のことも気にかかる。

「モン、少しの間、ここで待っておいてね」

モンを“待て”の状態で部屋に残し部屋の外をのぞく。

ホテルの中は異常なまでに音がない。

廊下はシンと静まり返り、人の気配も感じない。

亜紀の聴覚は完全に戻ったわけではないが、ホテルの中は音だけではなく生気が感じられなかった。

人間が生きていれば感じる生物の行動音などだ。

同僚たちは無事だろうか?

ここのホテルは50部屋ほどの規模しかないが、この日は確か満室だったはずだ。

しかしながら、物音ひとつせず人がいるように思えない。

「もしかして、みんなまだ気をうしなっているのかしら」

恐る恐る隣の部屋のドアノブに手をかけるが、カギがかかっていない。

停電にそなえ、このホテルの部屋はオートロックではなかった。外出しているのだろうか??案の定、部屋をのぞき込んでも誰もいなかった。

嫌な気がした。

額から汗がしっとりにじみ出る。

「何だか、少し暑いわね。換気装置が止まったせいかしら。」

ここのホテルは地下深くにあるので、地上の気温に関係なく、一年中温度は一定を示しているはずなのだが……。

亜紀の泊まっていた部屋は地下ホテルの最下階。

電気がつかないので、エレベータでの移動は不可能、非常階段を使うしかない。

途方もない数の階段を上ることを考えるとうんざりする。

地上につながる非常階段のドアを見つけノブに手をかけようとした瞬間、全身の毛が逆立ち、動きを止めた。

何故かドアを開けることに危険を感じた。

亜紀の本能が警戒音を発していた。

ドアの向こう側からまがまがしいほどの不気味な気配を感じる。

開けたら最後、一瞬で深い闇の中に引きずり込まれていきそうな……そんな感じがした。

こんな非常時に軽率な行動は避けなければならない。

亜紀は非常階段のドアを開けることを断念し、モンのいる自分の部屋へ戻った。

部屋に戻り、“待て”の体勢で待っているモンの姿を見るとほっとした。

この子と来てよかった。と心から思った。

亜紀は再び頭を働かせ考えた。

“なぜ宿泊客がいないのか”

“電気やテレビの放送が止まった理由”

“非常階段のドアの先にある景色”

そして

“あの爆音の正体”


考えれば考えるだけ謎は深くなっていった。それに情報が少なすぎる。

上のフロアにいる同僚たちの無事を確認しに出ようかとも考えたが、それにはあの非常階段を通らなければならない。

状況がわからない状態でやみくもに動くのは危険だと判断した。

「とりあえず、水と食料と空気は今のところ大丈夫だから……寝よう!!」

自分でどうしようもない状況なら、寝る。というのが亜紀の信条だった。



目覚めると時計の針は11時を示していた。

昨日の爆音から丸々、半日経っていたことになる。

モンは退屈そうに寝そべっている。亜紀が起きるのを待っていたようだ。

亜紀は持っている携帯食料で腹ごしらえをして再びホテル内を探索することにした。

今度は散歩がてらモンも一緒に連れていく。

相変わらず、ホテルの中はしんとしていた。

客はまだ帰ってきていない。

いや、もう帰って来ないのかもしれない。

なぜ?

同じ階の部屋をひとつずつ調べていく。

どの部屋も鍵がかかっていない。

上司や同僚の姿も見当たらない。

人影はなく、部屋の中はトランクが広げられ、さっきまで人がそこにいたかのようだった。

爆音が聞こえたとき、警報ベルが鳴り自分たち以外の客と従業員は慌ててどこかへ逃げたみたいだ。きっとそうなのだろう。

「ということは、あの時気絶しちゃったのは私たちだけなのね……けど同僚だって、おこしてくれてよかったじゃない」

少し恥ずかしく、少し怒ってモンの顔を見る。

モンも気まずそうに顔をうつむいている。

あらかた同じ階の部屋を見て回り、とうとう、今朝、不気味に思えた非常階段のドアの前にたどり着いた。

しかし、今は目の前にある扉からは不気味な印象は受けない。

「開けるしかないか……」

亜紀はドアノブに手をかけた。

金属製のドアノブはなぜか熱を帯びていた。

持ないほど熱いわけではないが、少しためらったあげくドアを開けた。



開けた瞬間、暑苦しいほどの熱風が体を包んだ。

それと同時に、髪や肉の焼けたにおいとプラスチック製品の溶けたような鼻をつく臭いがした。

亜紀は全身鳥肌が立ち、背筋が麻痺するような感覚に襲われた。

熱風とともに亜紀の体を恐怖が包み込んだようだった。

亜紀は熱風とにおいに我慢できず、再びドアを閉めた。

「ゲホツ、ゲホツ……何、あの臭い」

そう口にした瞬間、ふと頭をよぎるものがあった。


空室の部屋

消えた従業員と客

警報ベル

肉の焼けた臭い


「まさか、そんなことって……」

亜紀は再び恐怖におそわれた。

おそらく、あの臭いは人が焼けた臭いではないだろうか。

爆音が鳴り響いたとき、非常ベルが鳴っていた。

おそらく、皆エレベータを使わず、非常階段に向かったはずだ。

地上に向かうにはそれしか方法がないからだ。

しかしここは地下深い場所、地上まで少し距離があるため途中で焼け死んだのではないだろうか。

「いったいなぜ……」

ホテル内の爆発や火事なら私達もすでに煙に包まれ、焼け死んでいるはずだ。

となると、地上で何かあったのかもしれない。

何かといっても小火などのレベルではないだろう。

もしかしたら、どこかの国と戦争を始めたのかもしれない。

数日前まではそんな予感すらさせない平和な国だと思っていたのだが……


いずれにせよ、いま外に出ることは危険だと判断した。

あと数日間は情報を集めながらここにいた方が安全だ。

そのうち外国人観光客として身柄を保護し、帰国できるだろう。

亜紀とモンは数日間の水と食料、予備のバッテリーやほかに使えるものを、同じフロアの各部屋から持ち運んだ。

他人の物を使うことに良心はいたんだが、この状況では仕方ないと開き直った。




1週間ほど過ぎた

地下のホテルは相変わらず真っ暗で、昼夜の感覚が分からなくなった。

特にやることもなく、だらだらとした時間が流れて行った。

もちろん当初の計画としてはホテルに滞在しているときに情報収集をするつもりだったのだが、どの情報端末も何の情報も与えてはくれなかった。

真っ暗なホテルの中では、携帯の照明だけが頼りだった。

しかし、バッテリーの充電もなくなりかけている。

ほかの客が泊まっていた各部屋から集めた水と食料もほぼなくなっていた。

ここにとどまり続けるのもそろそろ限界だった。


「外に出るしか生き残れないようね……ここにいてもいずれ餓死しちゃうもの」

亜紀は重い腰を上げた。

立ち上がると少しふらふらした。

ホテルにいるときはエネルギーを無駄に消費しないよう極力横になって体力を温存していたからだ。

モンをおこし、動き出す準備をする。

いったん違うフロアから食料と水とバッテリーの確保をするつもりだ。

そのためには、あの非常階段を登らなければならない。

猛烈に行きたくなかった。

もしかしたら、死んだ人間に遭遇するかもしれない。

いや、この状況を考えれば、間違いなく遭遇するだろう。

しかし、いかなければいずれ死んでしまうのも明らかだ。

亜紀は頭を抱え、心の中で葛藤を繰り返していた。

そんな主人を心配そうにモンは見つめる。大きな黒目がウルウルしている。

そうだ。この子のためにもいかなければ。

亜紀は心を奮い立たせた。

モンを“待て”の状態で待たせる。まず自分が偵察して安全だったら連れて行くつもりだ。

洋服を折り曲げ口元に巻きつけた。有害な空気とあの臭いを防ぐためだ。

携帯の照明で廊下を照らしながら、非常階段へ進んでいく。

心臓が飛び出してくるのではないかと思うほどドクンドクンと高鳴り、それと同時に目の前も揺れているように感じた。

非常階段のドアの前に来た。深呼吸をくりかえし、心を落ち着かせ、今のうちにたくさん酸素を取り込んでおく。

数日ぶりに来たが、前回の記憶が鮮明に思い出せる。

この先、何があっても驚かないと心に言い聞かせ、ドアノブに手をかける。

ドアノブから冷たい感触が伝わった。

ドアを恐る恐るあける。

前回のような熱風はなかったが、食べ物が腐ったような饐えた臭いが洋服を巻きつけた上からでもかすかに臭った。

真っ暗の中、懐中電灯ひとつで階段を1人で突き進むのは、お化け屋敷のようだ。

本物のお化けが出てくるかもと思いながら一歩一歩踏み進めていく。

恐怖で足がすくみそうだったが、こんなところで止まるわけにもいかない。

階段を上り続けると亜紀が泊まっていたフロアより一階上のフロアの入り口が見えた。

1フロア上がってきただけなのに亜紀の中ではそこがゴールのような安心感と喜びが広がった。

ドアへ早くたどり着きたい。

早く早く。と心の中で叫ぶ自分がいた。

しかし、ドアノブを亜紀はすぐに触れることができなかった。

ドアの前に赤黒い物体を見てしまった。

一瞬、灯りを照らしただけだが、どす黒く変色した肌の隙間から赤い血のようなものが見えた。

あたりに異臭を放っている。

肉は焼けただれ、毛という毛は全て焼け落ちているがなんとか人の原型をとどめていたことが余計に恐怖を掻き立てた。

目をそらそうとしたがもう遅すぎた。

「死んでいる……」

そうつぶやいた途端、ガツンと頭を殴られたように目の前が真っ白になり、めまいを感じた。その直後、猛烈な吐き気を覚え亜紀はその場で嘔吐してしまった。

この一週間、食料を節約していたため、あまり食べていなかったので黄色い胃液が出てくる。

なんでこんなことが……

この人もきっと私たちと同じ観光に来た人に違いない。

毎日忙しく働き、久しぶりに休日が取れたので、ゆっくりこの地で体を休めるつもりだったのだろう。

それがこんなことになるなんて……

亜紀は涙目になりながら、この黒い肉塊に成り果てた故人を悼む。


依然としていったい何が起こったのかわからないままであるが、ほかの観光客や従業員、研究所の同僚も同じ運命をたどったことは容易に想像できた。

亜紀はしばらく思考が止まった状態が続いたが、しばらくするとモンの顔が思い浮かんだ。

自分がしっかりしなければと奮い立たせ、遺体を退かすことにした。

手で触れて動かす勇気はない。

良心がとがめたが、足で動かすことにした。

グニュとした感触を足裏で感じたが遺体を足で押しのけ、故人に謝りながら階段脇に蹴とばした。

ようやくドアノブに触れる。

上のフロアのドアを開ける。


上のフロアも下の階同様、がらんとした雰囲気だった。

人がいる気配もないので、亜紀は早速、各部屋に使えるものがないか、探し始めた。

各部屋を探索し終え、いくつかの食べ物と水とバッテリーを探した。

しかし、集まったのは、スナック菓子や飴などのほんの少しのお菓子だけだった。

パンなど水分を多く含んだ食料は、カビが生えており、食べられる状態ではない。

亜紀は他にもめぼしいものがないか探してみる。

横目にビデオカメラ転がっているのを見た。

手に取りよく見てみると、電源がオンの状態だった。

もちろん充電はきれてしまっていたが、これを充電しなおせば、私たちが気絶した後のことが写っているかもしれない。

しばらく、部屋に備え付けられた予備バッテリーのコンセントにビデオカメラのコードをつないでしばらく充電し、録画された内容を見てみた。

そこに映っていたのは、白人の家族だった

その顔にかすかに見覚えがある。

私たちがホテルに泊まる時にフロントですれ違った家族だろう。

早送りして、あの爆発音が聞こえたあたりの時間に合わせてみる。

母親はソファアでくつろぎ、子供たちもトランプで遊んでいる。

撮影しているのは、おそらく父親だ。

すると突然爆音が鳴り響いた。

子供たちは耳をふさぎ、ビデオカメラは父親の手から落ちた。

父親も耳をふさぐため離しのだろう。

音は長い間、鳴り響いて画面は振動と音でブレ続ける。

その時、今度は非常ベルが鳴り響き始めた。

ちょうど、この時間私は気絶したのだろう。

父親らしい声の主が大声で何か叫んでいる。

逃げるように家族に伝えているのだろうか。

家族は両手で耳をふさぎながら、ヨロヨロと部屋を出ていった。

かすかにだが、廊下のほうで誰かがどなっている声が聞こえた。

おそらく従業員が非常階段へ誘導しているのだろう。

音は10分以上たっても強弱があるものの鳴りやむ気配がない。

一体何が起こったのか、このビデオを見てもわからなかった。

同僚たちの部屋をのぞいた。

やはり、同僚たちの姿は見えない。

「みんないなくなっちゃった」

亜紀はその場で泣き崩れた。



気持ちが落ち着いてくると亜紀は食料を持ち、再びモンがいる下の階へと急ぎ戻った。

モンはいつも通り待っていたが、少し元気がなかった。

ろくに散歩にも行けずストレスが溜まっているのだろう。

「そろそろ、ここから出てみようか?」

亜紀はモンに尋ねてみる。

モンは何も言わずじっと亜紀のかおを見つめる。

その瞳はどこか不安の色が浮かび、悲しそうに亜紀の顔を見つめる。

もしかしたら、モンは私以上にこの状況を理解しているのかもしれないなと感じた。


亜紀とモンは荷物をまとめ外に出る準備を始めた。

外の世界がどうなっているのか実際に見てみるつもりだ。

もちろん一旦外に出てしまえば、命の保証はない。

しかし、ここに居続けても助けが来なければ同じことだ。

亜紀とモンは非常階段のドアを開け上り始めた。

長い階段での移動は胴長短足のモンには辛そうだった。

上に上がるにつれ異臭が強くなっていた。

それにしたがい、横切る遺体の数も増えていった。

階段を上に上るにつれ、遺体の損傷は激しさを増す。

こんなに遺体の損傷が激しければ、もはや同僚かどうか確認することは不可能だった。

それに焼けただれた遺体をじっくり見たくはない。

亜紀は何度も吐き気に襲われながらも遺体を見ないように自分の足元だけを見続けた。

遺体を避け、押しのけ、またぎながら登り続けるとフロント階に出た。

フロントは地下数メートルの位置にある。

この階を登れば、もう地上だ。

フロント様子は紙類は全て燃え尽き、黒い燃えカスが散らかっていた。

ガラスは溶け、宿泊時は華々しい印象を受けたフロントは、廃墟と化していた。

部屋の奥からは、灯りが見える。

地上の明かりだ。

出口は雨の浸水を避けるため、小さなプレハブの中にあったはずだが、登りきったとき出口を覆うプレハブの姿もなかった。

フロントの階段を上りきり、やっと外に出た。

顔を上げ、地上のあたり一面を見た亜紀は言葉を失った。

一週間前までは、この周辺は緑が多く、草木や野生の動物が多く存在して活気あふれる場所だったはずだ。

動物どころかあたり一面、何もなかった。

目の前に広がるのは、灰塵と化した草木と灰にまみれた岩のみだった。

空は雲ではない、チリのようなもので覆いつくされ太陽が見えない。

気温はこの時期にしては異常に低く、上着を数枚重ね着していても寒かった。

どこまでも無機質な世界が広がり、生命が存在していることすら疑わしかった。

まるで地球ではないどこか違う星にワープしてしまったのではないだろうか。

そういえば、小さいとき見た火星の大地もこんな感じだったなと、この状況のさなかふっと思い出した。

亜紀は自分の目を疑い、自分の頭を疑い、自分の存在すら疑わしく思えた。


また世界大戦がはじまったのだろうか?

普通の爆撃機によるものだとしても、ここまで一様に燃え尽きることはないだろう。

もし核爆弾が落とされたのだとしたらこのような風景になるのだろうか?

高温の熱波が襲い、その後に舞い上がったチリが太陽を覆い、地上に注ぐ熱を遮断する。

理屈としてはしっくりくる。

しかし……。

この地下ホテルの周辺には大きな都市はなく、攻撃の対象になるとは考えにくい。

それに敵の兵隊や飛行機などの気配すらない。


頭が混乱したまま、放心状態で亜紀とモンは歩き出した。

別に行く当てがあったわけもない。

ただ、じっとしていることが不安だったのだ。

歩けど歩けど、同じような風景しかなかった。

時々、動物の白骨死体らしき骨片が見受けられたが、すぐに見飽きてしまうほど多くあることが分かった。

その光景はまさに地獄絵図だった。

いや、地獄のほうが、罪人と鬼がいるおかげで多少活気があったかもしれない。


歩き続けて何時間たっただろう。

辺りは暗くなり始めている。

前方に金属性の板が反射しているのが見えた。

近づいてよく見てみると金属製の大きな蓋だった。

周囲を調べてみると、何か建造物があった礎が見受けられた。

ここにも地下室があるのだろうか?だとしたら生存者がいるのではないかと期待した。

蓋にかかっている土砂を払落し、蓋を持ち上げようとするが、よほど頑丈に出来ているのかなかなか持ち上げることができない。

その辺に落ちていた鉄の棒をテコのように使う。

金属の蓋はきしみ音を出しながら、ようやく開けることができた。

中を照らしてみると、梯子が下に続いている。

かなり深そうだ。

石を落としてみると、十秒ほどで反響が聞こえてきた。

モンをその場に待たせ、亜紀は降りていく。

しばらく降りていくと床に足がついた。

ここも相当深い位置にあるのだろう。周囲を懐中電灯で照らしてみる。

ここも人影がなかった。

核シェルタ―に逃げ込む前に吹き飛ばされたのかもしれない。

部屋の大きさは20畳ほどで窮屈というほどではない。部屋の隅には、いくつもの段ボールが山積みに置かれている。段ボールの中を開けると、保存食がこれでもかというほど入っていた。

空気清浄機と浄水器が置いている。当然電気はないので手動での操作になるが、生き残るための最低限は確保された。

「やった。これで当分、食糧と水の心配は無さそうね、早くモンを連れてこないと!」

モンを肩に抱え核シェルタに降ろした。

食料のはいった袋を乱暴に開け、むさぼるように食べ、水を口からあふれさせながら飲み込んだ。

亜紀は水と食糧を夢中になって胃袋に詰め込んだ。

口から食べカスが床にこぼれ落ちるが、行儀よく食べようなんてみじんも頭にない。

どうせ私はこの世で一人だから。

そう考えた途端、今まで麻痺していた感情が決壊した。

鼻がつんとしたと思えば、今度は何だか目の前がぼんやりしてきた。

気が付けば両方の瞳から涙が流れていた。

流れ落ちた涙は手に持っていた乾燥した食料に落ち吸い込まれていく。

それでも食べることはやめない。

食べ物を口いっぱいに詰めながら、泣いた。

口にいっぱい詰めているせいで声は出ないけど、涙がぼろぼろ出てくる。

両親や友達との記憶が出てきては消え、また記憶が次々と出てくる。

もう止めることができなかった。


ずっと泣き続け、疲れて横になった。泣いたおかげで、すっきりし、久々に満腹になったおかげで心地よく感じる。

消えゆく意識の中でこの数日の記憶がフラッシュバックした。

生き残っている人間はもういないのか?

その疑問が頭から消えない。

この数日歩き続けたが、死体と骨片ばかりで、生きた動物に出会っていなかった。

いったい、何が起こったのか?

未だハッキリ分からない。

亜紀達は数日の疲れも癒すため泥のように眠りについた。

開けっ放しの扉の外で、何かの悲鳴が聞こえた気がした。



そうして月日は流れた。

赤茶色の乾ききってひび割れた地面。

雲1つないが砂埃や塵によってくすんでいる空。

太陽はぼんやり輝いている。

幹から折れ、葉がなく水分という水分がなくなった木々。

干上がった川。

そこら中に転がる原型を留めない金属片。

ここには何も残っていない。

拠点を転々と変えつつ散策し続けているが、状況は変わらない。

未だに生きている動物にも誰とも会えず草木の生えた場所を探すがどこまでも不毛地帯が広がるばかりだった。

予想以上に核シェルタが配備されてあることは亜紀にとってラッキーだった。

以前は紛争が絶えない国だったせいかもしれない。


どこへ向かっても毎日変化のない乾いた大地を歩き続けているが、今日は少し遠い高台の探索にきていた。

日が傾きはじめ、そろそろ帰ろうと歩く向きを変えると横目に何かいつもと違う光景をとらえた。

遠くの赤茶けた大地に巨大な凹みが見えたのだ。

まるで、大きな湖の水を全て抜いたかのようにポッカリ円形の穴が開いている。

あまりにも巨大な穴なので、反対側の穴の縁が肉眼で観察できない。

「なにあれ……あそこまで行ってみようか?」

モンは、もう歩きたくない様子だったが、亜紀が歩き出したためやれやれといった様子で仕方なくついて行った。

高台を下り、穴の方へ歩いていく。

穴の近くにに辿りつくと、穴の辺縁は盛り上がっており、丘のようになっていた。

まるで噴火口みたいだなと思った。

しかし、火山でないのは明らかだ。

山ではないし、何より、地質が火山の特有の地質ではない

亜紀とモンは丘をゆっくり登っていった。

亜紀は普通に登れたが短足で運動が苦手なモンはやっとのことで登りきると、舌をだしてハアハア呼吸している。

穴の中を覗きこむため四つん這いになって穴の底を覗き込んだ。

見ればみるほど巨大で深い穴だった。

あまりに大きすぎて穴の淵にいるというより、崖をみおろしているような感じだった。

太陽の光が角度のせいもあるかもしれないが、穴の底がうっすらとしか確認できないほど深い。

辛うじて見えるのは穴の中心に丘のようなものが見えるだけだ。

ちょうど、ミルクを張ったお盆に、一滴のミルクを滴下すると王冠のような形を形成するミルククラウンのようだ。

亜紀の頭で一つの可能性が閃いた。

「これって……もしかして、クレーター??ということは、隕石がぶつかったのかしら」

亜紀は、昔見たテレビ番組を思い出した。

太古の昔、この地球の陸上を支配していた大型の爬虫類である恐竜や海中のアンモナイトを絶滅に追い込んだのは、たった一つの巨大な隕石だったと。


穴をのぞいているうちに、穴の底の近くで何か動いているものがあった気がした。

目を凝らしてみるが、遠く暗いため姿を捕えることができない。

しかし、人間の動きではないことは確かだった。

どちらかといえば、カサカサと動くような動き方で、昆虫のようだった。

それにしては大きすぎる気もしたが……

亜紀の心は好奇心と恐怖が同時に満たした。

私たち以外にも生物が存在していたことがうれしかった。

だとしたらどんな生き物か気になった。

しかし、不安も覚えた。

もしも凶暴な生き物だった場合、餌となるものが少ない現状では、襲われる可能性がゼロではない。

よくよく観察していると、ふと、亜紀の脳裏に既視感を覚えた。

「暗くてよく見えないけどあの動き方どこかで見たことがある……」

以前にあの動き方の生き物を見ていた気がする……。

いろいろ考えながらモンの顔を眺めると、モンはだいぶ疲れているようだった。

「疲れているのね。とりあえず、食料も水もなくなりかけているし、一旦戻りましょう。あれはまた後日確認すればいいわ」

無理やり付き合わせた上に謎の生物の探索に連れて行くのは忍びなく感じた。

それに、いざとなったときモンが逃げ遅れたら大変だ。

亜紀はよろこび、しかし一抹の不安を抱きながら、静かに拠点へ向かい帰って行った。

しかしこの時亜紀は気づいていなかった。

亜紀たちが眺めていた場所とは別に、同じ形をした生物達が亜紀たちを捉え観察していたことに……


日が完全に暮れ、あたりが夜に染まるころ亜紀たちはやっと拠点に到着した。この拠点は、以前は学校だったみたいで、地下のシェルタ内には、食料や水の他に学校の備品も置いてある。


あの日より昼と夜の変化がハッキリしてきて、気温も少しずつだが、あったかくなっている気がする。

巨大穴から帰る途中、モンは座り込み動かなくなった。

“もう動きたくない”ポーズだ。

色々話しかけるがモンは動こうとせず、ただ、ウルウルとした大きな黒目で亜紀を見上げている。

亜紀は仕方なく、モンを抱きかかえて拠点まで帰ってきた。

おかげで腕はパンパンに張っている。

今日一日の最後の力を振り絞り、地下へと続く入口の金属製の蓋をあける。

今回の拠点のドアは瓦礫が崩れ落ちた影響で少し歪んでしまい、開け閉めするのは一苦労する。

ドアを閉めるときは完全に閉まり切らず少し隙間があいてしまう。

雨が降らないので特に問題はないが……


モンを大きなリュックに体の半分だけ入れて階段を降りていく。

地下室に到着すると再び蓋をするため階段を上る。

かなりの重労働だが慣れてしまえば、案外できるものだと感じていた。

地上付近に到着し、蓋をしようと手を伸ばしたとき水平線上に黒い点があるのに気付いた。

今朝、ここを出発する際にはあんなものは無かったはずなのだが……

訝しげながらよくよく見てみると、黒い物は先ほどよりも増えている気がした。

それに何だか大きくなってきている。

「なんか……あれ……近づいてきてる……」

そう感じたとき、全身粟立つのを感じた。

ある生物がこちらに向かって、進行してきている。

しかも、その行進には一種のためらいも恐れも感じない。

まるで、獲物を狩るときのむき出しの本能。

早くふたを閉めなければとするが、蝶番の部分に小石がつまり、思い通りに閉まらない。黒い物体の方を向くとまた数が増えさらにこちらに近づいてくる。

「な、なんでこんな時に詰まるのよ」

亜紀は焦りと怒りで詰まった小石をなかなか取り除くことができないでいた。

黒い物体はものすごいスピードで亜紀の方に近づいてくる。

暗くてよく見えないが、大きさはモンと同じくらいで光沢のある体のように見えた。

黒い物体との距離は20メートルに迫っていた。

亜紀は小石を手のひらで思いっきり叩き付け、弾き飛ばした。

手に痛みを感じたが、この際かまっていられない。

亜紀はふたを閉めた。

それと同時に頭上では黒い生物の大群の足音が聞こえる。

亜紀はふたを閉める瞬間、緑黒い物体の正体を見ていた。

「あれは……アリ?」

生物研究所に務めていた亜紀にとって見覚えのあるシルエット。

「ありえない。ありえないわ」

亜紀が見た黒い物体の正体は一瞬だったけど、確かにアリの形をしていた。

モンと同じか少し大きいぐらいの大きさだった。

「ありえない。なんで“アレ”が……あの日からありえないことばかりね」

ふたの外ではまだ足跡が聞こえる。

おそらく亜紀を探しているのだろう。


亜紀が小学生の頃、夏休みの自由研究のテーマで蟻の生態系について研究したことがあった。

アリに特に興味があったわけではなく、父親が夕食時にふと言った言葉がきっかけだった。

「アリってどうして行列が好きなんだろうな?亜紀知ってるか?」

父親としてはその日の仕事帰りに渋滞に巻き込まれてしまい食卓の上にいたアリを見て何となく言ったのだという。

「行列しても食べたい物があるからじゃないの?」

亜紀は近所のラーメン屋に並ぶ人たちを思い出して答える。

「有名店に並ぶ人間と同じだな。ところで夏休みの宿題終わったのか?」

「ほとんど終わったよ。あと自由研究だけ」

「ふーん。じゃあ、自由研究はアリの研究でもしてその結果を教えてくれよ」

「えー。自分で調べたらいいじゃん」

「お父さんは、亜紀がどこまでお父さんのために頑張ってくれるのかを研究中」

「めんどくさい」

「まあ、気軽にやってみてよ」

亜紀は夏休みの自由研究の題材を探しているときだったので、何となく父親の言う通りにアリについて調べてみた。

アリは社会性の高い生物で、女王アリを中心とし、働きアリ、兵隊アリ、雄アリ、処女女王アリを有するコロニーを形成している。すべて女王アリから生まれた家族である。

多くのアリは肉食であるが、草食のアリや、なかにはキノコを育て食べる菌食の種類もいる。

視覚は弱いが嗅覚(化学物質を検知する能力)が優れ、目が見えずとも狩りが行える。

たとえば、仲間の1匹が餌を見つけたとすると、独り占めせず餌があった場所を餌があった場所が仲間に分かるようにフェロモンの道標をお尻から出し、仲間はその道標のあとを追いかける。

他のアリたちがで餌があった場所に駆けつけたら、餌を持ち運びやすい大きさにして自分達の巣まで運ぶ。

父親が知りたがっていた答えが見つかった。

目が見えなくとも前の仲間の後を正確についていき、餌を獲得することができるのだ。


アリの大群は今も蓋の上を歩いている。

しばらくは外に出ないほうがよさそうだ。

「また閉じ込められちゃった。けど外に出たらきっと捕まえられて、食料にされるんだろうな。どこにいたんだろう?」

多くの種が絶滅するような天変地異があった時、多くの昆虫だけは常に生き残る。

それは恐竜がいた時代から変わらず続いている。

しかし、あれは最近現れた新種。

何故、生き残っているのだろう。

いや、何故“存在している”のだろう?

若き研究者はあのアリの存在がどうしても腑に落ちない。

「……まあ、ここでいろいろ考えても仕方ないか。とりあえず、今日は疲れた。……寝よう」

自分でどうしようもない状況の時は寝るというのが亜紀の信条だった。

しかし、今日ばかりは体は疲れているのに、すぐに寝付くことができなかった。

先ほどのアリのことが頭を巡る。

亜紀はあのアリの正体を知っていた。




父親と母親とモンと亜紀の家族で川沿いの道を散歩している。

明け方の時刻で、ランニングしている人や年老いた夫婦そろってウォーキングしている人、亜紀たちと同じように犬の散歩をしている人など和やかな風景が広がっている。

そんな和やかな景色もつかの間、突然あたりに警報が鳴り響く。

それまで和やかだった雰囲気が壊れ、一気に緊張感が漂う。

何事かと周りを見渡す。

周囲の人間は空を見上げ、じっと一点を見つめている。

亜紀もつられて空を見上げてみるが特に変わったところはないように思える。

すると空の色が赤く染まったかと思うと、雲が割れ、その裂け目から光りが降りてくる。

その光は神々しく心が洗われるようであり、反面、畏怖の存在だった。

空の光は一瞬まばゆいばかりに光り輝いた。それと同時にキーンと高い音が鳴り響く。

目が開けられないほどの光で亜紀は耳を覆い、瞼を固く閉じてその場にかがみこむ。

音が止み目を開けると辺りは真っ白な空間がどこまでも広がっている。

明るくはあるが、温かみは感じない。

「ここは天国だろうか?」

しかし、おとぎ話で聞いていた天国とはまるで違う。

綺麗な澄んだ小川も花畑もなければ、暖かい光も降り注いでいない。

もちろん、絵画に描いてあるような、フルチンの天使がトランペットを吹きながら飛んでなどいない。

ただ真っ白な何もない空間がどこまでも広がっている。

すると、シミを垂らしたような黒い点が一つぽつんとできた。

白い空間に比較対象物がないため、距離感がつかめない。

緑黒い点は白い空間を裂いて出てくるように徐々に姿を現す。

二本の触角に重機を思わせるような大きな顎、大きな目、メタルを思わせる黒光りするボディ、それを支える頑丈な三対の足。

黒い点はアリの形になりこちらに迫ってくる。

逃げようとするがうまくいかない。

足が思うように動いてくれないのだ。

振り返るとアリがまた白い空間を裂いて次々と出てくる。

必死に走るが、意志に反しまるで自分の足ではないように早歩きすらままならない。

アリの軍勢は亜紀を認め、大群で押し寄せてくる。

亜紀は走る。

途中靴が脱げたが構わず走る。

一向にスピードは上がらない。

アリとの距離はどんどん迫ってきているようだ。

亜紀は転んでしまった。

アリはすぐそばに来ている。

襲われると思ったとき目の前が暗くなった。



目覚めると寝汗をびっしょりかいていた。

亜紀は久しぶりに夢を見ていた。体が重く、疲れがとれた気がしない。

「これも因果応報かな」

亜紀はあのアリの正体を知っていた。

「あのアリは私が生み出した悪魔……」

本当はこの地球を綺麗にしてくれる存在を生み出すはずだった。

亜紀は小学校の自由研究で優秀賞を取った。

研究内容は父親に言われたアリの研究。

小学生の夏休み。

夏の蒸し暑い昼下がり、セミの鳴き声が公園のあたり一面に鳴り響く。

亜紀は麦わら帽子をかぶって暑さをしのぐが、額からは大粒の汗がふきだしてくる。

もうシャツはグシャグシャに汗をかいていた。

普段からクーラーの恩恵をうけていた亜紀にとっては、公園の砂場が中東の砂漠のように思えた。

亜紀はしゃがみこんで、アリの巣を探す。

意外と簡単に公園のベンチの下にアリの巣を見つけ、そこから出てきたアリをただ眺めていた。アリはあわただしく動き回り巣を出たり入ったりを繰り返す。

するとアリが白い米粒のようなもの大きな顎にガッチリ咥え運んでいるとこを目撃した。

「誰かが落としたお米を運んでいるのかな?」と思ったが、よくよく見るとお米のように表面に光沢がなく、ちらほら糸のようなものが表面に見える。米ではない。

もっとよく見てみると、糸を巻いたかのような形をしていた。どうやら繭のようだ。

「ということは、中には蛹がはいっているのかな?」

しかしなぜ、わざわざ無防備な蛹を敵の多い外に出す必要があるのかわからない。

すると、繭を運ぶアリの後ろから、アリの幼虫のようなものを運ぶアリが来た。

「蛹だけじゃなくて、幼虫まで……もしかしてアリの引っ越しかな?」

と思ったその時、あることに気付いた。

さっきから巣を出入りしていたアリのほかに別の種類のアリが巣から出てきたのだ。

漠然と見ていたときは二種類のアリの大きさ形、色は同じように見えたのだが、よくよく見ていくうちに頭の形が違うように見える。蛹や幼虫を持っているのは大きな鎌状の顎を持ったアリ。あとから巣から出てきたのは顎が比較的小さい種類のアリだった。

小さいアリは巣から出てきて、大きな顎で繭を持ったアリに追いつこうとしているように見える。

もしかしたら顎の小さいアリは自分たちの巣から蛹や幼虫をとられたのかもしれない。

人攫い、いや、アリ攫いか。

亜紀は事の成り行きを観察しながら、最近買ってもらったカメラで二種類のアリの写真を撮り、ネット上のデータベースにアクセスした。

出てきた検索結果はサムライアリとクロヤマアリだった。

蛹や幼虫を咥え、運んでいるのはサムライアリ、追いすがっているのは、クロヤマアリだった。

この光景はサムライアリによる奴隷狩りのいう検索内容だった。

「これって……アリの誘拐……」

そうつぶやいたとき、背筋にぞっとするものを感じた。

ほのぼのとした公園で、人知れず繰り広げられる激しい戦い。

勝って殺すか、負けて子供をとられるか。

見てはいけないものを見た気がし、ぞっとするものを感じたが、反面その壮絶な生活スタイルに興奮と興味がわいてきた。

この日から、亜紀の“アリオタク”ともいえる人生が始まった。

大学の農学部を卒業後、大学院を経て、その後、国立研究所に勤め始めた。

研究内容はもちろんアリだ。

亜紀の研究としては、アリがもつ清浄作用に関する研究だった。

もしアリがいなければ、熱帯雨林などのジャングルは朽ちた木々が堆積し、それらが光を遮り、木々は生えてこないといわれている。

亜紀が生きてきた時代にはその問題が深刻だった。

亜紀が生まれる前の話。

地球の温暖化が進み、様々な伝染病が発生し始めた。

中でも致死性、感染性の強い新種の伝染病が世界中に広まり、世界の人口の90%が死滅した。潜伏期間(ウイルスを持っていて人に移すが、症状が出ていない状態)が長く、知らず知らずのうち感染して、気づいたときには手遅れという病気だ。

蚊がもつウイルスの突然変異が原因だった。

そこで人類は蚊を絶滅させることにした。

多くの地域で殺虫剤が散布され蚊の撲滅に成功した。

が、しかし蚊に対してまかれた殺虫剤は他の虫に対して影響が出てしまった。

多くの虫が死滅した。アリも大部分は死んだ。


感染病によって人口が激減した世界では多くの村や町がゴーストタウンとなり、手つかずの状態が進行し、森林が増えた。ただ森林が増えただけなら問題は無かったが、殺虫剤を散布しすぎたため森林維持のための生物の数が不足していた。

生体系のバランスが人間の手によって崩れていた。

木々が朽ち、堆積し、木が生えず、温暖化に拍車がかかり、新たな感染症が発生し始めることも珍しくなかった。

そういう時代背景もあって、亜紀の熱意は並々ならぬものがあった。

遺伝子操作を行い、アリの草木に対する処理能力の効率を上げることに着手した。

数々の失敗作を生み出したりしたが、ようやく成功作と呼べるものができた。

それらのアリは素晴らしい働きぶりを見せた。次々と森林の堆積物を処理に成功し、

亜紀は一部の学問では時の人になっていた。

記者会見など徐々に下火になったころ、気晴らしに上司や同僚と共に職員旅行で世界一深い地下ホテルに泊まりに行った。



「あれは、ちゃんと始末したはず」

亜紀はあのアリの正体を知っていた。

「私が作り出した失敗作……」

草木だけでなく、その他の生物も食べつくしてしまう黒い悪魔。

「なんで、あれが生き残っている?」

あのアリは研究の段階で、繁殖力、凶暴性、餌の消費量がとびぬけていた。

そのため地球の生態系を滅ぼす可能性が非常に高く、実験の段階で使用不可と判断され処分することを決定したアリだ。

軍隊アリの遺伝子を組みこんでおり、あのアリが通った後には骨や岩などの無機質しか残らない。

幼虫の育成期に餌を求め放浪生活を送り、激しい狩りを行い、女王アリの産卵期には新しい餌場が見つかれば駐屯する。

卵が孵化し、餌をとりつくしたと感じれば、新しい餌場探しのため放浪生活を送る。

通常の1センチ程度の大きさの軍隊アリでも牛や馬を数時間で骨にしてしまうほどである。それが中型犬ほどの大きさになった場合、どれほど恐ろしいか想像は容易につく。集団で襲われれば、人間1人なら骨だけにするのに1分もかからないだろう。

あのアリたちがどこから来たのは正確にはわからないが、おそらく亜紀たちの臭いを道中かぎつけたに違いない。

軍隊アリは目が見えない代わりに嗅覚が発達している。

いずれ、このシェルタはあばかれるだろう。

早く別の地へ移動しなければならない。

しかしながら、あんな生物がこの地球に存在していたら、一生この地球は不毛の大地のなるに違いない。

今はシェルタの食料に頼って何とか生き延びているが、それも限界が来る。

「生き残るにはいずれ、あのアリをどうにかしなきゃいけないね……」

たとえ1個師団の軍隊で戦っても、勝てるかわからないだろう。

武器も何もない状況であのアリと対決することは無謀な行為だとは分かっていた。

「とにかく、今日は休んで明日また新しい拠点を見つけましょう」

亜紀は妙な胸騒ぎを覚えながら暗闇のなか、天井をじっと見つめていた。


夜の世界は昼間以上に静寂に包まれている。

風が吹かないときは何も音がない。

なれてきたとはいえ、ここまで静かだと、精神的におかしくなりそうだ。

しんとしたシェルタの中ではモンの寝息が聞こえるだけだった。

亜紀は自然と目を覚ましていた。

「……どれくらい眠ったんだろう?」

こういった地下の部屋だと時間の感覚が分からなくなる。

「まあ、いいか」

時計があれば時間が分かるが、こういった状況で時間が正確に分かったところでなんになるのだろう。だから時計の電池は懐中電灯に使っている。

明かりをつけ、体を軽く伸びる。床で寝ていたため体が少し痛い。

「食料と水だけじゃなくて、ベッドも欲しかったな……さすがにワガママだね」

苦笑を漏らしつつ、モンを眺める。

寝息をたて熟睡している。

そんな姿にいとおしさを感じながらも、少し気になることがあった。

毛並みは家で飼っていた時と比べるとかなり悪くなっている。年齢的なこともあるだろうが、やはりこの環境のせいでストレスが溜まっているのだろう。

どうすることもできない自分に腹が立つ。

「ごめんね。モン。」

亜紀はモンの背中をなでる。

モンは気持ちよさそうに目をうっすら開け、鼻から大きく息を吐いた。


“カンカンカンカン、ガコッ”

何やら上の方から音がする。

金属製の物に何か固いものが当たるようなカンカンというような音だ。

「なんだろ……」

亜紀は不審に思いながら音の出所を探す。

瞬時に状況を悟った。

「ウソでしょ……」

音が聞こえてくるのは出入口にしている金属製の扉の向こうからだった。

「もう……」

自分達の存在は知られたことに驚いているわけではない。

今聞こえている音は、先ほど聞いたようなアリが扉の上を歩いているだけの音とは違う。

カンカンという音の他にガコッという音が聞こえてくるのは扉が少し持ち上がった音

だ。

「と、扉を開けようとしているの……?」

亜紀は辺りを見渡す。

この学校跡地の地下のシェルタ内の広さは約30畳で、食料と水、非常用のオノと工具、少量の燃料、ロープ、チョークなどの学校の備品、応急措置のための医療器具と薬があるだけだ。

慌ててオノに手を取る。

気づけば、心臓の鼓動は速くなり、呼吸が激しくなっていた。

しかし、亜紀はオノをすぐに元の位置に戻した。

オノで戦おうとも考えたが、アリはおそらく、数十から数千の軍勢で来ている可能性が高い。

数で圧倒的に不利だ。多勢に無勢である。

それにこの華奢な体つきで重たいオノを扱える自信もない。

「ど、どうしよう。モン!私達食べられちゃうよ!」

うろたえながらモンの方を見る。

モンも亜紀の焦りが伝わっていた。

そわそわしてその場で足踏みしている。亜紀はモンが果敢にも動き出すことを期待して見つめていたが、モンはひたすら足踏みしている。

「……もう!モンも少しは動いてよ!」

モンに八つ当たりしても、しょうがない。

亜紀は焦りながらも使えるものがないか探す。

すると、亜紀の目にあるものが飛び込んできた。



ガコンッ!!

上の方から扉が開く音が聞こえた。

その音を聞いた途端、亜紀とモンはその場で身を固くした。

「も、もう一か八か」

亜紀は心の底から湧き上がる恐怖で気が遠くなりそうだった。

今の自分の姿を鏡で見たらきっと、日焼けした肌すら青白い顔をしていたに違いない。

扉のある入り口からガサガサ音が聞こえ、その音は徐々に大きくなりつつある。

すると突然、緑黒い物体が、ボトッっと落ちてきた。

アリはどんな高さから落下して死なない。

固い外殻のおかげだ。

体長60センチほどで立派な角を思わせるような触角。

金属を思わせるような緑黒く光る重厚感のあるボディ。

いかにも頑丈そうだが、リズミカルに動く足。

重機をおもわせる大きな顎は動物の肉など簡単にもぎ取る立派で強靭な形をしている。

観察しているうちにも次々とアリが部屋の中に侵入してくる。

その中の一匹と目が合った。

アリの視力は光を感じる程度のものでしかなく、亜紀の姿が見えるはずがない。

しかし、亜紀の心は震え上がった。

肉食動物に狙われた草食動物もきっとこんな心境だろうなと、こんな状況でくだらないことが頭をよぎった。

モンをふれている手が手汗でぐっしょり濡れ、いやでも震える。

モンが震えているのも感じた。

おびえているのは亜紀だけではないようだ。

心臓の音が高鳴り、音がアリに聞こえるのではないかと思うほどだった。

極度の緊張で目の前が真っ白になり見えなくなりそうだった。


アリは次第に数を増し、亜紀のいる奥の方へと進行してくる。

頭から延びる触角をひきつかせ、亜紀たちの臭いを探っているようだ。

まるで電波をとらえるためのアンテナのようだ。

軍隊アリの遺伝子を組み込んだあのアリは、目がほとんど退化しておあり、嗅覚と振動によりえさを探し出す。

するとせわしなく動いていた触角がぴんと立った。その後他のアリたちにも何か囁くかのように至近距離で顔をくっつけている。

アリの情報交換法である。

どうやらある程度の位置を特定できたみたいだ。

アリたちは亜紀とモンの方に頭を向け近づいてくる。

カサカサと響く音がやけに気味が悪い。

ところが、アリたちは亜紀たちとあと5メートルの位置で急に立ち止まった。

その位置には大量の輪ゴムと幾重にも描いた白い線が記されていた。

それはちょうど亜紀たちを守る結界のようだった。

その線を境界にアリはただ足踏みをして、押し合い圧し合いしている状態だった。

白い線の正体はこの学校の跡地の拠点においてあった学校の備品である、チョークだった。

アリは輪ゴムの臭いとチョークに含まれる炭酸カルシウムや硫酸カルシウムの臭いが嫌いだった。

アリの習性を知り尽くした亜紀にしか思いつかない対策だった。

ただ、ここまで巨大化した相手にも通用するかどうかは、一種の賭けでもあったが。

それに偶然にもこの二つのアイテムがここに置いてあることは不幸中の幸いだった。

アリたちはほころびを探すかのように線をなぞりながら歩いている。

亜紀は念のため壁にまで線を引いていたので。その点は完璧だった。

とはいっても、このアリは体長が大きくなり過ぎていたためコンクリートの壁は登れない。

10分ほど室内を探った後、アリたちは部屋置いてある食料を持って部屋から出ていった。コンクリートを登れないアリは梯子を器用につたい登っていく。

「助かった……」

最後のアリが出ていった後、亜紀は緊張の糸が切れ、その場に寝そべった。

まだ心臓が高鳴り、脈が速い。

心臓だけがせわしなく動き、そのほかは、まったく動かす気力がない。

もはやまばたきするのもおっくうに感じた。

モンもよほど神経を使ったのか、亜紀と同じようにぐったりしている。

しかし、だらだらしている暇はなかった。


亜紀はアリが来る前に自分たちで持てるだけの食料は持っていたが、食料の大部分は持っていかれてしまった。

手元にあるのは数日分しかない。

それに、またいつアリの軍勢が押し寄せても不思議ではなかった。

早急に新しい拠点を探し、あのアリを滅ぼさなければならない。

疲れた体に鞭を打ち、出かける準備に取り掛かった。


一時間後、亜紀たちは出発した。

月も星も雲も出ない夜の闇の中、懐中電灯の光を頼りに新しい拠点をさがす。

日中の探索のおかげで、新しい拠点はある程度の目途が立っていた。

問題はまたあの軍隊アリに見つからないかどうかだった。

こんな何もないところで襲われた場合、なすすべがない。

チョークと輪ゴムは持ってきているが、こんな乾いた大地にチョークで白い線が描けるはずもなかった。輪ゴムの量にも限りがある。

つまり、この拠点探しは命がけだった。

あの軍隊アリはおそらく昨日の夕方の探索コースの方向から来たに違いない。

となれば、昨日の探索コースと違う方向での拠点探しとなる。

ある程度拠点の目途がついていたとはいえ、夜の探索は難しかった。

軍隊アリの狩りの時間帯は午前中、もしくは夜間に限られる。

気温が上がる時間帯では、フェロモンが蒸発してしまい匂いをたどって行軍できなくなるからだ。つまりいつあのアリたちに出くわしても不思議ではない時間帯である。

亜紀は早くも心が折れそうだった。

空がチリで覆われた今、月明かりもない闇のなかで、明かりは懐中電灯しかない。

もちろん夜道を照らしてくれる電灯もあるはずもない。

あの日以来、建造物という建造物は地上から姿を消していたので、自分がどこまで歩いてきているのか判断するための目印もなかった。

それに何を隠そう、亜紀は方向音痴だった。

暗闇の中の探索は心細かった。

先ほどの出来事のせいで、亜紀の心は少し憶病になっていた。

アリは好きだが、あの大きさはかわいくない。

いつアリの軍勢の足音が聞こえてくるかと考えると、恐怖で足がすくみそうになる。

きっとモンがいなかったら、今頃恐怖で動けずに泣き出しているだろう。

モンがいてくれれば、なんだってできるような気がしていた。

モンの顔を見ようと思い後ろを振り返った。

すると、どうしたことか、亜紀の後ろにいるはずのモンがいない。

辺りを懐中電灯で照らすも、どこにもモンの姿がなかった。

亜紀の中で急激に不安がこみ上げる。

必死でモンの姿をとらえようと目を凝らすが、漆黒の闇が亜紀の視線を阻む。

もしかしたら、途中ではぐれてしまって、アリ達の餌食になっているのではないか?

不吉な考えが脳裏をよぎる。

「モン!どこ!?モン!!」

亜紀は今にも泣きだしそうになりながらも、モンを呼び続けた。

アリの軍勢に見つかる心配など吹き飛んでしまい、あらんかぎり声を張り上げる。

「モン!」

「ワン!」

すると、少し離れたところからモンの声が聞こえた。

亜紀はあわてて、声のした方を向き懐中電灯を照らす。小さな懐中電灯なので、光が弱く、うっすらとしか見えないが、確かにモンの姿を確認できた。

亜紀は駆け出し、モンに近づく。

「よかったよ~、モン。食べられちゃったかと思ったよ~」

モンをぎゅっと抱きしめた。

「桜井君か?」

「ん?なんか声がした」

亜紀は驚いてモンの顔を見る。モンが人の言葉を話したかのように聞こえたからだ。


モンは顔を覗き込んでくる亜紀を不思議そうに見つめ返す。

「空耳かな……」

「話したのは私だ」

亜紀ははっとして声がした方に顔を向ける。

それまで、枯れ木か何かと思っていたのは、亜紀の上司、山口だった。

「山口さん!!生きていたのですか!?てっきり……」

「死んでいたほうが良かったか?」

山口は顔をゆがめ、不気味に笑う。

「足を痛めていた時に、君が来てくれるなんてね。まさかこんなところで巡り合うなんて思ってもいなかったよ」

真っ黒に焼けた肌、はげ散らかした頭に、分厚いメガネ、低身長なうえに、たるんだ顔。

「まったく音沙汰がなかったものですから……」

亜紀は正直、この上司、山口が嫌いだった。

ルックスだけでなく性格に大きな欠陥があった。陰湿で何考えているかわからず、口を開けば嫌味や皮肉しか言ってこない。コンプレックスの塊のくせに、妙にプライドが高い。もちろん結婚してなかった。

「あの日以来、ばたばたしていたからな……」

なんてことはないといった感じで言いのけた。

「桜井君は1人かい?」

山口は不思議そうな顔で亜紀の顔を見つめる。

「ええ、この子だけです」

「……桜井君、少し疲れているみたいだね。こんな荒野に放りだされたら無理もないか」

案外、この状況でも能天気そうな山口に腹が立ったが、冷静になって状況を確認する。

「……ほかのみんなは?」

「残念ながら……死んだよ。」

「そんな……どうして?」

「桜井君も見たかね?あのアリにやられてしまってね」

「えッ……」

目の前の世界が崩れ落ちたかのような感覚に襲われた。

私が作ったアリが人を、同僚を殺した……。

「そんな、あれが宮崎さんたちを殺したなんて……」

「君のせいじゃないさ」

亜紀の心情を悟ったのか、山口が口を開いた。

「なぜあのアリが生き残っていたかに関しては不明だが、あのアリの処分に携わったのは宮崎、大分、福岡だ。自分たちが処分し損ねたアリに食われるなんて、自業自得だ」

山口の言葉に冷徹さを感じた。

「……どんな最後でした?」

「あいつら三人、アリから逃げている途中で転んで、それでおしまいさ」

「山口さんはみなさんを見殺しにした……?」

「おいおい、冗談言うなよ。あの巨大なアリの軍勢に丸腰で立ち向かえっていうのか?」

亜紀はどうしようもなく腹が立った。

亜紀は燃えるような目で山口をにらみつけ、怒りを込めた声で怒鳴った。

「あの状況じゃ……無理さ。私だって命は惜しい」

人でなし。

亜紀は心の中で罵る。

見殺しにしたことをまったく後悔していないとは

研究時代も所長にゴマすることには余念がないくせに、研究はほとんど部下に丸投げ、手柄だけは自分のようにふるまう奴だった。

亜紀が聞いた話では、山口はかつて優秀な研究員だったと聞いたことがあった。

地震などの自然災害を予知できる虫の研究で功績を残したらしい。

しかし、今ではどう見ても優秀な人材には見えない。

過去の栄光にしがみついているタイプなのかもしれない。

亜紀の研究したアリの成功例もいつの間にか山口は研究メンバーの一員になっていた。

実際やっていたのは、亜紀たちの研究を眺めていただけだった。

もうこいつとは行動しない方がいいな。

足手まといになるだけだ。

そう判断し、亜紀はくるりと身をひるがえした。

「おい桜井君!どこ行くんだ?」

亜紀は顔だけ少し振り返った。

「所用がありますので失礼します」

新しい拠点を探さなければならないし、この人は信用できない。

宮崎さんたちの二の舞にならないため、自分達を危険にさらさないためにも別行動すべきだと考えた。

「まってくれ!私は足を怪我しているんだ。おそらく骨折している。ここにおいて行かれたら私はいずれ死んでしまう。助けてくれ」

「……福岡さんや大分さん、宮崎さんもそう思ったんでしょうね」

亜紀は最大限の軽蔑のこもった声で言い放った。

「……いや、悪かったと思っている」

山口は鼻を掻きながら目をうつむけて言った。

嘘だ。

亜紀は山口が嘘をつくとき、決して目を合わせずに鼻に手を持っていく癖を知っていた。

正直、何故同僚の福岡や大分、宮崎が死んで、こんな人間のクズみたいな奴が生き残っているのか、亜紀には耐えられなかった。

「急いでいますので、では」

「くッ……待て!」

亜紀は無視し続け、山口の元を離れていく。

モンが山口と亜紀の顔を交互に見つめ、これでいいのかというような顔で見てくる。

亜紀自身、自分がここまで非情になれたことに驚いていた。

普段、冷徹な山口はよほど追いつめられているのか、必死で嘆願している。

「待て。助けてくれ」

嘆願だけなら亜紀は無視し続けるつもりだったが、次の一言で立ち止まってしまった。

「私ならあのアリを全滅させることができる!」



一体どうやって?

亜紀は頭の中で山口の言葉を反芻した。

亜紀は山口の言葉の真実味を図るために、山口の元に戻り質問した。

「どうするつもりですか?」

「アリが視覚を使わず、嗅覚を使って仲間や餌となる昆虫などを探すことは、桜井君も知ってのとおりと思うが、その性質をうまく利用するんだ」

「つまり?」

「つまりだな。アリが私たちを仲間だと思わせるように体中にアリの臭いをつけるんだ。私たちがどんな姿かたちをしていようと臭いが同じならば襲われることはない」

「けど、そんなことが簡単にうまくいくとは思えません」

理屈は通っているが、現実的とは思えなかった。

「桜井君、アリは何の臭いを基準に仲間かどうか区別しているんだっけ?」

「アリの臭いは体表面にあるワックス成分で区別しているはずですが?」

アリの体の表面の光沢の正体はワックスで、アリの巣によってワックスの成分が違う。

アリたちはお互いの体の表面の臭いを嗅ぎ、自分たちと違う匂いがすれば、敵のとみなし、その場で戦いが始まる。

目が見えず、社会性を持つアリならではの方法だ。

「あのアリ達のワックスの成分の解析はどうするんですか?」

「それはもう終わっている。そのワックスも完成済みだ」

「???いつの間に?爆発が起こってからそういう設備が残っているところがあるんですか?」

「……今はアリ達が壊してしまって無くなってしまったんだけど、ある場所に成分分析装置がおいてあってね……」

なるべく平静を装うように言っているように見えるが、どうも嘘らしい。

山口は鼻の頭を掻いている。

なにやら山口の言っていることには裏がありそうな感じがしてならない。

“一体何を隠している?”

亜紀は相手の真意を見抜こうと射抜くような目で見つめ、質問を続ける。

「襲われない方法はわかりました。ただ敵だと認識されなくなっても、アリたちを全滅させる方法はどうするんです?」

「実はすぐに全滅させることはできない。しかし、女王アリと産卵室にいる女王アリの後継者のメスアリを殺してしまえば、卵を産むアリがいなくなって、次第にいなくなるはずだ。軍隊アリは女王が死んだ時が群れ全体の終わりだからな」

アリの巣には女王アリを中心とし、働きアリ、兵隊アリ、雄アリ、処女女王アリを有するコロニーを形成している。皆女王アリから生まれた家族である。

つまり、女王アリさえいなくなれば、働きアリなどは寿命が尽き、だんだん数を減らしていくことになる。

山口は得意げにこう続けた。

「こういうこともあろうかと、ニトログリセリンも作っておいた」

「ニトログリセリンってダイナマイトの原料?」

「そうだ。あの馬鹿でかいアリどもを全滅させるほどの量はないが、女王アリぐらいだったら簡単に殺せるくらいの量だ」

「山口さん、今はそのワックスは持ってきてないんですか?」

「今は持ってない。あまり無駄遣いができるほどの量でもないのでな。私の基地にしか置いてないから、桜井君の助けがどうしても必要なんだ」

亜紀はとりあえず、山口を助けることにした。

山口の反応から見て、ワックスやダイナマイトは実際に存在すると感じたのだ。

その方法で本当に全滅させることができるかは懐疑的だが、このまま何もしないよりはましだ。

しかし、製造の場所などに関してはほとんど信用してない。

山口は何度も鼻に手をやるしぐさをしていた。

それでは自ら嘘だと吹聴しているようなものだ。

いったい何故、亜紀にそんな嘘をつく必要があったのか定かではないが、こちらとしては、あのアリを全滅させることができればそんなことはどうでもいい。

山口の足をその辺に落ちていた金属の棒で固定し、肩を担いで山口の拠点に行くことにした。

山口の体臭はきつく、近くに寄りたくもなかった。

亜紀も人に文句を言えるような清潔さはなかったが、山口の臭いは鼻が曲がるようだった。

まるで食べ物が腐ったような臭いだ。

アリもここまで臭くては、エサだと認識しないのではないかと思った。

亜紀は山口に言われるままに拠点に向かって歩いた。

亜紀は方向音痴なので今どこへ向かっているのか把握できなかった。

ただ、いつ来るかわからないアリの軍勢の気配に気を配っていた。

もし、アリたちが亜紀たちの臭いを感じとり、追跡してきた場合、山口を担いだままでは逃げることは難しいだろう。

この状態で襲われた場合、山口を囮にしてモンと逃げれば何とかなると考えていた。

先ほどまで山口のことを非難していたことなど忘れ、亜紀はそんなことを考えていた。

生きるか死ぬか。

その極限状態では、この山口に対してどこまでも冷酷になれる気がした。



数時間歩いただろうか?

空は明るくなった。

とはいっても、空にはチリがとび、空はぼんやりとしている。

昨日からいろんなことが続いて、モンと亜紀は疲労のピークが来ていた。

足は棒のようになり、体が鉛のように重い。

体臭がきつく、体重の重い山口を置きざりにしたい衝動に何度駆られたことか。

「着いたぞ!」

山口が前方に指を差し、威勢よく叫んだ。

指をさした方を見ると、何やらテントのようなものが見える。

ちょうど、キャンプの時に立てる簡易型のテントのようだった。

「まさか。これが拠点ですか?」

「これは単に目印さ。本当の拠点はこの中にある。こうしておかないとこの辺りは砂埃がすごくてな」

テントの中に入ると、金属製の大きな蓋があった。

金属製の重い蓋を開けると、らせん状の階段が地下深くまでずっと続いていた。

階段は何とか二人で並んで通れるほどの幅があった。

階段をおりていくと、ジメッとした空気が体を包む。

壁はコンクリートではなく、石のブロックでできており、いささか古めかしい地下室のようだった。

「ここはむかし囚人たちを入れておくための牢屋だったみたいでね、この建築様式的に言えば、16、17世紀の建造物じゃないかな」

「陰気な感じですね……」

“山口さんにピッタリ”と亜紀は続けそうになったが、もはや言うのもめんどくさい。

何でもいいから早く横になりたかった。

階段を下り終えると、山口が言ったように、4、5畳ほどの牢屋が通路を挟んで左右に5室ずつあった。

各牢屋の中にはテーブルとイス、横になるための石台、山口がここで研究していたのだろう、様々な道具が散乱していた。

亜紀は牢の一室に山口を突き飛ばすように横たわらせた。

山口と密着から解放された亜紀は即刻、必要な道具を持ったら逃げ出したい衝動に駆られる。

こんな人とずっと行動するなんて身の毛がよだつ。

しかし、今の亜紀とモンには少し休憩が必要だった。疲れのせいで立っているだけで眩暈がする。

牢をひとつずつ見て回った。

その途中で山口の言っていたダイナマイトの原料のニトログリセリンやあのアリのワックスであろう物を確認することができた。

ニトログリセリンは珪藻土をしみこませて保存しているようだ。

これに硝酸ナトリウムを加えればダイナマイトの完成だ。

このままでも少しの衝撃で爆発するので十分な注意が必要だ。

ワックスの中身はハンドクリームにそっくりな白い物質だった。

ちょうど亜紀がリュックの中に入れているハンドクリームの容器と中身によく似ていた。

亜紀はそれらをいったん手に取り、再び元の位置に戻しておいた。

亜紀とモンはもっとも快適そうな牢に入り、食料と水を胃の中に突っ込んで、泥のように眠り込んだ。



夢を見た。

新緑の緑に囲まれた森の中。

綺麗な水が湧きでる泉。

あたたかな光が降り注ぐ木漏れ日。

一面に咲く色とりどりの小さな花。

その草木の柔らかく優しい感触。

小鳥たちのさえずり。木々のささやき。

シカやリスが楽しげにじゃれあう。

爽やかな風がほほをなでる。

その中に年老いた女性が1人、微笑をたたえ、亜紀に笑いかける。

幸せそうな満ち足りた顔だ。

微笑みを浮かべこちらに何やら話しかけている。

声は聞こえない。

「え?」亜紀は聞き返した。

老婆は微笑みを崩さず口を開く。

“あなたは何故生きているの?”

声は聞こえなかったが、なにを言いたいのか不思議と分かった。

“その世界で、あなたは生きる意味なんてあるのかしら?”

亜紀は答えられない。

どこまで行っても不毛の地。

この数年喜びを感じたことは無かった。

“もう終わらせてもいいのよ”

老婆は優しく、諭すように言った。

亜紀は死んだ祖母のことを思い出していた。

目の前の老婆が、記憶の中の祖母に何となく似ている気がしたからだ。

亜紀はもう1つ気づいたことがあった。

老婆が白いツボを抱えていた。

その中には白い骨が入っていた。

犬の骨のようだ。

“これは私が飼っていた犬。私のせいで死なせてしまったの”

すると突然、ぬっと黒いしみが地面から出てきた。

あのアリ達だ。

森の動物たちは逃げ惑うが、次々にアリたちの餌食になっていく。

数秒の間に骨だけの姿に成り果てていく。

“この子も私が守ってあげられなくてこうなってしまったの”

骨壺の表面にはモンと名前が書かれていた。

この時、亜紀は初めて老婆が微笑んだまま、涙を流していることに気が付いた。

するとアリたちは今度は老婆に向かって行進していく。

「ダメ!その人に手を出さないで!」

老婆が襲われる瞬間、目の前が暗くなった。


「ダメ!」

牢の一室で、亜紀はめざめと同時に大声で叫んでいた。

夢から覚めたのだ。

亜紀は意識がはっきりしないままモンの姿を確認する。

モンは傍で寝ている。

夢で見たあの老婆は自分だった。

そしてツボに入っていたのはアリに食べられてしまったモンの骨ということになる。

亜紀の気分はひどかった。

気付けば亜紀の頬は涙でぬれている。

夢をみて泣いていたのだ。

亜紀は心から、モンを死なせたくなかった。

あの日以来、多くの者を失った。

以前のような快適な生活も同僚も、おそらく友人や家族も。

何もかもなくなった世界で唯一残ったのは、モンだった。

モンだけは自分の命に代えても守りたい。心からそう思った。


しばらく亜紀はボーとしていた。

こういう強烈な夢を見た時は総じて頭など正常に働かない。

「そっか。山口さんの拠点に来ていたんだった。」

ボーとした頭を覚ますため自分たちが寝ていた牢から出ようとした。

“ガシャン”

するとどういうことか、牢の外側から鍵がかかっている。

ちょうど、牢にとらわれた囚人といった態になってしまった。

牢の格子は木製だったが、太く硬い木が使われているのか亜紀が力任せに開けようとしてもびくともしなかった。

「なにこれ。どうなってんのよ!?」

「お目覚めかね。桜井君。」

山口は無表情な顔つきで亜紀たちを見つめた。その表情は寒気がするほど冷たく、背筋が凍りつくようまなざしだった。

「山口さん、これどういうことですか!」

「桜井君、残念だが、君にはここで死んでもらうことにした」

「は!?わけわかんないこと言わないで早く出しなさいよ」

「……あのアリは殺されては困るんだよ。」

「どういうこと?」

「桜井君はあのアリを生み出し、処分しようとしたとき、実は私は裏で処分に猛烈に反対していたのだ」

「しかし、あのアリの危険性については山口さんも承知のはずです」

「もちろん知っていたさ。いやむしろ知っていたからこそ、私はあのアリの魅力にとりつかれ、どうしても生かしておきたかった」

「どういうことですか?」

あのアリはこの地中上で最強の生物であり、地球上でもっとも生き残るべき存在なのだ。人間でも強い男性や美しい女性がもてはやされるのはなぜだと思う?それはより良いDNAを子孫に残すため、つまり種としての存続の為。強いものは生き残り弱いものは淘汰される。それが本来の自然界の掟だ。だから、あのアリは責任もってわたしが後世残していかなければならないと感じたのだ。そして私はその強力なアリたちの上に立つ王になるのだ」

「一人ぼっちの王なんて、むなしいだけよ」

「なんとでもいうがいい。私は最後まで生き残った人間として歴史に名を遺すのだ」

孤独な生活で、気が狂ったのだろうか。

「処分したはずのあのアリが生き残っているのは……」

「私が卵を保管しておいた。まあ餌の消費量があまりにも莫大だったことは知っていたから、アリの体に葉緑体を埋め込む遺伝子操作は行い、日光だけでもある程度は動き回れるという改良したがね」

「こんな世界にしたのも山口さん?」

「まさか。違うよ。これは正真正銘、巨大隕石が地球に衝突したんだ。私はこの現象を予知していたに過ぎない」

「予知?」

「正確に言うと私ではなく虫たちが予知していたんだがね。桜井君はアリ専門だったから知っているかもしれないけど、集中豪雨の前には、“アリが巣の穴を塞ぐ”といったように虫たちには気象現象を予知できるやつがいるんだ。それを応用して、地球の重力の変化に敏感な虫の研究が私の研究内容だった」

雨の前にアリが巣の穴を塞ぐというのは本当だ。

しかもそれらはかなりの確率で当たる。

虫たちの中にも特殊な能力があることは知っていたが、隕石まで予測できるというのは信じがたい気もした。

しかし、現に山口は予測が的中して生き残っている。

「なぜ隕石が落ちるといったことを世界中に教えてくれなかったんですか!?」

「もし私が言ってもみんな信じないさ。もし信じたとしても大パニックになるだろう。そしたら私たちが避難できなくなる」

「職員旅行に地下深いホテルに泊まったのもそのせい……」

「正解。私はアリの卵とアリのワックスを持ってホテルに泊まった。一応、あのアリの生みの親である、君たちを連れてきたのもそういうことを想定しておいたからさ。しかし、すぐに不要だと分かったがね。爆発後はその辺の死体をアリの餌として与え続けて、やっとここまで数を増やすことが出来たのだ。アリを殺すなんて邪魔はさせない」

亜紀は山口の言葉に頭をよぎるものがあった。

「もしかして、福岡さんや宮崎さん、大分さんが死んだのは……」

「奴らは今の君と同じように私の邪魔をした。彼らはダイナマイトを作って女王アリを殺そうとした。だからアリたちの貴重な蛋白源になってもらったんだ。いくら葉緑体を埋め込んで光合成ができるからと言って、女王アリは蛋白源がないと卵を産んでくれないみたいだしな」

亜紀は再び山口に対して言いようのない怒りが込みあがってきた。

自分のエゴを満たすために人をアリの餌にした。

そんな山口が許せなかった。

眼から火が出るほど怒りを込めて、山口をにらみつける。

「最近は蛋白源となるものがなくて女王アリは多く卵を産んでくれないのだよ。だから桜井君とその犬には女王アリたちの餌になってもらうよ」

山口はそういうと出口のほうへ向かい扉を開けた。

「もうじき、においをたどってアリたちがここへ押し寄せてくる」

「そしたら足をけがしているあんただって逃げられないでしょ」

「足は痛いが、私にはこのワックスがある」

山口はそういうとワックスの入った容器を取り出し、亜紀に見せびらかした。

「これさえ体に塗っておけば、アリたちは私の事を仲間だと思い攻撃することはない」

山口は優越感に浸りながら余裕の表情だ。

ワックスを何度も試し、成功しているに違いない。

すると、亜紀の耳にいやな音が聞こえ始めた

どこからともなく、足音がこちらに向かって迫ってくる。

「早かったな。ここはあのクレーターの近くにあってね、アリたちはクレーターの近くで駐屯しているんだ。」

まさか、山口の案内された方角が、クレーターがある方向だとは思わなかった。

何故わからなかったのだろう。

亜紀は自分の方向音痴をくやんだ。

階段のほうからガザガザという音が聞こえる。

もうこんなに近くまで迫ってきている。

亜紀は輪ゴムとチョークを用いて撃退しようとした。

しかし、牢の中の机の上に置いていた輪ゴムとチョークが消えていた。

「輪ゴムとチョークは捨てさせてもらったよ。さすが桜井君そんなものを用意しているなんて私も驚いたよ」

山口がにんまり笑みを浮かべこちらに視線を向ける。

亜紀の怒りは頂点に達した。

「お前なんか死んでしまえ!」

亜紀は思いつく限りの悪態を叫んでいた。

こんなところでアリの餌になるなんて。

私はいいとして、モンが食べられるのは我慢できない。

すると出入り口のほうに黒い影が亜紀の横目に写った。

体長60センチほどで立派な角を思わせるような触角。

金属を思わせるような緑黒く光る重厚感のあるボディ。

いかにも頑丈そうだが、リズミカルに動く足。

重機をおもわせる大きな顎は動物の肉など簡単にもぎ取る立派で強靭な形をしている。

アリがこちらに顔を向けている。

太い足を器用に動かしながらこちらへと近づいてくる。

亜紀は背筋に一筋の汗が流れ落ちる。

恐怖のあまり、背筋が凍り付いたように感じる。

アリは目の前の山口のすぐ近くまで接近している。

山口はにやにやしたまま亜紀にはなしかける

「桜井君、お別れのじか……ぐあ!!」

すると、どういうことか最後の言葉を言い終わらぬうちに山口が悲鳴を上げている。

山口の足元には先程はいってきたアリが、大きな顎で山口の右足を挟んでいる。

山口の足から大量の血が流れ始め、バキッと骨の砕ける音が聞こえる。

すると、骨の砕ける音が合図のように次々とアリが部屋に入ってきた。

アリたちは迷わず、山口の手足、胴体首に牙をむく。

山口は痛みで苦悶の表情を浮かべながら訳が分からないといった顔をしていたが、その顔もたちまちアリによって囲まれ見えなくなった。

部屋には肉がちぎれる音、骨の砕ける音と山口の断末魔が室内に響き渡った。

亜紀はそんな光景を見ながらもどこか映画を見ているような感覚で、ただ茫然と山口が骨と化していく様を、ただ見ていた。

人が死ぬ瞬間を今まで見たことがなかったからかもしれない。

アリたちは亜紀たちの存在に気づき、木製の格子を削り取り始めた。

先程まで亜紀が必死に蹴破ろうとしてもびくともしなかった格子は、アリの大きな顎によって音を立てながら削りとられていく。


「ワン」

モンが吠える。

亜紀は我に返った。

そうだ。このままでは自分たちも食べられてしまう。

亜紀は素早くリュックの中を探る。

持ち出したのはハンドクリームの容器。

その白いクリーム状の物質をモンに塗り、自分にも塗りつけた。

ちょうど全身に塗り終えた瞬間、木製の格子が音を立てて崩れ落ちた。

アリが次々と牢の中に入ってくる。

亜紀とモンはじっと身を固める。

アリたちは触角をうねうね動かしながらこちらへ近づいてくる。

かわいらしさなど、みじんも感じさせないその体格が一歩ずつ亜紀たちのほうに近づくたび、亜紀の振動の鼓動も一段、一段跳ねあがった。

アリは触角で亜紀をなでまわす。

頭の中に血液が急激に集まり、顔全体がカァと熱くなった。

もはや目の前が真っ白になり何も見えない。

時間にして一秒にも満たない時間だったが、亜紀にとっては、走馬灯が次々に見えるほど、とてつもなく長く感じた。

アリはひとしきり亜紀を触角でなでまわすと、くるりと方向を変え別の牢のほうへ向かっていった。一緒にいたモンはスルーされた。

「助かった」

亜紀は小さな声でつぶやいた。

体じゅうの硬直していた筋肉がドッと緩んだ。

実は、昨日、亜紀が持っていたハンドクリームの中身と山口が持っていたワックスの中身の形状や質感が似ていた。

そこで、山口の事が信用できなかった亜紀は、山口には内緒でこっそり中身を入れ替えていた。

なので、山口が体に塗っていたのはただのハンドクリーム。

亜紀とモンが体に塗りつけたのが、アリの表面の成分であるワックスということだ。


亜紀とモンはニトログリセリンの入った瓶をそっとつかんで、出口へと向かった。

ニトログリセリンはダイナマイトの原料で爆薬や狭心症などの医薬品としても幅広く」使われる。

わずかな振動、加熱、摩擦で爆発するため、亜紀はかなり慎重に運ぶことにした。

階段を上るときは何度もアリたちに体を触角でなでまわされ、そのたびに心臓がちぢみ上がる思いだった。

それにもしニトログリセリンを誤って落としてしまった場合、亜紀とモンの体は木端微塵に吹き飛ぶだろう。

やっとの思いで外に出たとき亜紀は目を疑った。

赤茶けた大地の上に黒緑色のじゅうたんが敷かれているような途方もない数のアリたちが地上を埋め尽くしていた。

それは、乾燥した大地に突如現れた大河のようだった。

いくつもの枝分かれした群列はクレーターのあるほうへと向かい一つ収束していく。

この不毛な大地で、アリ自身が光合成によってエネルギーを作り出すことで、飢え死ぬことの知らないからだを手に入れ、ここまで数を増やしたのだ。

しかし、本能である狩りを行う習性だけは残っているようだ。

まるで、食べる餌があるのにネズミ狩りを行う飼い猫のようだ。

すると後方から大きな顎に血をしたたらせた肉を持ったアリが階段から出てきた。

山口の肉体の一部だろう。脇腹あたりの肉だろうか。

山口の話によれば、働きアリなどのアリは食料をほとんど食べなくても生きていけるとのことなので、この肉は女王アリへの献上の品ということになる。

亜紀は肉を持ったアリの後をあわてて、なおかつ慎重に追いかけて行った。

アリの歩行速度は速く、ジョギングくらいのスピードでないと追いつかないほどだった。

しかし亜紀は約三キログラムのニトログリセリンを持っていたのでそんなに速く走れない。

下手に走って瓶に何かしらの衝撃を加えた場合、およそ4800000カロリーの爆発が起こる計算となる。

これは至近距離で爆発した場合、超高速の気体が発生し、周囲に膨張、拡散し、約20センチの鉄板すら切断するほどの威力である。

爆発した場合、亜紀の体は一片の肉体すら残らないに違いない。

「もう、なんでニトログリセリンのままなのよ」

ニトログリセリンは原体のままでは、扱いが非常にデリケートなものである。

緩衝材である珪藻土を混ぜたものであっても、強い衝撃が加われば爆発する。

ダイナマイトの形にしてもらえば、まだ持ち運びやすかったに違いない。

肉片を持ったアリとはどんどん距離が離れていく。

「ワン」

すると、モンが亜紀に勢い良く吠えた。

モンの黒い瞳が亜紀の目をじっと見ている。

「モン、あのアリを追いかけていってくれるの?」

「ワン」

「お願い!」

亜紀がそう言うと、モンは勢いよく駆け出していた。

亜紀の意図をくみ取ったこともそうだが、何より普段、運動が苦手なモンが率先して行動してくれたことがうれしかった。

きっとモンにも恐怖心があったに違いなかったが、モンは迷わずアリの後を追いかける。

黒緑色のアリたちがはびこる荒野を駆け抜けるモンの姿が黄金色に輝いているように見えた。

「モン、ありがとう。私も今行くからね」

亜紀はモンの後を追いかけていった。


時々、アリたちの仲間かどうかの検査を受けながらも亜紀は順調に進んでいた。

途中、アリがニトログリセリンの入った瓶に触れようとしたことに心底すくみ上る思いがしたが、ボールを持ったバスケット選手のように体の向きを変えることによって何とか切り抜けた。

アリ達との攻防戦(ほぼ守りのみ)を繰り返しているとモンが帰ってきた。

どうやら無事だったみたいたいだ。

亜紀はほっとし、モンに近づこうとしたが、モンは亜紀の姿を見るとすぐさま体の向きをかえ、来た道を戻っていく。

先を急げと言わんばかりだった。

モンは道案内をしてくれる。

しばらく、モンの後をついていくと、目の前に無数のアリが固まって、うごめいていた。

数十、いや数百のアリの集団だった。

その集団アリは頭上に何か巨大なものを運んでいるようだった。

黒く大きな塊だ。

亜紀はそれが何なのかすぐ察しがついた。

「あれは、女王……」

体長約3メートルを超える化け物。

お腹が異常に大きく、あの腹の中には卵が詰まっているに違いない。

60センチ働きアリと比べ、恐るべき大きさだ。もはや同じ種類の生物に見えない。

しかしながら、その大きさゆえに自分で移動できないに違いない。

女王アリの下の無数の働きアリたちが担いでいるのもそのためだ。

亜紀はようすをうかがいながら女王と女王アリの親衛隊との距離を詰めていった。

「問題はこのニトログリセリンの瓶をどうやってあの女王アリに当てるかよね。投げるわけにはいかないし……」

ニトログリセリンは少しの衝撃でも爆発する可能性がある。

なげつけて手を放した途端、爆発する可能性があるのだ。

ここまで無事に運べただけでも奇跡に近い。

亜紀は周りを見渡しながら、何か使えるものを探した。

しかし、荒れ果てた大地と大量の骨以外、見当たらない。

「女王アリのいるところに瓶を置いて、少し離れて瓶に向かって骨を投げつけるのは……さすがに無理よね」

瓶に当てるより先に親衛隊のアリに当たってしまうだろう。

それに亜紀はそんなに肩は強くない。骨が瓶に届く距離などたかが数メートル、巻き添えを食らうに違いない。

沈痛な面持ちでふと目を上げると、女王アリいる場の頭上に切り立った崖があることに気付いた。

「そこから落とせばいいじゃん!!」

崖の高さは約15メートル、崖の先端から瓶を落下させてから直撃まで1秒くらいはあるだろう。

その1秒の間に爆発時の影響が出ない位置まで後退すれば問題ない。

亜紀は思いたった妙案に満足しながら、久しぶりに軽い足取りで目的の場所に急いだ。崖への登上口に行くため一度迂回して女王の背後の崖まで行くことにした。

崖への道のりは足場が悪く、石ころばかりだった。

もしここで石ころに足を取られ転んでしまったら命はない。

もちろん持っている物のせいでだ。

時々強い風が吹くため、余計に神経を使う。

何とか崖を上りきった時、女王が移動していないか少し心配したが、なんということだろう。

亜紀のいるちょうど真下に女王アリが位置していた。

崖の高さはビルの5階建てくらいの高さだろうか。

見下ろしてみる女王アリは少し小さく見えた。

「これならうまくいきそう」

これで全部終わらせられる。そう感じた。

切り立った崖の端に立ち、瓶を持った腕を前に出した。

手をはなそう。脳から腕、指先へと指令が出た瞬間、突然風が巻き起こった。

それと同時に目下では、女王アリの一行が動き始めた。

「あ……」

そう思った時にはもはやニトログリセリンの入った瓶は亜紀の腕より離れ落ちていた。

瓶は見る見るうちに下へ下へ落ちていく。

亜紀は瓶の行方を見守りたかったが、このままでは爆発による爆風の衝撃を下からまともに受けることになる。

亜紀はとっさに後ろに後退し始めたが、少し遅かった。

ズドーン。

大地を震わすほどのものすごい爆音が真下から響き、爆風が吹き上げる。

それと同時に小石が目にもとまらぬ速さで亜紀の頬や腕をかすめる。

亜紀はしりもちをつく格好で後ろにころんだ。

したたかお尻を石にぶつけ、悶絶した。

お尻の痛みが治まると状況を確認した。

手や顔から血が出ていた。

特に手は出血が多く血が洋服にしみこんでいる。

「痛っい~。血は止まるかしら」

亜紀は傷口の確認はほどほどにして、女王アリ達がどうなっているか確認するため崖から下をのぞきこんだ。

乾燥した大地の為、土煙が上がり、視界が悪い。

下のほうでは何やら動き回っているのは見て取れた。

「女王は……死んだの?」

目を凝らし、注意深く砂煙の先にあるものを見通す。

すると、大きなアリの姿がぼんやり見えてきた。女王だ

「死んだの?よく見えない……」

亜紀ははやる気持ちが抑えきれない。

女王アリは動く気配がない。

やはり死んでいるのだろうか。

風が吹き、視界が晴れてきた。

崖の下では黒いかけらが散乱していた。

おそらく、女王の周りにいたアリが粉々に吹き飛んだ後だろう。

肝心の女王アリはというと、足が一本なくなっていた。

騒ぎを聞きつけたアリたちが遠くのほうから女王に向かって集合してきた。

すると女王の頭がわずかに動いた。

「そんな、死んでないなんて」

ニトログリセリンのビンは女王に直撃しなかった。

茫然としている亜紀をよそに、目下では女王たちと親衛隊があわただしく移動を開始していた。

いったんこの場から離れるつもりだろう。

向かうは、巨大なクレーター。

ねぐらにしている場所に違いない。

亜紀は急いだ。

今殺さなければ、しばらくチャンスはない。

敵の陣営が立てなおす前に殺さなければ。

リュックの中から小型の斧を取り出し、女王アリの後を追う。

亜紀は全力で走った。

不幸中の幸いというべきか、女王アリの親衛隊一行は爆発の影響で数が減り、動きが遅くなっていた。しかし、爆発音を聞きつけた兵隊アリたちが女王の身を案じ、こちらへ向かって進行してきつつある。

数千の兵隊たちが到着する前に女王を始末せねばならない。

「ワン」

急にモンが吠えたので亜紀は驚き、走りながらも後ろを振り返る。

モンの姿を確認するが特に異常はなく、けがしている様子もなかった。

しかし、モンの右の方向から黒い塊が迫ってきていた。

アリの大群だ。

亜紀は女王を守りに来た兵隊アリだと思ったが、どうも様子がおかしい。

それに、亜紀の前方に女王がいるのに、アリ達は亜紀とモンに向かって進んでくる。

「私たちに向かってやってきてる……どうして?」

亜紀は走りながらも理由を考える。

塗っていたワックスがなくなったのかと思ったが、まだ体中にべっとりついている。

ふと、血の付いた腕が目に入った。

脳からアドレナリンがバンバン出ているせいで今はあまり痛みを感じないが、腕からは走るたび血が地面にほとばしっている。

どうやら、血をばらまきながら走ったせいで、アリ達は新鮮な血の匂いに興奮しながら亜紀たちを追いかけているようだった。

血のしたたり落ちた後を追ってきているのだろう。

女王のために肉を確保するというためだけのただひたむきな執念には、狩られる側からしたらとてつもなく恐ろしく感じる。

「まずいわ……止血しないと女王に追いつく前にアリたちに追いつかれてしまう」

亜紀はリュックに何が入っているか思いを巡らせた。

走りながらリュックに手を入れ、タオルを取り出した。

リュックの中身が幾つか飛び出した気もするが、気にしている暇はない。

タオルを出血している場所に強めに巻き付け、再び全力で走り出す。

これで、血はしばらく漏れ出ることはないだろう。

しかし、女王アリ達との距離は思った以上に離れていた。

亜紀は巨大なクレーターの手前で女王アリたちの姿を見失った。


亜紀は焦っていた。

もし援軍のアリが到達した場合、出血している自分は襲われてしまうだろう。

襲われたら最後、生きてはいない。

必死になって女王の姿を探す。

すると、クレーターの淵の盛り上がった土、いや、丘といったほうがいいのか100メートルほど先の丘にぽっかり黒くなっている部分があった。

日影かとも思ったが近づいてみてみるとぽっかりと穴があいている。

穴の大きさは縦横5メートルほどで洞窟のような印象だった。

女王アリが通るには十分な大きさだろう。

根拠はないが、女王がこの穴の中にいることに賭け、亜紀は飛び込んだ。

穴の中は当然ながら暗く、まったく先が見えない。

穴のある場所は一日中日当たりが悪い場所にあるのか乾燥した大地にしては、わりと湿度はあるようだった。

しかし、穴の5メートルも入り込むと、吐き気がするほど食べ物が饐えた匂いが亜紀とモンの鼻腔を刺激した。

夏に生ごみを一か月ほど放置すればこれくらいの臭いになるだろうか。

とにかくひどく臭った。

その臭いも奥に進めば進むほどひどくなる。

強烈な刺激臭のため亜紀は涙目になってきた。

しかし、この臭いで思い出したことがあった。

山口の体臭もここまでひどくはなかったが、おなじような類の臭いがしていた。

おそらく彼もここにはよく足を踏み入れていたのだろう。

懐中電灯で洞窟内を照らしながら、進んでいく。

パキッ

亜紀の足が何かふんだ音がした。

足元を照らしてみると白い物体だった。

骨だ。

しかも、大きさと形から人間の太ももあたりの骨だろう。

山口はアリの数がごくわずかな時からここで死んだ人間を運び込み、アリたちを飼育していたに違いない。

やはりここはアリの本拠地だったのだ。


辺り一面照らしてみると、白骨がところどころ山のように積みあがっている。

亜紀は白骨に近づいた。その中にはとても小さな人間の骸骨もあった。

「こんな子供まで……」

亜紀は胸をえぐられるような気分だった。

かつて自分の作り出したアリたちのせいでこんな小さな子供の体までアリたちの食料となったのだ。

死んでから食べられたにしても、ひどすぎる。

亜紀は胸にこみ上げる怒りや悲しみ、無力感に心を痛め、瞳が涙でにじんだ。

モンが亜紀の顔を大きな瞳でじっと見つめる。

「泣いている場合じゃないよね」

亜紀は心を奮い立たせた。

この人たちのためにできることは女王アリを始末すること。

それしかない。

亜紀は奥に進んでいく。

臭いは歩を進めるごとにつよくなる。

しかし、亜紀の中の決意もそれに比例して強くなっていった。

絶対に女王との決着をここでつけるつもりだった。


「ワン」

モンが吼えた。

モンの姿を確認しようとした瞬間、モンの姿が突然消えた。

いや違う、変化が起こったのはモンではなく、亜紀の足元が突然崩れ落ちたのだ。

「ワン」

土と石が落ちる音と共に上の方からもう一度モンの鳴き声が響いた。

亜紀はどこかつかめるものがないかと思いながら手をせわしなく動かすが、手はむなしく空をつかむだけだ。

真っ暗な洞窟の中、亜紀の体はどこまでも落ちていく。

一体、どこまで落ちただろうか。

全身したたか打ち付けたせいで、ズキズキ痛む。

辺りを見回すが真っ暗でなにも見えない。

なんとか起き上がると、一筋の光が出ている場所がある。

慎重に歩を進めると、先ほどまで持っていた懐中電灯の光だった。

懐中電灯を拾いあたりを照らす、先ほどまで持っていた斧はどこにもなかった。

しかし、意外な物を見つけた。

辺りには、いくつもの袋が山積みにおかれていた。

「なんでこんなところに……?」

袋をひかりで照らしながら観察してみると、小麦粉だった。

袋を少し破いていると、白い粉が出てきた。

山口がアリの食料としておいて行ったものだろうか?

しかし、アリたちは手を付けなかったみたいだ。

このことから推察するに女王は完全に肉食のようだ。

小麦粉の袋をしげしげ眺めていると、奥の方から何やら音が聞こえる。

亜紀は音のする方に光を直接当てないように恐る恐る歩を進める。

すると奥の方で白い巨大な物体がうっすらとみえた。

女王だ。

アリの卵も見える。

女王の周りには数十の親衛隊のアリたちが控え、卵の世話をしている。

女王の出産のための部屋のようだった。

これは女王を殺す最後のチャンスだと思った。

しかし、どうやって殺すかが問題だった。

近づこうにも怪我している亜紀はワックスの効果が薄い。

止血はしているが、近づきすぎると親衛隊に気づかれてしまうだろう。

それに武器もない。

亜紀がいろいろ思案しているとあるものが目に飛び込んできた。

亜紀は傍に山積みにしてあった小麦粉の袋をそこら中に投げつけた。

白い粉は部屋中に舞い始める。

みるみるうちに視界が悪くなる。

そして、今度はアリたちに向かって小麦粉の袋を投げつけた。

しかし、小麦粉の入った袋を投げつけ当てたからと言って、アリには微々たるダメージしか与えない。

袋はほとんどアリには当たらず、手前で落ち、袋が破け、あたりが小麦粉だらけとなる。

小麦粉が宙に舞い、視界が白く覆われる。

女王アリの親衛隊が騒ぎ出し、何事かと亜紀の方に向かって進行してきた。

亜紀はもはや怖さは感じなかった。

女王たちの餌となってしまった人たちへのせめてもの償いとして、命に代えても女王を殺さなければならない。

亜紀はなおも小麦粉の袋を投げつつける。

手元に小麦粉が無くなった時点で、今度は足もとに落ちているライターを拾った。

おそらく山口が落としたものだろう。

親衛隊のアリたちとの距離は数メートルに近づいていた。

亜紀は足元にあったライターに火をつけ、目の前の白い空間に投げつけた。

その瞬間、花火のように目の前が光り輝き、その光は亜紀と女王アリ、親衛隊のアリたちを包み込んだ。




目の前に広がるのは

新緑の緑に囲まれた森の中。

綺麗な水が湧きでる泉。

あたたかな光が降り注ぐ木漏れ日。

一面に咲く色とりどりの小さな花。

その草木の柔らかく優しい感触。

小鳥たちのさえずり。木々のささやき。

爽やかな風がほほをなでる。

目の前には亜紀の両親がいた。

「お父さんお母さん、やっと会えたね」

父親は優しい笑みを浮かべ亜紀に笑いかける。

母親は亜紀に近づき抱きしめた。

あたたかい温もりに亜紀は顔をうずめ、久しぶりに安心を感じていた。

「ワン!」

後ろからモンが吠える。

亜紀は後ろを振り返る。

モンがいる場所は亜紀と両親がいる場所から少し距離がある上に、その間には小川が流れていた。

「モン、川を渡ってこっちおいで」

小川は浅く、くるぶしくらいの深さしかない。

しかし、モンはその場に立ったまま動こうとせず、亜紀に向かって吠え続けている。

動きたくても動けない。そういった様子だった。

亜紀はわずらわしさを感じながらも、モンの場所まで行こうとした。

しかし、母親が亜紀の体を握ったまま、離そうとしない

「お母さん心配するのはわかるけど、ちょっとだけ離して。モンを迎えに行かなきゃ」

しかし、母親はがっちりつかんで亜紀の腕を離さない。

亜紀が驚きながら母の顔を見つめると、母の姿は消え、女王アリの姿が目の前に

現れた。女王アリは亜紀の腕をがっちりと挟んで離さない。

亜紀は驚きながらもなんとか女王アリから離れ、モンの元に向かおうとした。

腕を上下に振り、女王の拘束から離れようとする。

そのたびに腕からは血がにじむ。

「モン!助けて……」

すると、亜紀の気持ちが通じたのか、モン川を渡り、女王に向かってとびかかった。

およそ三メートルの女王にモンが勇敢にも戦っている。

亜紀は腕を挟まれたまま、モンと共に女王を攻撃した。

こちらの猛攻にひるんだのか女王はひるんだ。

その隙に亜紀とモンは川の向こうに向かって走り出した。

川を渡りきると、女王は恨めしそうにただこちらを眺めていた。

助かったと思い息をつく。

自分の体を見たとき違和感があった。

亜紀の右腕はなくなっていた。




目を開けるとモンの顔がぼんやり見えた。

耳鳴りがひどくほとんど聞こえない。

モンは何か布を咥えている。

その時、亜紀は自分が少しずつ動いていることに気が付いた。

辺りを見ると、光が見える。どうやらここは洞窟の外だった。

モンが洞窟の中からひきずりだしてくれたのだ。

亜紀の体は血まみれで、泥まみれだった。

爆発により洞窟は崩れたのだろう。

先ほどの爆発は、小麦粉による粉塵爆発だった。

粉塵爆発とはある一定の濃度の可燃性の粉塵が大気などの気体に浮遊した状態で、火花などにより引火して爆発を起こす現象である。

小麦粉の生産が盛んなアメリカではよく起こり、世界的に見ても死者もかなりの数が出ている。

亜紀がアリに向かって小麦粉を投げていたのは小麦粉の袋によるダメージを狙ったのではなく、小麦粉による粉塵を空気中に舞わせるためである。

その後、ライターを火種として爆発を起こすためだった。


亜紀は体の状態を確認した。

右腕はなくなり、裂傷多数、打撲多数。

相当、出血したのであろう。頭がぼんやりする。

モンは必死に亜紀の体を引っ張り続ける。

亜紀をどうしても助けたい。

そんな気がした。

普段、頼りなくて、へたれなモンだけど、この時ばかりは必死に見えた。

亜紀はモンのそんな姿を見るのがうれしかった。

爆発の影響だろう。目もろくに見えなければ、耳も聞こえない。

亜紀は残った左腕を何とか挙げ、モンの頭をなでた。

モンの頭のハートマークの柔らかい毛が何とも心地よい。

「モン……もう……いいよ」

亜紀は消え入りそうな声でモンに語り掛けた。

モンは亜紀の声にかかわらず、必死にどこかに運ぼうとしている。

亜紀はモンとの思い出を回想していた。


モンとの出会いは、保健所だった。

野良として保護されたモンは当時、手が付けられないくらい人間を恐れていた。

人間が与えた食べ物も口にしない。

引き取った最初の頃は、亜紀の挙動1つ1つに怯えていた。

亜紀はあきらめずモンの警戒心を解くことに務めた。

一緒に過ごしモンは徐々に亜紀に心を開いていった。

亜紀はモンとの距離を少しずつ縮めていった。


モンが亜紀との生活になれた頃、亜紀は研究の無理がたたって、寝込んでしまった。

モンはただ横に座り、亜紀のことを見守っていた。

何をするわけでもない、ただ傍にずっといてくれただけだ。

しかし、その時の亜紀にとってはどれだけ心強かったことか。


モンが一歳の誕生日を迎えたとき、犬用のケーキを買った。

モンはおいしそうにケーキをほおばっていた。

顔全体にべっとりクリームがついて、亜紀は爆笑して写真を撮った。

亜紀のお気に入りの一枚として今も大事に持っている。



晴れた日、モンと散歩をしていた時、とうとうモンが恋をした。

相手はその日初めて公園に現れた、女の子のコーギー。

モンは必死に言い寄ったけど、振られたっけ。

そのあとのモンは気の毒なくら落ち込んでいて、亜紀は励ますのが大変だった。


思い出していたら涙が出てきた。

この傷では、医療器具がそろっていないこの状況では生き残るのは多分無理だ。


亜紀の頬に冷たいものを感じた。

どうやら液体のようだ。

するとまた頬や左腕に冷たい液体がかかった。


雨だ。


巨大隕石が衝突して以来、今日までずっと雨が降ったことはなかった。

降ってきた雨は乾いた大地に吸い込まれていく。

これで大地が潤い、新芽が出ることだろう。

またいつか、この地も緑豊かな大地になるだろう。


私が死んだらモンは大丈夫かな。

食料に困らなきゃいいけど。

頭のいいモンのことだ。

すぐに新しい拠点を見つけ出すに違いない。

これまでの拠点だって、方向音痴な亜紀に代わって、ほとんどモンが見つけてくれた。

モンならきっと大丈夫。

「バイバイ。モン。私は君と過ごせて幸せだったよ……」

そうこう考えているうちに、亜紀の意識が薄くなっていく。




モンは亜紀が意識を失った後もなおも引きずる。


“亜紀をあんぜんな ばしょに はこびたい。”

“ここじゃないどこかに。”

“亜紀はねむっている。”

“けがしているみたいだけど、きっとだいじょうぶ。”

“亜紀はつよいひと。”





少し離れた所で、なにやらパタパタと音が聞こえてくる。

モンは空を見上げた。

音はどんどん近づいているようだ。


目の前に数機のヘリコプターがとんでいた。

“どうか、亜紀がたすかりますように”

モンは1つの願いを思い、亜紀で倒れこんだ。


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