私と師匠
__ふと、目が覚めた。
そう、パチリと目が開いたのだ。まるで寝ていることに気がついていなかったみたいだ。ゆっくりと体を起こす。
使わないときは押入れにしまってある敷布団、ふかふかの毛布にふかふか枕。一式揃っていて、誰かに私は運んでもらったらしい。
あれ、__ちょっと待て。
誰かって、誰だ?
呆然として、ゴクリと唾を飲んだ。カラカラに乾いた喉に気がつく。
音を立てず、静かに布団をのけて立ち上がる。服装は学校の制服のまま。魔法杖は無いけれど、指につけた円環の指輪はある。
円環の指輪は、私にとっての魔法使い・魔術師が一人にひとつ持っていなければならない、輪っかのアクセサリーだ。“円”が魔法と強い結びつきがあるらしく、適性があれば魔法杖が無くても、円環だけで魔法が使えるらしい。
指輪を指から外し、ギュッと握る。
寝室とリビングは襖で仕切られている。和洋折衷な我が家。
そろり、そろり、と足を出し、襖の前で立ち止まって呼吸を整える。
ゆっくりと襖に手を伸ばす。
しかし、私の手が届く前に独りでに襖が開く。
「!!」
急いで飛び退く私。
安定した体勢で距離をとり、襖を向こう側から開けた、その人の顔を見る。
よく見知った、青い瞳と視線がかち合う。
「!! 起きたのかコトハ!」
「! し、師匠?!」
予想した通り、半年前と寸分違わぬ背丈、顔つき、声音。師匠の存在の全てが、ピン、と弦のように張り詰め続けていた私の心持ちを、ただただ緩ませ安心させる。
膝が砕けて床にへたり込んでしまう。
そんな私に、師匠はすぐさまこちらへ駆け寄ってくれる。
「大丈夫か? どこか痛いところは?」
「大丈夫……だけど首が痛い……」
「コトハ、それは大丈夫とは言わない。我慢強いのは君の美徳だが、甘えることも必要だ」
そう言いながら、あたしの少し長い黒髪をサッとゴムでまとめ上げて首元を見る師匠。
変わらないなぁ。綺麗な碧い目。サラサラの銀髪。少し髪が長くなった気がするけど、その他は少しも何も変わっていない。
「あぁ、痣になって……すぐ湿布を」
「いや、大丈夫だよ師匠。これくらいならどうってことないもん」
手を伸ばし、湿布を取りに行こうとする師匠の服を、思わず掴んで引き止める。“仕事”のときのスーツではなく、程よくお洒落なラフな格好だ。
しかし、師匠私の手を払い除けようとする。
「大丈夫じゃない! 赤くなってしまっている……傷痕が残ったらどうするんだ」
「ヘーキ、ヘーキだよ。誰も気にしないって」
「だが……」
そこまで言ったところで、師匠が私の手をその手で触れたまま静止する。
そこで、ようやく私は気がついた。
師匠の服を握りしめる私の手が、カタカタと震えているという事に。
自分自身でも、全く気がついていなかったのだ。驚くほど、私の手は震えていた。
「……怖かったね」
ゆっくりと、優しく師匠が頭を撫でてくれる。そのうち、ゆっくりと忘れていた体温を取り戻したみたいに、身体が暖かくなった気がした。慣れない感覚が、ひどく心地よかった。
あ、そうだ__。
「師匠、おかえり」
できる限りの笑顔を浮かべる。
視線の先で師匠は、目を見開いていた。そう、鳩が豆鉄砲を食ったような。
そして、胡散臭さのない優しい笑みを浮かべてくれる。
「ただいま、コトハ」
ただ安心感が、押し寄せた。
一人では広すぎた部屋に、いつの間にかなかった人間のぬくもり。
噂を聞いても、帰ってくるとは全く欠片も思っていなかった自分を殴りたい。
師匠に頭をポン、とされる。
「部屋着に着替えなさい。ホットミルクを作ろう」
「……うん」
「じゃあ、リビングに居るからね? ちゃんと待っているから」
こくりと頷いて返す。それだけで十分な意思疎通ができていた。
そのまま師匠はリビングに行き、部屋に独りきりになる。でも、いつもの独りきりとは違った。
手の震えは、止まっていた。
立ち上がり、部屋の隅の箪笥の前で止まる。引き出しを開けて、部屋着を取り出す。部屋着である、薄黄色でもふもふと柔らかな長袖長ズボンは、私のお気に入りだ。制服のを脱ぎ、壁のハンガーにかけて、もふもふの部屋着に着替える。春になり、少しは暖かくなったとはいえどもまだ日が沈むと冷え込んでしまう。
あ、布団しまわないと。
師匠が折角だしてくれたけど、邪魔だもんね。後で使うから、シーツとかそのままでいいか。敷布団と毛布、掛け布団をそれぞれ分けて畳んでいく。三つ折りにして、押入れに入れていく。
「よ、いしょっ……と」
敷布団、毛布、掛け布団、と順に一つずつ入れて、一番上に枕を乗せたらおしまい。
「ふぅ。これで良し」
押入れを締めて、リビングへ向かう。
「__はい、はい。……分かりました、よろしくお願いします」
襖を開けてリビングに入ると、師匠が電話をしていた。
ぐちゃぐちゃだったはずの部屋は、元の通りに綺麗に片付いている。
「師匠、何かあったの?」
「ん? __いや、なんでも無いよ。ホットミルク、一緒に飲もうか」
受話器を置いて、ダイニングテーブルにカップ二つを持って歩み寄る師匠を見て、私もそちらに行く。
四角い、四人掛けのテーブルに向かい合って椅子に座り、ホットミルクを貰う。
「はい、どうぞ」
「ありがと、師匠」
カップの中で、温められた真っ白な液体が、真っ白な湯気をたてていた。
一口、口に含む。
熱くて、優しい味が身体中に染み渡る。
「……美味しい」
心配そうにジッとこちらを見ていた師匠が、優しい笑みを浮かべた。
「それは良かった」
そのまま、優雅にカップに口をつける師匠。
師匠は、動きや仕草がとても優雅というか、見ていて綺麗というか、まるで西洋の伯爵とかそう言った地位にいそうな優美さを持っている。
ただ、よく見せる胡散臭い笑顔がなければ良いのだが。
「……で、コトハ」
「はい」
急に話しかけられてキョトンとする私。
「何故俺が帰ってきて家へ入ったら、君は一人で生命に危機に瀕していたんだ?」
師匠、一人称が変わってる。普段は“私”なのに。と、いう事は相当お怒りだ!
「えっと、初めから話すとかくかくしかじかでありまして……」
「一から話してごらん?」
「ハイ。」
笑顔が胡散臭いのではなく怖い。こんなに怖い笑顔を私は初めて見た。
「家に着いたら、家の鍵を開ける前に鍵が開いていて」
「ふぅむ」
「とりあえず、魔法杖と円環の指輪を取り出して、自分と荷物を不可視にしました」
「うん、良い判断だね」
「音を立てないようにして侵入したら、リビングから物音がしたので、そこまで行ってみることにしました」
「……それで?」
「見事に散らかったリビングで、見知らぬ男が棚を探っていたんです。そのまま一歩踏み出すと、足元の本か紙かを踏んでしまい、その音で男がこちらを見ました」
「見つかったのかい?」
「はい。そしたら、男が襲いかかってきて__」
「コトハ、待ちなさい」
「? はい」
師匠に待ったをかけられ、私は口を噤む。わぁ、師匠怖いです。満面の笑みでこちらを見る師匠は最早不気味でしか無い。
「なんで、不可視にしたはずのコトハのことが見えているんだい……?」
痛いところを突かれ、背中を冷や汗がつつ、と伝うのを感じた。
「あ、……えっと」
凄みを増していく師匠の笑顔。と同時に、普段は制御している魔力が無意識に漏れ出ているようでえもいわれぬ圧力を感じる。
「コトハ、正直に言ってごらん。怒るから」
「怒るんですか?! 最後、そこの台詞違いますよね、師匠?!」
「ん? 何か文句あるかい?」
怒りを孕んだ輝かしい笑顔で睨まれて、反論ができない。
「イエ、何モ無イデスヨ、師匠サマ」
「__はぁ……」
大きく溜息を吐く師匠。やれやれ、と言ったようにこめかみに手を当てていた。
「まぁ、俺が怒ってても君が巫山戯ていれるのは君が無事だったからだからね? そこのところをちゃんと分かりなさい」
それは、__言う通りである。
何もなかったからこそ、私は五体満足で生きていられる。こうやって師匠とまた会って、茶化して笑っていられるんだ。
「……はい、心配かけてしまいすみません、師匠。そして、男をぶっ飛ばしてくれてありがとうございます」
「はい、どういたしまして。あんな気分の悪い男は跳ね飛ばすに限るね」
おや、師匠が人を悪く言うなんて珍しい。まぁ、確かにあの男の瞳は__今思い出しても、あの不自然な銀色の瞳は変な気分にさせる。
なんて話しているうちに、普段のペースを取り戻し、私も師匠も落ち着いてきた。
「あ、そうだ。コトハ、スペルを間違えたのは不可視と……あとは?」
「……防壁です」
“あとは?”と聞いてくるあたり、師匠サマは私のことをよくわかってらっしゃるようだ。
「防壁ね……。正しいスペルで書き取りそれぞれ百回ずつね」
「えー……」
「私たちの文字魔法には、“文字間違い”が命取りだといつも言っているだろう。これは罰だ、罰」
そう言ってホットミルクをごくり、と飲む師匠。計二百回か、まだ少ない方だと考えよう。
「わかりましたよう」
「よし、偉い偉い」
まるで子どもをあやすように、師匠は私の頭をポンポンと撫でる。
なんとなく居たたまれない気持ちになって、ずずず、とぬるくなったミルクを啜る。変わらぬ優しい味がした。
「あと、二週間後に魔法演武が開催されるけど、それを私見に行くことになったからね。そこで“文字間違い”したら……一つにつき今日の二倍はやってもらうからね?」
「う……っぇえ!?」
危ない、牛乳を師匠の顔面に吹くところだった。いや、この状況ならばある意味それは行動として正解だったかもしれない。失敗したなぁ。
と、言うことは、学校での噂は本当だったんだ。噂はあてにならないとは言うものの、真実の欠片が混ぜ込まれているからこそ広まるということか?
そんなことを思いながら、視線の先にはにっこりと綺麗な笑みを浮かべた師匠。
「じゃあ早速、書き取りをやろうか」
「うー……師匠の鬼ー」
「君はもう少し身の危険を知りなさい」
「はい……本当にスイマセン」
その後、無事書き取り計二百回を終えた私の右手首はへとへとになり、『もうこんなのは嫌だ!』とイズミにこの事の顛末と英語の教えを乞う連絡を送った。