コーラ
半日程前、俺は別の生存者と一緒にいた。俺より少し年上であろう若い男と、俺より明らかに年下の、少女とも言える年代の子と、一緒だった。
俺達は、コンビニに押し入り、元店員だったゾンビをあーだこーだと騒ぎながら薙ぎ倒し、それから商品ラックの裏で、息を潜めながら、「これから」の算段を立てていた。
その時は、ラジカセはまだ音楽を流していなかった。
この騒ぎの中、どうやってその噂を聞きつけたのか、それは判らないが、若い男は、『自衛隊の基地に大勢の生存者達が集まっている』としきりに熱弁していた。
「でも、噂なんだろ。大体、誰から聞いたんだよ」
「誰からだっていいだろ」男は、そこだけ口をもごもごと動かした。「っていうかさ、自衛隊って、こういう時の為にあるんだろ」
「いや、ゾンビの大量発生なんて事態には、流石に備えていないと思う」
「でも、行く価値はあるって。そうだろ。そんなに離れてないし」と、男は地図を広げた。地図上では三キロの表記だったが、三キロという長さは、今の状況を鑑みるに、絶望的な長さに思えた。
車でも使えれば、あっという間の距離かもしれないが、道路の状況は、絶望的なほど悪かった。車は、列を作るからこそスムーズに流れるもので、今、このパニック状況の中で、順番を待つ、などと紳士然とした運転をする人間はいない。クラッシュした車が、けたましい警報音を流しながら、道路中に溢れている。
「大丈夫、アイツら、動きは遅いから」
男はそう言ったが、それは、半分正解で、半分間違いだ。
確かに、殆どのゾンビの動きは緩慢で、圧殺するかのような群れでじりじりと、歩きながら迫ってくるだけだが、その中に、稀に、一体どういった基準があるのか、全力疾走で追ってくるゾンビが紛れていることがある。
俺はそのことを男に告げたが、男はそれでも「大丈夫だ」と言い張った。
「速い奴は、レアじゃないか。会いたいって思っても、中々会えねぇよ」
「会いたくない時に限って、会ったりするんだよな」
直後、ガラスが割れる音が聞こえた。「来た」と、少女が震えながら言う。「来たよ」
「どの道、行くしかないんだ」男は、決意を秘めた目をした。「頼む、協力してくれ。この子を守らないと」と、少女に目をやる。
俺は、商品ラックの影から、外を見やった。ゾンビが、一、二、三、四、五、数えたくない程度には、いる。「行くしかないんだ」と男がまた言った。
そして飛び出した。気勢を上げ、バットを振った。なんの因果なのか、彼が持っているバットは、いわゆる釘バットと言われる凶悪な品物で、その効果と言えば、なかった。「どこでそんなものを」と前に聞くと、「こんなこともあろうかと、作っておいたんだ」と自慢気に歯を光らせていた。
もう一つ、怖いことと言えば、その男は明らかに、人を殴ることに慣れていた。いや、ゾンビは人ではない、という見方もあるのかもしれないが、とにかく、人の形をしたものを、躊躇いもなく、釘バットで殴っていた。
どちらかと言えば、大人しく見える容姿の青年だが、人を殴る瞬間に上げる、奇声とも、気勢ともつかない声は、迫力があり、聞いているだけで委縮しそうになった。「オゥラァー!」とも聞こえるし、「ノゥラー!」とも聞こえる。
ちなみに、今は前髪で隠れているが、剃り込みも発見した。
「お前、ゾクだろ」と前に聞くと、「そういう時代もあったかもしれない」と、やはり歯を光らせていた。
その、元ゾクの青年がゾンビを二人程蹴散らした後、少女がおっかなびっくり続いた。俺も続く。手には、バールを持っていた。
道路に飛び出した。
ゾク青年が、勇敢に戦っている。早くも返り血にまみれ、赤く染まっていた。「来いよ」と、軽快にこちらを振り向き、誘っている。その直後、後ろの車に影に隠れていたのか、女性のゾンビが飛び出してゾク青年に襲い掛かっていたが、彼は振り向きザマに頭を打ち抜き、呆気なく撃退した。
相談した訳ではないのだが、俺は、少女の護衛、という形になっていた。「目を瞑ったほうがいい」と忠告するが、少女は首を振って、小走りで、ゾク青年を追った。
俺達の速度は、少女の速度だった。少女の速度以上速く走る訳にもいかずに、どちらかというと、のんびりとしている、と言える速度で、先に進む。
通りには、数多くのゾンビがいるが、一斉に襲ってくることはなく、散発的だった。食事に夢中になっているゾンビもいるし、こちらに気付いて目を向けたとしても、おっとり刀で駆けつけようと、のろのろと歩いているだけだ。それも、障害物、車や、標識などにぶつかって、よたよたと勝手に倒れるやつもいる。
銃声が聞こえたのは、俺がバールをゾンビの頭に叩きつけ、抜けなくなって手を離してしまった直後だった。乾いた音が、二回、響いた。
正面の十字路の、左側から、警察官がゾンビに押し倒されながら現れた。声にならない声を発しながら、また、銃声を一回だけ響かせ、次の瞬間には手から拳銃が滑り落ちていた。
そのゾンビの群れに、見知った顔があった。俺は、顔を背ける。
警察官が悲鳴を上げていた時間は、短かった。
ゾク青年の動きは、その時も素早かった。何かの必要性を感じたのか、突然駈け出し、地面を滑っている拳銃に手を伸ばして、それを赤子のように抱きかかえると、その場を離脱した。ゾンビの手が伸びていたが、触れることも出来ない。
「拳銃だ!」ゾク青年は、目前で襲われている警察官には目もくれずに叫んでいた。「拳銃だぞ」と、大物を釣った釣り人のようにはしゃぐ。
俺達は、まごまごと群れている、警察を襲ったゾンビの群れを右へ迂回しながら、その場を通り過ぎた。
「拳銃だぞ。初めて触った」
ゾク青年は、興奮気味だったが、俺はその武器が役に立つとは思えなかった。狙いを定めている時間があるのなら、がむしゃらに鈍器を振っていた方が、この場を乗り切れる気がする。
「それ多分、役に立たねぇよ」と俺は小走りを続けながら忠告する。走りながら、自分の手持無沙汰に気付いて、道端に落ちているコーラの缶を拾って、通りにいるゾンビに投げた。こん、と頭が揺れたが、案の上効果はない。
「お前が持ってろよ」と、ゾク青年は拳銃を押しつけてきた。
「どうやって使うんだよ、これ」
「狙って、撃つだけだ。大丈夫、お前ならやれるって」ゾク青年の『大丈夫』に根拠を感じなくなってきていたが、手持無沙汰なのも確かな為、ありがたく受け取ることにした。
そんなゾク青年の最期は、思っていたよりもずっと呆気なかった。
俺達はゾンビをすったもんだと薙ぎ倒しながら、えっちらおっちら、と言える速度で、しかし順調に進んでいたのだが、自衛隊基地が目に映った直後に、気が緩んだのか、ゾク青年は噛まれてしまった。
足元だった。完全に活動を停止しているように見えたゾンビが、突然ゾク青年の足に手を伸ばし、ゾク青年が倒れたと同時に、足元に噛みついていた。
ゾク青年は、悲鳴一つ上げなかった。が、一瞬だけ、顔が陰った。かと思うと、静かな怒りに声を震わせ、「何してくれちゃってんだよ」と言った。
俺は急いで、足元のゾンビの頭を蹴飛ばした。驚くほど簡単に首が折れて、今度こそ、ゾンビは活動を停止した。
その後で、ゾク青年は足を擦りながら、ゆっくりと立ち上がった。その横では、少女が、ゾク青年の身に起こった悲劇を思ってか、涙を流していた。
「掛ける言葉もねぇけどよ」と、俺は言う。
「掛けてんじゃん」と、ゾク青年は笑った。自然な笑みに見えた。「まぁ、こうなっちゃ、仕方がねぇ」
「大丈夫だ。もう、基地も近いし、治療を受ければ、なんとかなるかも知れない」
「なんともならねぇよ。銃を貸してくれないか」
俺は了解した。腰から拳銃を出して、渡す。直後には、ゾク青年が、ゾッとするような笑みを向けてきて、言った。
「さよならだけがなんちゃらだ」
その後は黙って、口に銃口を突っ込んで、死んでいった。
この潔さは、俺にはない。
タカハシと出会ったのは、自衛隊基地の中でだった。
俺と、ゾク青年が連れていた少女が突然、何者かに手を引っ張られ、何事か、と振りむいた先に、見知らぬ中年の夫婦がいた。
どうやら、奇跡的な再会だったらしい。少女は、二人にしがみついて、俺とゾク青年の活躍をやや過剰に話していた。二人は、地面に埋まりそうな程俺に礼を言って、去っていった。少女の後姿を見ながら、「さよならだけがなんちゃらだ」と呟く。
そこで、ドっと疲れが押し寄せてきた。一般市民の生存者の殆どは、この、体育館のような場所に集められているらしいが、殆どが老人、女性、子供で、男は殆どいなかった。たぶん、銃器を渡されて、見張りにでも立たされているに違いない。
少し眠って、それからこれからの算段を立てるつもりだった。この時点で、俺にはこの場に留まる、という選択肢はなく、見張りの自衛官に事情を説明して、再び街に足を踏み入れるつもりだった。
だが、その前に、身体を休ませなくてはならない。そう強く感じてもいた。疲れで弱っている所為なのか、黒々とした、憂鬱の波が身体中に蓄積されていて、今は、一歩でも動けない。
「もしもし」と、突然声を掛けられても、最初は無視した。「なぁ、君」知らない男の声だ。
「もしもし」「聞こえてるでしょ」「なぁなぁ」と、執拗に、声を掛けてきて、俺はいよいよ根負けした。なんだよ、と声の主を睨む。
それが、タカハシだった。正面に、上から見下ろしてくるような形で、立っていた。
「なんだよ」
「ちょっと、さっきの話聞いてたんだけど、あの子を助けたって? 英雄的だね」そう言う男の視線は、きょろきょろと落ち付きがない。
「俺じゃねぇよ。一緒にいた、ゾクの奴が張り切ってたから、その、お陰だ」
「ゾク? 変わった名前だ。俺は、タカハシと言って、日本ではかなりメジャーでしょ。そういう変わった名前に、憧れもあったりするんだけど」
俺は、べらべらと話しかけてくる男に、どういう態度を取っていいものか判らずに、戸惑っていた。視線がひっきりなしに動いていて、正直な所、不気味さを感じていた。
「なんの用だよ」我慢ならずに、喧嘩腰の声を出した。
「いや、君の声が聞こえて」慌てた様子を見せて、それから言った。「聞き覚えのある声だと思って」
「声?」
「俺は、目が見えないんだ。だから、耳で物事を判断する。以前に、どこかで会ったことはないかな」
目が見えない、という説明には、合点がいった。きょろきょろと動く眼球は、確かに光りを宿していないように見える。
ただ、会ったことは、ない、と思う。「いや、人違いだ」
「本当にそうかな」その時、ふと、タカハシの目が光ったように見えた。「君が忘れているだけかもしれない。目を覚ませ」
「目を?」
「目を覚ますんだ」
「目を覚ませ」
どこからか、現実味のない声が聞こえる。「目を、覚ませ」と執拗に語りかけてくる。「何を、暢気に寝てるんだよ。こんな時に」
慌てて、目を覚ました。寝ちまってたのかよ、俺は。腕時計で、時間を確認する。二時間ほど、時間が跳んでいた。
「よくこんな状況で寝ていられるね」タカハシが不貞腐れているかの様子で、言う。「俺は、緊張で、とてもじゃないけど、寝れないよ」と、軽やかな口調で続けた。
「ハッキリとは判らないけど、大変なことになってるんじゃないかな」
タカハシが、肩を上げた。「ハッキリとは判らないけどね」
「なんだよ、大変なことって」まだ、身体に眠気が残っているが、それを無理やり払いのけた。寝ている場合ではないのだ。
「この音、聞こえる?」
「音?」
「耳を澄ませば、聞こえる筈だけど、君の場合、目で見た方がずっと早いかもしれない」
言われて見ると、風の音に混じって、地響きのような音が、聞こえる。なんとも言えない、呻き声も混じっていた。「なんの音だ」
「それを説明してほしい。音だけじゃ、なんとも言えないんだけど」
俺は、屋上の金網にしがみ付いて、街の様子を確かめたが、直ぐに、殆ど反射で、後ろに下がった。「おいおいおいおいおいおいおいおい」と、呻き声を上げる。
「どうしたの?」
「いや、すげぇことになってる」
「今よりも凄いことって、中々想像がつかないんだけど」
「アイツら、一斉に動いてやがる」
ゾンビ達が、規則正しいとさえ言える、整然とした様子で、一斉にどこかへ向かっていた。誰かが音頭を取っているとしか思えない。真下を見ると、俺達がいるデパートから抜け出て、列に加わるやつの姿も見えた。
「どこへ向かってるんだ」俺は、そう言ってから、気付いた。「自衛隊だ。アイツら、自衛隊基地に向かってるんだ」まさに、ゾンビの群れの進む方角に、つい四時間程度前まで、俺達がいた基地があった。
「この辺は、食いつくしたってことか。で、餌箱に目を向けた訳だ」
「君の予言は当たった」
「っても、あんなに大人数じゃ、自衛隊基地でも食いそびれるやつが大半だ。そうしたら、どうするつもりなんだ。どうするつもりなんだよ」
「どんな光景?」
「地獄みたいだ」
「そうか、目が見えなくてよかった」タカハシは優越感を滲ませた。
「だけど、これ、チャンスだ」
俺は、堪らずに、そう口に出していた。「ここから出られる」
「危うく、ゾンビになるまで、ここで立ち往生する所だったね、よかったじゃないか」
手放しで、よかった、と言う訳にはいかない事態なのだが、俺は、心底、感激していた。
「俺はいかないと。おい、タカハシ、お前、本当についてくる気か」
「そこで、一応俺に聞く辺りが、善人だね」
「見捨てるつもりはねぇよ。いや、っつーか、お前、ここにいても、死ぬだけだし、俺といても死ぬだけだし、手詰まりだよな」
「君ほど手詰まりじゃないよ。俺なんて、君に比べたら、まだまだだ。君は凄過ぎる。なんてったって、ゾンビになる一歩手前だ」
「俺より凄い奴が、大移動を始めてるんだ。俺なんて、まだまだ」
そこで、タカハシが、尋ねてきた。
「ところで、やらなきゃならないことって、なに? 今、この状況で、人類にやらなきゃならないことがあるなんて、俺には信じがたいけど」
「姉ちゃんを見かけたんだ」隠すこともないので、俺は言う。
「え? どこで? っつーか、君、一人っ子じゃなかったっけ」
「それはお前が勝手に決めた俺の設定だ。本当の俺には、姉ちゃんがいるんだよ。しかも、お姉ちゃんっ子だし」
「へぇ、美人?」興味があるのかないのか、そんな事を尋ねてくる。
「俺が言うのもなんだが、美人だぜ。まぁ、昨日は、ちょっと警察官を食べちゃってたけど」
「すべからく姉というものは、いつでも弟よりも一歩先に行っている訳だ」
「まぁな。あんな姿を見るのも忍びないし、弟として、俺に出来ることなんて、殺してやることくらいしかねぇだろ」
「この広い街中で、お姉さんを探して殺すの? それは難しいんじゃないかな」
「判ってる」
「もう一つ言わせて貰えれば、多分、お姉さんも、君が手を下すまでもなく、その内勝手に死ぬと思う」
「それも、判ってる。だけど、俺には必要なんだ」
「お姉さんを殺すことが?」
首肯した。今の俺には、姉殺しが必須だった。姉ちゃんを救うんだ。という思いに支配され、それ以外のこと、例えば、ゾンビの大群に襲われる自衛隊基地や、一緒にいるタカハシの運命などには、然して興味が持てなかった。
自分に残された時間を考える。残り二十時間程度か、それとも、もっとずっと短いのか。ハッキリとしたことは何一つ判らないが、とにかく、今の所、身体に不調はない。肩口に痛みはあるが、むしろ、痛みがある内は、大丈夫なような気がした。
「とはいえ、時間はねぇ。行こうぜ」
俺はタカハシの腕を掴み、引っ張り起こした。「まだ、デパートにもアイツらがいるかもしれないな」
「いや、絶対いるよ。正直な所、ここから外に出られるのか、それが甚だ疑問だ」
「まぁ、見てろって」
「判った」とタカハシは笑った。焦点のあってない自分の目を指差して、「見てるよ」と言った。
屋上の扉に手を触れたと同時に、なんの気なしに気付いたことがある。
「音楽」俺は、今まさに気付いたことを口に出す。「聞こえないな」と、ラジカセに目をやる。電源は入っている。が、聞こえるのは、かすかなノイズの音だけだった。
「判らないけど、君が寝てる間に、突然放送が終わった」タカハシは、初めて寂しげな表情を見せた。
何が起こったのか、想像するのはそう難しくはなかった。「そうか」と呟き、名前も知らない誰かを思うことにする。