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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ノーマル 短編集

波 間

作者: 工藤るう子

ホラーのつもりで書き始めたはなしです。







 狂っていたのかもしれない—————






 カラン——


 グラスの中で氷が音をたてた。


 丸くカットされた氷が、抑えた照明をつるりと弾く。


 落ち着いたトーンの話し声にはらまれている、酒気。


 どうしてここに来てしまったのだろう————こうしてカウンター席に落ち着いてから、自分の迂闊さに腹が立った。


 満たされたひとたち。相愛の恋人とふたりだけの世界にひたっている。幸せな、幸福な恋人たち。


 ほんの少し前までは、自分もそうであったのに。


 心臓が、締めあげられるように、痛んだ。


 トンと音をたてて、干したグラスをバーカウンターにもどす。


 グラスはわずかにコースターからずれた。


 タイミングを見計らい、ひらめいた白い手がグラスをさげてゆく。


 私は、ただぼんやりと、白い手を、ながめていた。


 飾り気のない先細りの優美な手が描く流れるような軌跡は、まるで洞窟の奥、人知れず湧く湖に棲む魚めいて見える。


 時折り、グラスやシェイカーが弾く照明が、波紋ひとつない湖面を揺らす水滴だった。


 どれくらいそうして眺めていただろう。


 琥珀の液体に満たされた寸胴のグラスが、滑るように差し出された。


 顔を上げると、そこには、整った白い容貌があった。


「どうぞ」


 男にしては赤すぎる形のよい唇を、口角を引き上げるようにして笑みを刻む。———どこか人形めいたバーテンは、


「おごりです」


と、ひそやかにささやいた。


 気がつけば、狭い店内を埋めていた恋人たちの姿はなく、客はカウンター席の私だけになっていた。


 オン・ザ・ロック一杯でずいぶん長居をしてしまった。

 



 ———今日は、大好きなあのひとの、葬式だった。




 義理の両親になるはずだった、あのひとの家族と一緒にいるのは辛すぎた。


 だから、通夜の席を、そっと、抜け出してしまった。


 喪服姿の私はここでは浮いていただろうが、あのひととよく来たこの店に立ち寄らずにいられなかったのだ。


 あのひとが好んだ酒を口にしながら、あのひととの思い出に耽る。まだ癒えるには早すぎる、生々しい血がしたたるような痛みを、味わう。


 自虐的な、ひとりの通夜。


「ありがとう」


 笑顔で言えただろうか。そんなことをふと思い、どうでもいいと、打ち消した。

 

 グラスを取り、口をつける。


 強いアルコールの匂いが、鼻孔と目に染みる。


 琥珀の液が、ジンとした刺激ととろりとなめらかな感触とを伴って、口の中にあふれた。


 喉を焼き、胃へと流れ落ちる。


 シンとした冷ややかさの後に、ちろちろと焔が立つような熱が生じた。


 酔った心地は感じなかった。それでも、からだは、確実にアルコールを吸収している。グラスを戻そうとして、倒してしまった。


 バックからハンカチを取り出した私よりも速く、白い手の持ち主が、テーブルを拭う。


 行き場を失ったハンカチから、それが落ちたのは、その時だった。





 カサリ——





 軽い音を立てて落ちたそれを取り上げたのは、白い手だった。


「これは………」


 耳に心地好い声音が、耳を射る。


「骨ですね………」


 なんでもないことのように告げるその声に、相手の顔を見上げた。


 逆光に影になっている白い顔の中で、なぜか、色の薄い瞳だけが、ぽっかりと浮かび上がって見える。


「ええ。あのひとの薬指」


 するりと、そのひとことが、口をついて出た。






 まだあのひとと付き合いだしたばかりのころだった。


 あのひとのマンションで、どちらかが先に死ぬようなことがあったりしたら————と、語り合ったことがある。


 互いに、戯れだとわかっていた。


 ちょうど見ていたドラマに触発されての、他愛のない会話。


 その時約束したのだ。


 ひとかけらの骨でいい。こっそりとしのばせて、そうして、どうしようか。


 ——袋に入れていつも持ってるのって、なんか、ダサいかな。


 ——落としたら、大変だよね。


 ——海にまこうか。


 ——それって、取った意味がないと思う。


 ——骨粉って、案外植物のいい肥料になるみたいだよ。


 ——なら、好きな花と一緒に埋めようか。


 ——なにの花がいい?


 ——薔薇かな? 深紅の薔薇。あなたを熱烈に愛しています。骨になって、薔薇になって、そうして、毎年毎年、四季咲きの薔薇の花が、ささやくのって、ロマンティックじゃない。


 ——庭じゃ今一だろうから、ミニ薔薇かな。


 ——かわいいね。


 ——そうだね。


 クスクスと笑い交わした、あの日。


 まさか、こうして、現実になるなどと、考えてもいなかった。


 思い出したのは、骨拾いの時。拾うふりをして、そっとしのばせた。


 エンゲージリングを交わすはずだった、薬指の骨。


 永遠の愛の誓—————






 どうやって帰ったのか、気がつけば、ワンルームのマンションだった。


 食卓を兼ねたロウテーブルの上には、小さな薔薇の一鉢。


 たくさんの蕾が芽吹いている。





 数日後、誰かに呼ばれたような気がして、目が覚めた。


 ささやく声は、あのひとのものに似ていた。


 カーテンの隙間から差し込む朝日。


 ベッドの上、ぼんやりと上体を起こして彷徨わせた視線の先に、ほころびた深紅の薔薇。


 そうして、今にもほころびそうな一輪が、目についた。


 誘われるように、薔薇にくちづけた。


 と、花開きそうだった薔薇が、はらりと固い蕾をほどいた。


 刹那———


「………」


と、わたしを呼ぶあのひとの声が、薔薇の花の奥から、聞こえてきた。


「ああ」


 吐息のような、あのひとの声。


 あのひとの呼ぶ、わたしの名。


 どんなに嬉しかっただろう。


 あのひとは、よみがえったのだ。


 薔薇の花として。


 それからのわたしは、毎日幸せだった。


 朝目覚めるのは、あのひとのささやきで。


 帰宅すれば、あのひとの声が、出迎えてくれる。


 眠る時も、あのひとの声が、わたしの子守唄だった。


 幸せな毎日だったのだ。


 けれど———


 わたしは、生きている。


 日々は過ぎ、いつしか、新しい恋心が、芽生えていた。


 あんなにも、愛しくてならなかったあのひとの声が、煩わしくてならなくなった。


 この声があるから、わたしは、新たな恋人を、つれてくることもままならない。


 会うのはいつも、新しい恋人の部屋か、ホテルだった。


 恋人は、焦れていた。


 わたしの部屋で会いたいと、そう掻きくどく恋人を、いつまであしらっていられるのか。


 わたしだとて、部屋に、彼を招きたいのだ。


「………」


 わたしを呼ぶ、薔薇のささやきにも、責めるようなトーンがはらまれているかのようで、もう、聞いていたくなかった。






 いつもの、お気に入りのバーのカウンターで、白い手のバーテンが、グラスを置いた。


「これは?」

 

 注文などしてはいないのに。そう問うと、


「どうぞ、試してみてください」


 薄い色の瞳に見つめられ、そう勧められると、拒むことはできなかった。


 グラスに口をつける。


 琥珀色のカクテルが、喉の奥へと消えてゆく。するりと喉越しのよい、しかし、後でカッと燃えあがる、アルコールのきつい、カクテルだった。


「エターナル・ラヴァー、僕のオリジナルカクテルです」


 皮肉な口調に聞こえたのは、疲れていたのだろう。




「次にお見えの時は、その薔薇の鉢をお持ちください」


 僕が引き取らせていただきます————帰りしなに、そっと、赤いくちびるがささやいた。


 いつ話したのだろう。


 不思議に思いながらも、からだが怠いほどの酔いに、口が軽くなったのかもしれないと、自分で自分を納得させるよりなかった。


 第一、言ってしまったことばは取り返せないのだから。




 数日後、わたしは、薔薇の鉢を、バーテンに引き取ってもらった。





 そうして、わたしは、一昨日、新しい恋人と、ウエディング・アイルを歩いた。




 

 ハワイの海で、わたしは、幸せだった。


 彼——夫が、アイスクリームを買いにいってくるというのに、浮かせたいかだ状の浮き袋の上から手を振った。


 波間に身をまかせて、彼を待つ。


 波の揺れに、睡魔が誘われる。


 強い日の光にあぶられながら、わたしは、目を閉じた。


 波の音。


 波の音。


「………」


 ふと、名前を呼ばれたような気がして、目を開ける。


 強烈な陽射しに、目を射られ、視界が焼けた。


「………」


 私の名を呼ぶ懐かしい声。


 その声の持ち主を思い出し、ゾッと、背中に粟が立った。


 起き上がろうとからだを返した瞬間、わたしは、海の中に、転がり落ちた。


 もがくわたしを、ほてったからだには過ぎるほど冷たく感じる水が、受け止めた。


「………」


 声。


 いやだ。


「………」


 知らない。


「………」


 あなたのことを愛していたのは、すでに、過去のこと。


 今のわたしには、夫もいる。


「………」


 あなたは、もう、死んでいるのだから。


 海の中で、目を開けたわたしは、自分が信じられないほどの魚に囲まれていることを知った。


 そうして、その、魚の顔が、あのひとの顔をしていることを————。


 パク——

 

 魚が口を開くたび、わたしの名前がささやかれる。


 やさしく。


 けれど、それは、すでに、過去の愛。


 わたしには、もう、終わったこと。


 そう告げようとしたわたしに、魚たちが、襲いかかり、そうして—————








 魚に食いちぎられ、わたしは、ゆるゆると融けてゆく。


 やがては、魚たちが食べてしまったあのひとの骨のかけらとひとつになるのかもしれない。





 薄れてゆく意識の中で、わたしは、薄い色の瞳が、クスリと皮肉な笑みに歪んだのを見たような気がした。





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