0.プロローグ
高校二年生が、あくまで趣味として、初めて書いた物語です。温かく見守ってくれれば嬉しく思います。この先どう転がっていくかは、僕にも分かりません。読者の皆さんをワクワクさせるような作品になれば幸いです。
(どうしてこんなことに…。)
季節は初夏。春の穏やかな空気から、夏の活き活きとした生気が溢れる空気に変わりつつある頃である。避暑地として知られるこの場所は本当なら人々で賑わうはずだ。しかし、この場に夏らしい命の声を聞くことは出来ない。辺りは、まるで皆が死んでしまったかのように静まり返っている。空は、真っ赤な血をぶちまけたように不気味に朱色に染まり、吹き抜ける風は、死神の吐息のように生暖かく、街を震え上がらせた。街灯はまだ点く時間ではないのに、チカチカと狂ったように光った。
(怖い、怖い、怖い、怖い!)
この異様な雰囲気のなかで、少女は必死に走っていた。いや、無理矢理に足を動かしていた、と言った方が正しいかもしれない。少女の顔には涙の跡が残り、目は赤く腫れている。恐怖が顔に張り付いているような表情だ。彼女の幼く小さな心は今にも折れそうだった。
(お父さん、お母さん、お兄ちゃん!何で、何でなの?)
ぼろぼろの心に忍び寄るのは、悪夢のような光景。燃え、崩れていく我が家。胸を貫かれて倒れるお父さん。自分を庇って柱の下敷きになったお母さん。そして…。
(いや、思い出したくない!あんな物、夢に決まってる!)
家族を襲ったある「もの」の姿が脳裏に浮かび、背筋に悪寒が走った。人ではない、禍々しいなにか。「あれ」が自分を追いかけてきていると思うと、恐怖で頭が真っ白になった。足が震えて前に進めない。全身が鉛のように重い。とうとう、少女は道の脇に座り込んでしまった。
(怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!)
足の震えが全身に侵食し、ぶるぶると小刻みに揺れる。歯がガチガチとなりだした。
(わたし、もう、だめ…)
少女の心が潰れる、まさにそのときだった。
「大丈夫、僕がついているから」
ふいに、隣から手がのびてきて、少女の白く小さな手を握った。強く、その存在を確かめるように。
「ハル…く…ん」
少女は顔を上げながら、か細い声で呟いた。
少女と変わらない歳ぐらいの、男の子だった。汗と泥にまみれたTシャツと、短パンの下から僅かに覗く血のにじんだ膝が、緊迫した雰囲気を醸し出している。いかにも普段はやんちゃ坊主なんだろうという顔が、今は恐怖と緊張で強張っている。
「立って、ここを離れよう。すぐあいつが来ちゃうよ」
「無理よ、体の震えが止まらないもの。いうことを聞いてくれないの」
少女はハルと呼んだ男の子の手を振り払った。ハルは傷ついたような顔をしたが、もう一度手を掴んだ。今度はもっと強く、励ますように。
「早く!逃げないと殺されるんだよ!」
殺される。その言葉が、少女をさらに追い詰める。つい、声が大きくなる。
「そんなこと分かってる!わたしの気持ちも知らないで、勝手なこと言わないで!」
自分がめちゃくちゃなことを言っているのは解っていた。その言葉が、目の前の少年を傷つけることも。怖いのは、ハルも同じなのに。そもそも、この異常事態に、心が挫けることなく、ここまで逃げてこれたのは、ハルのおかげなのだ。常に自分を気遣いながら、前を走って、迷わずに最善の道を教えてくれた。彼がいなければ、間違いなく、今自分は生きてここにいないだろう。しかし…
(動かないものは動かないのに!)
足はもう自分のものではないかのようだった。自分の意志を全く受け付けず、地面に張り付いたまま動かない。このままでは、本当に殺されてしまう。真っ白だった頭を必死に叩き起こし、フル回転させた。そして、ある結論を導き出す。
「ハルくん」
「なに?」
呼ばれた少年が見つめてくる。
「きみだけでも、先に逃げて。それで、誰か大人の人に助けを頼むの。じゃないと、二人とも殺されちゃう!」
ハルは驚いた顔をして、そのあと泣きたいような、怒ったような表情をした。一呼吸おいて返ってきた、彼の答えは単純だった。
「いやだ」
「どうして⁉死んじゃうんだよ⁈」
「きみを置いて自分だけ逃げるなんて、絶対、いやだ」
少女は目を見開いた。どうしてこの少年は、こんなことを言えるのか。足手まといでしかない自分を、置いていけない?
「どう…して?」
フル回転していた頭が急に仕事を放棄する。パニックになり、言葉が上手く出てこない。
「わかんないよ、全然わかんない。何で?言うこと聞いてよ、お願いだから早くにげ…きゃっ⁈」
突然ハルが強い力で引っ張ってきて、思わず悲鳴を上げた。バランスを崩した体はきれいな形でそのままハルの腕の中に収まった。
「え?ちょっ、ちょっと、どうしたの?」
少女は一瞬自分がおかれている状況を忘れて、戸惑ってしまった。
ハルの鼓動が鮮明に聞こえて、顔が熱くなり、赤くなっていくのを感じる。
「きみが置いていけって言うのは、きみの足が動かないからでしょ?大丈夫、足は動くよ。生きたいんじゃないの?」
「死にたくないよ!でも、怖くて、体の震えが止まらないの!」
「ゆっくり深呼吸して。わたしは大丈夫、歩いていけるって思いながら、大きく呼吸するんだ」
言われた通りに、深呼吸してみる。すって、はいて、またすって。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…。
「ほら、震えが止まってきたでしょ?」
囁くようなその声と、誰かに包まれている温かさが、少しずつ、少女の冷たく固まった心をほぐしていく。
「うん…、少し、よくなったみたい」
「よし。ゆっくりで、いいから、立てる?」
ハルの体に支えられながら、恐る恐る、自分でも苛立つぐらいのスピードで立ってみる。まだ、震えは止まらないが、歩けないほどではないようだった。その様子を見て、ハルはにっこりと笑った。
「ほら、立てるじゃん。ホントはきみ、僕なんかよりずっと勇敢なんだよ」
少女は首を振った。自分は臆病者だ。死の恐怖に足が竦み、手を差し伸べてくれる少年を傷つけてしまう。
「わたしは…そんなんじゃないよ…。今だって、一人で走れるかどうか…」
「あれ」は、すぐそばまできているだろう。禍々しい空気が迫ってきているのを感じる。走れなければ、とても逃げ切れるとは思えない。
「じゃあ、二人で走ればいい」
「え?」
そういうとハルは、少女の手をしっかりと握り直すと、そのまま走りだした。少女は引っ張られる形で、もたつく足をひきづっていく。どんどんスピードが上がっていくなかで、少女はいつの間にか自分がしっかり走っていることを自覚した。
「わたし…走れてる?」
前を走るハルはもう振り返ることはなく、少女の呟きにも答えなかった。しかし、繋いだ手から、ハルの勇気が流れ込んでくるようだった。少女の体は今までのことが嘘であったかのように、前へ、前へと進んでいく。
(お母さん、お父さん、お兄ちゃん…。わたし、まだ怖いよ。でも…)
「大丈夫、きみは僕が絶対に守ってみせる」
「…ありがと、ハルくん」
少女は初めて笑顔を見せた。そうだ、わたしは、逃げなければならない。生きなければならない。あの理不尽な暴力に屈することなく、闘い続けるのだ。いつか、自分から家族を奪った者を、倒すために…。
2015年7月12日、長野県伊那市。藍川敏(37)、藍川夏子(35)が死亡。長男浩輔(12)は行方不明。被害者宅はガスに火が引火して全焼。現場には燃え尽きた木造二階建ての家の名残りと、長男のものと思われる子供の右腕だけが残されていた。
長女姫菜(8)は現場近くで対魔官が保護。長女は精神的損害が大きいと思われるため、病院に搬送。
2000年に起きた「東京大霊術戦」から、実に15年ぶりに、悪性霊体[鬼]による死者を出す事件となった。