水面に咲く花
「海の上に花火が上がるんだよ」
と、宮子は言った。
暑い夏の日の午後。クーラーのきいた涼しい部屋で一緒に夏休みの宿題をしていると、突然、向かい側に座っていた宮子がテーブルに身体を乗り出して「この街の花火見た事ある?」と菜穂に訊ねてきた。手元には、解きかけの算数の問題集。早くも問題を解くのに飽きたらしい。
菜穂は鉛筆を動かす手をいったん止めて、首を横に振った。
すると宮子は、ちょっと得意げに胸を逸らしてこう言ったのだ。
海の上に花火が上がるんだよ、と。
「海の上に?」
びっくりして目を丸くする菜穂に、宮子は身振りを交えて教えてくれた。
今月の半ばに、この街で大きな夏祭りがあること。
お祭りのメインイベントは、「海上花火」と呼ばれる、水中から打ち上げられる花火だということ。
そしてその海上花火は、とてもとても、綺麗だということ。
菜穂は宮子の話を聞きながら、まだ見たことのないその光景を空想してみた。
色とりどりの眩い光が、水面に映っている――それはきっととても幻想的でロマンチックな光景だろう。海から大輪の花が咲いているかのように、見えたりするのかもしれない。菜穂はしばらく、うっとりと目を閉じていた。
「……きっと、素敵なんだろうなあ」
「海上花火だけじゃなくて、普通に空に打ち上げるタイプの花火も上がるんだよ」
「宮子ちゃんは、毎年行ってるの?」
「もちろん! 花火大好きだから」
「いいなあ、私も見てみたいな」
「一緒に行こうよ、菜穂ちゃん」
菜穂は、ぱっと花が咲いたように表情を明るくした。
「本当? 行きたい!」
その一言で、菜穂と宮子は、宿題をしている場合ではなくなってしまった。
ふたりは半月後の花火に早くも胸を躍らせて、「浴衣着て行く?」とか、「子どもだけじゃ駄目って言われるかなあ」とか、「どっちかのお母さんについて来てもらおうか」とか、そんな事をたっぷりと話し合った。算数のドリルとノートは、いつのまにかテーブルの隅っこの方へ押しやられていた。
ふたりのはずむような声は、しばらく途切れることはなかった。
話が盛り上がりすぎてつい声が大きくなってしまい、途中でお菓子とジュースをもってきてくれた宮子のお母さんに、もうすこし静かにしてねと注意されてしまったほどに。
宮子は菜穂にとって、この街でできた初めての友達だった。
菜穂がこの春に引っ越してきたとき、転校先の小学校で一番最初に声をかけてくれたのが宮子だった。「よろしくね、菜穂ちゃん」と言って、ニッとぴかぴかの歯を見せた宮子のひまわりみたいな笑顔を、菜穂は今でも覚えている。
この夏は菜穂にとって、この街ですごす初めての夏だ。学校が休みになると、さっそく宮子や新しくできた友達と毎日のように朝から夕方まで遊んだ。夏休みといえば毎年恒例の家族旅行や、おじいちゃんとおばあちゃんに会いにいくのももちろん楽しみだったけれど、そのなかでも海上花火を見に行く約束は、ひときわ菜穂の胸を期待でいっぱいにふくらませた。滅多にしないおねだりをして買ってもらった浴衣を毎日寝る前に眺めてしまうくらい、その日を心待ちにしていた。
なのに。
それなのに。
なんてついて無いんだろう、と菜穂は自分の運の無さを恨んだ。
海上花火を二日後に控えた日に、よりにもよってこんな時に、一般に「バカがひく」と言われている夏風邪をひいてしまったのだった。
一時は三十九度まで上がった熱も、きちんと薬を飲んで二日間安静にしていたら、大分平熱近くまでに下がった。とはいえ、お世辞にも体調は万全とは程遠く、菜穂は海上花火当日の今日も朝から一日のほとんどを自分の部屋のベッドの中ですごさなければならなかった。
ベッドから見える位置にかけてある真新しい浴衣も、今の菜穂には恨めしい。
「お母さん、やっぱり花火見に行っちゃ駄目?」
夕食の梅干し入りおかゆを持って来てくれたお母さんに、駄目だとわかっていながらも、そう訊かずにはいられなかった。
菜穂の顔を見てお母さんは困ったように眉を下げ、それからやさしい表情を浮かべた。
「そうね。まだ微熱もあるし、今日はゆっくり寝ていなさい」
「うん……でも」
「菜穂がうんと楽しみにしていたのは、お母さんも知っているけれど、今は風邪を治す事を考えなくちゃね。大丈夫よ、お祭りは来年もあるんだから。宮子ちゃんには、お母さんが電話しておいてあげるからね。安心しておやすみなさい」
菜穂の髪をやさしく撫でると、お母さんは空になったお椀を乗せたお盆を持って部屋を出て行った。
ドアが外側から閉められると、部屋はしんと静かになった。時計の針のカチカチという音と、自分の呼吸の音しか聞こえない。
「……見たかったなあ、花火」
静かな部屋で、菜穂はぽつりと呟いた。
白地に毬の柄が可愛らしい浴衣を着て、下駄をカランコロン鳴らしながら、いつもは出歩かない夜道をちょっと大人になった気分で歩く。隣には、ひまわりの笑顔を浮かべた宮子がいる。――得意の空想でそんな風景を頭の中に描いてみても、ちっとも気分は晴れなかった。
「宮子ちゃんと、行きたかったなあ」
もちろん綺麗な花火を見ることを楽しみにしていた。けれどそれ以上に、「宮子と一緒に花火を見る」ことが楽しみだったのだ。宮子と一緒にでかけることそれ自体が、菜穂にとって特別な予定であり約束だった。
宮子ちゃんと、行きたかったなあ。
そう心の中でもう一度呟きながら、菜穂はとろとろと眠りの世界へ落ちていった。
――コンコン、と小さくノックの音がして、菜穂は目を覚ました。
いつのまにか眠ってしまっていたらしい。頭の痛さは、眠る前より少しだけましになっていた。菜穂は身体を起しつつ、寝ぼけた声で「はあい」と返事をした。
けれど部屋のドアは開く気配がなかった。おかしいなと思っていると、再び控えめなノックの音がした。耳を澄ますと、音はドアと反対側の窓から聞こえてくることがわかった。菜穂の部屋は一階にあって、その窓からは庭に出ることができる。
菜穂はベッドから出て窓のそばへ行き、不思議に思いながらカーテンを半分だけ開けた。 そこにいる人物を見た瞬間、菜穂は大きく目を見開いた。
自分はまだ夢の中にいるのかもしれないと、本気で思った。
「宮子ちゃん?」
びっくりして発した声は、掠れてほとんど声にならなかった。
窓ガラスの向こう側、菜穂の家の庭に、宮子が両手を後ろに回して立っていたのだ。
宮子は、とても素敵だった。短い髪に控え目ながら可愛らしいかんざしを挿して、紺地に金魚模様の上品な浴衣をまとっている。菜穂はつい、ため息をもらした。
うっかり見とれていると、窓ガラス越しに宮子から「窓を開けて」と仕草で促された。菜穂ははっと我に返ると、あまり大きな音をたてないように気をつけながら、静かに窓の鍵を外した。
窓を開けると、夏の夕方独特のもったりした空気が肌を触った。ここ数日はずっとクーラーのきいた部屋ですごしていたせいか、いつもなら不快でしかないはずの生ぬるい空気もどこか新鮮で、今日ばかりは心地よく感じられた。もっとも、それはきっと久しぶりだからという理由だけではないのだろうけれど。
「菜穂ちゃん、風邪大丈夫?」
ひそめた声で宮子が訊ねる。「大丈夫だよ」と菜穂が笑ってみせると、宮子は安心したように、ほっと息をついた。
「ねえ、宮子ちゃん、花火始まっちゃうよ」
部屋の時計の針は、海上花火の開始時刻まであと数分もないことを示していた。ここから会場までは少し距離がある。菜穂は、宮子が花火に間に合わなくなってしまうのではないかと心配になっていた。せっかくこんなに素敵な格好をしているのだから、行けなくなってしまったら、もったいない。
焦る菜穂とは対照的に、宮子はのんびりとした表情を浮かべていた。
「見て」
宮子はそれだけ言うと、背中に隠していた右手をゆっくり菜穂の前に差し出した。
その手には、少しくしゃくしゃになった一本の花火が握られていた。
きょとんとしている菜穂に構わず、宮子はその場にしゃがみこんだ。せっかくの浴衣に芝生が付いてしまわないかと心配しながら、菜穂も宮子にならって部屋の床にぺったりと座った。ふたりの目線の高さが同じになる。宮子は浴衣のたもとからマッチの箱を取り出し、上手に一度でマッチをつけると、その火を花火の先端につけた。くしゃくしゃになった手持ち花火は、パチパチと控えめな火花を散らしはじめる。
「今日は海上花火の日だから」
そう言うと、宮子は花火を持っていない方の手で、背後から小さなバケツを取り出した。そして、宮子と菜穂が向かい合う、ちょうどその真ん中あたりにバケツを据える。
「すごい!」
菜穂は思わず声を上げた。
パチパチとはぜる花火の真下に水を張ったバケツが置かれると、水面に小さな光の粒が反射して、キラキラと光をたたえた。
それはまるで、切り取った星空みたいだった。
ふと宮子の顔を見た菜穂は、あっ、と声を上げた。
「宮子ちゃんの目にも、映ってる!」
「菜穂ちゃんだって!」
顔を見合わせて笑い合うふたりの瞳にも、星のような光が映って輝いていた。
花火のともしびは徐々に勢いを弱め、そしてずっと見ていたいと思わせる余韻を残し、静かに散っていった。
辺りは、再び夏の夜の暗さを取り戻す。どこかで虫が鳴いている。
花火が消えてからも、ふたりはしばらく黙ったまま凪いだ水面を眺めていた。
目線をバケツに据えたまま、宮子がぽつりと言葉を発する。
「本当は水の中で花火が上がるんだけど、できなくてごめんね」
それを聞いた途端、菜穂はなぜだか急に泣きそうになった。
宮子に気づかれないように慌ててパジャマの袖で目をこすり、それから大きく首を横に振る。
「ううん」
本物の海上花火とは違っているかもしれない。けれど、ふたりだけのささやかな花火大会は、きっと本物にだって負けないくらいに素敵なものだと菜穂は思った。
今日宮子と一緒に見た水面に咲く花を、菜穂はきっと一生忘れない。
「ありがとう、宮子ちゃん」
菜穂はまっすぐに、宮子を見つめた。
宮子はぴかぴかの歯を見せて、ニッと笑った。
遠くの方で、花火の上がる音が、微かに聞こえたような気がした。
来年はきっとお気に入りの浴衣を着て、宮子と一緒に水面に咲く花を見に行こう。
すぐそばで満開の笑顔を浮かべる友達を見つめながら、菜穂はそう心に誓ったのだった。
【了】