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夢の中の幸福

 広い市民体育館の中に、いくつものボールが弾む音、専用のシューズが擦れる音、相手に行動を求める声。様々なものが、そこでは飛び交っていた。

 長い笛の音で、それらが一気に小さくなる。

「やっと終わった……」

 気がつけばもう、時計の短針は四を指している。要するに、休日に六時間以上このコート内を駆けずり回っていたわけだ。たった一つのボールを追いかける為だけに。「いやぁ、しかしあれだな……休みの日にこんなことしてるなんて、まるで部活だな」

 気を利かせた友人は有名なスポーツドリンクを差し出してくれる。短く礼を言って、その半分ほどを一気に飲み込んだ。

「つーか、馬鹿だろ。俺ら」

「確かに。別に大会があるわけでもないのにさ」

 二人で暫く話をしている間に、短い挨拶を置いて他の奴等はさっさとここを出て行ってしまう。靴紐を解いてはいるものの、俺はここから出て行こうとは思わない。

「向井さ、何に就くつもりだったっけ?」

 唐突に信はそんな事を訊いてきた。そういえば、こいつは弁護士とか言ってたな。もう既に四回ほど司法試験に落ちているらしい。

 確か、こいつは俺より三つほど歳上の筈だったな。同じ歳のように付き合っているが、いいのだろうか?……いいか。信だし。

「医学部だぜ?医者目指すしかないだろ」 医者である父親が特別に偉いというわけではない。しかしある程度のところまでは登っている。小さな頃から、そんな父親にお前は医者になれと言われ続けてきたのだ。

 もちろん、嫌だと思っていたときもある。それでも……

「おや、もう終わった?」

 振り返ると、開かれた扉に寄りかかっている女性がいた。夏らしく動きやすそうな格好をした彼女は、優しく微笑みながら佇んでいる。

「香澄。やっときたか」「残念。少しは見られるかと思ってたんだけど」

 日は傾きかけているものの、まだまだ暑い。いくら対処をしても、汗だけは止まることはなかった。それなのに、彼女の近くでは爽やかな柑橘系の匂いが漂っていた。

「駄目。無様な姿は見せないよ。暫くやってなかったからさ」

 軽く言い訳をしてから信を横目で確認する。有り難いことに、別の扉から出て行こうとしているところだった。

「いいよ、そんなの。私はただ、君がやってるところが見たいだけだから」

「はいはい。考えとくよ」

 ぽん、と小さな頭に手を置くと、一瞬顔をしかめた後、嬉しそうに微笑ってくれた。

 彼女とは、高校のときに付き合いだした。そのおかげで、俺は進路を決めたのである。俺は医者になる。二人で共に、必ず医者になる。決められた未来は、輝かしい夢へと姿を変えた。未来予想図に、たった一人の女性が加わっただけで。

「で、今日は何を見てたんだ?」

 週に一度、香澄は一日かけてすることがある。今日は俺が昔の仲間に誘われたため、共に過ごす予定だった香澄にはその日となったわけだ。

「聞きたい?」

 と俺に訊いてはいるものの、既に鞄の中から何冊ものパンフレットを取り出している。

「ほら、当ててみて」

 いつもこうだ。買えるだけのパンフレットを持って来ては、それを俺に渡して何を見たのかを当てろという。一本だけ当てる事が出来たなら、今日の夕飯は割り勘。二本以上当てることが出来たら彼女のおごり。当てることが出来なかったら当然俺のおごり。ということになっているらしい。

 お手本のような恋愛モノから、一度も見た事がないような役者が出ているものまで、本当に様々な映画のタイトルがある。

 いつも通りだとするなら、少なくとも三本は見ているはずだ。確立だけをいうと……負け確実。しかし何故か、今日だけは負ける気がしなかった。

「これ。この馬鹿みたいに泣ける事を押してる恋愛映画」

「……何で?」

「今日は見える。全てが見える」

 なんて馬鹿なことを言いながら、ポケットから見えている目薬をちらっと見やる。

『……充血に良く……』

 などという言葉が、大きめに書いてあった。

「駄目。それはずるい」

「え?いや、当てたじゃん。つーか、これ以上は分かりそうにないから、割り勘な」

「……匠がそんな卑怯だとは思わなかったよ……」

 確実に意図的に、上目使いの眼は潤んでいる。俺なんかより、よっぽどそっちの方が卑怯であるような気がするのだが。

「ああもう、わかったよ!じゃあ次に言ったのが当たったらおごれよ」


 テーブルの向こう側で料理を食べている彼女の顔には、満面の笑み。

 幸せだ。これは間違いなく幸せなんだ。この笑顔が、たった数万円を出費するだけで見られるのだから、俺はとてつもない幸せ者なんだ。

 そんな彼女の向かい側に座っているのは、泣きそうになるのをそう言い聞かせて何とか堪えている俺。

 ああ、なんと惨めな事か。

「……匠さ、こんな高そうな店に来てるのに、そんなに少しだけでいいの?」

「まあ、動き疲れた後ってのは逆に食欲は減るもんなんだよ」

「ふーん……」

 元々大して興味もなかったのだろう。適当に返事だけを返して香りは食事を再開する。ここまで可哀想な自分がいる事に気が付くと、人というものは笑顔になれるらしい。

 全く逆に意味の笑みを浮かべた二人は、数十分後には店を出た。

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