婚約者様を最後に困らせてあげようと思います
ときどき、自分の性格が憎らしいと思うときがある。
ロレッタ・バナーソンは唇を噛みしめた。
月に一度の約束に遅れてきた彼に、つい嫌味に取られそうなことを言ってしまったのだ。
「忙しいのなら、わざわざわたくしとの時間を作らなくてもよろしいのよ」
違う。
そう言いたいのではない。
彼――この国の王太子であるゼノはわずかに眉尻を下げて頭を掻いた。
「悪い。遅れるつもりはなかったんだ」
「わたくしは気にしておりませんわ。次は来月ではなくて再来月にいたしましょうか?」
そんなことが言いたいわけではない。
ロレッタが伝えたいことはただ一つ。
『あなたの身体が心配だから、休んでほしいの』
それだけだ。
なのに、なぜそれが言えないのだろうか。
たった一言なのに。
ゼノは頭を振った。
「いいや。来月にしよう。この会は今後のことを考えても重要なことだろう?」
この会は十年前――ロレッタが十歳の時から始まった。
そう、ロレッタとゼノが婚約したその日から。
ロレッタは幼いころから、ゼノのことが好きだった。
はじめはその見た目だと思う。
三つ年上の彼は、とても大人に見えた。何より、ロレッタが大好きだった物語の王子様にとても似ていたのだ。
ロレッタの母であるバナーソン公爵夫人は、ゼノの母親である王妃と仲がよかった。
母が王妃に会いに行くとき、幼いロレッタも必然的に王宮に行く。そこでロレッタはゼノと少しずつ交流を深めていった。
輝かんばかりの金の髪、宝石を嵌めたような青の瞳。
笑うときにわずかに目を細めるところ。剣を握るときの凛とした横顔。誰にでも優しいけれど、決して軽薄ではないところ。
会うたびに好きなところが増えていく。
彼を知れば知るほどロレッタの気持ちは大きくなった。
だから、ロレッタはわがままを両親に言って彼の婚約者の座を手に入れたのだ。
「この会はそんなに重要かしら……?」
ロレッタはつい、そんなことを口にしていまう。
ゼノは目を見開いた。
次第に険しくなる表情に、すぐに失敗したことに気づく。
「わたくしは無駄と言いたいわけではなくて……!」
もともとこの会は十年前、ロレッタのわがままで始まった。
婚約者の座を手に入れられても、結婚はずっと先だと知ったからだ。
母が王宮に行くときについて行くだけでは足りない。それに、母について行っても、ゼノが絶対にいるとは限らなかった。
ゼノは王太子だ。忙しいことは知っている。
だから、彼と会う大義名分がほしかった。
(あと一年もしないうちに結婚するのだから、わたくしだって少しくらい我慢できるわ)
結婚すれば毎日顔を見ることができる。
それどころか、同じ場所で生活できるのだ。
ロレッタのわがままで彼を煩わせるのは申し訳ないと思った。
何より、そんなわがままでゼノに嫌われたくないと思ったのだ。
けれど、今の言い方では誤解されてしまったかもしれない。
ロレッタは下唇を噛みしめた。
こういうとき、素直に言えれば。そう思うのだが、上手くいかない。
ゼノは小さく笑った。
「ロレッタの手を煩わせていないのならいいんだ。君も忙しいだろう?」
「わたくしは殿下ほど忙しくはありませんわ」
婚約期間が長かったおかげで、王妃教育の時間はゆっくりと取れた。
『一年ですべて詰め込むこともあるのですよ』
講師にそう言われて、十年あったことに感謝したほどだ。
何より、王妃教育は苦ではなかった。
タイミングがよければ、ゼノに会うことができたからだ。
「そうか。なら、よかった。月に一度の会は継続しよう」
「わかりました。けれど、難しいときはご連絡ください」
嫌な言い方にはなっていないだろうか。
彼はいつもの笑顔で、気にしていない雰囲気で紅茶を飲む。
「そんなことよりも、この一ヶ月は健やかだっただろうか?」
これはいつもの質問だ。
十年前から似たような質問から始まる。
ロレッタは静かに頷いた。
「はい。殿下はいかがでしたか?」
「私もだ。少し忙しいが、変わりない」
「それはよろしゅうございました」
ロレッタは心から安堵した。
毎日、ゼノが忙しさに倒れていないか心配なのだ。
王宮で働いている従兄弟に、ゼノの様子を見るように頼んだことは何度もある。
彼はいつも「殿下なら大丈夫」と言うけれど、それでも心配なのだ。
「何か変わったことはあったか?」
「そうですね……。そういえば、最近不憫な令嬢に会いました」
「不憫?」
「ええ、男爵家の養子になったようなのですが、あまり恵まれた環境ではないようです」
最近お茶会で見かけるようになった令嬢がいる。彼女は、リリア・ウェスト。
ウェスト男爵家の養子になった令嬢だ。
「君が気にかけるなんて、珍しいな」
「彼女が来てから、お茶会の雰囲気が少し変わりましたので。少し変わった方ですから」
ロレッタは小さくため息をついて紅茶を口に含んだ。
リリアは田舎の孤児院で育ったらしい。男爵家の養子になったが、あまり熱心に教育は受けていない。
だからだろうか。爵位の上下にはあまり気にしない様子だ。
彼女に「ロレッタさん」と呼ばれた日は、そのまま倒れるかと思ったほどだった。
「あまり無理はするな」
「お気遣いありがとうございます。けれど、わたくしなら大丈夫ですわ」
ゼノの気を煩わせるほどのことではない。
何より、忙しい彼を煩わせる自分が嫌だった。
「殿下は何か面白いことはございまして?」
「そうだな……。そういえば――……」
ロレッタは話題を変えると、ゼノの話に耳を傾けた。
◇◇◇
それから、ロレッタがリリアをいじめている、という噂が流れ始めたのはいつからだろうか。
「似合わない」と言ってドレスを汚した。
「邪魔よ」と言って突き飛ばした。
どれも、覚えのない話だ。
馬鹿馬鹿しい噂を信じる者などいないと思っていた。
ロレッタは公爵令嬢。なぜ、男爵令嬢に嫉妬などしないといけないのかわからない。
たしかにリリアは可愛らしい顔立ちをしていて、社交場に行けば周りには男性が集まるようになっていた。
しかし、ロレッタはゼノとの結婚が決まっている。ちやほやされることには興味がなかった。
いや、ちやほやされることであらぬ疑いがかけられるくらいなら、冷たくあしらっているほうがいい。
ロレッタにとって、ゼノが一番。他の男はその他大勢だ。
しかし、なぜか噂は噂を呼び、いつしか確定事項のように囁かれるようになっていた。
「次の夜会で、王太子殿下は婚約破棄を宣言なさるそうよ」
「お相手は……あの男爵令嬢らしいわ」
その噂を聞いた瞬間、世界が音を失った。
(わたくしが素直になれないから?)
目眩がする。
ゼノが影でそんなことをするような人ではないと信じている。
けれど、信じ切れない自分がいた。
(リリアさんとなら、お会いする時間が作れるのかしら?)
ゼノは忙しい人だ。ロレッタとの月一の時間もどうにか絞り出しているくらい。
そんな人がどうやってリリアと会っているのだろうか。
普通なら信じられない。
けれど、見てしまったのだ。――二人が王宮で会話をしているところを。
それは王妃教育で週に一度王宮に通っていたときのことだ。
ゼノの姿を見つけて声をかけようとした。
けれど、すぐに隣にリリアの姿を見つけて、ロレッタは口を噤んだ。
(わたくしの知らないところで愛し合っていたのかしら?)
思えば、月に一度のゼノとのお茶会でリリアの話を振られたことが何度かある。
『前に言っていた男爵令嬢はそのあとどうだ?』
『相変わらずですけれど、少しずつ社交界のことを教えておりますから、ご安心ください』
そんなふうに返した覚えがある。
それからもたびたび質問され、返事をしていた。思えば、ずっと彼女のことを気にかけていたのかもしれない。
そのあとも、何度か二人が会っているところを見かけたことがある。
それをゼノに尋ねたことはない。
こわかったのだ。
もしかしたら……が現実になることが。
ロレッタは屋敷の廊下を歩きながら、ため息をついた。
「お嬢様、お疲れでございますか?」
「そんなことないわ」
「ですが、顔色があまりよろしくありませんよ。結婚式の準備が忙しいからでしょうか?」
ロレッタは眉尻を下げる。
その結婚式がなくなるかもしれないのだ。顔色も悪くなるだろう。
(彼女は男性からの人気が高いわ。いつも周りには男性ばかり。ゼノも、ああいう子がいいのかしら?)
リリアは可愛らしい顔立ちに似合う、人懐っこい性格の持ち主だった。
身分に関係なく、誰でも親しく声をかける。最初は疎ましく思っていた人も、次第に彼女のことを好きになるようだ。
悪い子ではないのだと思う。
その素直さが羨ましくもあった。だって、ロレッタはそういうのが得意ではないからだ。
(やっぱり、素直の子のほうがゼノだっていいわよね)
「――様」
(明日の夜会……。憂鬱だわ)
「お嬢様っ!」
名前を呼ばれ、振り返った瞬間カクンと足から崩れる。階段を踏み外したのだ。
ロレッタは目を見開く。
驚いた顔の侍女がロレッタに手を伸ばした。ロレッタは状況を理解するのにいっぱいいっぱいで、そのまま傾いて行く侍女の姿を見つめる。
そう、自分が階下に吸い込まれていると理解したときには、頭を強打して意識を失っていたのだ。
◇◇◇
目が覚めたとき、屋敷の中は騒がしかった。
(うるさいわね……)
起き上がろうとしたけれど、全身が痛い。ロレッタは眉を寄せた。
「ロレッタ、目を覚ましたのか!? 大丈夫か!?」
慌てた顔のゼノがロレッタの顔を覗き込む。
ロレッタはぼんやりと彼の顔を見つめた。
(そうだわ。たしか、考え事をしていて階段から落ちたのよね)
全身が痛いのはそのせいだろう。
その考え事の原因が、目の前の男――ゼノだ。
なぜ彼はここにいるのだろうか。頭が回らない。
(もう夜会は終わった? それとも夜会は今日だったのかしら?)
階段から落ちたのは夜会の前日だった。
もしかしたら、ゼノは婚約破棄をしそびれて慌てているのかもしれない。
それともまだ夜会は始まっていなくて、しかたなくここにきたのかもしれない。
どちらにせよ、この場で言いわたされるのだろう。
「ロレッタ? 聞こえるか?」
不安そうにゼノが尋ねる。
聞こえてはいる。しかし、言葉が見つからないのだ。これから婚約破棄を言い渡すであろう彼への言葉が。
(そうだわ。どうせ婚約破棄されるなら、最後に困らせてあげましょう)
うーんと困らせよう。
そうしたら、ロレッタの気持ちもすっきりするはずだ。
「……どなた?」
だから、ロレッタは記憶喪失のふりをした。
◇◇◇
ロレッタが記憶喪失のふりをしてから、屋敷は騒然となった。
何人もの医師がロレッタを診察し、両親はオロオロ。ゼノも青い顔をしている。
それはそうだろう。
どんな理由にせよ記憶喪失の令嬢に婚約破棄を言い渡せば、ゼノの評判が下がる。
(当分困ればいいわ)
ゼノは眉尻を下げ、ロレッタを見下ろす。
「ロレッタ……。何も覚えていないのか?」
「ごめんなさい」
ロレッタはゼノから目を逸らす。目は口ほどに物を言う。あまり見つめられては嘘がばれてしまうのではないかと思ったのだ。
ゼノはロレッタの手を握って言った。
「君は私の婚約者だ。名前をロレッタ」
「婚約者……」
(そうよね。そう言っておかないと、あとで変な噂が流れるかもしれないもの)
本当はすぐにでもリリアの手を取りたいに違いない。
その証拠にずっと顔は不安そうだ。リリアとの未来が見えなくて心配なのだろう。
「お名前は?」
「ゼノだ」
「ゼノ……。ゼノと呼んでもいいですか?」
ゼノを名前で呼んだことはない。彼は王太子で気安く名前を呼んでいい相手ではなかったからだ。
けれど、記憶喪失ならこれくらい許されるだろう。
ゼノは大きく頷いた。
「ああ。構わない。そう呼んでもらえたら嬉しい」
ロレッタは口角を上げる。
つまらない。ぜんぜん困った様子ではない。
(もっと困らせたいわ)
ゼノを苛立たせるくらい。
ロレッタは目を伏せて言った。
「このままではご迷惑をかけてしまいますよね」
「迷惑なんて考えるな。怪我もしているんだから、今は身体を治すことだけを考えろ」
「一人では不安です。毎日来てくださいますか?」
ロレッタはゼノの腕をつかんで言った。
ここまでのわがままを聞くだろうか。ゼノは忙しい。毎日ロレッタのもとに通えば、リリアと会う暇はなくなるだろう。
しかし、婚約者がありながら新しい女性と逢瀬を繰り返していたのだ。
少しくらい困らせても天は罰を与えないと思う。
ゼノはしっかりと頷いた。
「毎日一緒にいるから安心しろ。いや、この屋敷に執務室を作ってもらおう。そしたら、安心できるか?」
(そこまでしなくても……)
王太子であるゼノにとって、名声は大切だ。記憶喪失の婚約者に気を遣うという行事は重要なのだろう。たとえ、その後婚約破棄することになったとしても。
(最後の思い出を貰うと思えばいいかしら?)
リリアと恋仲だと知っても、婚約破棄されるとわかっていても、まだゼノのことが好きだった。
十年もの片思いだ。
簡単に吹っ切れられるものではない。
ロレッタはわずかに笑ってゼノに頷いた。
◇◇◇
それからゼノは本当に執務室をバーナソン家に置いた。
ロレッタの部屋の一つ下の階だ。
王宮の文官が何人も通うため、同じ階だと怪我人のロレッタにはわずらわしいだろうということになったようだ。
(本当にいる)
ロレッタは侍女の手を借りて階下に下りた。
階段から落ちたけれど、幸い骨は折れていないようだ。ただ、一人では階段すらまともに下りられないため、侍女が三人がかりになって手伝ってくれる。
ロレッタは執務室の外からそっとゼノの様子を見た。
ゼノが仕事をしている姿は新鮮だ。
ゼノがふと顔を上げる。そして、ロレッタを見つけた。
「ロレッタ!? 安静にしていないとだめだろう!?」
ゼノが慌ててロレッタに駆け寄る。優しい婚約者の演技は大変そうだと思った。
けれど、ロレッタにとっては好都合だ。好きなだけ甘えられる。
(そうよ。私は今、記憶喪失なんだもの。どんなことでもできるわ)
ロレッタは思いっきりゼノに抱きついた。そして、彼を見上げる。
「一人で寂しくて来てしまいました」
ゼノが目を見開いた。
リリアもこうして、男性に抱きついているところを見たことがある。誰構わず抱きつく癖はどうかと思うが、こんなふうにゼノに甘えてみたかったのは事実だ。
「だめ、でしたか?」
甘えた声で尋ねれば、ゼノは頭を横に振った。
「いや、一人で不安だっただろう? ちょうど休憩をしようと思っていたところだ」
ゼノはロレッタを執務室のソファーに案内する。
彼は一人では歩けないロレッタに手を貸し、甲斐甲斐しく世話をした。
腕を打った影響でナイフもフォークも持てないロレッタに変わり、用意された料理を口に運ぶのだ。
「何か思い出せたことはあるか?」
ゼノの質問にロレッタは頭を振る。
本当は忘れてなどいないと言ったら、ゼノは怒るだろうか。最後に教えてあげるのもいいかもしれない。そしたら、すっきりと最後に別れられる気がする。
(今はもう少しだけ一緒にいたいわ)
ロレッタはゼノを見上げる。
大好きな顔だ。この顔に惚れて、彼の優しい性格にもう一度好きになった。ロレッタがもっと素直だったら、彼はロレッタと結婚してくれていただろうか。
「わたくしたちはいつもどんなことを話していたのですか?」
「そうだな。いつも、一ヶ月にあったことをお互いに報告していた」
「そうなのですね」
「月に一度、二人で会う日があったんだ。私はその日がいつも楽しみだった」
ゼノはロレッタの頭を撫でる。優しい手に、ロレッタの胸が高鳴った。
これは優しい婚約者の演技で、ロレッタがネタばらしをしたら終わってしまう関係だとわかっている。
わかっていながら、期待せずにはいられない。
「では今はご迷惑でしたよね。毎日会いたいだなんて……」
「いいや。そんなことはない。本当は私も毎日会いたかった。だから、いい理由ができて私も嬉しいよ」
そんなふうに笑うのはずるい。たとえ演技だとしても、三度目の恋に落ちそうだった。
「わたくしも毎日会いたかったと思います」
「そうか?」
「だって、一ヶ月に一度だなんて、寂しいですもの。でも……」
「でも?」
「ゼノがお忙しいから我慢していたのかもしれません」
ゼノがふわりと笑う。
そんなふうに笑う彼を見るのは初めてだ。
「そうだったら嬉しいな。君も忙しい人だった。だから、お互い一ヶ月に一度がちょうどよかったんだと思う」
「そうですね」
「本当はこうやって、毎日隣にいてもらいたいくらいだ」
ゼノがロレッタの肩を抱く。
胸がはねた。同時に、階段から落ちた時の怪我が痛む。ロレッタは眉根を寄せた。
「悪い。怪我が痛むだろう?」
「大丈夫です」
怪我よりも胸が痛い。
いつか終わってしまう甘いひとときほど虚しいものはない。しかも、終わりがロレッタには見えているのだ。
「お仕事を見ていてもいいですか?」
「座っているだけでも疲れると思うが、大丈夫か?」
「はい。一人で部屋で眠っているのは寂しくて……」
「わかった。ここで楽にしているといい。何か必要なものがあれば用意させよう」
「では、刺繍でもしていようかしら?」
記憶喪失でも刺繍くらいはできても問題ないだろう。
こういうのは身体が記憶していると言ってもおかしくないだろうから。
ゼノが仕事をしているあいだ、ロレッタは刺繍をしながら彼の姿を眺めていた。
怪我のせいであまり上手くはさせない。思うように手が動かせないのだ。
時折目が合うたびに、彼がふわりと笑う。
こんな日々に憧れていた。
本当は執務を手伝えればいいのだけれど、記憶喪失ということになっているから難しいだろう。
いや、結婚して一緒に生活するようになったら、そういう願いが全部叶うと思っていたのだ。
(嘘も悪くないものね)
全部記憶喪失のせい。そう言い訳すれば、素直な言葉が口から出てくる。
いつもなら言えないような言葉もなんなく言えるのだ。
ロレッタはゼノの顔を見ながら、ソファーに身体を傾けた。
怪我のせいか、最近すぐに眠くなる。
(まだ見ていたいのに……)
そう思いながら、ロレッタは瞼を落とした。
◇◇◇
ゼノはソファーに身体を預け眠るロレッタに視線を向けた。
ロレッタが階段から落ちて七日が経つ。
五日の昏睡状態から戻ったときには記憶がなくなっていた。
不安そうにゼノを身上げるロレッタの顔を思い出し、胸が締めつけられた。
彼女の手からこぼれた刺繍の道具を取る。
記憶がないせいか、はたまた怪我のせいなのかわからないが、刺繍はお世辞にも綺麗とはいえなかった。
彼女は昔から何でも完璧にこなす。
勉強も刺繍も。こんなにガタガタな刺繍は初めてだった。
真っ赤な髪を撫でる。
この炎のような髪はどこにいても目を奪われる。同じくらい意志の強そうな真っ赤な瞳は、今は隠れてしまっていた。
眠ってしまったロレッタを抱き上げ、彼女の部屋と向かった。
怪我人がソファーで眠るのは身体に悪いだろうから。
本当はずっと側に置いておきたいくらいなのだが。
「殿下、ありがとうございます」
「いや、構わない。ロレッタの調子はどうだ? 何か思い出したりは?」
「今のところは何も。でも、不思議と生活のことは身体が覚えているようです」
「そうか。それならよかった」
ゼノは彼女をベッドの上に下ろすと、彼女の額を撫でる。
寝顔になると少しあどけなくなる。
「早く記憶が戻るといいのだが……」
「きっと、すぐに戻ると思います。結婚式も控えておりますし」
「そうだな」
ゼノはロレッタを残し、部屋を出た。
小さく息を吐く。
すると、すぐに声をかけられた。
「殿下、少しよろしいですか?」
ロレッタの父――バナーソン公爵だ。
「公爵、どうしましたか?」
「少し、娘のことでお話がございます」
ゼノは頷くと、バナーソン公爵のあとをついて行った。
ゼノはバナーソン公爵の部屋に案内される。ロレッタの部屋の上階にある部屋だ。
ゼノはバナーソン公爵の向かいに座った。
バナーソン公爵はしばらくの沈黙のあと、ゆっくりと口を開く。
「娘との結婚のことなのですが」
「はい」
「再考するのがよろしいかと考えています」
「再考……」
ゼノはバナーソン公爵の言葉をオウムのように繰り返す。それは、ゼノにとっては考えられないような言葉だったのだ。
ゼノの拳に力が入る。
感情的になった右手をゆっくりと開く。しかし、まだ震えは止まらない。
王太子である以上、感情的になってはいけないとわかっているのに、ロレッタのことになるとどうしても難しかった。
「なぜ延期、ではなく再考なのですか?」
今の怪我では難しいのはわかる。
一人で歩けない状態だ。彼女もその状態で結婚をすることは、望まないだろう。
延期をするのは致し方ないことだ。王太子妃の誕生ともなれば、王都のパレードもある。
美しい姿を国民に見せたいと思うのは必然。
しかし、再考ということは結婚自体を見直すということだ。
「娘の記憶がいつ戻るかわからないからです。記憶が戻らなければ……」
バナーソン公爵は続きを言いかけて口を閉じる。どう言っていいのかわからない様子だ。
ゼノはジッと待った。心臓がうるさい。
「今の娘では、王太子妃の役目を務めるのは難しいでしょう」
「王太子妃の役目など、しなくても問題はありません」
「そういうわけにはいかないでしょう。せっかく受けた王太子妃の教育もすべて忘れている状態です」
「そんなものは、また覚えればいい」
ロレッタは地頭がいい。
だから、覚え直すことは難しいことではないはずだ。
生活のことは覚えているというから、すべて一から覚え直すというわけでもないのだろう。
しかし、バナーソン公爵はあまり乗り気ではないようだった。
「私は娘が可愛い。娘の願いはすべて叶えたいと思っています」
ゼノは小さく頷いた。
バナーソン公爵がロレッタを生まれたときから溺愛していることは、社交界では有名だ。
美しい夫人とのあいだに生まれた末娘。
酒の席になると、バナーソン公爵は昔から「男三人のあとだから可愛くてたまらない」と、言っているそうだ。
ゼノは国王である父から、その話を何度も聞かされている。
『あれを怒らせると怖い。だから、ロレッタ嬢を大切にするんだ』
父からそんなことを言われなくても、大切にしてきた。
いや、大切すぎてどうしていいかわからないほどだ。
「殿下との結婚も、娘が望んだからこそ」
「はい」
「殿下は最近の令嬢たちの噂を知っていますか?」
バナーソン公爵は睨むようにゼノを見た。
ゼノは眉根を寄せる。
「令嬢たちの、噂?」
令嬢たちや夫人たちは噂話が好きだ。彼女たちはお茶会という独自のコミュニティで情報を交換し合う。
『談笑』という方法で。これはゼノには苦手な部類だった。会話の中に含まれる意図を汲み取るというのは、仕事とは違う頭を使うように感じる。
しかし、噂話から得られる情報も多い。でたらめも多いのが事実だった。
「私も昨日耳にしたのです。殿下はウェスト男爵家のリリア嬢と親しいのだとか」
「リリア……嬢? それは誰だ?」
ゼノが眉根を寄せる。
ウェスト男爵家と言われてもピンとこない。
最近会話した中にいただろうか。そもそも、男爵家の人間に挨拶を受けること自体少ない。だから、もしも挨拶を交わしていれば覚えていそうなものだが、記憶にはなかった。
バナーソン公爵は目を見開く。そして、その大きく見開いた目を細めた。
「本当に存じ上げないようですね」
「ああ。会っているのかもしれないが、リリア・ウェストという令嬢の顔すら思い浮かばない」
王宮を歩けば、いろいろな人間に声をかけられる。
その中にいたのだろうか。
しかし、親しいというほどの相手にはならないはずだ。
「令嬢たちの噂になっているのか? そのウェスト家の令嬢と私が?」
「はい。そのようです。どうも、令嬢たちのあいだでは、殿下が彼女との結婚を望んでいるということになっているのだとか」
バナーソン公爵の言葉にゼノは目を丸くした。
「誰と、誰が?」
「ですから、殿下とリリア・ウェスト嬢です」
「ロレッタがいるのに?」
「娘は人に誤解されやすいところがありますから」
バナーソン公爵は苦笑をもらす。
「娘の世代は恋物語が好きですから、そういう妄想を噂話にしていてもおかしくはありません」
「ああ、そうだな」
しかし、その主人公がゼノであると考えると頭が痛い。
「……その噂をロレッタも聞いていたのだろうか?」
「それはわかりません。しかし、事故の前、娘はよく考え事をしていたと聞いています」
「つまり、噂話を聞いていた可能性があるということだな?」
バナーソン公爵は静かに、そして深く頷いた。
「わかった。その件は私が解決しておこう。彼女の記憶が戻ったとき、彼女が悲しまないように」
「お願いします」
ゼノは拳を握った。
もし、変な噂でロレッタを傷つけていたのだとしたら、ゼノはその者を許せる気がしない。
罪を償ってもらうつもりだ。
「記憶が戻らなくても、私はロレッタを妻にしたいと思っている」
「殿下……」
「ロレッタ以外考えたことはない」
バナーソン公爵は深く息を吐いた。
「わかりました。ですが、娘が望まなければそのお話はお受けすることができません」
「ああ。今の彼女にも望んでもらえるように努力しよう」
ゼノはバナーソン公爵の部屋から出ると、天井を見上げた。
◇◇◇
ゼノにとってロレッタは、太陽だった。
初めて出会ったのは、まだ幼いころ。ロレッタが十歳のときだろうか。
当時、ゼノは剣に夢中だった。王太子の勉強よりも剣術の授業が楽しみだったのだ。
しかし、王位を継ぐ身。多くの勉学のあと、自由な時間はすべて剣術の鍛錬にあてていた。
そんなとき、ロレッタに出会った。
バナーソン公爵夫人がロレッタを連れて、ゼノの母――王妃に会いにきたのだ。
ロレッタの三人の兄とはよく顔を合わせていたが、ロレッタと会うのは初めてだった。
バナーソン公爵家の三兄弟は末の妹を溺愛している。
『妹っていうのはいいものですよ。「おにいちゃま」って呼ばれたときの喜びと言ったら』
『妹のためなら命も捧げます』
『殿下は妹がいないからこの気持ちはわからないでしょう』
彼らは二言目には「妹」と言う。
ゼノには妹がいないから、少し羨ましかった。
そのロレッタに会ったのだ。
彼女はゼノに会った瞬間、大きな目をさらに大きく見開いた。
「わたくし、本物の王子様に会うのは初めてですの!」
彼女はそう言って頬を緩めた。
ゼノは目を瞬かせる。
この国に直系の王子は今、ゼノしかいない。
そういう意味だろうか。
しかし、あとから聞いた話だと、金髪と青い目をロレッタは「王子様」と呼んでいたようだ。
当時、人気だった本の「王子様」が金髪で青い瞳だったのだということは婚約したあとから聞いた。
ロレッタは王宮に遊びに来るたびに、ゼノを探すようになった。
勉強以外の時間は剣を触っていたかったのに、ロレッタの相手をしないといけないのは少しだけ煩わしいと感じていたのだけは覚えている。
『妹ができたと思って相手をしてあげなさい』
そう、母に言われ渋々だ。
ある日のこと。
「殿下は本当に『王子様』なのね」
「そうだね。でも、私は騎士になりたいんだ」
「騎士? どうして?」
「そっちのほうがかっこいいだろう?」
当時、ゼノは王太子という身分に不満を持っていた。
ゼノには兄弟がいない。だから、ゼノが王位を継ぐのは必然だ。
しかし、ゼノは勉強よりも剣を触っているほうが好きだった。もし、兄弟がいれば王太子という立場を譲り騎士になりたいほどに。
そんなことを誰かにこぼしたことはない。
けれどその日、なんとなくロレッタにこぼしてしまったのだ。
家族でもない、侍従でもない、他人。しかも、まだ子どもだ。だから、言いやすかったのかもしれない。
「じゃあ、将来は騎士になるの?」
「いや、私は騎士にはなれないんだ」
「どうして?」
ロレッタは不思議そうに首を傾げる。
「私の将来は国王って決まっているから」
「だったら、騎士で王様になればいいのよ!」
ロレッタは胸を張って言う。
彼女は軽い気持ちで言ったのかもしれない。けれど、ゼノにとっては勇気になった。
ずっと、いつか剣は置かないといけないと思っていたからだ。
「騎士で国王か。なんだかかっこいいな」
「でしょう?」
「ロレッタは将来、何になりたいんだ?」
「ん~。お姫様よ」
彼女はキラキラとした目でゼノを見た。
剣ばかり持っていたゼノにとって、それが愛の告白だと思ってしまってもしかたないことだろう。
ロレッタを「お姫様」にできるのは、この国でゼノしかいないのだ。
それはゼノにとって幼い恋だった。
だから、バナーソン公爵家から婚約の話が出たとき、ゼノは二つ返事だった。
ゼノにとって彼女は太陽なのだ。
いつもまっすぐ前を向いて歩く、眩しいほどの太陽だ。
◇◇◇
ゼノはバナーソン公爵家に簡易的に作ってもらった執務室に戻ると、席に腰かけた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
(リリア・ウェストだったか)
バナーソン公爵から聞いた名を頭の中で繰り返す。
なぜ、そんな噂が流れたのかも理解できない。ゼノは婚約前からロレッタ一筋だというのに。
ゼノにとって、月に一度のロレッタとのお茶会は楽しみだった。
どんなに忙しくても、その時間だけは捻出するように心がけていたのだ。
彼女が王妃教育のために登城するときもできる限り、時間を作ってたまたまのふりをして会うようにしていた。
(そういえば、何度か邪魔をされたことがあったな)
ピンクブロンドの女だ。
最初は道に迷ったと言って、声をかけてきた。
『すみません。王宮が広くて、道に迷ってしまったんです。お父様に庭園の薔薇のガゼボで待っているように言われたんですけど、案内してくれませんか?』
彼女はゼノのことを王太子だとは知らないようで、気安く声をかけてきたのだ。
ちょうど鍛錬のあとで、動きやすい服装をしていたせいだろう。
他の人間に頼むつもりだったのだが、周りに誰もいなかった。だから、しかたなく連れて行ったのを覚えている。
庭園の薔薇のガゼボがある場所は遠い。なぜ、そんな場所を指定されたのかと思うほど。
彼女は庭園の中を歩くあいだ、終始自分の不幸話をしていた。
ほとんど適当に相槌を打っていたから、記憶にはないのだが。
その日、急いでロレッタのもとに行ったのだが、バナーソン公爵家の馬車は帰ったばかりだった。
それから、何度かその女に邪魔をされたことがある。
『またお会いしましたね。実はまた迷ってしまって……』
彼女が現れるときに限って、周りには人がいない。冷たくあしらうべきか。しかし、のちに王太子という身分が露見したとき、困っている者を助けない冷徹な男だと噂が立つのも問題だ。
結局、ゼノは道案内をするしかなかった。
(あれのせいで変な噂が立ったのか?)
ゼノは眉根を寄せる。
しかし、ただ道案内をしていただけ。それで噂が立つだろうか?
もしかしたら、意図的に立てられた噂かもしれない。
もし彼女を傷つけた人間がいるのであれば、その人間を排除しなければ。
そして、もう一度彼女から「お姫様になりたい」と思ってもらえるような男にならねばならない。
ゼノは拳を握った。
◇◇◇
ロレッタは小さくため息をついた。
いうことの効かない身体はストレスがたまる。
階下にいるゼノに会いに行くのも、人の手を借りないといけないのだ。
(今日も会いに行ってもいいわよね)
忙しいのに、ロレッタの相手をさせるのは申し訳ない。
彼が夜遅くまで仕事をしていることは知っている。毎日侍女に様子を見に行かせているが、毎晩夜中まで灯りが消えないそうだ。
(遠慮はいけないわ。だって、私の目的は彼を困らせることだもの)
ゼノはいつかロレッタを捨てるのだ。それまで思う存分わがままを言って困らせるべきだ。
侍女に声をかけようとした瞬間、扉が叩かれた。
「ゼノだ。よかったら一緒にお茶でもしないか?」
扉の向こうから言われ、ロレッタは目を丸くする。
「どうぞ」
ロレッタは返事をした。
ゼノを迎えるために立ち上がる。しかし、怪我のせいかバランスを崩した。
「あっ……」
「あぶないっ!」
ロレッタは転ぶことを覚悟し、目をギュッと閉じた。
しかし、寸前のところでゼノに助けられたらしい。
抱きかかえられる形で、ゼノに倒れこんでいた。
「よかった」
ゼノがホッと安堵のため息をつく。
「ありがとうございます」
「出迎えようとしなくていい。まだ傷が痛むだろう?」
ゼノはロレッタを優しく諭すと、ソファーに座らせた。
「今日はお茶を一緒にしようと思って来たんだ」
「どうしてですか? 忙しいのでしょう?」
「君は忘れてしまったかもしれないが、私たちは十年前から月に一度二人でお茶をしていた」
「そう……なのですね」
「今日がその日だ」
すっかり忘れていた。
ゼノは律儀なところがある。十年前に決めた約束を相手が記憶喪失になった今でも守ろうとしているのだ。
「いつもはお互いの報告をするのだが、今は毎日会っているから必要ないな」
ゼノが恥ずかしそうに笑う。
(勘違いしてしまいそうだわ)
リリアとの噂など、ただの噂で信憑性のないものだと。
本当はゼノは自分のことを大切に思ってくれているのだと。
噂だけなら、馬鹿馬鹿しいと信じなかっただろう。
けれど、ロレッタは二人が親しそうに庭園に歩いていく姿を見たことがある。
一度ではない。
抱き合っているところだって見ているのだ。
「ロレッタ。私たちは本当は三ヶ月後、結婚式を挙げる予定だった」
「はい」
胸がトクンとはねる。
そうだ。その予定だった。そのための準備も進めてきた。
「だが、当分のあいだ延期することになったよ」
「そうなのですね」
「記憶のない君にこんな話をしても実感がわかないか」
ゼノが苦笑を浮かべる。
そして、ロレッタの手を握った。
「元気になったら、今後のことをゆっくり相談しよう。今は君の回復が第一だ」
「ありがとうございます」
(本当に優しい人ね。記憶喪失を理由に婚約破棄してしまえばいいのに)
ロレッタは眉尻を下げる。
理由なんて簡単に作れるではないか。
ロレッタでも考えられる。なのに、まだ「延期」にしているのはなぜだろうか。
(情くらいは持ってくれているのかもしれないわね)
十年、婚約者をしていたのだ。愛はなくとも情くらいは生まれていたのかもしれない。
(ひどい男なら、もっと振り回したのに)
ロレッタは彼に笑みを浮かべながらも、最後の日を考えるようになった。
◇◇◇
その日、ゼノはバナーソン公爵家にいなかった。
聞けば、どうしても王宮に行かなければならない用事があるのだという。
(身体もだいぶ言うことを聞いてくれるようになったわ)
ロレッタは腕をゆっくりと回す。
痛みはあるものの、人の手を借りないと何もできないという状況ではなくなった。
すると、侍女が申し訳なさそうにロレッタに声をかける。
「お嬢様、実はお客様がおいでなのです」
「お客様? わたくしに?」
「はい。リリア・ウェスト様という方なのですが、どうしてもお嬢様にお会いしたいと」
(彼女がわたくしに用なんて……一つしかないわね)
私はため息をつく。
そろそろ夢の時間は終わりということだ。
「いいわ。せっかく来てくださったのだもの。通して差し上げて」
ロレッタは笑みを浮かべた。
侍女は目を丸くする。
「お嬢様、もしかして記憶が――!?」
ロレッタは答える代わりに、笑みを浮かべた。
わざわざバナーソン公爵家にまで来るのだ。何か理由があるのだろう。
応接室へと行くと、リリアが待っていた。
部屋に入ってきたロレッタを見て、嬉しそうに笑う。
「ロレッタさん、怪我をしたとお聞きしました。大丈夫ですか?」
「ええ、もう随分よくなったわ」
「結婚式も延期になったと聞いたから、もっと重病なのかと思いました。よかったです」
リリアはにこりと笑う。
記憶喪失だということはバナーソン公爵家と王家だけの秘密だと最初に聞かされている。
「実は今日、ゼノ殿下に呼び出されているんです。二人きりで話がしたい、と」
「……そう」
(今日王宮に出かけた理由はリリアだったのね)
バナーソン公爵家にいては、リリアとの逢瀬ができないからだろうか。
ロレッタは苦笑をする。
「ロレッタさんも、噂は知っているでしょう?」
「ええ、聞いているわ」
「私たちは真実の愛で結ばれているの。ロレッタさんには身を引いてもらいたくて。お願いしますね」
リリアはロレッタの両手を掴んだ。
なんて勝手な要求だろうか。
彼女は言いたいことを言うと、バナーソン公爵家を去っていった。
そして、わざわざ会う時間と場所まで教えてくれたのだ。
(殿下が何も言わないから、痺れを切らしたのかしら?)
ロレッタは肩を竦める。
(そろそろ、彼を解放してあげてもいいわね)
十年分のもとは取れたと思う。
これ以上あがくのは、公爵令嬢として恥ずかしい。
虚しくなるだけだ。
「ねえ、馬車を用意して」
「お嬢様? ですがまだお身体が……」
「わたくしは大丈夫よ。殿下に急ぎお話したいことがあるの。お願い」
侍女が目を見開く。
(もう、記憶喪失のふりはおしまい)
ロレッタは馬車に乗り込むと、ゼノのもとへと向かった。
◇◇◇
ゼノは目の前の女――リリア・ウェストを睨みつけた。
「なぜ呼ばれたか、理由はわかるな?」
「まさか、愛の告白ですか? まだ心の準備が……。でも、大丈夫です」
リリアが潤んだ瞳でゼノを見上げる。
ゼノは眉根を寄せた。
「噂を聞いたんです。ゼノ殿下が私のことを気に入っていると。私、あなたが王太子殿下だって知らなくて……」
「冗談が好きなようだな」
ゼノは顔を歪める。
リリアはゼノが苦手な部類だ。会話のキャッチボールができないタイプの人間だ。どうして、そんな人間をゼノが気に入るのというだろうか。
しかし、リリアは目を瞬かせた。
「冗談じゃありませんよ。みんな、『ロレッタ様よりリリア様のほうがお似合い』って言ってくれるのですよ?」
リリアは両頬を押さえると、嬉しそうに身体をくねらせる。
この話の通じなさに、ゼノは頭を抱えたくなった。
以前、ロレッタがお茶会で愚痴をこぼしていたことがあった。
『彼女が来てから、お茶会の雰囲気が少し変わりましたので。少し変わった方ですから』
そんなふうに言っていたことがある。
聞くたびにその男爵家の令嬢に苦心しているようだった。
おそらく、リリア・ウェストのことだったのだろう。
(これはたしかに、あのロレッタでも苦労しそうだ)
ゼノは眉根を寄せる。
「悪いが、君にはまったく興味がない」
「ロレッタさんはとても冷たいんです。ゼノ殿下には私のような女性が似合うと思います」
ニコニコと笑みを浮かべる。
ゼノの話など聞いていないのだ。
「これ以上、変な噂を流すのはやめろ」
「ひどいっ! 私は殿下のことがこんなに好きなのにっ!」
リリアは何を思ったのか、突然ゼノに抱きついた。
「やめろ!」
ゼノが叫んだその瞬間だ。
大きな音を立てて、勢いよく部屋の扉が開いた。
「ロレッタ!?」
ゼノは目を丸くした。
「ロレッタさん」
反対にリリアはニィッと口角を上げる。
◇◇◇
ロレッタは扉を開けてすぐ、目を細めた。
二人の話す声が聞こえたから、最後くらい驚かせようと無礼も承知でノックもせずに扉を開けたのだ。
「王宮の用事というのは、リリア嬢との密会だったのですね。殿下」
呆れてため息すら出ない。
抱きしめ合う二人を見て、ロレッタは苦笑を浮かべた。
ゼノは目を見開く。
浮気現場を見つかった男の顔はこういう顔なのか。
ロレッタはそんなことを考えていた。
しかし、彼の言葉は予想とは違った。
「ロレッタ、記憶が戻ったのか!?」
ゼノは大きな声をあげると、リリアを突き飛ばし、ロレッタに駆け寄った。
リリアが大きな音をたてて床に転がる。
「いたぁい……!」
リリアが叫んだ。
しかし、ゼノは彼女のことなど気にせず、ロレッタの肩を抱く。
「私と君が出会った場所は?」
「王妃様の庭園です」
「婚約発表のパーティーで着たドレスの色は?」
「青ですわ」
「……本当に記憶が戻ったんだな。よかった」
ゼノは顔を歪めると、ロレッタを抱きしめる。
ロレッタは目を瞬かせた。
「殿下、よろしいのですか? 恋人を放置して」
「恋人? 放置していないが」
ゼノは不思議そうに首を傾げ、ロレッタを見下ろした。
そこで恋人が床に転がっている。
ロレッタはまだ起き上がらないリリアに視線を向けた。
ロレッタの視線を辿って、ゼノが振り返る。
「ああ……。悪い。嬉しすぎて、つい」
「婚約破棄できるのがそんなに嬉しいからって、恋人を突き飛ばすのはどうかと思いますけれど」
「婚約破棄……? その予定はない」
きっぱりと言ったゼノにロレッタは目を瞬かせた。
予定と違う。
さっさと婚約破棄を言い渡し、颯爽と帰る予定だった。
「もしかして、君もあんな噂を信じているのか?」
ゼノが眉尻を下げる。
噂と言えば、一つしかない。ゼノとリリアの仲についてだろう。
「噂だけではありませんわ。わたくし、見ておりますのよ。二人が仲睦まじく逢瀬を繰り返している様子を」
「それも誤解だ。あれはリリア嬢が道に迷ったところを案内しただけだ。そうだろう?」
ゼノの問いにリリアは答えない。ただ、めそめそと泣くばかりだ。
ロレッタはこめかみを押さえた。
(どういうこと?)
この期に及んでゼノが嘘を言っている可能性もある。
けれど、彼の性格はじゅうぶんに知っていた。嘘を言うわけがない。
(つまり、全部わたくしの勘違い……ということ?)
「理解してくれたか?」
「……ええ」
勘違いで思い悩み、記憶喪失のふりまでしてしまったということだ。
ロレッタの顔がみるみるうちに真っ赤に染まる。
「ちょっと! 早く婚約破棄しないさいよ!」
リリアが叫ぶ。
「私はゼノ殿下と結ばれるはずなの!」
「うるさいな。大切な場面で。……誰かっ!」
ゼノが叫ぶ。
「わたくしが来た時、外には誰もいませんでしたわよ? 逢瀬のために人払いをしたとばかり思っていたのですけれど」
「そんなわけがない。人をつけておいた」
ロレッタとゼノはリリアに視線を向ける。リリアがニッと口角を上げた。
「もしかして、道に迷ったとき、周りに誰もいなかったのも?」
「だって……、そうでもしないと恥ずかしがり屋のゼノ殿下は逃げてしまうでしょ?」
ロレッタとゼノは頬を引きつらせた。
リリアは男性に人気がある。その人気をうまく利用したということだ。
◇◇◇
結局、リリアはゼノが捕らえた。
リリアに唆された従者たちは処分されたらしい。王太子を守る立場の人間が、一人の令嬢の言いなりでは大問題だ。
リリアはゼノの権限で北の修道院へと入れられたらしい。
ロレッタはソファーに座る。
バナーソン公爵家にあるゼノの執務室のソファーだ。
今日で彼は王宮に戻る。
(なんだか寂しいわね)
ゼノが床に膝をついて、ロレッタを見上げた。
「不安な思いをさせてすまなかった」
「殿下のせいではありませんわ。わたくしが勝手に勘違いしたことですので」
ゼノに確認していれば、こんなことにはならなかった。
もっと、ロレッタが素直になればよかったのだ。
「私はロレッタを愛している。その気持ちが変わることはない。だから、安心してほしい」
「殿下……」
ロレッタは目を見開いた。
彼の口から愛の言葉を聞いたことない。
ロレッタのわがままで決まった婚約だ。彼からすれば、ただの政略結婚だと思っているに違いないと思っていた。
「すまない。君がいるのが当たり前すぎて、言うのが遅くなってしまった」
気持ちを言葉にするのは難しい。
ロレッタはそれで何度も失敗を繰り返してきている。
(もう、あんな思いはいや。それに――……)
ロレッタが記憶喪失のふりをして、素直な気持ちを口に出しているときのゼノはとても優しくて甘かった。
「わたくしも。わたくしも、殿下のことが……ゼノのことを愛しているわ。ずっと、幼いころから」
ゼノが目を見開く。
そして嬉しそうに笑った。
二人の唇が重なる。
結婚式よりも少し早い、初めての口づけだ。
FIN
最後までお読みいただきありがとうございました^^
楽しんでいただけたら嬉しいです。
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