和製エルヴィス・プレスリー 小坂一也
エルヴィス・プレスリーの登場は、音楽業界におけるビッグバンのようなものであり、イギリスのクリフ・リチャードをはじめ、各国でリーゼントスタイルでロックを歌う模倣者を大量に輩出したが、”和製エルヴィス”と謳われた小坂一也は、ロック=リーゼントという公式を打ち破り、C&Wスタイルでロックを歌いながら、全盛期には本家プレスリーを超える人気を博した元祖アイドルスターだった。
海の向こうアメリカで二十一歳のエルヴィス・プレスリーが、全米ヒットチャートを総ナメにした一九五六年、日本でも『和製プレスリー』の異名をとった二十一歳の若者が大ブレイクを果たした。当時人気絶頂のカントリー&ウエスタンバンド、ワゴンマスターズのリードヴォーカル小坂一也である。
小坂一也はプレスリーと同じ一九三五年(昭和十年)生まれ。出身地は名古屋だが、五歳の時に上京し、成城学園高校ではラグビー選手として活躍していた。ワゴンマスターズ加入のきっかけは、ラグビー部の先輩で同バンドのヴォーカルを務めていた藤沢恵治の紹介によるものだ。昭和二十七年夏のことである。
芸能プロデューサーの父が二度の離婚を経験し、母親の愛情に飢えていたせいか、当時の小坂は性格的にひねくれていたところがあり、ワゴンマスターズの面々も薄汚れたワイシャツ姿の無愛想な少年をもろ手を挙げてメンバーに迎えようという雰囲気ではなかったようだ。
ところがこの日、東京ステーションホテルのパーティーでヴォーカルを任せてみると、これが結構イイ線をいっている。初対面以来、小坂に何となく不快感を抱いていたメンバーも、ヴォーカリストとしての才能を認めざるをえず、小坂のワゴンマスターズ加入が決定した。
昭和二十八年、進駐軍のステージとして最も有名だったアーニー・パイル劇場に初登場した小坂が「マム・アンド・ダディ・ワルツ」を歌い始めると、劇場を埋め尽くしたアメリカ人から嵐のような拍手と歓声が巻き起こった。当時、アメリカで人気絶頂だったレフティー・フリゼルそっくりの声と節まわしで歌う小坂のヴォーカルは、語学堪能な藤沢仕込みの英語の発音も相まって、ネイティブの心を震わせる独特の雰囲気を醸し出していた。
外国人の観客から拍手喝采を浴びた小坂のステージパフォーマンスは、プロモーターの目にも留まり、それからというもの、進駐軍キャンプのクラブで引っ張りだこの人気者になった。
レコードデビューは高校中退後の昭和二十九年。奇しくもプレスリーがサンレコードからデビューしたのと同じ年である。デビュー当初のワゴンマスターズの楽曲は、当時流行りのカントリー&ウエスタンが中心だったが、初期のプレスリーもまたカントリー&ウエスタン歌手であった。
ワゴンマスターズのデビュー盤(SP盤)は、この時期流行のカヴァー版ではなく、両面オリジナルの『ワゴンマスター/モンタナの月』だった。これが大ヒットし、ワゴンマスターズはたちまちカントリー&ウエスタンバンドの頂点に君臨する人気バンドになるが、後に和製ロックのパイオニアとして日本のミュージックシーンにその名を刻んだ小坂にとっては、この時の人気も音楽人生の単なる序章に過ぎなかった。
本家プレスリーがRCAビクター移籍後第一弾として歴史的名盤『ハートブレイク・ホテル』をリリースしたのは、一九五六年(昭和三十一年)一月のことである。すでに前年から、『ロック・アラウンド・ザ・クロック』(ビル=ヘイリーと彼のコメッツ)や『メイベリーン』(チャック=ベリー)などのヒットにより、本場アメリカでは黒人音楽から派生した“ロックンロール”という新しい音楽のジャンルが、すでに音楽ファンの間に浸透していたとはいえ、歌って踊れるハンサムな白人ロックヴォーカリストの出現は一大センセーションを巻き起こし、『ハートブレイク・ホテル』はビルボード誌で八週連続第一位(年間ランキングも第一位)を占めるロック史上の記念碑的作品となった。
その後、同年に発売したシングル3枚をシングルチャート第一位に送り込んだプレスリーは、年間で二十四週トップを独占するという空前の大偉業を成し遂げ、「ロックの王様」と称されるまでになった。
プレスリーの日本デビュー盤は、昭和三十年十一月下旬に日本ビクターから発売された4曲入りEP『ウエスタンキャラバン第4集』でハンク・スノウとのカップリングであった。うちプレスリーの曲はサンレコード時代の『忘れじの人』と『ミステリートレイン』の2曲で、歌手名のクレジットは「エルヴィス・プリースリーとスコッティとビル」。ジャケットの宣伝文句にも「話題のウェスターン歌手エルヴィス・プリースリー」と紹介されていることから察するに、ウエスタンブームにまぎれて偶然紹介された感が強い。
本国でのブレイク後、日本で発売されたプレスリーのファーストシングル(SP盤)はEPで紹介済みの『忘れじの人/ミステリートレイン』(昭和三十一年四月二十日)で、歴史的名盤『ハートブレイク・ホテル』は、セカンドシングルとして同年六月二十日にようやく陽の目を見た。以後、プレスリーのレコードはSP盤とシングル盤の2本立てで次々とリリースされていったが、アメリカやイギリスで「ハートブレイク・ホテルがラジオから流れた瞬間から音楽の歴史が変わった」といわれるほどのインパクトをもたらしたのと比べると、わが国ではその斬新さを理解できた者は、業界人ですらごく少数しかおらず、傑出したロックミュージシャンとして評価が定まるまでには半年以上のタイムラグがあった。
なにしろ、八月ニ十日発売の『アイウォントユー、アイニードユー、アイラブユー(全米1位)』ですら、女性カントリー歌手ジャニス・マーティンとのカップリングという扱いなのだから、この頃までは、日本ではロックとカントリー&ウエスタンの定義づけがいかに曖昧だったかがわかる。
日本の音楽業界におけるプレスリーのカテゴライズが確立していなかったからであろう、同年六月に小坂一也とワゴンマスターズが日本コロンビアからリリースした日本語カヴァー版『ハートブレイク・ホテル(傷心のホテル)』(副題が結構笑える)は、レコードスリーヴ、歌詞カード(SP盤はジャケットがなく、通常アーティストの写真入り歌詞カードが封入されていた)ともにウエスタンムード一色で、ロックの雰囲気は微塵も伺えない。
しかも、カップリング歌手は小坂と人気を二分するジャズ・シンガー、旗照夫である。
旗の曲も『捜索者の歌』という西部劇の主題歌カヴァーであるところからすると、このSP盤はウエスタンとして売り出そうという意図だったのだろう。売り出し方はともかくとして、日本コロンビアのツートップを両A面にした贅沢盤だけに、セールス的には大成功だった。
当時のワゴンマスターズは、すでにカントリー&ウエスタンバンドとしてはトップクラスの人気を誇っていたが、『ハートブレイク・ホテル』の大ヒットを機に『冷たくしないで』(十一週連続第1位のビルボード新記録を樹立)、『ラブミー・テンダー』、『アイ・ウォントユー・アイ・ニードユー・アイ・ラブユー』といったプレスリー物のカヴァーを連続ヒットさせたことによって、ジャンルを超えた日本一の人気バンドとなった。
この活躍ぶりが評価され、小坂一也とワゴンマスターズは年末の紅白歌合戦に初出場している(旗照夫もこの年に初出場を果たしている)。当時の歌手なら誰しもが憧れた晴れの舞台で小坂が熱唱したのは、もちろん『ハートブレイク・ホテル』であった。
昭和期の紅白と言えば、いかにもお堅いイメージで、ロックやポップスには門戸が狭かったことを考えれば、昭和三十一年の時点で、紅白でロックが歌われたというのは異例といっていい。それほど小坂人気は凄まじいものがあり、さしものNHKも民意を反映させないわけにはいかなかったということだろう。後年、ロカビリーブームの到来とともに、“ロカビリー三人男”として空前の人気を博した山下敬二郎、平尾昌章、ミッキー・カーチスですら、ブレイク初年度には紅白の声はかからず、この中で最も人気があった山下に至っては、人気が一過性だったこともあって一度も紅白の舞台に立つことはなかったのだ。
このような紅白の保守的傾向はその後も続き、昭和四十二~四十四年にかけてのGSブームの時も紅白出場が叶ったのは、GSの中では歌謡曲の色合いが濃いブルーコメッツだけで、タイガースやスパイダースのような全国区の人気バンドも、「ロック=不良」という偏見が邪魔をして、紅白に出場することは出来なかった。
そういう時代の中で、紅白で初めてロックを歌った小坂はまさに型破りな存在だったと言えよう。
ワゴンマスターズ版の『ハートブレイク・ホテル』は和製ロックの先駆的作品となったが、この曲も含めてプレスリーのカヴァー物のレコードジャケットを見る限り、残念ながらそこにロックの面影は見出せない。ライブステージのコスチュームにしかり、どう見ても小坂の姿はロックンローラーではなく、カントリー&ウエスタン歌手のそれである。かくなる理由の一つとして、昭和三十一年当時のわが国のプレスリーに対する評価が、彼がメジャーになる以前のカントリー&ウエスタン歌手というイメージを引きずったままであったことがあげられる。
現在と比べると海外からの情報量が圧倒的に少なかったこの時代、若い女性ファンの悲鳴にも似た熱狂の中でプレスリーが卑猥に腰をくねらせながら歌う独特のライブパフォーマンスの映像などそうそう入ってくるわけもなく、わが国の音楽業界では、全米を熱狂させているハンサムな若手人気歌手という知名度だけが一人歩きしていた感が強い。
その証拠に、プレスリーが昭和三十一年の『ミュージックライフ』誌で初めて紹介された時も、ロック歌手という表現は使われておらず、すでに全米ナンバーワン歌手という地位を築いているにもかかわらず、年度を通じてプレスリー関係の記事は意外なほど少ない。後年のビートルズブームの際、音楽関係のみならず芸能雑誌、映画雑誌、週刊誌までが競ってビートルズ特集を組み、大々的に報道したのと比べると隔世の感がある。
本国での人気も手伝って、プレスリーの初主演映画『やさしく愛して』は日本でも封切られたが、内容的には所詮B級西部劇に過ぎず、この映像で見る限りのプレスリーはやはりカントリー&ウエスタン歌手でしかなかった。
プレスリーは主演映画の宣伝効果もあって、『ラブ・ミー・テンダー』こそ人気ラジオ番組『ユア・ヒット・パレード』のシングルチャートで1位に輝いたものの、全米年間ランキング1位となった『ハートブレイク・ホテル』『恋にしびれて』でさえ、ベストテンの下位を賑わす程度に過ぎなかった。
このように日本でのプレスリーが本国での異常人気ぶりとはかけ離れた評価しかされていなかったせいか、TVやライブステージを通じてファンにアピールする機会が多かった小坂の方が、日本では本家を上回る人気を得るという皮肉な現象が生まれていた。
当時日本の音楽情報誌としては最も権威があった『ミュージックライフ』誌の歌手部門人気投票では、昭和三十一年度の男性部門は小坂一也がダントツの一位であり、得票数は女性部門のトップを占める美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘をも凌ぐ桁外れの人気を誇っていた。
ライブステージ、ミュージカル、映画出演のオファーが相次ぎ、“当代一の人気男”となった小坂は、翌三十二年も二年連続人気投票第一位を獲得するなど、その人気ぶりは留まるところを知らなかったが、ステージスタイルは相変わらずのウエスタン調で、持ち歌の比率もカントリー系の方が多かった。
昭和三十一年九月十三日、日比谷公会堂に三千人のファンを集めて行われたリサイタルでは、百五十円のチケットに千円のプレミアがついたほどだ。ただし、小坂はシャイで話をするのが苦手なため、MCとしては退屈なうえ、エレキソロの最中に奏者の前に立ち塞がってしまうなど、ステージマナーも今ひとつとあって、小坂を引き立ててライブを盛り上げようとするワゴンマスターズさまさまのライブだったようだ。
太陽族が若者たちにもてはやされているという時代背景もあって、小坂はファンの九十パーセントは女性であったにもかかわらず、クリーンなアイドルを演じることなく、女性関係もオープンだった。
気分屋で奇行も多く、気分が乗らないとスタジオでもゴロリと寝そべったり、あからさまに投げやりな態度を取ってプロデューサーを激怒させることなどしょっちゅうで、インタビューでも現代ならブログが炎上ものの不遜な発言が後を絶たなかった。後年、TVドラマなどで見せた実直なサラリーマン然とした姿からは想像がつかないほどのドライぶりだが、その気取りのなさというか、反抗的なアクの強さが、アプレゲール的で女性ファンの絶大な支持を得ていたところが面白い。
スクリーンでは不良っぽいが、実像は礼儀正しくいかにも育ちの良いボンボンっぽい石原裕次郎とは好き対照であった。
この頃ようやく本家プレスリーがわが国でも正当に評価されるようになったにもかかわらず、かなりイメージの異なる小坂が“和製プレスリー”としてなおも圧倒的人気を博し続けたのは、当時の日本人には本場のロックより、カントリースタイルの方が馴染みやすかったこともあるだろう。
そういう意味では、昭和三十三年以降にロックンローラーの定番であるリーゼントヘアを模して派手なライブパフォーマンスを演じた平尾昌章、山下敬二郎、ミッキー・カーチスをはじめとする和製ロカビリアンの面々方が、むしろプレスリースタイルの正統な継承者と言えるかもしれない。
日本にロックが浸透する以前に登場した小坂の存在は、全盛時代の楽曲がほとんどカヴァーであったがゆえに、今日では過少評価されているきらいもあるが、演歌・歌謡曲が全盛の時代にウエスタン調のロックという独自のスタイルで一世を風靡し、彼の追従者による本格的な和製ロック時代の幕開けをリードした点において、日本のロック史上のパイオニア的存在であることは間違いない。プレスリーの全盛時代にあたる昭和三十一年から三十二年にかけて、プレスリーの楽曲のカヴァーレコードをリリースしたのは小坂しかいなかったのだ。
そればかりではない。小坂とその後に続くプレスリーフォロワーたちとは決定的な違いがあった。
平尾昌章や内田裕也らがいわゆるプレスリー唱法をそのまま真似したのに対して、小坂は外国人歌手の歌真似には定評があったにもかかわらず(進駐軍の間でも折り紙付きだった)、プレスリーの模倣を良しとせず、カントリー風のオリジナル唱法を貫いたのだ。
そのことは結果として、ただの物真似ではなく個性的な小坂版プレスリーソングとして、日本ではオリジナルバージョンに勝るとも劣らないほどのレコードセールスにつながった。逆に平尾昌章の歌うプレスリーのカヴァーは、プレスリーを意識しすぎるあまり没個性的になってしまい、ファンの間では不評だった。
昭和三十三年二月、第一回日劇ウエスタンカーニバルが開催され、ようやくわが国でも本格的なロックブームが訪れようとしていたが、これまでのロックシーンの牽引車であり、そのこけら落としに最もふさわしいヴォーカリストである小坂が、記念すべきロックの祭典のステージに姿を見せなかったことは、小坂ファンだけでなく日本中のロックファンを落胆させた。
これは前年十二月にワゴンマスターズを脱退した小坂が、松竹と専属契約を結んだことによるものだ。 ウエスタンカーニバルは東宝系の主催であるため、映画会社としてライバル関係にある松竹所属の小坂が後発の和製ロカビリアンたちと競演することは叶わなかった。
そういった背景に加えて、前年から映画出演が相次ぎ、映画主題歌を歌う機会が多くなった小坂は、世のロカビリーブームに背を向けるかのように、次第にロックからも離れてゆき、ソロになってからリリースしたシングルは、ほとんどがウエスタンか歌謡曲であった。シングルカヴァーしたプレスリーの楽曲は、『監獄ロック』(昭和三十三年二月)と『嵐の季節』(昭和三十六年九月)に過ぎず、意図的に十八番だったプレスリーからの脱却をはかっていることがわかる。
それまでカヴァーヒットしかなかった小坂にとって、オリジナルの『青春サイクリング』がこの年大ヒットしたことも、「脱ロック」に拍車をかけた。『青春サイクリング』はそのタイトルから察せられるとおり、牧歌調の青春歌謡に過ぎず、この曲で三十二年度の紅白のステージに上がった小坂の姿からは、いまだロック界の頂点に君臨するエルヴィス・プレスリーのイメージは微塵も伺うことが出来なかった。
この頃から本格的に役者への道を志していた小坂は、映画界では青春映画のアイドル的な存在に過ぎなかったものの、映画の斜陽化とともに、活躍の場をTVに移してからは、渋い名脇役として息の長い活躍を続けた。
俳優業が中心になってからも、時折吹き込んでいた歌謡曲レコードはそれなりの売り上げを記録し、昭和三十三年まで三年連続の紅白出場を果たしている。
一時期、音楽活動から遠ざかっていた小坂が、サンズ・オブ・トーキョーというバンドを従えて、再び都内のジャズ喫茶でステージを踏むようになったのは、昭和三十六年のことだが、その間もずっとミュージックライフの人気男性歌手投票でトップテン内に留まっていたのだから、ヴォーカリスト小坂の人気は根強いものがあった。
芸能界でこれほど一時代を築きながら、石原裕次郎や美空ひばりの知名度よりもはるかに劣るのは、ヒット曲はカヴァー曲中心であり、そのジャンルもC&W、ロック、ポップス、歌謡曲と一貫性がないため、音楽性の評価が低いからだろう。
実際小坂の歌うロックは、泥臭く洗練されていないため、今の世代が聴いても何の感銘も受けないかもしれない。彼の十八番だったプレスリーのカヴァーにしても、もっと上手く歌えるアマチュアがたくさんいる。
それでも小坂のレコードは本家プレスリーの日本発売盤よりも売れ、芸能人として空前の人気を獲得したのは、まだ英語に疎い人が多かった時代、プレスリーの英語よりも日本語の歌詞の方が口ずさみ易かったことや、ライブハウスなどで歌う姿を目の当たりに出来た小坂の方に親近感を感じるファンが多かったことに尽きる。
そういう意味では、小坂一也は一過性のアイドルだったのかもしれないが、レコード会社がC&W曲のつもりで小坂に歌わせることになった『ハートブレイク・ホテル』にしても、もし小坂が大ヒットさせなければ、プレスリーの楽曲をカヴァーする追従者も現れず、日本のロックの夜明けはまだ先の話だっただろう。
仮に当時若い女性たちの間でカリスマ的人気を誇っていた小坂以外の歌手が『ハートブレイク・ホテル』を歌ったとして、果たしてヒットしていただろうか。
そう考えると、小坂はプレスリーを教祖とする創世記のアメリカンロックを日本に紹介した伝道師的存在であり、少なくとも日本の音楽業界の中では、キリスト教のペテロとパウロ並みの貢献度があったと評価してもよいのではないだろうか。
小坂は歌そのものより、反抗的なムードやライブパフォーマンスなどのビジュアル的な魅力でスターの座に就いたが、映画俳優に転向した後は、模範青年的な役柄が多く、銀幕のスターにはなれなかった。文芸色の強い松竹より、アクション系の日活か東映と契約していた方が、もっと個性が生かせたような気がする。