リセマラスイッチ
ある夏の夜、ふらふらと歩いていた若い男が、偶然夜市を見つけた。「今日はお祭りでもあるのか」男は少し疑問に思ったが、大してその疑問は追いかけなかった。男は物事を深く考えず、向こう見ずで浅はかな性格だったからだ。その夜市はあまり見たことのない物を売る店が多かった。
主蛭の串焼き、ひめなまずそば、焼きじにゅうば、ヤルヤル釣り、ヒキズリアメ、サルマタホルモン焼き………。
どれも一体何のことだがよくわからないものばかりだ。しかし、妙に興味を惹き、気が付けばずいぶん長いこと見て回っていた。そして、男はある雑貨売りのところまでたどりついた。店主は大きな麦藁帽を被り、落ち窪んだ大きな目に、鷲鼻が印象的だった。年の頃は全く判別がつかず、30代と言われれば層にも思えるし、70代と言われれば、それはそれで納得もできるような男だった。
「らっしゃい」
「いや、別に何か買おうと思っているわけではないんですが」
「いやいや、そうと言わず、これを持って帰りなさい。あげるから」
店主はニヤリと笑い、古ぼけた小さな木箱を男に手渡した。男は、断ろうと思ったのだが、店主の目が怖くて何も言えなかった。そしてまるで操られるかのように、それを家まで持ち帰った。
箱をあけると、プラスチック製と思われる、赤い丸いスイッチのようなものが出てきた。それと小さな褐色に色褪せた紙切れ。紙きれにはこう書いてあった。「これを押すと、人生をやり直せます。ただし三回まで。」と筆で書かれていた。
男は、その言葉を全く信用していなかったが、とりあえず押してみた。築50年は経っている、畳張りの安アパート。借金まみれの生活。転々としてうまくいかない仕事。冷めた恋人との関係、男にはリセットしたいものは幾らでもあった。
一瞬、視界が白く光り、気がつくと男は見知らぬアパートの一室にいた。家具は新しく、財布には現金が詰まっていた。借金の督促状も、恋人の冷たいメッセージも消えていた。鏡を見ると、肌はつややかで、なぜか数年前の自分の姿だった。「若返った?」と驚きつつも、男は乾いた笑い声を上げた。
「最高じゃん、これ!」
だが、新しい環境も長くは続かなかった。仕事はすぐに退屈になり、新しい恋人も彼のわがままに愛想をつかした。一回目のリセットは、結局同じような失敗の繰り返しだった。「もっとうまくやれるはずだ」と男は再びボタンを手に取った。
次に目覚めたのは、大学の寮のような部屋だった。カレンダーはさらに数年前を示し、鏡には20歳前後の自分が映っていた。体は軽く、あのときのように何でもできるような気がした。だが、若さは男の性分を変えなかった。派手な遊びで金を使い果たし、友人を裏切り、気づけばまた孤独だった。
「次こそは」と、男は三回目のボタンを押した。今度は、高校生の自分に戻っていた。両親からまだ絶縁もされておらず、自室で好き勝手にしていた高校生の自分だった。
だが、中身は成人男性である男は、周囲の子供っぽさに苛立ち、すぐに学校を飛び出した。親からくすねてきた金で自由を謳歌するも、すぐに金が底をつき、未来の知識も大して役には立たなかった。焦りと苛立ちの中、男はボタンを手に取った。ふと小さな紙の文言が、脳裏をよぎった。「ただし三回まで」
しかし、男が気にしたのは一瞬だった。「そんなの、どうでもいい」男がボタンを押した瞬間、一瞬世界がぐにゃりと歪んだように感じられた。そして男の意識は、ほぼ消えた。ほぼというのは、死んだわけではなかったからだ。ただその意識は、小さな小さな一つの点のようなものだった。
数年後、町の外れに怪しげな見世物小屋が現れた。色あせたテントの中には、奇妙な品々が並ぶ。六本脚の羊の剥製、喋るオウム、ガラス瓶に浮かぶ人魚の骨。そして、ひときわ目を引く展示があった。
「永遠に死ぬことのない赤子」
ガラスケースの中に、白い肌に紅の刺した頬を持つ、赤ん坊が横たわっている。生命の兆候は感じられるのに、全く動かない。見物人たちは囁き合う。「これ生きているの?」「いや、人形だろ……」
誰も本当のことは知らない。赤ん坊は、かつてのあの男だ。あのボタンは4回以上押されると故障し、無限に押し続けられるのと同じことになる。押した者は無限に若返り、生後0秒の牢獄に閉じ込められる。死ぬこともなく、未来もない。見世物小屋の主人は、例の鷲鼻の男だった。夜な夜なテントを閉めるとき、赤ん坊のケースに目をやる。「良かったな、思う存分リセットできて」男はニヤニヤしながら呟いた。そして、赤いあのスイッチが、ケースの隅に鎮座していた。