第三話 澄川彩芽
朝焼けが、薄ぼんやりとカーテン越しに部屋を照らす。
その光にそっと肩を叩かれるように、僕は自然と目を覚ました。
——いつもなら、まだ寝てるはずなのにな。
昨日あんなことがあったからか、今日は妙に早く目が覚めてしまった。枕元の時計を見るとまだ7時前。
寝ぼけてまだ明瞭としない思考の中、昨日あの後、死神の彼女——アヤメに言われたことを思い出す。
——あなたは、あの時死ぬはずだったの。私が死神として魂の排除を行った、あの時に。
昨日の、あの猛烈な胸の痛み。彼女の言うことが正しいのなら、原因はそれだろう。
どうやら僕は、彼女が目の前に舞い降りたあの瞬間に死ぬ運命にあったらしい。しかし、運命の悪戯により生き残り、死神による魂の排除さえも跳ね返した。
——正直私にも何が起こっているのかは分からない。ただ一つ確かなのは、あなたはもはや普通の 人間として生きているわけじゃないということ。それが何故なのか、私には説明できない。
少し顔を俯けながら、彼女は言った。
自分が特別だなんて思ったことは無い。
無気力で向上心がなく、消極的で気の弱いヘタレ。街中に溢れている典型的な日本人、それが僕だった。
それなのに、
——普通の人間として生きているわけじゃない。
彼女はそう言った。
到底、現実だとは思えない出来事が起きている。
それも、ただでさえ余裕のない新学期早々に、だ。
何もかもが情報過多で、思考がまとまらない。
頭の中で騒がしい現実がぐるぐると円を描いている。
……とりあえず、もう一回寝るか。
そう思い、目を閉じて布団を頭までかぶった。
その時だった。
カチリ、とドアノブが回る音。
続いて、ギィ……と、ゆっくりと扉が開く。
——なんだ?強盗か?
一瞬、そんな最悪の可能性が脳裏をよぎる。
けれど、昨日も確かに戸締りをしたはずだ。
それに、強盗や不審者にしては動きが緩やかすぎる。
その人影は、のそのそと部屋を移動してこっちへ迫り来る。
そうして無防備な僕の横までやってくると——
ぴとっ。
頬を、指で突いてきた。
「おい、何してるんだ」
「うわえっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」
耳元から珍妙な声が聞こえてくる。
かえって冷静になり、枕元のスイッチを叩いて電気をつけると——
そこには、変な顔をしたまま固まる幼馴染の雫の姿があった。
すでに制服に着替えており、胸元には大きなリボンがキュッと結ばれている。
「人の部屋に勝手に忍び込んでおいて寝顔を盗み見ようとは、いい度胸じゃないか」
そう言うと、僕はきっと雫の目を見つめた。
「ち、違うの!!」
雫は慌てて両手をぶんぶん振って叫ぶ。
「見ていたわけじゃなくて、これにはちゃんとした理由があって、あの、その……!」
雫にしては珍しく歯切れが悪い。ばつの悪そうな表情を浮かべて手をもぞもぞとさせている。
部屋に残るのは、早朝特有の静けさと、ふたりの間に流れる気まずい空気。
「……いいから、早く部屋から出てけ。いま着替えるからそれまで外で待ってろ!!」
何となく居心地が悪くて、そう言い放って雫を部屋の外へとつまみ出す。
こんな時間に何をやってるんだか、まったく……
頭の中で呆れながら、ゆっくりと扉を閉める。
「……っていうか、お前毎日こんなことやってたのか?」
「ち、違うから。今日だけ!!今日だけだから!!」
雫は大声で叫んだのち、いきなりしゅんとして少し肩を落とす。
「……朔夜、昨日朝から元気なかったでしょ? その後もずっと体調悪そうだったし。だから、病気なんじゃないかって心配になって、それで、つい……」
「し、雫……!」
そんなにも僕のことを考えていてくれてたなんて……!
いつもは煩くて世話焼きでお節介で邪魔で理不尽で傍若無人で生意気でついでに態度もデカいけど、
やっぱり持つべきものは幼馴染だな!
「ふっ、ちょろいわね」
「てめえ」
そうして雫に掴みかかる。
しかし雫はするりとかわし、下に降りようと階段へと向かう。
途中、ふと振り返って、思い出したかのように呟いた。
「まあ、なんにせよ元気そうでよかったわ。」
その言葉を残し、雫はドタドタと音を立てながら階段を降りて行った。
制服に着替え、階下へと足を運ぶと、香ばしい目玉焼きの香りが鼻腔をくすぐった。
朝の光が斜めから差し込むキッチンでは、雫がいつものように手際よくフライパンを操っている。
「……わざわざここで作っていかなくてもいいだろ…….」
僕がぽつりと言うと、雫は笑みを浮かべながら返す。
「あら、せっかくキッチンがあるんだから使ってあげないと可哀そうでしょ? それに、うちでやるとお母さんが『家族全員分作れ!!』ってうるさいから」
そう言って雫は華麗な手さばきで二つの目玉焼きを皿に滑らせる。
ちんまりと盛られたサラダと、きつね色に焼かれたパン。その間に半熟の黄身が映える目玉焼き。彩りにも気を遣っているあたりは、さすが優等生というといったところか。
「ん、ありがと。……こっちも朝食を恵んでもらってる立場だからな、別に文句を言う筋合いはないけどな」
僕は自然と笑顔になってそう言った。
「まあ、キッチンを使わせてもらってるのは事実だし、これくらいは当然よ」
雫も負けじと笑い返し、日常の穏やかな空気が部屋に戻ってきた。
昨日までの慌ただしさが嘘みたいに、時間が緩やかに流れていった。
朝食を終え、僕たちはそれぞれの身支度を整えた。
外に出ると、涼しい風が肌を撫で、澄んだ空気の中で朝日が街を優しく照らしている。
新しい季節の始まりを告げる、微かな高鳴りと落ち着きが混ざって、今日からとうとう授業が始まるのだという現実が胸に静かに染み渡った。
教室に入ると、周囲は穏やかで、昨日までの浮き足立っていた雰囲気は身をひそめ、どこか落ち着きを取り戻していた。
そのなかで、隣の席の澄川彩芽が、どこか緊張した面持ちで机の上で手を組み、虚空を見つめている。
こちらに気がついた彼女は、一瞬驚いたように目を丸くしながら、気まずそうな顔でこくりと一度だけ頷いた。
……なんだそれ?
澄川彩芽。
昨日まで、彼女はただの大人しいクラスメイトだった。特に誰とも話さず、目立たず、存在感があるんだかないんだかよく分からない存在。一応ご近所さんとしてそれなりに仲良くしながら、それほど深く関わることは無いだろうと、そう思っていた。
——けれど、昨日。僕は彼女に殺されかけた。
文字通り、命を奪われる寸前だった。
胸の奥を締め付けられるような痛み。
世界が歪み、視界が白く染まっていく感覚。
意識が途切れかけたその瞬間、彼女はそこにいた。
そうして僕は知ってしまった。
澄川彩芽の正体が、人の魂を刈る死神であることを。
彼女は僕を殺そうとした。
けれど——なぜか、僕は死ななかった。
彼女の手が魂に触れるその寸前で、何かが狂った。
死の運命はねじ曲がり、彼女の死神としての試みは失敗した。
そのあと、彼女は別の女性の魂を刈った。
容赦なく、例刻に、けれどどこか痛みを孕んだような顔で。
彼女は確かにあの女性を”殺した”んだ。
僕はその光景を、ただ見ていた。
何も言えず、何もできず、非現実感の中に心だけが置き去りにされたまま——。
その女性は、いつしか化け物の姿を纏っていた。
僕は恐怖に足をすくませ、身動きが取れなかった。
そんな僕の前に、彼女が静かに立ちはだかった。
そうして彼女は、その化け物を一撃で倒した。
僕を殺そうとしたはずの彼女が、なぜか——僕の命を救ったのだ。
「おはよう、えっと……澄川さん…..?」
僕は席に着き、リュックサックを机の横に掛けると、恐る恐る澄川さんに声をかける。
昨日あんな事があった後で、こうしてまた普通にクラスメイトとして対面すると何を話していいのか全く分からなかった。
そうして、ぎこちなくバックから筆箱を取り出した時、澄川さんがいきなり立ち上がり、両手を机に叩きつけて鬼気迫る表情でこっちを向いて言った。
「ちょ、ちょっと、話があるから……今、いいかな?」
「ん? まあいいけど……?」
「こっちきて」
彼女は僕の袖をそっと掴んで、軽く引いた。
そうでもしないと逃げられると思われているのだろうか……
たどり着いたのは、校舎の屋上だった。
朝の空気はまだひんやりとしていて、静寂が辺りを包んでいる。
人影は一つもなく、ただここだけが時間の流れを忘れたように、落ち着いていた。
……今まで来たことなかったけど、案外広いんだな。
高いフェンス越しに、街の景色がぼんやりと霞んで見える。
「昨日のことで、ちょっと話しておきたいことがあって……」
唐突にアヤメが切り出す。
その表情は、どこか覚悟を決めたようにも、戸惑っているようにも見えた。
「……うん。君は——」
僕が言葉を待つと、彼女は小さくうなずいた。
「……そう。私は、死神。昨日あなたも見たように、私たちは人が最期を迎えるときにその魂を刈って、確実に殺す」
「ちょっとまって、死神って君以外にも居るの?」
そう尋ねると、彼女はぴたりと動きを止めた。
一瞬、反応が遅れたかのように、わずかに間が開いて——
「え?」
小さく漏れた声とともに、彼女は瞳を見開いた。
「う、うん。もちろん私以外にも死神は居るよ……。だって、一人で全員の魂を刈るなんて、大変じゃない?」
彼女は「当然のことでしょ?」と言いたげな顔で、少し困ったように笑った。
……死神って、なんかもっと高次の存在かと思ってたけど、意外と人間と変わらなかったりするのかもな……
「う~ん。まあ、そんなもんか。死神って、もっと全能なものなのかと思ってたよ」
そう呟くと、アヤメは小さく首を振った。
「そんなことないよ。あなたは人間で、私は死神。たまたま、そう生まれついただけ。違いなんて、本当にそれだけなの」
一拍置いて、彼女はぽつりと続ける。
「……私たちだって、できないこともあるし、失敗することだって当然ある。死神だからって、神様みたいに完璧なんかじゃないの」
そう言って、彼女は手を固く握りしめた。
その声には、自嘲とも、寂しさともとれる響きが滲んでいた。
まるで、これまでに重ねてきた”失敗”のひとつひとつを、落とさないように自分の中で必死に抱えているような。
攻める誰もいない代わりに、自分自身で自分を責め続けてきたような——そんな声だった。
「でも、昨日みたいなことは初めてだった。魂の排除を跳ね返すなんて……今までに一度も起こったことがないし、聞いたことがない。そもそもあなたが今ピンピンと生きていること自体おかしな話なの。……何か、心当たりはないの?」
「……そういえば、あの少し前に、変な奴から謎の液体を渡されたな」
「変な奴?」
「たしか……名前は、エス、とか言ったかな?」
「エス……!? あなた、エスに会ったの?」
「あ、ああ。君が現れる少し前に、あいつの方から俺に接触してきたんだ。そういえば、反乱因子がどうとか、何かぶつぶつ言ってたな」
「……反乱因子?」
アヤメは小さく眉を顰め、視線を空へとさまよわせた。
風に触れる前髪の隙間から覗くその瞳は、何かを探るように遠くを見つめている。
「死神の間で、そんな言葉は聞いたことがない……少なくとも私は……。でも……エスはいつも難しい言葉を使うから、何か別の深い意味があるのかも」
「とにかく、そのエスにピンク色の薬を渡されたんだ。死にそうになった時にこれを飲めって」
「……なるほど」
「それで、君が現れた時にそれを飲んだんだ。そうしたら……」
「……なるほど」
無機質にそう繰り返すと、アヤメは思索顔になり、何かを考えるように顎に手を添えた。
そしてくるりと身を翻し、屋上をゆっくりと歩き出す。
歩きながら、彼女は「うーん、うーん」と低いうなり声をあげ、時折空を見上げてはまた俯いた。
そうして、しばらく円を描くように歩いたのち、ぴたりと足を止めた。
——何かわかったのか!?
そう思って声を掛けようとした、その時。
「あ~もう!全然分からない!!」
突然、アヤメが頭を抱えて叫んだ。両手でぐしゃぐしゃと自分の髪をかき乱しながら、膝を少し曲げて項垂れる。
「こうして……あなたと話したら、何か分かるって……思ったのに……」
彼女の声はかすれ、語尾はほとんど風に溶けそうなほどだった。
「……話せば話すほど、わけが分からなくなっていくなんて……」
彼女は涙目になりながら呟く。
「まあ、いいじゃないか。別に全部を理解する必要なんてないだろ? 僕はこうして今も元気に生きている。僕としては、それだけで十分だ」
そう言って僕はアヤメの肩をそっと叩く。
「君だって、別に不都合なことがあるわけじゃないだろ?」
笑顔でそう言うと、アヤメは少し顔をそむけて、少し口をモゴモゴさせながら言った。
「……その、『君』っていうの、なんか気持ち悪いからやめてほしい」
——っな!! 気持ち悪い!?
一見、大人しく気の弱そうな彼女から唐突に放たれたその言葉に、思わず僕は肩を落とす。
そうか、そうだよな。だって彼女と知り合ってからまだ一日しか経ってないんだ。軽々しく『君』なんて呼ぶのは良くなかったよな……
「……ごめん。そうだよね。『君』なんて二人称、そりゃ気持ち悪いよね。そもそも、そんな深い仲じゃないし。言葉のチョイスが、気取ってるナルシシストみたいだし。嫌だったよね……ははっ……」
あまりの衝撃に、誤魔化しのような言葉と、渇いた笑いしか出なかった。
「あ、いや、ちが、違うの!! そうじゃなくて、気持ち悪いっていうのは言葉の綾っていうか、別に気持ち悪いって思ったわけじゃなくて……ただ、なんか、ちょっと照れ臭かっただけで……!」
顔を真っ赤にして視線を泳がせながら、アヤメは言葉を継ぎ接ぎするようにして言った。
「……とりあえず、私のことはアヤメって呼んで。」
そう言って視線を床に落とした。
……なんというか、その、不器用さというか、慣れてなさというか。
昨日からなんとなく思ってはいたけれど、
「もしかして、君——アヤメ、コミュ障か?」
軽く笑って言うと、彼女の肩がぴくりと跳ねた。
「!? そんなことないし!」
あまりにも分かりやすすぎる反応に、つい苦笑がこぼれる
——もう少しいじってみるか
「あ~、そういえば、昨日だって、朝ちょっと話しただけなのに『仲良くなった人』だなんて言ってたよな~?」
その瞬間、アヤメは目に見えてしゅんとした。
眉を下げて、少しうつむきながら、ぽつりと呟く。
「そ、それも、言葉の綾ってやつで……」
落ちた語尾が、少しだけ胸に引っ掛かる。
気づけば、彼女の表情には、ふっと影が差していた。
「友達だって……これから、いっぱい作るし……」
声は尻すぼみになり、やがて空気に融けて消えていった。
そうしてどこか諦めたような微笑を浮かべて、ぽつんと続けた。
「やっぱり、少し言葉を交わしたくらいじゃ普通は『仲良い』って言わないよね、”普通”は……ごめん」
——!!
ちょっとからかっただけのつもりだったのに、傷つけてしまったかもしれない。
「っ、あ、いや、冗談だって! こっちこそ、ごめん!」
慌てて言い訳のように口を挟んだ。突き放したつもりなんてなかったのに、彼女の沈んだ顔がやけに胸に刺さった。
「それに、今年度も始まったばっかりだぜ? これからどんどん仲良くなればいい。それだけのことだろ?」
一瞬、アヤメは驚いたように目を見開いた。
けれどすぐに顔をほころばせて、視線をそらしながら、
「……ん。たしかに、それもそう」
小さく頷き、こちらを見上げるように顔を上げて、小さく口元を動かした。
「……よろしくね……えっと、」
言いかけたところで、困ったように僕を見つめる。
「……ああ、朔夜でいいよ」
僕が代わりに言うと、アヤメは目を輝かせて——それから、小さく笑った。
「……じゃあ改めて、よろしく……朔夜!」