第二話 死神――アヤメ
「どうして、あなたは生きているの?」
それは、僕の生を根本から否定する言葉であったのかもしれないし、あるいは、僕の生の意味を必死に見出そうとする、そんな試みの一環であったのかもしれない。
——なぜ、生きるのか。
そんな、誰もが中学二年生の頃に捨ててきたはずの、言うだけで恥ずかしくなるような問い。それを、彼女は何の躊躇いもなく僕に投げかけてきた。
彼女は少し怯えるような表情を浮かべ、震える声で続けた。
「あなたは……いったい何者なの? さっきだって、この位相世界で動けていたし……」
その言葉を口にした瞬間、彼女はしまったと言わんばかりに両手で口元を覆った。水色の瞳が、静かに揺れる。彼女は一瞬何かを言おうとして口を開いたが、再び言葉を飲み込むように黙り込む。
けれど、すぐに何かを思い出したかのように顔を上げた。
「……とにかく、あなたはここで待っていて。絶対にここから動かないで」
彼女は立ち上がると、僕に背を向けた。そしてまるで空間を裂くように両手を広げ、なにか聞き取れない言葉を唱え始める。
その瞬間、僕は無意識に彼女の腕を掴んでいた。いや、ひょっとすると、心のどこかで彼女から離れてはいけないと思っていたのかもしれない。
「……え?」
彼女は驚いたように振り返る。
「ちょっと……は、離して……!」
そう言って彼女は手を振り払おうとする。けれど僕は、逆にその腕を強く握り返した。
——絶対に離してやるもんか。
この何もかもが狂ったこんな世界の中で、彼女だけが唯一、僕と元の世界とを繋いでくれているような気がした。もしこの手を離したら、この不可思議な世界から二度と抜け出せなくなってしまうような、そんな予感がした。
そうこうしていると、眩い光が僕等二人の体を覆い始める。
そして、世界が揺らいだ。
重力の軸がねじれ、内臓が裏返るような、ひとく歪な感覚が身体を貫く。少しでも気を抜けばすぐに失神してしまいそうだ。
そして、眩暈の中で意識が宙を舞い――気がつくと、知らない場所に立っていた。
目が回り、身体がぐらついて膝をついた僕をよそに、彼女は何事もないかのように立っていて、一振りで僕の手を振り払うと、そのまま走り出した。
すぐに追いかけようと立ち上がるが、体の奥から吐き気が込み上げてきて、思わずその場に蹲る。
しばらくして吐き気は収まったが、彼女の姿は、もうなかった。
見渡す限り紫色に染まった世界の中、僕はただ一人、ぽつんと立ち尽くしていた。ここからはもう、元の世界に戻れないのかもしれない——そんな漠然とした不安が胸を締めつける。
そのとき、どこからか歌が聞こえてきた。澄んだ、けれどどこかもの哀しいそんな旋律。不思議と心が軽くなっていくような感覚がした。
そうして僕は、吸い寄せられるようにその歌声の方へと歩いていく。
歩道橋の下。
彼女は、血だらけで地面に横たわる女性の傍に立っていた。
彼女の顔は、あの時と同じ。穏やかで、どこか悲しげな目で、その女性のことを見下ろしていた。
その女性は見るからに死に向かいつつあったが、時折ビクビクと動くその胸が、かろうじて命の糸を紡いでいることを物語っていた。
——助けなきゃ。
そう思った刹那、彼女は女性の首元に手を添えた。
瞼を伏せ、そうして、さっき僕にやったように、その指に軽く力を込める。
青白い光が女性の体全体を包み込む。
次の瞬間、女性の胸が一度大きく波打ち、そして——動かなくなった。
「……なに、してるんだ……?」
声が震えていた。自分でも聞き取れないほど、掠れた声だった。
生まれて初めて、生と死の境を見た気がした。
「救急車、いや、その前に止血……! 早く、何か巻けるもの……!」
あまりの状況に、思考は散りかけていた。自分の鼓動、そして息遣いばかりが鼓膜を揺らす。そんな僕に、彼女は無表情で冷たく言い放った。
「もう、何をしても無駄よ……」
言葉の意味が理解できなかった。いや、理解しようとすら思わなかった。目の前で人が倒れている。それなのにこいつはこんなにも冷静で、こんなにも残酷なことを言いやがる。目の前には生きようとする人間がいる。それだけは確かなはずなのに。
「そんなわけない!さっきまで確かに動いていたんだ、生きていたんだ……。厳しい状況かもしれない……それでも、まだやれることが……」
言いかけたところで、彼女の声が鋭く切り込む。今までの小さく細い声からは想像できないほど、強く大きな声だった。
「やれることなんてない。だって——今、私が殺したんだから。」
——何を言っているんだ、こいつは? 殺した……?
彼女はうつむきながら、消え入りそうな小さな声でつぶやく。
「……私は、死神だから……。だから、もう、彼女は助からないの。」
そんなわけの分からないことを言う。
思考が追い付かない。死神? こんな状況で、ふざけているのか……?
しかし、彼女はあくまで冷静だった。透き通った目で真っすぐに僕を見返してくる。
その意味を問い質そうとした瞬間、
「……ううっ」
背後から、濁った呻き声が上がった。
咄嗟に振り返る。
視界の端で、さっき死んだはずの女性が、ぐらりと体を震わせて立ち上がろうとしていた。
それはまるで、裏返った虫が必死に身をよじり、元に戻ろうと藻掻くかのような、生々しい”生”。
もはやそれは人間ではなく、理性なき怪物のそれだった。
そして、大きな振動とともに、女性の内部から”何か”が這い出てくる。
”それ”は、人の形をしているが、明らかに人ではない。
骨のような腕、充血した目、そして歪に開いた口。その背中には、まるで蛾の羽のような、見るだけで不安を誘う奇怪な模様の翼が生えていた。
あまりに現実離れした光景に、体の震えが止まらない。今すぐにでも大声で叫びたい衝動を覚えるが、体を異様なまでの冷や汗が這いまわり、喉の水分を奪われて声は一切出せなかった。
そんな僕の横を、彼女は言葉なく駆け抜けた。
すぐさま僕の前に立ち、庇うように左腕を広げて言った。
「危ないから……下がって!」
鋭く、強い声だった。小柄な少女から発せられたとは思えないほど、確かな意思のこもった声。
「私が足止めするから、あなたはとにかく遠くに逃げて!」
彼女の言葉に、瞬時に逃げ出そうと踵を返すが、恐怖に震える足がもつれ、その場に滑稽に崩れ落ちた。情けなさに顔を上げ、助けを乞うように彼女の方へと振り向く。
「よりにもよって、こんな時に実体化するなんて……」
彼女の額に汗が滲む。
彼女は静かに足を踏み出した。そうして何かを低く呟き、右腕を大きく振ると、その指先から闇を切り裂くように光が生まれる。気がつけば、彼女の右手には大きな弓が握られていた。
確かめるように一瞥した後、迷いなくその弓を引き絞る。そうして突き刺すような標的を見据えた後、光を纏った矢が瞬く間に放たれた。矢は空間をうねり、風をひき裂きながら鋭く飛び、獲物を貫いた。
「ぎぇああああああああああ!」
断末魔の咆哮が空気を震わせる。耳をつんざくような、絶望に満ちた金切り声が響き渡る。
そうして、その化物は二度と動かなくなった。
僕は息を大きく吐いた。震え続けていた体から徐々に力が抜けていき、ようやくその場に立ち上がる。
そうして安堵に満ちながら、命の恩人――彼女の方へ視線を向けた。
しかし、彼女は信じられないというように目を見開き、口元に手を当ててその場に膝をついたまま呆然としていた。
「まさか、私が……一発で……..?」
その声は震え、隠しきれない驚きと興奮がにじみ出ていた。
——あの弓が特別強いのかと思ったが、どうやら違うらしい。彼女自身が、自分の放った一撃に戸惑っているようだ。
やがて、彼女はゆっくりとこちらを振り返る。
「あなた、本当に何者なの……? ……あの時、あなたに触れてから、体の奥から力が湧き上がるような、そんな感覚がする……」
その言葉に、思わず声を荒げる。
「そっちこそ……何者なんだよ……? さっきから、死神だの位相世界だの……わけがわからないって……!」
問いに問いで返すと、彼女はどこか諦めたような表情でふんわりとほほ笑む。
「ここまで知られたのなら、もう……いいか。」
彼女は、どこか遠くを見るような目で、ぽつりと言った。
「私の名はアヤメ。さっきも言ったけど、私はいわゆる”死神”なの。……本当はちょっと違うんだけど、今のあなたには一番それが分かりやすいと思う。私たち死神は、人間が死ぬとき、その魂の灯を消すの。簡単に言えば、最期を迎えた人間に”死”を与える。それが私たちに課せられた使命。」
その言葉を聞き、僕は拳を固く握りしめる。
——そんなの、正しいわけ……。
その様子を見た彼女——アヤメが悲しそうな声で続ける。
「……もちろん、良いことをしているつもりなんてない。もしこの世界に、”人を殺すのは悪”って価値観があるのなら、私たちは確実に悪だと思う。」
それでも、とアヤメは続ける。
「……それでも、私はやり続ける。最期を迎えた人間の魂を放置すれば、さっきみたいに魂が世界に実体化してしまう。あなたも見たでしょう? それはとても危険なことなの」
ほんのわずか、目を伏せたまま、彼女の声に微かな震えが混じる。
「それに……何より、最期を迎えたのに、いつまでもその魂だけが取り残されて、ひとり煌めき続けるのは——きっと、とても辛いことだから。」
アヤメが僕を”殺そうと”したあの瞬間——
彼女の目に、確かに涙が浮かんでいたことを思い出す。
「……だから、君は、あの時……」
こぼすように問いかけると、彼女はその意味を読み取ったように小さく頷いた。
「うん。……だって、仲良くなった人が死ぬなんて、わたしがその”とどめ”を刺すなんて、やっぱり……苦しいから。」
アヤメの言葉には、どこか温かさと哀しさが同居していた。
良い奴なのか、悪い奴なのか、まだ今はわからない。
しかし、軽い正義感を抱える僕なんかより、誰より、彼女が一番”死”に寄り添っているということは、疑いようのない事実だった。
そんなことを考えていると、不意に頭の中に疑問がよぎった。
…….ん?……仲良くなった人?
「ごめん、……仲良くなったって、いつ……?」
ゆっくりと顔を上げてアヤメを見ると、彼女はきょとんとしたように目を見開いた。
「……まだ、気づいていなかったの!?」
信じられないというように、小さな口を大きくあけながら、彼女はどこからともなく一つの眼鏡を取り出した。
どこかで見たことがあるような気がする。だけど、いつだったか全く思い出せない。
彼女は慣れた手つきで一切ためらううことなく、それを顔にかけた。
「え……」
思わず言葉が漏れた。
そこに現れたのは——
今朝、隣の席に座っていた、クラスメイトの澄川 彩芽だった。