第一話 邂逅
「本当に雫様と同じクラス……!」
「今日も女神すぎるだろ……」
「あ、新!!いい加減去年貸した漫画とゲーム、返せよ!!」
僕たち三人が——正確には僕以外の二人が——ドアをくぐると、教室がざわめき立った。それま張り詰めていた新学期特有の緊張感が、あっという間にほどけていく。
なんだかんだ、こいつらはクラスの人気者だ。内面はともかく、顔がいいから。
……それだけで、こんなにも扱いが違うなんて。
「……うっ」
突然、胸の奥がちくりと痛んだ。
……情けない。こんな奴らに人生の不条理をまざまざと見せつけられて傷心するなんて。
けれど、その痛みは引かなかった。
むしろ、時間が経つにつれてじわじわと増し、広がっていく。
……違う、これは傷心なんかじゃない——
心臓の裏側を鋭く刺されるような痛み。
命の根元を、冷たい手でぎゅっと掴まれているような、そんな……得体の知れない痛みだった。
「な~に暗い顔して。もしかして妬いてんの?」
雫がにやけながらバカにするような顔で聞いてくる。
……今すぐその顔面をぶん殴ってやりたい衝動が湧いたが、今はそんな余裕もなかった。
「そんなんじゃねえよ。ただ……」
「『ただ』、何?」
「いや、何でもない。ただの、人生の敗者の負け惜しみだよ。」
そんな軽い言葉で、誤魔化すことしかできなかった。
ホームルームが終わり、教室内にざわめきが戻る。先ほどの痛みも少しは良くなっていた。席を立ち、帰り支度をしながらふと窓の外を見ると、春の日差しが校舎を淡く金色に染めていた。
なんでもない景色のはずなのに、なぜか、それがやけに遠く感じられた。
「…….あ、あの」
突然、背後から息をひそめるような小さな声で呼びかけられる。振り返ると、そこには隣の席の女子——澄川さんがポツンと立っていた。
「あの……それ、忘れてる」
そう言って、机の横を指さす。
ああ、サブバッグか。
今日は授業が無かったからサブバッグで来たけれど、普段、サブバックなんてほとんど使わない。家に持って帰っても仕方ないからな。
「別にいいんだ。明日からはリュックだし、家にあっても邪魔なだけだから。でも、ありがとう」
そう言うと、彼女は一瞬だけ驚いたように目を開く。
そしてすぐに視線を逸らして、小さく息を吐いた。
「そ、そう。なら、よかった……」
それだけを残して、彼女はまるで何かから逃げるかのように小走りで教室を出て行った。
ふと胸の奥がざわつき始める。
やがて、それは鋭く締め付けるような痛みに変わり、まるで心臓の裏側を何かが強く掴むようだった。
……さっきから、なんなんだよ、これ。
息を呑み、右手を胸に当てる。
鼓動が強い。まるで爆発寸前の爆弾を抱えているようだった。
全身に振動が走り、息をするのも苦しくなる。
その時、教室のドアの隙間から顔が覗いた。
「朔夜? 何やってんの? 早く帰るわよ?」
聞きなれた声に、僕は現実に引き戻される。
「すぐ行く!!」
右手で心臓を軽く押さえながら、僕は小走りで教室を飛び出した。
「あー、結局なにもなかったな! やっぱそう簡単に面白いことなんてないか!!」
賑やかな下校風景の中、新がのんきな声でそう言った。
その言葉に、隣を歩いていたぴくりと反応し、雫が顔を顰めて言い放つ。
「まだ始まったばかりなのに、そうそう真新しいことなんてあるわけないじゃない。第一、”面白いこと”って何? 抽象的すぎて何も言って無いに等しいじゃない。」
「そんなこと言ったって…….! あぁ、でも雫の見下すような表情もまた良いな!! なあ、朔夜もそう思うだろ?」
雫の正論に言葉に詰まる新は、すぐに話を変えて茶化す。雫は呆れたように大きなため息をついていた。
……お願いだから僕を巻き込まないでくれ。こっちを見る雫の視線が痛い……
「おい、朔夜。黙ってないでなんか言ったらどうなんだ?」
新が僕の肩を軽く叩く。その拍子に、胸の奥で心臓がまた大きく跳ねる。二人の他愛ない会話が、そして雫の鋭い視線が、隠したい焦燥を暴こうとする。身体の奥から這い上がってくる痛みが、一層その焦りを煽った。
「ちょ、ちょっと……本当に顔色悪いけど大丈夫なの、朔夜?」
雫が僕の顔を覗きこみ、眉をひそめた。その声は、いつもより少し低く、真剣だった。
「ごめん、ちょっと腹痛いから、トイレに行ってくる。二人は先に帰っててくれ。」
掠れた声でそう告げると、僕は二人の返事も聞かずにその場を離れて駆けだした。アスファルトに響く自分の足音が、体を震わす心臓の鼓動と不気味なほどに重なった。
どれだけ走っただろう。
僕は人気のない路地裏の影に滑る込むように足を止めた。肺が焼き切れるように熱く、足は鉛のように重い。
必死に呼吸を整えるがその甲斐もなく、心臓に走る痛みは刻々と増していった。
……本格的にまずいな。これは家に帰るより、直で病院に行ったほうがよさそうだな。
そう思い足に力を入れたその瞬間、突然、目の前の垣根から少女が飛び出してきた。
彼女は無表情を顔に張り付けたまま、薄いピンク色の髪を風に靡かせながらこちらへと歩み寄る。
「あなたは、瀬名朔夜。この世の摂理の反乱因子」
唐突に言われた、そんな訳のわからない言葉。
ふざけているのかと思ったが、彼女の顔はいたって真面目だった。
彼女は、まるで小さい子に言い聞かせるような、そんな声で言葉を続けた。
「わたしはあなたに、この薬を引き渡します」
そう言って、僕の手に何かを握らせてきた。
それは試験管に入った薄いピンク色の液体。彼女の体温を帯びたまま、じんわりと手のひらに温もりが伝わってくる。
「あなたが生命の存亡の危機に瀕した際、その液体を摂取してください。取り敢えず当該の難からは逃れます。その液体は、一時的、あるいは、永久的にあなたを救うことに、あるいは、苦しめることになるかもしれない。でも、それが今のあなたには必要なことだから。」
生命の危機? そんなの今のこの状況に決まってる。でも、初対面で狂人の戯言のような言葉をぶつけてきた彼女から渡された謎の液体なんて、飲めるはずない。
僕は鼓動の収まってくれない心臓を押さえつけながら声を絞り出す。
「一体どういうことだ? 反乱因子だとか、難から逃れるだとか、わけがわからない。説明してくれ」
そう問うと、彼女は顔を僅かに傾けて答えた。
「残念ながら、私にも解りません。なぜなら、これは私の意志ではないから。しかし私はそれをあなたに渡さなければなりませんでした。『4月6日12時58分迄に瀬名朔夜にその液体を引き渡せ』イクスが私にそう告げたから。」
「イクス?イクスって誰なんだよ? それに、君は一体……?」
「イクス……彼あるいは彼女について、わたしが知りえる情報は数少ないです。その数少ない情報でさえ、あなたに話せば、わたしは重大な機密保持の戒律を犯すことになってしまう。それに……」
彼女は少し悩むように俯いた後、言葉を続けた。
「私は私の身分を明かすわけにはいきません。それは、私の立場をとてつもなく危険な状況に曝すことになるから。ただ一つ言えるのは、あなたがそれを受け取ったということは、そう長くない未来であなたは私の正体を知ることになるということです。もしその時、私が今の私の立場を奪われていなければの話ですが」
自嘲気味にそう言い捨てて、彼女は再び歩き出した。
「それと」
逆光に翳る顔を僅かに上にあげて、彼女は振り返る。ピンクの髪が慣性に倣い、左右に揺れた。
「私の名前はエス。きっと、知っておいて損は無いと思います」
そう言って身を翻し、彼女は再び垣根の向こう側へと消えていった。
僕には、彼女を追う気力なんてなかった。
朝から続く心臓の痛みなんてどうでもよくなるくらいの吐き気がさっきから続いていた。まるで、心に空いた穴の淵を指で執拗になぞられるような、そんな感触。
それに、皮膚が爛れるように熱い。
満月に照らされる狼人間も、こんな感じなのだろうか。
とうとう耐えきれなくなって、その場に崩れるように座り込む。
途端に揺らぐ視界。
ついさっきまで鳴いていたカラスの残響が鼓膜を揺らす。
街の色が、水溜りに落としたインクのように滲み、やがて空気に融けて消えていく。
紫の靄が辺りを包み、世界から”現実”の輪郭がゆっくりと剥離した。
あたりを見渡すが、そこには僕の知る世界とはまるで異なった世界が広がっていた。
赤色だけを灯し続ける信号機、降りかけの踏切、遠くに聳える送電塔。そのどれもが、僕の記憶を否定するかのように歪んで見えた。
そんな世界の中で、突然、遠くから歌が聞こえた。
どこか懐かしくて、そしてどこか切なく響く。この異質な世界ではあまりにも人間的すぎる、そんな歌声。
突然、空に走った裂け目から、黒い何かが堕ちてくる。漆黒の影が翼のようにはためき、舞い上がった砂塵は、すぐに空気へと融けて消えた。
僕の目の前に屹立する”それ”は、生きとし生ける者全ての終焉を告げるかのような、重く冷たい気配を放っていた。
何もない日常なんて、いずれ、それと気づかないうちに敢え無く壊れる。それまでの”普通の日々”なんて、はなから存在しなかったかのように。
幸せな日々なんて、過去の傷跡を誤魔化すために創りあげた幻影にすぎない。
いつか、目を背けていた現実の訪れと共に、それまで重ねた思い出を乗せて、瓦解する。
……もう、どうでもいいか。
このまま何もしなければ、きっと死ぬ。
いつもみたいに、何もできず、何もしようとせず、ただただ朽ちるように犬死するだけ。
それなら——この見るからに怪しげな薬に、賭けてみるのも悪くないか。
試験管の蓋を抜き、覚悟を決めて一気に口に含む。透き通る桃色の見た目に反して、鋭い酸味が口の中に広がった。
……これは、なかなかだな。
酸っぱさを堪えて、飲み下す。
鋭い酸味が、舌から喉、胸の内側へと痕を残すように移動していくのを感じた。
液体が心臓の近くを通ったところで、心の中で何かが”収まった”。
それまでずっと絡まり続けていた何かが、ようやくほどけたような、そんな感覚。
気づけば、心臓の痛みも、吐き気さえも、綺麗に消えていた。
……体が、軽い。
この空間に来てからずっと背負わされていた重荷を一気に降ろしたかのように、驚くほど軽い。
あれほどまでに霞んでいた視界も、少しずつ鮮明さを取り戻していく。
いままで僕の中で暴れていた何かが、静かに、確かに、その動きを止めたのを感じた。
目の前の黒い影が、ゆっくりと揺らぎながら、その輪郭を取り戻していく。覆われた霧が晴れるように、さっきまで”影”であったものが、少しずつその正体を露わにし始めた。
そこにいたのは水色のツーサイドアップの少女。
風に揺られるたび、時折うっすらと銀を帯びたその髪が靡く。
彼女はうつむきながら、どこか憐れむような微笑みを浮かべて、
「ごめんなさい……そして、さよなら……」
と、そっと呟いた。
彼女の手が首に触れる。ほっそりとした指先が、僕の体温を徐々に奪い取っていく。
手の冷たい人は、心が温かい——か。
子供の頃にどこかで聞いた、そんな変な迷信がふと頭をよぎる。
少なくとも、彼女からは悪意の欠片も感じられなかった。
逃げなきゃいけない。そう感じていたはずなのに、僕はその場で動けずにいた。
彼女は目を閉じ、ゆっくりと手に力を込めた。
その手から、まるでエネルギーの塊のような何かが伝わってくるのを感じる。
まるでこの世界に初めて触れた時のような、鮮烈で満ち足りた幸福感が胸を満たした。
僕という存在すべてを抱擁する、確かな温もりがそこにあった。
そんな感触も束の間、突如、僕の中で何かが激しく燃え上がった。
焦がれるような痛みが走り、喘ぐ声も虚しく、喉の奥から、ひゅー、ひゅー、という渇いた音が漏れる。
胸の内側から、全身を引き裂くような苦痛が襲い掛かる。
それは制御しきれぬ炎のように暴れ、ついには僕の身体の奥底から激しく跳ね返され、目の前の彼女へと照射された。
彼女は、衝撃により後ろへと倒れこみながら、ぼんやりとした光に包まれた。
恍惚とした表情を浮かべ、陶酔に浸るかのように目を閉じ、空中にその身を預けている。
まるで、僕たちの間だけ、時間が止まったかのようだった。
……それでも、僕の胸の奥に巣食った恐怖は消えていなかった。
あの液を飲む前、彼女を包んでいた黒い影——その異様な存在感。
あれは、確かに僕を”殺そうとするもの”の気配だった。
今こそ可憐な少女の外身をしている。
けれど、その内側に何が潜んでいるのかは分からない。そんな不安があった。
——逃げるなら、今しかない。
僕は迷わず、彼女の手を振り払った。
彼女の指先が空を切り、ぱっと弾けるような感触が手に残る。
その瞬間、彼女は”目を覚ました”。
止まっていた時間が、再び動き出す。
緊迫した空気が二人の間を静かに満たしていく。
僕は臨戦態勢のまま、彼女を睨みつける。
少しでも動けば、その身体に飛びかるつもりで、全身の神経を研ぎ澄ませた。
……なのに。
彼女からは、一切の敵意が感じられなかった。
ただ、ぽつりと、一言——
「なんで、どうして……」
笑っているような、怒っているような。
そんな複雑な表情は、あまりにも人間的で。
僕は戸惑い、息を吞んだまま、その場で動けなくなった。
彼女はそんな僕を見つめながら、そっと問いかける。
「どうして、あなたは生きているの?」
水色に輝く瞳の奥から、一粒の涙が、静かにこぼれ落ちた。