人魚姫の歌が消えるまで
こぽぽぽ、と泡の弾ける音を聞いて海藻のカーテンの方に目をやる。虹のように色鮮やかな鱗をきらめかせる一人の人魚が優雅にこちらへと泳いできた。
「……またあんたか」
「やっぱり、諦めきれなくって」
人魚は申し訳なさそうに笑いながら、興味深そうに薬瓶のひとつに触れようとする。私がすぐさま彼女の伸びる腕を攫って軽く叩くと、彼女はフグのように頬を膨らます。
「何度来ても同じ。私は海じゅうの嫌われ者の魔女。人魚のお姫様に作ってやる薬なんてひとつもない」
「そんなこと言わないで。あなたの作る薬は本物なのだから。きっと海じゅう探したって、あなたに代わる魔女はいないでしょ」
「知ったような口きいて。会って今日で二回目でしょうが」
私は石の上に座り、材料を入れていたすり鉢を混ぜ始める。人魚姫もその向かいの石に座り、両の頬杖をついてそれを眺める。
世間知らずの物好きが。
ひとつ嫌味でも言ってやろうと、私は彼女に話しかける。
「人間になる薬、だっけ?」
「うん。好きな人ができたんだ」
「人間が好きとか、だいぶ趣味悪いね。わたしたちを攫い、ゴミを返してくるようなあんな蛮族どもの何がいいんだか」
「あの人は違うよ。あの人は、あなたが言うような悪い人じゃない」
「どうだか。あなたが誰とどう関わったかは知らないけれど、表面上ならいくらでも繕えるものでしょ」
嘲る私に、彼女が眉をひそめる。
それが私の心をちくりと刺すようで、思わず目を逸らしてしまう。
気まずい私をよそに、彼女はけろっとした様子でこちらに指さす。
「それ、人間になる薬?」
「そんなわけない。あなたに作る薬なんかないってさっき言ったでしょ。私は私のためにしか薬を作らないから」
「どうしたら作ってくれる? あ、一曲歌おうか? わたし、この海じゅうで一番歌が上手いの」
「知らないよ。歌とか聞かないし。あなたの歌なんか一度も聴いたことないし興味もない」
そんな私の言葉を聞いている様子もなく、人魚姫は胸に手を当てて歌い始める。
海のように澄みきった声が、私の住んでいる洞窟の中で響き渡る。彼女の歌とともに溢れる泡はその歌に合わせて踊るようで、その様子に思わず見とれてしまう。
人魚姫の言っていたことは、あながち本当なのかもしれない。それは私が人生で聞いたどんな音よりも綺麗なものだった。
歌い終えた彼女がこちらの視線に気づき、私はうろたえて視線を逸らす。
「どうだった?」
「……いい、と思う」
「良かった。じゃあ、薬作ってくれる?」
「それとこれとは話が別。だいたい、そんなすぐには作れないし、あなたの言うそれは作ったこともないから」
「じゃあ、作れるようになるまで何度も来るよ。あなたがみんなが思うような嫌われ者じゃないって、わたしもう分かってるから」
人魚姫が期待の眼差しで私の手を取る。
私はあなたが思うような存在じゃない。本当の私を知れば、きっと彼女は二度とここに来ることはないだろう。
それでも、言えなかった。
彼女が他の連中と同じように私から離れていくのを考えて、どこかおぞましくなっていたからだ。
私はただ曖昧にうなずくと、人魚姫の顔がぱあっと明るくなった。
*
それから、一月が経った。
自分の家のようにだらしなく石の上に腰かける人魚姫の前に、私はひとつの薬瓶を置く。
「ほら、人間になる薬。ようやくできた」
「……うん」
いつもお日様のような彼女が、どこか浮かない顔をしている。
「どうしたの?」
「あの人はまだ、わたしのことを覚えているのかな、って。不安になっちゃて」
らしくないくらいに、弱々しく震えた声だった。
それだけ本気で恋をしている、ということだろう。人魚姫と関わり続けた今となっては、世の日陰者の私ですらもその不安は理解できる。
「大丈夫よ、きっと。あなたみたいな素敵な人、たとえ人間でも目を離せないだろうから」
「そうかな?」
「そうよ。このヘンクツな魔女に薬を作らせたんだから。もっと自信持ってよ」
緩くなった口元で笑いかけると、彼女も安堵した様子で和やかに頷く。
そんな彼女に、私は薬の説明を始める。
「その薬を飲めばあなたは人間になれる。ただし、それには制約もある」
「制約?」
「まず第一に、代償として服用者の一番の魅力が奪われる。たとえば、あなたの場合はおそらく声。あなたは二度と誰にも話しかけられないし、歌も歌えない」
彼女の笑顔が消える。
当然だ。彼女自身も誇りに思っていたものを、自ら捨てろと言っているのだ。そんなもの、誰だって嫌だろう。
「第二に、人間として与えられる脚の機能が不完全かもしれないこと。もしかしたら歩くたびに痛みが走ったり、最悪脚としてまともに機能しないかもしれない」
これは私の人間に対する研究不足によるものだった。
元々海に暮らす私たちは人間のことなどただ疎ましく思っていて、むしろ人間に興味を持つ彼女の方が珍しい。
この一月もの間、私はどうにか人間を研究してきたが、元々出不精だったことも災いし、ろくな成果が得られなかった。
「そして第三に……これが一番大事ね。服用者は好きになった人と必ず結ばれなければならない。もしそれが叶わなければ、その相手の鮮血を浴びて人魚に戻らなければならない。さもなくば、あなたは泡となって消える」
これが最大の問題だった。
私の結論では、これはほぼ劇薬だった。前までの私なら、これは嫌いな相手に飲ませるために使う。
私はこれを、これから人魚姫に飲ませようとしている。
「ごめん、これが限界だった。もっと時間をかければどうにかなったかもしれないけど、もし嫌だったら作り直しても――」
「いいよ」
彼女が薬瓶を手に取り、透き通った中身をホヤのランプにかざす。
「あなたが作ってくれた薬だもん。ここでわがままなんて言って、あなたを失望させる方が嫌だから」
そのまま、彼女は私の方へ笑顔を向ける。その笑顔は、どこかぎこちなかった。
違う。そこは意地を張るところじゃない。
あなたは私に失望して、そのまま薬を突っぱねて帰るべきだ。こんな私の不完全な薬に、これからの一生を委ねるべきではない。
そうすれば、これからも絶対に生きられるから。
「ありがとう。あなたとの日々、とても楽しかった。だけど、それも今日でお別れ」
彼女はずっと腕に携えていた巻き貝をテーブルに置く。
「この貝にはわたしの声が込められている。あなたはわたしの歌が好きだったから、お礼にこれを渡すつもりだった。だけど、これで良かった」
人魚姫は立ち上がり、出口の海藻のカーテンの方へと泳いでいく。
それからカーテンの前に来たところでくるりと振り返り、彼女は私の方へと軽く手を振る。
「こういう時、なんで言えばいいんだろうね」
「『こんなところ二度と来るか!』、とか」
「恩人にそんなこと言えないよ」
「恩人じゃない」
「恩人だよ。じゃあ……あなたに会えて良かった、とか」
人魚姫がカーテンの向こうに消えて、姿が見えなくなる。
しばらくカーテンに残った揺らぎを見つめてから、テーブルの上に残された巻き貝に目をやる。
これで、もう二度と会えない。彼女が人間になっても、泡になっても。
彼女が人魚として帰ってくる選択肢はある。ただ、彼女は絶対にそんなことはしないと、いやでもそう確信できた。
それが、私の愛した人魚姫だから。
*
人魚姫が家に来なくなって、九つほどの日が巡った。
何をするでもなくただ石に座ってテーブルの上で巻き貝に耳を当てていたところ、カーテンが揺れるのが見えて私は思わず立ち上がる。
まさか、帰ってきたのか。
私は胸のざわめきを抱えてその方へと向かうと、ちょうどカーテンから誰かが勢いよく入ってくる。
相手は私とぶつかりそうになり、思わずのけぞり尻もちをつく。
相手の方をよく見ると、人魚姫ではなかった。しかし、彼女と同じ虹色の鱗にその面影があり、心をざわつかせる。
「あっ、すみません!」
「いや、こっちこそ……どうしたの?」
「あの、人を探してて……うちの姉――人魚姫なんですけど」
人魚姫の妹……。
つうと、身体の内が冷えるのを感じる。
もしかして、私とのことを知っているのか。それで、こんなところまで来たのか。
「わたしたちに何も言わずどこかに消えちゃって。あなたが姉と仲良くしてたのを聞いてて、ここに来たんですけど。何か知りませんか?」
「……わからない」
「そうですか。ごめんなさい、お邪魔しちゃって」
目を逸らす私に、視界の端で彼女が律儀に頭を下げる。
疑っているわけではなさそうだ。しかし、それゆえに息が詰まるような心苦しさもある。
彼女の姉がどこかへと消えたのは、私のせいなのだと。
楽になりたい。いっそ吐いてしまおうかと思ったところで、彼女が声を上げる。
「あの……またここに来てもいいですか?」
「え……」
「聞いてた感じ、あなたは姉さんの好きな人だった。だからきっと、良い人なのかなって」
本気でそう思っているような、澄んだ瞳がこちらへと向けられる。
私はそれを避けるように身を翻し、背を向ける。
「噂は聞いてるでしょ。私は魔女。良い人なわけがない」
「わたしは知らない誰かの噂より姉を信じます」
「あんな世間知らずの箱入り娘の言うことを信じるの?」
「わたしもあの人の妹ですから。あなたのお話、聞きたいです」
返事ができないまま、人魚姫の妹が家を出ていくのを感じる。
これ以上何か言えば、私はどこまでも人魚姫を侮辱してしまう気がした。彼女との思い出を穢したくなかったのだ。
歯を食いしばり、手で目を覆って涙をこらえて石に座る。
どうすればよかったんだ。彼女を裏切って、「薬なんか作れなかった」と突っぱねれば良かったのか。
どのみち、そんなことはできなかっただろう。その選択は、彼女の純粋な夢を踏みにじる行いだからだ。彼女に惹かれていた私に、それは難しかった。
テーブルの上で塞ぎ込んだ私の横で、ふと綺麗な歌が聞こえる。
巻き貝に込められた人魚姫の歌声が、巻き貝の口から漏れている。人魚姫が、私のために遺してくれたもの。
そっと、巻き貝の方へ耳を寄せる。
巻き貝の歌は有限だ。この歌も、いつ聞こえなくなるかわからない。
きっと、死んでこの身が朽ちても彼女と同じ場所へは行けないだろう。私は大切な人を殺したかもしれない魔女なのだから。
彼女の歌が聞こえなくなったら、それが私の死ぬ時だ。
そう考えながら、私は現実から目を背くように眠りについた。