表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人魚姫の歌が消えるまで

作者: 郁崎有空


 こぽぽぽ、と泡の弾ける音を聞いて海藻(かいそう)のカーテンの方に目をやる。虹のように色鮮やかな(うろこ)をきらめかせる一人の人魚が優雅にこちらへと泳いできた。


「……またあんたか」


「やっぱり、諦めきれなくって」


 人魚は申し訳なさそうに笑いながら、興味深そうに薬瓶(くすりびん)のひとつに触れようとする。私がすぐさま彼女の伸びる腕を(さら)って軽く叩くと、彼女はフグのように頬を膨らます。


「何度来ても同じ。私は海じゅうの嫌われ者の魔女。人魚のお姫様に作ってやる薬なんてひとつもない」


「そんなこと言わないで。あなたの作る薬は本物なのだから。きっと海じゅう探したって、あなたに代わる魔女はいないでしょ」


「知ったような口きいて。会って今日で二回目でしょうが」


 私は石の上に座り、材料を入れていたすり鉢を混ぜ始める。人魚姫もその向かいの石に座り、両の頬杖をついてそれを眺める。


 世間知らずの物好きが。


 ひとつ嫌味でも言ってやろうと、私は彼女に話しかける。


「人間になる薬、だっけ?」


「うん。好きな人ができたんだ」


「人間が好きとか、だいぶ趣味悪いね。わたしたちを(さら)い、ゴミを返してくるようなあんな蛮族どもの何がいいんだか」


「あの人は違うよ。あの人は、あなたが言うような悪い人じゃない」


「どうだか。あなたが誰とどう関わったかは知らないけれど、表面上ならいくらでも(つくろ)えるものでしょ」


 (あざけ)る私に、彼女が眉をひそめる。


 それが私の心をちくりと刺すようで、思わず目を逸らしてしまう。


 気まずい私をよそに、彼女はけろっとした様子でこちらに指さす。


「それ、人間になる薬?」


「そんなわけない。あなたに作る薬なんかないってさっき言ったでしょ。私は私のためにしか薬を作らないから」


「どうしたら作ってくれる? あ、一曲歌おうか? わたし、この海じゅうで一番歌が上手いの」


「知らないよ。歌とか聞かないし。あなたの歌なんか一度も聴いたことないし興味もない」


 そんな私の言葉を聞いている様子もなく、人魚姫は胸に手を当てて歌い始める。


 海のように澄みきった声が、私の住んでいる洞窟の中で響き渡る。彼女の歌とともに溢れる泡はその歌に合わせて踊るようで、その様子に思わず見とれてしまう。


 人魚姫の言っていたことは、あながち本当なのかもしれない。それは私が人生で聞いたどんな音よりも綺麗なものだった。


 歌い終えた彼女がこちらの視線に気づき、私はうろたえて視線を逸らす。


「どうだった?」


「……いい、と思う」


「良かった。じゃあ、薬作ってくれる?」


「それとこれとは話が別。だいたい、そんなすぐには作れないし、あなたの言うそれは作ったこともないから」


「じゃあ、作れるようになるまで何度も来るよ。あなたがみんなが思うような嫌われ者じゃないって、わたしもう分かってるから」


 人魚姫が期待の眼差しで私の手を取る。


 私はあなたが思うような存在じゃない。本当の私を知れば、きっと彼女は二度とここに来ることはないだろう。


 それでも、言えなかった。


 彼女が他の連中と同じように私から離れていくのを考えて、どこかおぞましくなっていたからだ。


 私はただ曖昧(あいまい)にうなずくと、人魚姫の顔がぱあっと明るくなった。



 それから、一月が経った。


 自分の家のようにだらしなく石の上に腰かける人魚姫の前に、私はひとつの薬瓶を置く。


「ほら、人間になる薬。ようやくできた」


「……うん」


 いつもお日様のような彼女が、どこか浮かない顔をしている。


「どうしたの?」


「あの人はまだ、わたしのことを覚えているのかな、って。不安になっちゃて」


 らしくないくらいに、弱々しく震えた声だった。


 それだけ本気で恋をしている、ということだろう。人魚姫と関わり続けた今となっては、世の日陰者の私ですらもその不安は理解できる。


「大丈夫よ、きっと。あなたみたいな素敵な人、たとえ人間でも目を離せないだろうから」


「そうかな?」


「そうよ。このヘンクツな魔女に薬を作らせたんだから。もっと自信持ってよ」


 緩くなった口元で笑いかけると、彼女も安堵した様子で和やかに(うなず)く。


 そんな彼女に、私は薬の説明を始める。


「その薬を飲めばあなたは人間になれる。ただし、それには制約もある」


「制約?」


「まず第一に、代償(だいしょう)として服用者の一番の魅力が奪われる。たとえば、あなたの場合はおそらく声。あなたは二度と誰にも話しかけられないし、歌も歌えない」


 彼女の笑顔が消える。


 当然だ。彼女自身も誇りに思っていたものを、自ら捨てろと言っているのだ。そんなもの、誰だって嫌だろう。


「第二に、人間として与えられる脚の機能が不完全かもしれないこと。もしかしたら歩くたびに痛みが走ったり、最悪脚としてまともに機能しないかもしれない」


 これは私の人間に対する研究不足によるものだった。


 元々海に暮らす私たちは人間のことなどただ疎ましく思っていて、むしろ人間に興味を持つ彼女の方が珍しい。


 この一月もの間、私はどうにか人間を研究してきたが、元々出不精(でぶしょう)だったことも災いし、ろくな成果が得られなかった。


「そして第三に……これが一番大事ね。服用者は好きになった人と必ず結ばれなければならない。もしそれが叶わなければ、その相手の鮮血を浴びて人魚に戻らなければならない。さもなくば、あなたは泡となって消える」


 これが最大の問題だった。


 私の結論では、これはほぼ劇薬だった。前までの私なら、これは嫌いな相手に飲ませるために使う。


 私はこれを、これから人魚姫に飲ませようとしている。


「ごめん、これが限界だった。もっと時間をかければどうにかなったかもしれないけど、もし嫌だったら作り直しても――」


「いいよ」


 彼女が薬瓶を手に取り、透き通った中身をホヤのランプにかざす。


「あなたが作ってくれた薬だもん。ここでわがままなんて言って、あなたを失望させる方が嫌だから」


 そのまま、彼女は私の方へ笑顔を向ける。その笑顔は、どこかぎこちなかった。


 違う。そこは意地を張るところじゃない。


 あなたは私に失望して、そのまま薬を突っぱねて帰るべきだ。こんな私の不完全な薬に、これからの一生を委ねるべきではない。


 そうすれば、これからも絶対に生きられるから。


「ありがとう。あなたとの日々、とても楽しかった。だけど、それも今日でお別れ」


 彼女はずっと腕に携えていた巻き貝をテーブルに置く。


「この貝にはわたしの声が込められている。あなたはわたしの歌が好きだったから、お礼にこれを渡すつもりだった。だけど、これで良かった」


 人魚姫は立ち上がり、出口の海藻のカーテンの方へと泳いでいく。


 それからカーテンの前に来たところでくるりと振り返り、彼女は私の方へと軽く手を振る。


「こういう時、なんで言えばいいんだろうね」


「『こんなところ二度と来るか!』、とか」


「恩人にそんなこと言えないよ」


「恩人じゃない」


「恩人だよ。じゃあ……あなたに会えて良かった、とか」


 人魚姫がカーテンの向こうに消えて、姿が見えなくなる。


 しばらくカーテンに残った揺らぎを見つめてから、テーブルの上に残された巻き貝に目をやる。


 これで、もう二度と会えない。彼女が人間になっても、泡になっても。


 彼女が人魚として帰ってくる選択肢はある。ただ、彼女は絶対にそんなことはしないと、いやでもそう確信できた。


 それが、私の愛した人魚姫だから。



 人魚姫が家に来なくなって、九つほどの日が巡った。


 何をするでもなくただ石に座ってテーブルの上で巻き貝に耳を当てていたところ、カーテンが揺れるのが見えて私は思わず立ち上がる。


 まさか、帰ってきたのか。


 私は胸のざわめきを抱えてその方へと向かうと、ちょうどカーテンから誰かが勢いよく入ってくる。


 相手は私とぶつかりそうになり、思わずのけぞり尻もちをつく。


 相手の方をよく見ると、人魚姫ではなかった。しかし、彼女と同じ虹色の鱗にその面影があり、心をざわつかせる。


「あっ、すみません!」


「いや、こっちこそ……どうしたの?」


「あの、人を探してて……うちの姉――人魚姫なんですけど」


 人魚姫の妹……。


 つうと、身体の内が冷えるのを感じる。


 もしかして、私とのことを知っているのか。それで、こんなところまで来たのか。


「わたしたちに何も言わずどこかに消えちゃって。あなたが姉と仲良くしてたのを聞いてて、ここに来たんですけど。何か知りませんか?」


「……わからない」


「そうですか。ごめんなさい、お邪魔しちゃって」


 目を逸らす私に、視界の端で彼女が律儀に頭を下げる。


 疑っているわけではなさそうだ。しかし、それゆえに息が詰まるような心苦しさもある。


 彼女の姉がどこかへと消えたのは、私のせいなのだと。


 楽になりたい。いっそ吐いてしまおうかと思ったところで、彼女が声を上げる。


「あの……またここに来てもいいですか?」


「え……」


「聞いてた感じ、あなたは姉さんの好きな人だった。だからきっと、良い人なのかなって」


 本気でそう思っているような、澄んだ瞳がこちらへと向けられる。


 私はそれを避けるように身を翻し、背を向ける。


「噂は聞いてるでしょ。私は魔女。良い人なわけがない」


「わたしは知らない誰かの噂より姉を信じます」


「あんな世間知らずの箱入り娘の言うことを信じるの?」


「わたしもあの人の妹ですから。あなたのお話、聞きたいです」


 返事ができないまま、人魚姫の妹が家を出ていくのを感じる。


 これ以上何か言えば、私はどこまでも人魚姫を侮辱してしまう気がした。彼女との思い出を(けが)したくなかったのだ。


 歯を食いしばり、手で目を覆って涙をこらえて石に座る。


 どうすればよかったんだ。彼女を裏切って、「薬なんか作れなかった」と突っぱねれば良かったのか。


 どのみち、そんなことはできなかっただろう。その選択は、彼女の純粋な夢を踏みにじる行いだからだ。彼女に惹かれていた私に、それは難しかった。


 テーブルの上で塞ぎ込んだ私の横で、ふと綺麗な歌が聞こえる。


 巻き貝に込められた人魚姫の歌声が、巻き貝の口から漏れている。人魚姫が、私のために遺してくれたもの。


 そっと、巻き貝の方へ耳を寄せる。


 巻き貝の歌は有限だ。この歌も、いつ聞こえなくなるかわからない。


 きっと、死んでこの身が朽ちても彼女と同じ場所へは行けないだろう。私は大切な人を殺したかもしれない魔女なのだから。


 彼女の歌が聞こえなくなったら、それが私の死ぬ時だ。


 そう考えながら、私は現実から目を背くように眠りについた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ