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君が入ればそれでいい。

作者: 犬又又

 突き飛ばされた女生徒がいた――通りすぎる楽しそうな声に反している。

 立ち止まり視線を絡め――その光景がまるで当たり前の日常のように逸らす。視界の端に捉えてはいるけれど……。

 何が正解なのか考えている。

 傍により支えるのが正解なのか。

 突き飛ばした生徒達に詰め寄り問い正すのが正解なのか。

 何事もなかったかのように振る舞い無視をするのが正解なのか。

 考えても結局行動には移せない。


 傍により助ける事が彼女の助けになるとは限らない。

 彼女彼ら達の笑い声が響くたびに彼女は何時も俯いている。

 それを視界の端に捉えていても結局は風景の一部として眺めているだけ。

 友人達もクラスメイトもみんなそう。関係ないと自分の主張ばかりを繰り返し、そして卑怯なボクは愛想笑いを浮かべている。


 帰り道、一人になるとやっと息が抜ける。

 住んでいるマンモス団地は住人が少ない。

 ボクの父は公務員で、地方へ移動となってしまった。母はそんな父が心配で月の半分は父の方へゆく。ボクは学校の都合でこっちだ。嘘。本当は月の三分の二ぐらい父の方へゆく。母は父に対して狂乱的だ。傍にいないと浮気しないか何時も心配している。

 風が吹くと目も開けていられないような細かな砂に埋もれた道と遊具と広場――聳える団地。ここだけ別世界みたいだけれど、街の中より好きだった。

 階段を登りドアの前――反対側の扉の前で、彼女は膝を抱えて蹲っていた。いつもそう。

 雨も降っていないのにびしょ濡れで、コンクリートの色をポタポタと濃くさせる。

 ここでだけ。彼女と話せるのはここでだけだ。

「また鍵無くしたの?」

「……忘れた」

 顔を上げた彼女の髪から雫が垂れた。

「家の中?」

「……うん」

「うちのお風呂入る?」

「うん……」

 家の扉を開けて彼女をお風呂場へと招き入れる。


 ボクと彼女は幼馴染だ――もっと幼い頃はこんなじゃなかった。

 彼女はもっと明るくてキラキラして男子からも女子からも人気があった。

 乳歯が生え変わった時――前歯の一本が別の方向を向いていた。たったそれだけだ。たったそれだけで。たったそれだけの事で彼女は男子からも女子からも笑われる存在になってしまった。


 性格に陰が差しニキビや体型が崩れていった。

 そして現在に至っている。もう歯の位置は矯正されているしニキビもないけれど、彼女の心は陰りを帯びたまま――。

 彼女の洗濯物を洗濯機へと放り入れる。濡れた下着に高揚する自分が嫌。それを無理やり押し込めて、気を抜くと何処までもお馬鹿になりそうで嫌。

「ごめん……」

 スリガラス。手を添えて告げるとゆっくりと手の影がスリガラスに滑り重なる。

「……いいよ。助けられても恥ずかしいし……そっ」

「そっ?」

「何でもない」


 ボクはと人生を語れば――後にも先にも日陰者。

 前に出るタイプじゃない。テストは平均点取れればいい。運動もそこまで得意じゃない。父親に武芸を習い育ったけれど、ただそれだけ。暴力は嫌い。何者かになりたかった。でも何者にもなれない。興味が無いなんてクールぶってはいるけれど本当は何も無いだけ。

「何もしなくていいからね……」

「……大丈夫なの?」

「大丈夫」

 濡れたショーツ。たったこれだけの布に支配される自分が嫌。ポイッと洗濯機へと放り込みスイッチを押す。

「ボクの服だけど置いておくから」

「……うん」

 何時ものボクの服。なるべく厚着で体型が現れないやつ。


 振り切るように台所へ移動しヤカンでお湯を沸かす。棚からカップ麺を二つ取り出し蓋を捲る。今日の夕飯はカップ麺。

 月三万円の食費。一日千円。もし上手にやりくり出来たら残りがお小遣い。

 キャベツをざく切りにして炒める。軽く焦がしたら皿に盛りゴマ油とシイタケ塩を振りまぶす。

 湯上りの彼女。着慣れたボクの服。ご飯を食べる。

「温まる……」

 カップ麺の汁を一飲みする彼女。緩む表情に良かったなんて安堵する。


 彼女の家はボクの家より複雑で単純だ。

 シングルマザー。そして彼女の母親は夜の蝶だ。これが全て。悪い人じゃないよ。

「最初はアイドルだった。けどグラビアをやらないかと話が来て、段々とエスカレートしていった。グラビアの次はヌード、そしてその次は……だからお母さんはそこでやめたんだって。でもやめたらその業界では干されてしまって。落ち込んでいた所を悪い男に慰められて騙されて生まれたのが私だって」

 彼女はそう語った。母親に聞いたのだそうだ。親子仲は悪くないように窺える。


 ご飯を食べたら一緒にゲーム。

「ねぇ……」

「なに?」

「卒業したら……どうする?」

 予定は未定――何か必死に頑張れるものが無い。これだけは誰にも負けたくはないだなんて、そんな物がボクには無かった。だから答えられない。両親は進学しなさいと話した。何も無いのなら進学するべきだと告げられた。

「わかんない」

「そっか……」

 彼女はキラキラしていた。小さい頃からずっとそう。今もキラキラしている。一重なのに大きなアーモンドアイ。口元の黒子。赤味を帯びた白い肌。それを乱すボサボサの髪。彼女はこの先どうするのだろう。そうは考えたけれど聞けなかった。聞かなかった。その先に、自分がいないのを恐れたからなのかもしれない。


 疲れたらおやすみなさい。そのまま朝までぐっすりと眠れれば良いけれど、隣に彼女がいると意識して、どうしても眠れない時はトイレで処理する。罪悪感ばかりに囚われる。

 朝は早めに起きて朝食を作る――両親よりも、彼女と過ごしている時間の方が長いのかもしれない。

「じゃあまた……」

 七時になったら彼女の母親がヘベレケで帰って来るので、そこでお別れ。

 彼女が本当は鍵を忘れていないのを知っている……。


 下駄箱に入っている彼女の靴。

 麺を啜る時の音。

 箸の持ち方。

 彼女の使っている机と椅子。

 教科書を読む時の仕草。

 すれ違う時の視線。

 唇。指の形。将来――。

 何時か壊れるってわかっていた――。

 それでも良かった。嘘。本当は良くない。


 でもその日はやってきた。

 隠し忘れた鍵が彼女のポケットから転がり落ちた。

 ――落ちた鍵の音。場が一瞬にして、まるでそれが合図でもあるかのような静けさに包まれる。

「……帰る」

「ラーメン伸びるよ」

「帰る‼ 別に‼ 隠してたわけじゃないし‼ ここにあったんだって‼ 違うし‼」

「ラーメン伸びる……」

 そんなに動揺しないで欲しい。忘れてなかったみたい。見つかって良かった。その一言で済むはずなのに、彼女は顔を真っ赤にして震えていた。

「なに⁉ なんなの⁉ 」

「忘れてたと思ってた鍵がポケットにあっただけだよね」

 壊れる関係を恐れてそれが良いのかも判断せずにフォローしてしまう。

「…そうだけど‼ なに⁉ ……帰る‼」

「ラーメン二人分……ボク食べれないんだけど」

「なによ‼」

 帰ると息巻くわりに帰らない。

「つっ……付き合いなさいよ‼」

「何処に? 買い物? 学校の近場でもいいの? 離れた所がいい?」

「……なにそれ。フルならもっとはっきり言って‼」

(付き合うって……恋人になるって事?)

 そう考えると急激に顔が張り付いて痛かった。目線を逸らしてしまう。恥ずかしい。

「わかんないよ……」

「付き合って‼」

「……何処に?」

「そうじゃない‼ ……そうじゃなくて‼」

 口元がにやけそうで困る。それが嫌で無理やり顔を引き締める。


 にやけ顔が恥ずかしくて反らす。答えられない。

「わかんないよ」

 恥ずかしくて答えられなかった。もっと求めて欲しいなんて……。もっと求められたいだなんて。

「もういいよ……帰る」

「待って‼」

 手を掴んでしまう。顔がにやけそうで困る。嫌だ。感情が乱れるのが嫌だ。

「わかんないよ……付き合うって」

「はいかいいえって答えるだけじゃん……」

 息が荒い。顔が痛い。顔が熱い。まともに視線を向けられない。

「どっち?」

「わかった。はっ……はい」

「なにそれ……。無理しなくていいよ。嫌なら嫌って言えばいいじゃん‼」

「待ってよ‼」

「離して‼ 離して‼」

 突き放されて愕然としてしまった。掴んでいた手を離してしまった。倒れている間に彼女は――玄関の開く音。喉がひりひりと痛く体に感覚がまるでなくて。ただ追いかけなきゃいけないと玄関へ。靴を履いてドアを開けると――向かいのドアが閉まる所だった。

 ガチャリと鍵の音――。

「待って‼ 待ってよ‼ ごめん‼ 嫌じゃないよ‼」

 弁明しなければと必死になる自分がいる。なりふり構っていられない自分がいる。

「嘘はいいよ……帰って」

「わかんないんだ」

「もう帰って‼」

 恋愛をした事が無いからどう反応すればいいのか、どう答えれば正解なのか、答えが自分の中に存在していなかった。

 ただ真面目に「はい」と一言告げられなかった。

 それは当然答えは「はい」だった。


 でも付き合う先の答えがなかった。何をすればいいのか何が正解なのか。どう答えれば嫌われないのか。どう答えるのが正解なのかが今更ながら頭の中をグルグル回る。

「……ごめん」

「いいって」

「付き合った事が無いからどう答えれば正解なのかわからない……」

「もういいって……」

「これだけは言わせてよ。ごめん」

「聞きたくない‼ ごめんってひどいよ」

「違う。そうじゃなくて。好きだよ。ずっと好きだった……にやけそうな顔が嫌だった。傷つけてごめん。情けなくてごめん。何時も見てるだけでごめん」

「何処か出かけるのに付き合ってって言っただけだし……勘違いおつ」

 一度拗れるとなす術はなかった。同情じゃないよ。その言葉のあまりの意味のなさに愕然とするしかなかった。スマホで弁明すればするほどにそれが間違えだと気付けなかった。

 言葉を紡げば紡ぐほど、それがどうしようもない無様でかっこ悪い言い訳になっていった。


 一週間経っても彼女は学校へは来なかった。

 彼女がいなくなっても学校は変わらない。彼女の姿がなくなっただけ。代わりの誰かが弄られる。煌めいて。楽し気で。思い出を作る人達がいる一方で何処か一つが歪だ。

 全員が全員仲良くなれない。全員が全員同じ方向を向くには異質な誰かが一人必要だから。中二病の話――。

 仲良くするにはどうすればいい――共通の敵をたった一人作るだけ。そんな誰かの台詞が脳裏を流れていった。

 玄関のドアの前。振り返るドア――一言喉から出て来なかった言葉。

 でももし告げたとして、果たして上手に付き合えただろうか。

 家に帰ると重い息が零れてしまう――二つだったカップ麺が一つだけ。彼女の残り香が少しだけ。ささくれて胸がムカムカして、言葉では形容し難い痛みに襲われて。それを発散するように彼女を想像しながら一人で果てる。その繰り返し――。最低な話。

 ごめんなさい――そうは考えてもそれ以外に発散の仕方を知らない。それ以外に心が少しでも楽になる方法を知らない。


 夏休みももう目の前――母はますますこちらへは帰って来なくなった。

 父はボクを気にしてくれている。何時も夜に電話が来る。

 ゲームをしても楽しくない。彼女がいないと何も手につかない。

 スマホを開いても、もう既読すらつかなかった。

 次はこうはならない。次はちゃんと伝える。次は――覚悟や対処の仕方を覚えるのは何時も失った後で意味がない。

 いっそうボクも父の所へ行って別の高校へ編入しようかと……。ボクの学力で編入できるかな……。


 何も手につかず。それでも容赦なく時が流れて。緋色の空が暗く沈んでゆく様を空虚に眺めて意識を失い起きたら深い夜を繰り返した――。

 夜中にコンビニへと赴いて――偶然でも彼女に出会えたらなんて、確率は高いけれど気まずくて逃げ出すだろうなとも考えていた。

 ボクでは無い誰かと歩く彼女を想像し、想像するたびに胸が掻き毟られるような痛みに襲われて、まともに立ってもいられない。それを無理やり欲で処理している。最低だ。


 また夜――インタホーンが鳴り、誰だろうとドアの覗き穴へと視線を通すと彼女だった。

 心臓が跳ねあがり。もう一度鳴らされて――荒くなる呼吸と急いで出なければと焦りドアノブを掴んで止まる。深呼吸を繰り返し、鍵を解いてゆっくりとドアを開いた。

 ドアを開くと彼女が佇んでいた。

 黒いフードと黒いふわふわの短パン。少し痩せたのか胸が強調されていて視線を逸らしてしまい妙な動作をしてしまって何をやっているんだと焦ってしまう。

「……久しぶり」

「……ひさっ久しぶり……」

 何て答えれば彼女が気に入る答えなのか考えてしまった。何を答えれば正解なのかを考えてしまった。そしてそのどれもが憶測で無意味だ。今度拒絶されたら立ち直れないかもしれない。

「入れてよ……」

「うん」


 ドアを支えて彼女を通す。流れる空気が彼女のニオイを運んできて――。

 居間に通すと彼女は椅子に座った。

「……ご飯食べた?」

「食べてない」

「食べる?」

「食べる」

 フードを取った彼女の顔。肌が少し荒れていた。髪はぼさぼさで記憶より少し伸びていた。

 カップ麺の棚へ――体勢が崩れる。重さを感じた。柔らかかった。

 彼女が圧し掛かってそれを支えた。踏ん張り振り返り、大丈夫かなと支えると――彼女は歯を剥き出して圧し掛かって来た。

 怒っている。怒っているのと心の中で問いかけてしまう。


 馬乗りになった彼女の唇。柔らかくてねっとりとして心臓が飛び出すかと――ひどい唇だった。優しくて、ひどかった。

「どんな気持ち?」

 そう問われて顔を背けてしまう。唇を手で押さえてしまう。

 下半身へと手がかかる――どうしたの。ズボンを――そこは……。

 でも抵抗しなかった。されるがままにした。期待もしていた。期待して気持ちと一緒に膨らんでいた。顔を両手で覆っていた。

 その手を押さえられて無理やり広げられてしまう。力はボクの方が強い。でもボクは抵抗しなかった。暗闇の中でも窺えるそれは、ボクが一番望んでいるものだったから。

「あっ」

 たったそれだけ――言葉を発する間に事はなされ、馬乗りになった彼女は小刻みに震えていた。体が痙攣し動けなかった。呼吸すらままならず、目が大きく見開いているのを感じていて反り返っていた。

「うっ……うぅっ……どんな気持ち?」


 体を起こして彼女へと手を伸ばしていた――袖を、二の腕、背中へと。指で掴み這わせ体を強く密着させていた。触れる面積が多ければ多くなるほどに広がる余韻は比例して、その余韻を貪るように強く彼女を抱き締めていた。首元で香る彼女のニオイを強く吸い込み感じていた。

 ゆっくりと心が緩み下がってゆく。離れたくなくて指に力を込めて強く密着した。

「やっちゃったね。これで……責任取らないとね。ざまぁー」

 耳元でそう囁く彼女。離れて顔を両手で包むと――彼女は何処か怯えて何処かバツが悪そうで不安そうで今にも泣き崩れそうだった。

 何度も唇を添える。その唇に何度も唇を添える。何度も何度も何度も。

「……心配した。すごく、心配した」

 なぜだか瞼が熱くて濡れていた。責任とかそんなのどうでもいい。彼女が傍にいる。それだけでいい。拒絶されなかった。たったそれだけの事がこんなにも喜ばしい。


 「っ」

 少しでも身じろぎをすると彼女は顔をしかめた。痛みを感じているのか頬を伝う涙が熱を帯びて熱かった。お互いの頬が張り付いて混ざり合う。

「心配した。すごく心配した。もう会ってくれないんじゃないかって」

「……何言ってるの? もう後戻りできないから。ちゃんと責任とって」

「いいよ」

「うん……そう。とるの。うん。痛い……」

「これまでどうしてたの?」

「ずっと寝てた」

「お風呂入ってないでしょ?」

「入ってない。お前のせいで」

「ご飯は?」

「お菓子食べた」

「心配した。すごく心配した。もう心配させないで」

 彼女は目を丸くしていた。


 「責任取るって……そういうことだよ?」

「恋人になるよ。好きだよ」

「……そう、そうなんだ……」

「痛そうだけど大丈夫? こういうの……経験無いから」

「思ったより痛い。すごく痛い」

「少しこのままでいよ?」

 言葉もまばらに唇を寄せ合っていた。一つ一つが熱を帯びて好ましかった。また我慢できず――体が跳ねると彼女は痛みに顔をしかめつつ、なぜだか嬉しそうだった。

「もう逃げれないね? 責任取らないとね」

「もともと逃げるつもりなんてないよ」

「断ったくせに」

「断ってない」

「断った‼」

「恋人が出来たことがないから恥ずかしかっただけ‼ どう対応すればいいのかわからなかっただけ‼ 後単純に嬉しかっただけ‼ 勘違するな‼ ずっと言ってる‼」

「同情の癖に‼」

「同情じゃない‼ 好きだ‼ むかついた‼ もう離さないから‼ ボクがどんな気持ちだったかわからないだろ‼」

「うるさい‼ 私がどんな気持ちだったかもわからないだろ‼」

 ボクは乱暴に動いて彼女は痛みに顔を歪めながらその痛みに抗うように顔を強張らせて離れなかった。何度も求めた。何度も何度も。何度も何度も何度も。彼女が理解するまで何度も。痛がっても関係なく求めた。


 気づいたら朝で、家にかかって来た電話で目を覚ました。

 ボクの上には彼女がいて、スマホを探して手をさ迷わせ、時間を見ると授業が始まっていて。遅刻――どころじゃなくて。学校へ行くのは諦めた。


 明かりの中で――彼女の様子が良くわかった。ひどく荒れていた。明かりで余計に良くわかる。やっぱり少し痩せていた。覗いた柔肌に……こんな時でも元気になるのだから恨めしい。

 彼女が起きるのを待ち一緒にお風呂へ入った。

 この人は何日もお風呂へ入っていなかった。体拭きシートは使っていたらしいけれど。

 温まったらまた眠気――何も語らずともソファーでくっついて横になっていた。

「将来の進路……決まった?」

「決まってないけど……何かお金が稼げるように頑張るよ」

 漠然としていて未来は窺えないけれど、それでも彼女がいなくなるよりはマシだと感じた。もうあんな日常には囚われるのが嫌。あの心が抉れるような痛みはもう嫌だ。

「じゃあ……公務員になって」

「公務員?」

「うん……そしたらついて行くから」

「わかった。公務員目指すよ」

「……うん。ちゃんと……責任とって」

「うん」


 夏休みは彼女と図書館や家で勉強をしながら過ごした。頑張るとおっぱいを触らせてくれるから、それ目当てに頑張った。プールに行った。海へ行った。映画館へ行った。何処へ行っても結局唇を寄せてしまう。唇を寄せるだけで時間が過ぎてしまった。振り返ると良く覚えていない。何処へ行っても唇を寄せた事だけは覚えている。

 日雇いのバイトもした。デートにはお金がかかるから。

 夏休みが終わる頃――彼女は明るくなり良く笑うようになった。

 痩せたし清潔感が増した。もともと彼女は可愛いから。過去にいた元の君に戻っただけ――そう伝えたら彼女は怒るかもしれない。

 学校は大丈夫かと悩んだけれど不思議なほど大丈夫だった。

 彼女は普通に可愛くてイジメていた人達も手が出せないようになっていた。彼女を好きな人が増えたからだ。何かあると誰かが口を出す。ちょっかいをかけた人は先生へと告げ口され元々虐められていた事実と共に厳重注意されるようになった。

 だから彼女は虐められなくなった。

 ヒエラルキーがあるとすれば上位だ。


 学年が上がるほどに彼女は清廉されて可愛くなった。

 後輩や先輩から告白される事もあったみたいだ。同級生の間でもたまに話題になっている――ボクと彼女の関係は変わっていない。

 どちらかと言えば……彼女に捨てられたくなくて勉強を頑張るようになった。いつも自分が彼氏でいいのか不安になり、そのたびに彼女はそれを肯定してくれた。体が重なり満たされると不思議なほどに安心する。


 彼女は一度でも他の男性を褒めなかった。

「なんでフッたの?」

「彼氏が、あんたがいるから」

「そっか……かっこいいよね。あの人」

「私が褒めたらへそ曲げて拗ねるくせに」

 それは図星だった。彼女が他の男に見とれたり褒めたりしたのなら、きっとボクは拗ねて拗らせて距離を取り彼女を試そうとする。きっとそれは良くない。それでも嫌なものは嫌で。アイドルでも嫌で。俳優でも嫌だった。聞きたくない。距離取りたくなる。ヤダ。離れる。

「今日……早く帰りたいかも」

「まだ薬があるから……ゴムは買わなくても大丈夫」

「すぐそう言う事言う……」

「好きなくせにっ。するんでしょ」

「……そうだけど。したいけど……」

 そう告げると彼女の表情が恥ずかしそうに緩むのを眺めるのが好きだった。


 「さっきの誰?」

「同じ図書委員の後輩」

「ふーん。それで?」

「それだけ」

「そう。何話してたの?」

「委員会の事」

「それだけ?」

「それだけ」

 掴まれた手。強く引かれて転びそうになる。

「どうしたの?」

「笑ってたよね?」

「そう? 普通だったと思うけど……」

「ムカツク」

「どうしたの? 何にもないよ?」

「……最近気づいたの」

「何を?」

「ちゃんと毎日搾り取らないとダメだって」

「すぐそう言う事言う……」

「あんたは私の事だけ考えてればいーの‼」

 冴えない学生時代になるはずだったのかもしれない。でもボクにとってこの学生時代は思い返すだけで満たされる。そんな学生時代になっていた。


 あれから何年も過ぎた。

 卒業後、進学せずに公務員試験を受けて一度は落ちて落ち込んだけれど、二度目でなんとか受かる事ができた。

 捨てられるかもと考えたり、働く彼女が心配になったりしたけれど彼女は文句も言わずに支えてくれた。

 同棲を初めて――でも今までと何も変わらなくて籍を入れて婚姻した。

 子供が二人出来て転勤ばかりで申し訳ないけれど、何とかやっていけている。

 ボクは何者にもなれないし、なれなかったけどそれでも良かった。隣に君がいれば、それだけで良かった。特別な仕事とか、お金のために生きているわけじゃないし彼女が何よりも大切だった。ただそれだけで良かった。もちろんお金は大切だけれど。


 目を覚まし視線を絡め緩む彼女の頬。飽きもせず、日課になるほどに繰り返した目覚め。もたれかかる体温と繰り返す口付け。手を使い寄せ合い求めあい抱擁を繰り返す。始まりのたびの繰り返し。これが無いと朝は嫌。

 出発する時はうざったいぐらいに子供を抱き締め頬へ口付けしようとするけれど、娘はともかく息子にはとにかく嫌がられた。

 帰宅したら真っ先に彼女の手を取り絡めて身を寄せ頬を寄せ、強く力を込める。彼女の指が背中を掻き肩を優しく噛まれたり、唇を少し噛まれたり、頬を噛まれたり。彼女のニオイに包まれて安堵する。ひどい時は脇へと鼻を近づけて叩かれて。傍にいて欲しいと。身を寄せていて欲しいと。求めて欲しいと。それが叶うと瞼が細まり妙な痺れに囚われて、手に力を込めて抱きしめずにはいられなかった。

 ベランダで夕日を眺めるのが好き。部屋の中では子供達の声と彼女の声がする。


 「あなたっ。ねぇ?」

「どうかした?」

「……たまに考えるの。私はさ。お母さんだけだったし、お母さんがあんなだったから、だから幸せな家族が欲しかった。だから今この暮らしは私が望んだ生活だけれど……貴方には……貴方はもし成れるとしたら、何に成りたかった? 進学したかった?」

 時たま彼女は過去の何か問いかけてくる。不安そうな表情で手探るように、内側をそっと覗き込むように問いかけてくる。

 どんな答えでも離す気など無いと服を掴み握るくせに、その表情がまた一入で隣へと寄り彼女の言葉を考えていた。

 彼女の頭へと触れる。髪を撫でる。頬を撫でる。額に唇を寄せようと、彼女が唇を上げたので深い口付けになってしまった。何度繰り返してもいい。何度絡めても構わない。唇を寄せ合うたびに沸騰していた思考の渦は、今は微睡むように緩く温かく前よりももっと好ましい。

「……どうなの? 後悔してる?」

 不安そうな彼女の顔。成りたいものなんて無かった。あの時は――。

「……恥ずかしいんだけど」

 頬に手を添える。体が触れる距離へと何時も彼女から身を寄せてくれる。それがとても好ましくて少しでも触れていたい。二の腕が擦れ合っているだけもいい。

「うん?」

 耳元へと口を寄せる。少しこそばゆそうに彼女は顔を反らした。

「君とエッチする事ばかり考えてた」

 そう告げると彼女は怒ったように拳を振り上げて軽く殴られた。

「真面目に答えてよ‼」

「真面目に答えてるよ」

「じゃあ‼ じゃあ……今は?」

 懇願するような上目遣いは。それは卑怯だよ。あの頃と変わらない大きなアーモンドアイ。口元の黒子。変わりに清廉されたショートヘヤと強調するような体のライン。

 今は……。

「君に愛される事ばかり考えてる」

 そう告げると彼女は頬を膨らませてそっぽを向いた。

「……ほんとに?」

 手を掴み強引に引き寄せる。どう語れば良いだろうか。どう表現すれば良いだろうか。どう表現しても足りないぐらいで。どうしようもないぐらいで。なんと語れば表現できるだろうかと。何と告げれば伝わるだろうかと。きっとどの言葉や態度でも伝わらない。

「ずっと一緒にいたい……君だけが欲しい。君だけでいい」

 それしか告げられなかった。それしか言葉が無い。

 彼女は少し威嚇するかのように唸り。

「……結婚しよ?」

 そう告げられた。

「もう結婚してます」

「違うの‼ もう一回結婚したいの‼ もう一回結婚したい。ねぇ? ……もう一回結婚しよ?」

「いいよー?  結婚する?」

「ううううう。結婚するー。結婚する‼ もっと結婚するー‼」

 甘えるように胸へと埋もれる彼女は何処か嬉しそうで、沈みこむ夕日の輪が彼女の薬指の指輪を強く光らせていた。


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