007 悲劇
20年前のテルドル防衛戦において、前哨基地となった村がある。
セロンというその村は、テルドルから南へ2日ほど歩いた場所に位置しており、その歴史から、この国の最南端の集落となっている。村の南には当時築かれた防壁が未だに残っており、ちょっとした名所になっているんだとか。だけど壁1枚で村が潤うはずもなく、セロン村の人々は狩りと林業を生業としていた。
だからこの村にとって北側の街道は産業の要であり、これが魔物に封鎖されてしまったとあれば、困るのは当然のことだ。
「…………いない」
テルドルを出て2日目。テントを撤収して5時間ほど歩いたけれど、例の魔物は未だ発見できないでいた。道程も7割方消化しており、このままではセロン村に着いてしまう方が先かもしれない……まあ、報告が上がっている以上、それはありえないのだけれど。
「なあに。そう焦る必要はねえさ」
ヴァールが呑気に言う。チラリと見ると、口振りとは裏腹に険しい目をしていた。
目的の魔物は街路上にいるというが、それ以外にも警戒すべきことがある。他の魔物と、獣たちだ。特に前者は、ここ最近、第三級危険種(人間に対し攻撃的な種)に分類される魔物が増えているという事情もあり、街道を行くだけでもかなり危険なのだ。
ぼくもヴァールに倣って警戒していると、フェアが言う。
「あまり気を張っていると疲れるでしょう。フロイデはターゲットにだけ集中してください」
「……大丈夫だよ」
冒険者学校を卒業して、本当に冒険者になってから1年が経つ。経験も積んだし、体力も十分ついた。こんな些細な事で心配される謂れはない。
不服に思ったその時、大きな手がぼくの肩を掴み、その場に固定した。
「っと……なに?」
「フェアの言うとおりだ。見ろ」
鈍角的な顎で前方を指した。
振り向くと、20メートルほど前方に大きな穴があった。内部はすり鉢状になっていて、小石の1つが転がっていくと、砂の粒子がさらさらと流れていった。
「……気付かなかった」
あのままでは穴に踏み込んでいただろう。
「周囲を警戒することも大切ですが、それで足下がお留守になってはいけません。器用さとは即ち余裕です。それは活動していく中で自然と身に付くモノなのですから、焦ってはなりませんよ?」
「…………ごめん」
「わかりゃ、いいんだ」
ヴァールは打ち切るように言うと、フェアに指示を飛ばす。
「奴さんがいるか、確かめてくれ」
「了解しました――アイス!」
フェアはロッド(金属製で、棹状の魔法杖)を頭上に掲げると、直径1メートルほどの大きな氷塊を作った。それを穴に放り込んだ次の瞬間、地面からグワッと、1対の鋏角がせり出してきた。それは太陽を讃えるかのように広がり――
ガギンッ!
甲高い音を響かせて氷塊を破砕する。ものすごい力で挟み込まれたそれは勢いよく飛散し、あちこちで溶けて染みを作った。
「うわ……」
凄い力だ……あんなので噛みつかれたらひとたまりもないだろう。
その絶大な力に驚いていると、フェアが警告する。
「今回の相手は強力な鋏角と毒を持っています。ですので絶対に正面に立たないようにしてください」
「了解だ」
ぼくを見る。
「フロイデ。危険を感じたら無理せず、後退してください。いいですね?」
「……わかった」
ぼくたちは重荷となるリュックを捨て、身軽になる。それが開戦の合図となった。
「それでは――ガイア!」
フェアはロッドの穂先を地面に突き立てた。直後、穴の中心から土の柱が飛び出す。その先端には大きなアリジゴクがいて、巣穴から放り出されたアレは、空中で1回転してビタンと叩き付けられるように着地した。
「…………」
砂色の魔物を前に、ぼくは覚悟を迫られた。
昆虫特有の大きな腹は、まだら模様で、紐で縛ったハムみたいにデコボコしている。トゲのような体毛を生やしていて……まるでサボテンだ。腹との間に小さな胸と頭を挟んで鋏角が伸びている。その長さは2メートルにも及び、先端の尖りとは別に3対のトゲがある。捕らえた獲物にここから毒を注入するのだろう。
「これが……」
「ええ。これがミラージュフライの幼体……ヘルゲートです」
「ヘルゲート……」
恐ろしい名前だ……確かに、それに相応しいだけのおぞましい姿をしている。
自然、額には汗が滲み、緊張で喉が渇く。唾が湧き出るのを待っていると、ヴァールが低く、最後の確認をする。
「予定通りやるぞ。いいな?」
「はい」
「うん……!」
ぼくとヴァールは剣を抜き放つと散開し、ヘルゲートの両側に回る。すると大顎はヴァールの方へ向けられた。その一方で大きなお尻がぼくに向けられる。
魔物と戦う時の鉄則。それは討伐を急がず、手脚を削いで安全確実に仕留めることだ。
それに従い、ぼくはお尻じゃなくて、体側部にせり出した一際大きな脚を狙う。
ヴァールが時計回りに動き、アレの注意を引いてくれている。だからぼくはそれに合わせてぐるりと回り込み、左脚を射程に捕らえる。
「っ!」
左足から右足へ重心を移行するのに合せて剣を振るう。踏み込む力・筋力・剣の重さ・遠心力。これらが一体となった斬撃はヘルゲートの脚関節を半ばまで切断した。
淡黄色の血液が噴き出すと同時に、巨体が痛みに跳ね上がる。
そうした反応は魔物にダメージを与えられたのを知る手がかりになる。そして魔物はダメージを負った直後に暴れる傾向にあるため、追撃を加えることなく距離を取る。
指導と経験で仕入れた情報は確かなもので、ヘルゲートは陸に揚げられた魚のように暴れた。その際、巨体が地面を叩き、立っているのに苦労する程度の震動を起こした。
「くっ……!」
「離れてください!」
フェアの声を聞きつけ、ムリして後ろに跳ぶ。
直後、ヘルゲートは地面に潜行した。地面には再び蟻地獄が展開され、その縁がぼくを呑み込もうと迫ってくる。
「ちっ!」
全力で掛け、5メートルくらい距離を取ると、フェアが叫んだ。
「ガイアッ!」
土柱によってヘルゲートが打ち上げられると、今度は背中から落ちた。しかも自分で作った蟻地獄にすっぽりとハマり、無様に宙を蹴り続けている。
「今だ!」
ヴァールの指示で飛び出す。
ぼくの目前には先程斬り付けた左脚がある。次の一撃でこれを斬り落とすと、例によって距離を取った。
チラリとヴァールの方を見ると、どうやらたったの一撃で脚を切り落としたようだ。
ヴァールの武器は大剣であり、その長大さと重量、それに仕手の恵まれた肉体から発揮される膂力も加われば、一刀の元に切断できても当然のように思える。
しかし、ヴァールの得物は鞘に収まらない都合で刃を落としているのだ。刃のない剣で堅牢な脚部を切断するのに、一体どんな妙技を用いているのか……ぼくには想像も付かない。日頃の行いのせいで軽視しがちだけど、その点においてヴァールは間違いなく尊敬できる人物だ。
脚の2本を失ったヘルゲートは藻掻き苦しんだ。その結果として本来の姿勢に戻れたが、前後の小さな脚をバタつかせるだけで、その場から動くことはなかった。
不思議に思ったけれど、当然の答えに突き当たる。
ヘルゲートは3対の脚を持っているが、体重の殆どは真ん中の1番大きな脚が担っていたのだ。
「よし……!」
理由はどうあれ、動けないなら今、ここで仕留める!
「やるぞフロイデ!」
「うん!」
大きな腹に飛びつくと、渾身の一撃を叩き込む。それから姿勢を正し、もう1度、袈裟に振り下ろす(大型の魔物が相手だと、斬り下ろし以外の剣技は通用しないのだ)。
「やッ!」
4度目の斬撃を繰り出す。するとヘルゲートは一際大きく痙攣し、沈黙した。
斬撃を浴びせ続けた腹部からは、淡黄色の体液が止めどなく溢れ、地面を浸していく。
命を奪った罪を思い知るこの瞬間はやはり心が傷む。
だけど、相手は魔物だ。畏怖する事はあれど、憐憫を抱く事などありはしない。
……魔物は存在するだけで悪なんだから。
ヘルゲートの死骸をギルドに預けたが、一件落着とはいかない。アレが1体だけとは限らないからだ。だからぼくたちはそのままセロン村へと向かう。
……道中に異常はなく、無事、セロン村に到着できた。
「ほっ……よかった…………」
自然と安堵の言葉が口に上る。それは誰に向けたものでもなかったが、フェアに「そうですね」と同意されてちょっぴり恥ずかしくなった。
「しっかし、街道を塞がれるなんて、この村の連中も災難だな」
ヴァールが言うと、他の人の声が割り込んでくる。
「全くだ」
実感の籠もった言葉と共にやって来たのは線の細いおじいちゃんで、多分村長さんだ。シワシワの手を杖の頭に置いて一息つくと、安堵を浮かべて尋ねる。
「その様子から察するに、あの魔物はもういないんだろう?」
「もちろんだ。もう通って大丈夫だぞ」
報告を耳にした途端、おじいちゃんは深い溜め息をついた。
「……それは良かった。ワシらもいい加減、肉は飽きたもんでな」
つまりこの村にはお肉が沢山あるということだ!
なんだかわくわくしてきた。
「そんなら俺らが貰ってやっても良いぜ?」
「うんうん……!」
リーベちゃんちで食べたみたいな、美味しい肉料理が食べたい!
「干し肉なら好きなだけ喰わせてやってもいいぞ?」
その言葉を聞いてぼくたちはがっかりした。
ビスケットと並び、食べたくない物ランキングの1位に君臨する食品。それが干し肉だ。
「どうも失礼致しました」
ぼくらを他所にフェアが詫びると、おじいちゃんはケタケタと笑った。
「はは! こいつが食い意地を張ってるのはいつものことだろう」
どうやら2人とは面識があるようだ。
「ところで、その坊やは?」
「坊やじゃない……!」
反論すると、またケタケタと笑う。
まったく……会う人会う人がぼくを子供扱いするんだから困る。
「こちらは最近弟子にとったのですが――」
会話の最中、ぼくは村の北西に断崖を見つけた。全体として灰色の岩壁であったが、一部分だけ丸く土色になっている。不自然だなと思った直後、それはパラパラと崩れ落ち、洞窟となった。そして大きなカラスが飛び立つ。
「あ、あれ!」
指し示すとみんなが振り返る。
「ん? なんかあったかの?」
おじいちゃんが不思議そうな声を発する一方、2人は察してくれたようだ。
リーベちゃんを襲った魔物――ヘラクレーエ。あれは抱卵期に入ると、断崖に穴を掘り、そこにメスを閉じ込める習性があるのだ。その際泥で蓋をするようで、それがあの土色の正体だ。
だからアレは間違いなくヘラクレーエの巣で、テルドルからの距離を考えれば、リーベちゃんを襲った個体のつがいである可能性が高い。
「おい、一体どうしたというんだ?」
「ん? ああ、何でもねえよ」
ヴァールは適当に誤魔化すと「余計な事は言うな」とぼくの耳の上で囁いた。
ヘラクレーエは基本的に人を襲わない魔物だが、この前テルドルで人を襲ったばかりだ。それに加え、抱卵期を終えて凶暴化している可能性が――いや、理屈は関係ないか。
魔物が近くにいると知っては村人が安心できないだろう。
余計な心配を掛けてはならない。ぼくも気を付けないと。
~~~~
「またのご来店、お待ちしています!」
最後のお客さんを送り出すと達成感がこみ上げてくるが、すぐさま疲労の奔流に呑まれ、結局、疲れたという感想しか残らなかった。
溜め息と共に笑顔を解き、表の札を『準備中』に替えた。そのまま店内に戻ろうとしたが、溌剌とした声に呼び止められる。
「あら、リーベちゃん。随分お疲れみたいね」
振返ると、そこには武器屋のスーザンさんがいた。
「はい……お店が賑わうのは嬉しいですけど、忙しい日が続くのも困ったものです」
笑顔を繕いながらも、今は勘弁して欲しいと思ってしまった。
「ははは! そりゃ、贅沢な悩みだねえ!」
全くその通りだった。我ながら傲慢が過ぎるだろうか?
「まったく、あんたって子は働きもんだねえ。あたしがリーベちゃんくらいの頃なんて、遊び呆けてたよ」
「ほんとうですか?」
「やぁだ! 世辞に決まってんだろ? あははは!」
裏表のないスーザンさんらしいユーモアについ、笑ってしまう。
「そうだ、リーベちゃんに良いものあげる」
「良いもの?」
ちょいちょいと手招きをされ、歩み寄ると一口で飲み込めそうな小さな包みを握らされた。
「なんだと思う?」
「……飴、ですか?」
「違う違う! これはチョコレートだよ」
「ええ⁉」
チョコレート――通称チョコは外国名産のお菓子であり、国内ではごく僅かしか流通してない高級品だ。それが今、わたしの手の上にある……これはとんでもないことだ!
スーザンさんの娘さんは確か、港湾都市であるオズソルトに嫁いでいったのだ。おそらく、その繋がりで入手したのだろう。
「こ、こんな高級品。貰っちゃっていいんですか?」
「いいよいいよ! リーベちゃんはいつも頑張ってるからね」
ずいと顔を寄せてきて、ひそひそと言う。
「数がないからひとつしかあげられないよ。エルガーさんに見つからないうちに食っちまいな」
「あ、ありがとうございます。でも、これからお昼なので。お仕事が終わったときの楽しみに取っておきます」
「なんだい! あんたまさか、ショートケーキのイチゴは最後まで取っておくタイプかい?」
「はい。最後の楽しみなんで」
「かーっ! これだから最近の若いのは! あたしゃ、1番最初に食べるどころか、旦那の分まで奪ってやるさ」
「え、ひどい……」
「やぁねっ! 冗談にきまってるだろ? あははは!」
ケタケタと笑いながらスーザンさんは去って行った。その青空のような果てのない快活さに、わたしも幾らか元気が湧いてきた。
彼女の背を見送るとエプロンのポケットにチョコを収め、大きく伸びをする。
「んっ……! ふう。よし、午後も頑張ろ!」
今夜はチョコが待っているのだ。それを思えば、どんなに忙しくても乗り切れそうだ。
ディナータイムも満員だったが、チョコのお陰でどうにか凌げそうだ。
「トマト煮とキノコサラダで頼むよ」
一見さんのオーダーをメモしつつ、「他にご注文はございますか」と、言いかけた時だった。
カウベルが鳴らないほどに早く、乱暴にドアが押し開けられた。ハッと振り返ると、そこには顔を真っ青にしたバートさんがいた。
ホールで一緒に働いていたお父さんが険しい顔で尋ねる。
「おいバート。どうした、そんな慌て――」
「ぶ、武器屋の……スーザンさんが…………はあ……」
「! 落ち着け。奥で聞くから――リーベ、水を持っきてくれ」
「わ、わかった」
スーザンさんの身に何が? まさか強盗にでも襲われたんじゃ……
そんな不安に恐々としながらも、水を持って奥へ――
「スーザンさんが、ヘラクレーエに攫われたんだ」
「………………え」
グラスを落とした。
グラスが割れた。
グラスが割れた音が響いた。
グラスの水が足を濡らした。
視界が揺らぐ。揺らぎ続ける。視界だけではない。意識が……わたしの心そのものが激しく揺さぶられていく。
スーザンさんが魔物に……
「うそ…………」
スーザンさんが攫われた。ヘラクレーエに……あの大きなカラスに攫われた。理由は考えるまでもなく、エサにする為だ。こんな夜中じゃ、救助隊も動けないし……もうダメだ。
「う、うう……!」
なんで、なんでスーザンさんが襲われなくちゃならないの?
あんなに優しくて、楽しい人だったのに……どうして!
「…………なんで」
悲しくて、切なくて、苦しくて……ダンクをギュッと抱きしめる。すると、いつかお父さんが言っていたことが思い出される。
『残されたメスが獰猛化するかもしんねえな』
そうだ。わたしがオスを――つがいを倒したからいけなかったんだ。
カラスは賢い。倒さずとも、多少なりとも痛めつければ尻尾を巻いて逃げたはずだ……いや、実際、逃げようとしていた。でも、わたしが魔法で撃ち墜としたのだ。
「……わたしのせいだ…………!」
魔物と戦っていた時、わたしは昂揚していた。魔物と戦うという未知を、楽しんでいたのだ。その結果がこれだ。親しい人を殺しておきながら、わたしはおめおめと生きている。そんな自分が嫌で嫌で仕方ない……!
ゴンゴン!
乱暴気味にドアが叩かれる。
だけれど胸の中はぐちゃぐちゃで、とても人に会える心持ちではない。ダンクに顔を埋め、誰かが去るのを待つがしかし、気配が動くことなかった。
「リーベ、起きてるか?」
お父さんの声だ。
「…………」
いやだ……今は1人にして…………
そう訴えるように沈黙を貫くと、ガチャリと音を立ててドアが開かれた。廊下からひんやりとした空気が流れ込んできて、スカートの裾からはみ出た脚に纏わり付く。
「飯の用意ができたぞ」
ダンクから顔を離し、横目で見やる。そこではお父さんがドアに背を凭せていて、淡然とした瞳でわたしを見下ろしている。
「……ひとりにして」
「断る」
短く答えると、お父さん深い溜め息をつき、諭すような、落ち着いた声を発する。
「お前のことだ。自分がヘラクレーエを倒すのに加担したことを悔やんでるんだろ?」
「…………」
「スーザンを襲ったのがアレのつがいだってことは、時期的に考えて間違いない」
「じゃあやっぱり、わたしが……!」
「違う。前も言ったが、それは結果論に過ぎないんだ。魔物が街に侵入したとき、冒険者は迅速にこれを排除しなければならない。そういう決まりがある。フロイデはそれに準じただけだし、それに手を貸したお前も、魔法使いの心得と……なにより自分の良心に従って行動しただけだ。それを咎めていいヤツなんていねえよ。もちろん、お前自身もな」
「……うう…………」
それからしばらく、お互いに言葉を発しないでいた。
澱んだ空気の中、わたしのすすり泣く声だけが響く。その虚しい音の連なりはわたしを一層、惨めな思いに突き落としていった。
辛くなってダンクに顔を埋めた時、お父さんが言う。
「下に行くぞ」
足音が近づいてきて、程近いところから声が降ってくる。
「シェーンが待ってる。だから行くぞ。な?」
「いや……」
逃れるようにダンクを強く抱きしめると、お父さんは静かに言う。
「リーベ……人の不幸を悲しめるのは優しさだが、それに人を巻き込むな。シェーンだって不安になってるし、その上、お前が引きこもちまったらどうなる?」
お父さんの言いたい事はわかる。でも……今はとても疲れてるんだ。胸が……心が……萎んでいくようで苦しいんだ。
「……ごめんなさい」
どうにか声を絞り出すと、深い溜め息が聞こえてくる。
「……腹減っても知んねえからな?」
気配が遠ざかっていくが、ドアの辺りでピタリと止まった。
「……それと、明日は臨時休業だとよ。だから、今はゆっくり休め」
そう言い残してお父さんは部屋を出て行った。
足音が遠のいていく内に申し訳なさが募る……でも、今は自分のことで手一杯なんだ。心の整理が付くまで……ほんの少しの間だけ…………わたしのわがままを許して……
気付けば、朝だった。しかし鳥の声は聞こえず、代わりにパタパタと雨が降る音だけが聞こえてくる。僅かに湿気った空気を取り込むと、なんだか物悲しい気分になってきた……それも今更か。
「……スーザンさん」
呟くと、それに呼応するかのようにお腹が間抜けな音を立てた。
「………………最低だ」
親しい人が亡くなったというのに、なんて呑気なのだろう。
自己嫌悪に苛まれていると、ノックする音が響く。コンコンという、温かくて優しい音だ。
「どうぞ」
入ってきたのはお母さんだった。
白い肌はいつも以上に白く、緑の瞳は儚げに潤んでいる。多分、ロクに眠れていないのだろう。憔悴した印象を助長するかのように、お母さんは緩慢な動作で歩み寄って来る。
「調子はどうかしら?」
「うん……まあ…………」
答え倦ねていると、お母さんは察してくれたようだ。
「そう……でも、ご飯を食べないと、気が滅入ってしまうわよ?」
お母さんは気を遣ってくれていた。その事実にいい加減、元気を出さないとという気になった……いや、心情なんて関係なくて、昨日は単に疲れていただけなのかもしれない。いずれにせよ、今わたしがするべきことは、昨日の非礼を詫び、いつもの生活に戻ることだけだろう。
「お母さん……昨日はその、ごめんなさい……」
「リーベ……謝らないで」
お母さんはそっと抱きしめてくれた。その温もりに身を委ねていると涙腺が緩み、涙が溢れてきた。
「……ごめんなさい……お母さんの気持ちも考えないで…………!」
「良いのよ……辛かったんでしょう」
その言葉と共にトントンと優しく背中を叩かれると、抑えていた感情が急速に膨れ上がっていく。
スーザンさんは良き隣人だった。快活で裏表がなく、接していて非常に清々しい気持ちになれる人だった。商売の面でも、刃物関連のことでよくお世話になっていた。〘エーアステ〙がここまで繁盛しているのも、彼女の力添えがあったからに他ならない。
……そう。わたしたちにとって、スーザンさんは良き隣人であり、友であり、相棒でもあったのだ。
そんな彼女はもういない。一生会えないのだ……
「う……うわああああん!」
しばらくして落ち着くと、わたしは身に着けたままだったエプロンをベッドに脱ぎ捨て、お母さんと共にホールに下りた。
食卓には朝食の用意されていたが、何故か2人分しかない。
「あれ? お父さんは?」
座りながら問い掛けると、お母さんは苦々しい顔をした。
「……ギルドに行ったわよ」
「ギルド? こんな朝から?」
「今日は臨時休業だから起こさなかったけど、もうお昼過ぎよ」
「え?」
壁に掛けられた時計を見やると、短針が右側へ傾きつつあった。
「…………」
情けない事実に自分がイヤになる。もしここにお母さんがいなかったら、きっと自分の頭を殴っていたことだろう。
「それってやっぱり……」
気を取り直して問い掛けた。
「ええ……短い間に2度も魔物が来たでしょ? だから騎士団と共同で、今の態勢を見直すから知恵を借りたいって」
お母さんとしては夫にギルドと関わって欲しくないのだろうけれど、それがみんなのためになるならと、我慢しているようだ。それに比べて、昨日のわたしがどれだけ身勝手だったか……今更後悔しても仕方のない。切り替えていこう。
「それより、冷めないうちにいただきましょ?」
「……うん。そうだね――いただきます」
2人だけの昼食は物寂しく、ひっそりと静まり返った食堂には食器の打つかる音と、雨が街路を叩く音だけが虚しく響いていた。
食事が終わるとお母さんは『今日はゆっくりしてて良いわよ』と言ってくれた。しかし何かしていないとまた落ち込んじゃいそうで、わたしはお母さんの家事を手伝うことにした。
幸い時間はたっぷりある。だから普段できないところまで徹底的に掃除してやろう。
掃除をやるときは上からやるのが鉄則であり、2階以上を任されたわたしは屋根裏部屋から取りかかることにした。
以前は魔物の素材が散乱していた屋根裏部屋は、今や綺麗に片付いている――もっとも、お父さんが捨てがたい品はいくつか残っているが。
それはともかく、お父さんは片付けはしたが掃除はしていないようで、あちこちにホコリが積もっている。これはやりがいがありそうだぞ。
「んしょっと」
移動できるものは部屋から出すと桶に水を張った。はたきでホコリを落としてから、固く絞ったモップで拭き上げていく。
「…………」
掃除とは黙々とこなすものであり、それに従って掃除を進めていたわけだが……やはりというべきか、1人である事を実感すると途端に悲しくなってくる。
「……スーザンさん…………」
~~~~
テルドルの中央区にある冒険者ギルド・テルドル支部。その一室ではギルドと騎士団の重役が顔をつきあわせて、今回の事件について話し合っている。俺は一般人に過ぎないのだが、例によって冒険者代表として顔を出している。
重役連中は煙が好きなようで、会議室にはもうもうと紫煙が立ち籠めており、誰かが言葉を発する度にくるくると逆巻くのが見える。こんな不健康な環境じゃ、良い話し合いなど出来るわけがない。
それを証明するかのように会議は紛糾し、責任の押し付け合いへと発展していた。
「…………」
俺は辟易しつつも、ひとまず腰を据えて耳を傾けていた。
「そもそも! テルドルの近郊に魔物の巣があることを黙認していたからこんな事になったんだ! この怠慢について、どう責任を取るつもりだ!」
騎士団長が唾をまき散らしながら言うと、ギルドマスターが反論する。
「冒険者はただ魔物を倒す職業じゃない! 人間界と自然界。互いが両立できるように最低限、手を加えねばならないのだ! 盗人の巣を取り除くのとはワケが違う!」
「定義に固執するあまり目先の脅威を見逃し、結果被害者が出た。これを怠慢と呼ばずになんと言う!」
「曲解はよしていただこうか! 第一、街の中を護るのは騎士団の務めではないのか? 貴殿の配下らが警邏を怠っていたから魔物の襲来に気づけなかったのだ!」
「それは侮辱か! 精強なる我が騎士団において、怠惰な者など1人たりともおらんわ!」
そうだそうだ、と同意する声が上がる。
「短期間に2度も襲撃をされておきながらどの口が言う!」
ギルド側からも同様だった。
……残念だが、これがテルドルの守護者たちの現状だ。
互いに落ち度を認められない……トップの未熟な性質が組織全体の病理となり、今になって表に出てきたんだ。だから遅かれ早かれ、いずれはこうなったんだ。
フロイデのお陰で救われたが……もしかしたらリーベもいなくなっていたのかもしれない。
……俺は娘の危機を再認してようやく怒りが湧いてきた。
リーベの為に……街のみんなのために。そしてなにより、犠牲になったスーザンの為に、言うべきことは全部言ってやる!
「黙れ!」
テーブルを殴り付けると卓上に並んだ4つのグラスが一斉に倒れる。
隣に並んでいるギルドの連中は慌てて膝を拭いだしたが、俺はそれを許さない。立ち上がり、自分に注目を集める――そして、街の人間の意思を伝えるために怒鳴りつける。
「お前ら! 俺たちは今、なんのために会議をしてるんだ!」
ギルドマスターに目を向けると、まごつきながら答える。
「それは……事件の要因となった事柄を洗い出すためです」
「どうなんだ、騎士団長さんよ?」
「お、同じく……」
「そうか……俺にはどうも、無様に責任を押しつけ合ってる様にしか見えねえんだが? そこら辺、どうなんだよ?」
そう問い掛けると、一座はむっつりと押し黙った。
「ふざけんな! 俺らが護るべきはなんだ! 椅子か!」
返事はない。その事実が腹立たしいが、一周回って落ち着いてきた。
「……違うだろ? 俺らが護るべきはテルドルに住むヤツら全員だ。立場は違っても目的は同じはず。それなのになんで、こんな大事なときに手を取り合えねえんだよ」
俺は一同を見回した。
重役連中たちは叱られた子供みたいに憮然と俯いてやがる。
それが情けなくて……スーザンに申し訳なくて…………怒りも通り越して悲しくなった。
「お前らよりも……俺の娘の方が責任感じてるよ」
その言葉に一同がハッと振り返る。全ての瞳が純朴な煌めきを帯びていた。
俺はそこに望みを見出して問う。
「…………もう1度聞く。俺たちは今、なんのために会議をしてるんだ?」
その問い掛けに誰もが立ち上がり、こう言った。
「市民を護るためです!」
~~~
掃除を終える頃には夕方になっていて、わたしとお母さんは夕食を作りながらお父さんの帰りを待っていた。
「お父さん、遅いね……」
「ええ。お昼も食べてないでしょうし、きっとお腹を空かせているわ」
「会議中、グウグウお腹鳴らしてたりして」
冗談を言うとお母さんはくすりと笑った。
「代わりにお水でお腹をいっぱいにしてるかもしれないわね?」
「はは! してそう!」
その時、カランとカウベルがなった。ウワサをすれば――
「ただいまー!」
お父さんの、やけに元気な声がホールに満ちた。
「おかえりなさい」
呼び掛けると、彫りの深い顔がカウンター越しに厨房を覗き込んでくる。
「お、リーベ。母ちゃんの手伝いとは関心だな」
「ふふ、お父さんったら。わたしはいつもお手伝いしてるよ?」
「はは! そうだったな!」
お父さんは意味深長な目をお母さんに向ける。
「……そんで、今日はなんだ?」
「今晩はビーフシチューにしようと思います」
「お、久しぶりじゃねえか! こりゃ、食い出があるぜ!」
お父さんは何時にも増して元気だった。それが空元気であるのは、鈍いわたしでもわかった。
風呂屋から帰ってきて、表の戸を施錠するとお父さんは改まって言う。
「ちょっといいか?」
ランプに照らされたその顔は険しく歪んでいて、これからどんな言葉が発せられるかは容易に想像ができた。それはまるで猶予を与えるかのようで、気付くとわたしは拳を握りしめて備えていた。
「……隠していても仕方ない。明日になれば自然と耳に入るだろうからな。今のうち言っておく」
悔しげに前置きを挟むとお父さんは告げる。
「今日の夕方、スーザンが遺体になって帰ってきた。遺体は酷くやられてて、遺族にさえ見せられない状態だった」
「……そう、なんだ」
スーザンさん……ちょっと前まで、あんなに元気だったのに…………
煩悶としていると、お父さんは続ける。
「ウワサするヤツも出てくるだろうが、そういう手合いは相手にしないことだ。いいな?」
「はい……」
「…………うん、わかった」
そう応じて自室に下がった。
そっとドアを閉めた途端、糸が切れたように力が抜けた。
「…………」
脱力しつつも、どうにかベッドに辿り着くと倒れるように身を横たえた。
やっぱり、スーザンさんは亡くなったんだ…………
実感は湧かないが、お父さんが言うんだ。間違いはない。間違いは、ないんだ……
「うう……」
視界が滲む中、わたしは目の前には今朝、脱ぎ捨てたエプロンがあるのに気付いた。ポケットの口がたるんでいて内部には昨日もらったチョコレートが見えた。
それに手を伸ばすと頭上に掲げ、しばし見つめていた。赤色のオシャレな包装紙に包まれたそれは薄闇の中、ランプの明かりを受けて星のように煌めいている。
「…………」
むくりと身を起こし、包装紙を解く。
中から現れたチョコレートは円柱形で、上部にはブランドのものと思しき紋章が浮かんでいる。まるで封蝋のようだが、これは歴としたお菓子なんだ。
「……スーザンさん…………いただきます……!」
スプーンのような滑らかな舌触りのそれは、舌に乗せた瞬間からバターのように溶け始める。あめ玉のように長時間滞在してくれるワケではないようで、ほろ苦くも甘い、独特の味を舌に焼き付けて消えてしまった。
「……すごく…………すごく、美味しかったです。ごちそうさまでした」
わたしは包装紙の皺を伸ばし、丁寧に折りたたんで小物入れに収めた。