041 次なる戦場へ
明くる早朝。わたしたちを乗せた馬車は薄闇に包まれた街路を進んでいた。ガラゴロと車輪の転がる音に緊張が募り、額には汗が滲み、それを拭ってはため息をつくを繰り返していた。
そんな甚だしい緊張の中、おじさんはにわかに告げる。
「フロイデ、リーベ。今回もお前たちが戦え」
「わかった」
即答するフロイデさんとは裏腹に、わたしは回答に数瞬を要した。
「う、うん……でも、わたしでも戦えるのかな……」
お父さんはカナバミスライムを『これ以上ないくらい厄介な相手だ』と評していた。
あのお父さんにそこまで言わしめる魔物なんだ。きっとわたしの想像が及ばないほどすさまじい存在なのだろう。それを思えば恐ろしくて仕方がない。
「うう……」
「そうビビんなって」
「でも……」
「お前を守りながら戦うよりも、お前を援護しながら戦う方が安全だろ。常に姿が見えるわけだからな」
「た、たしかに……」
おじさんがこんな冴えたことを言うなんて。
感心しているとわたしの斜向かいに掛けたフェアさんが微笑んで言う。
「ハイベックスの時と同様、いざとなれば私の魔法で守りますので、どうぞご安心ください」
「フェアさん……」
その言葉にわたしがどれだけ安心したことか。
ほっと一息ついていると、対面に掛けたフロイデさんが口を開くのが見えた。
「それに、ぼくも一緒」
「……ふふ、そうですね!」
そうだ。何もわたしひとりで戦うわけじゃないんだ。危機感は持っておくべきだが、それ以上に恐れる必要はなかったんだ。
その事実に思い至るとすっと心が軽くなり、世界が広く澄み渡って見えた……馬車の中だけど。
恐怖を勇気にへと変換できたわたしは愛用のスタッフ『燻し銀』の柄をぎゅっと握りしめ、近くに引き寄せた。
その時、馬車は北門の前に止まり、門番のチェックを受けることになった。
「冒険者さんをサンチク村の近くまで乗せていくんです」
御者さんが用向きを告げると北の門番であるライツさんが「そうなんですね」と穏やかな口調で返した。それから彼は馬車の背後に回り込んできて、車内を改める。
「4名ですね……て、リーベちゃん。もしかして昨日、ロイドたちを襲った魔物を仕留めに行くのか?」
「はい!」
意図せず大きな声が出てしまうと、ライツさんは微笑み、背後ではおじさんが噴き出した。
「そうか。何にやられたのかはわからないけど、頑張ってね」
頷くと、彼は付け加えた。
「ひと月くらい前だけど、門の外の坂道でカンプフベアが出たんだよエルガーさんが倒したから知ってるよね? まあ、もう安全だと思うけど、一応気をつけてね」
「わかりました。心配してくれてありがとうございます」
「礼なんていらないよ。俺が勝手にしてるだけだから」
そう口にしながら車内の確認を終えた彼は「異常なし!」と大きな声でいい、馬車の正面に回り、北門を押し開けた。
「それじゃ、お気をつけて!」
「はい、行ってきます!」
テルドルが高山地帯にあるため、北の平原へと至るこの道は急な斜面の上を蛇行する形で延びている。幌に切り取られた後方の景色は常に木立と斜面を映していて、この光景が果て無く続いているものだと錯覚してしまいそうだ。
ひと月ほど前、お父さんがカンプフベア退治のためにこの道をひとり歩いていたと聞くが、場の陰気に当てられて孤独を感じていたに違いない。
その点、わたしは馬車で、しかも御者さん含めて4人もの同行者がいる。この事実に自分が恵まれていると感じずにはいられなかった。
「おじさんたちがテルドルに来た時もここを通ったの?」
「そうだな。今回もそうだし、来るたびにここを通ってるぞ」
するとフェアさんが笑った。
「なのでこの景色を見てようやく、テルドルに来たのだと実感できるんですよ」
「まあ今は遠ざかってんだがな」
それよか、と御者さんを見やる。
「悪いが、もう少し急げねえか?」
「サンチク村が、危ない……!」
フロイデさんが言い添える。
すると御者さんは横目でおじさんを見て、申し訳なさそうに言う。
「すみませんね。これでも急いでるんですが、なんせ坂道なんで」
「……しゃあねえな」
おじさんは腕を組んで瞑目するも、心中穏やかでないのは右足で貧乏揺すりしていることからわかる。わたしは乙女としてそんなことはできないけれど、焦っているのは同じだ。この坂道が大きく蛇行しているのがなんとも口惜しい。もっとピーンとできなかったのだろうか?
「うぬぬ……」
歯がみしつつ、わたしは車内を見回した。
対面ではフロイデさんがスカーフの先っぽを弄んでいる。その隣ではフェアさんが目を瞑って穏やかに呼吸を――
「ん?」
こんな緊急事態に、まさか眠っているんじゃ……いやいや。フェアさんに限ってそんなこと……
わたしは半信半疑になりながらも問い掛ける。
「フェアさん? 起きてますか?」
するとパッと目が開き、彼は愉快そうな、しかし上品な笑みを浮かべた。
「起きていますよ。瞑想をしていただけですので」
「めーそー?」
「そういえばリーベさんにはまだ教えていませんでしたね」
そう言うと彼は気持ちを切り替えるように瞬きをした。
「魔法が暴発して火事になった。なんて話を聞いたことはありますか?」
「あ、何度かあります」
物騒なことに、テルドルではボヤ騒ぎが時折おきているのだ。
「心と魔力の流れは密接に関わっていますので、心が乱れているときには加減を誤ってしまうものなのです」
「なるほど……じゃあ冒険中はもっとなるんですか?」
「経験の浅い方だとままありますね」
「じゃあわたしも……」
戦闘中に魔法を暴発する様を想像するとゾッとしてしまう。
「うう……!」
身震いしているとフェアさんがくすりと笑って続ける。
「そうならないためにも、リーベさんも一緒に精神統一しましょう」
「わかりました。でも、どうやればいいんですか?」
「簡単です。姿勢を正し、呼吸を整え、心を無にするように努めるのです」
「や、やってみます……!」
言われた通りにやってみる。
背筋を伸ばして、脚は閉じて(いつもちゃんと閉じてます)、手は膝の上。まっすぐ前を見据えたら目を閉じて。穏やかな呼吸を心がける。
「すー……ふー……」
あとは心を無にして……無にして……あれ、『無にして』ってかんがえちゃってるな。
「ううん……結構難しいですね」
「すぐ慣れますよ」
とりあえずもう1回チャレンジだ。目を閉じて――
「お、坂を抜けたんで加速しますよ」
御者さんが言った途端、わたしの体はこてっと横に倒れてしまった。
「いてて……」
側頭部を擦っていると、おじさんは「何やってんだ」と呆れ、フロイデさんは「くぷぷ」と笑い、フェアさんは「またの機会ですね」と微笑んでいた。
車内には和やかな空気が流れたが、そんなものは景色と一緒に流れて言ってしまった。変わって訪れたのは緊張だった。
御者さんの肩越しに前方を見やると、少し先で森が途切れており、代わって平原が悠々と広がっている。そのただ中にぽつんと、集落が見える。
「あれが、サンチク村?」
「そうだ――と、どうやら無事見てえだな」
遠くに見えるサンチク村は、建物が倒壊した様子も何もなく、至って平和だった。その外周も同様だ。
「間に合った……?」
フロイデさんがつぶやくとフェアさんが肯定する。
「カナバミの感知できる範囲になかったのでしょう。いずれにせよ、無事で安心――」
「お話中すみませんが、このままサンチク村に向かった方が良いですかね?」
御者さんが訪ねるとおじさんが「いや」と否定する。
「そこの十字路を西へ行ってくれ」
「わかりました――ですがあんまり魔物の近くまでは行けませんよ?」
「わかってる。こっちで指示するから、そこで待機していてくれ」
「わかりました」
了解すると御者さんは黙り込んだ。
それはそうと、どうやら今日は徒歩では帰らないらしい。まあ、カナバミが出て森が荒れているかもしれないし、御者さんひとりで先に帰らせるわけにも行かないのだろう。
そんなことを考えている内、十字路を西に折れ、景色が右方に流れていく。そうして轡が西を向くが――特に異常は見受けられない。妙な物体が蠢いて見えるものだと思っていたのだけれど……
「なにもいないね」
「ああ。だがもしかしたら……」
おじさんは意味深につぶやくと御者さんに言う。
「ここらで下ろしてくれ」
「こんな半端なところでいいんですか?」
「ああ。森から離れたところで待っていてくれ」
「わかりました――と、ご武運を」
わたしたちは口々に礼を述べると、リュックを車内に残して降車する。
「ん~~っ! はあ……」
早朝特有の青く湿った空気を胸いっぱいに取り込みながら伸びをする。今まで座っていただけにすごい開放感だ。
「んじゃ、いくぞ」
短く言うとおじさんは歩き出した。その後ろにフロイデさん。続いてわたし。最後にフェアさんといういつもの並び順だった。