004 リーベ、戦場に立つ
4人が汗を流しに言っている間に、わたしはお母さんの手を借りることなく、1人で昼食を拵えることになった。
台所を乗っ取られたお母さんはというと、鼻歌交じりに縫い物をしていた。お母さんは働き者で、休む事を知らないのだ。
それはともかく、今は料理に集中しなければいけない。
料理は刃物や火などを使う大変危ない作業なのだから、集中して臨まねばならない。
「さてと……」
献立はどうしようか?
フロイデさんの好みは分からないけれど、彼も冒険者なのだから、ボリュームのあるものの方が良いだろう。となると……
「ねえ、油使って良い?」
ホールにいるお母さんに呼び掛けると、「いいけど、気を付けてね?」と返される。
「はーい!」
昼食はシュニッツェルとマッシュポテト。フレアシードのサラダにしよう。
献立が決まったところで、次は工程の組み立てだ。
ジャガイモを茹でつつ油を温めて……その間にピリ辛ドレッシングと、あとソースを用意をしておこう。
そうと決まれば、早速調理開始だ。
わたしは腰のホルダーに挿したワンドを取り出し、魔法で火を点け、鍋に水を張り、ジャガイモを茹で始めた。あとは油を……
調理は進み、いよいよあげる段階に突入した。
カラカラという揚げ物の音は耳に心地よく、精神疲労の回復に効果があると思われる。自然と気分が良くなり、鼻歌なんかも歌ってしまう。
「ふんふ~ん♪」
わたしたちは1枚で良いけれど、男性陣はそれでは足りないだろう(おじさんなんて特に)。
とにかく多めに揚げていると、カウベルが鳴り響き、続いてドヤドヤと入浴を終えてきた面々の声が聞こえてくる。
「ただいまー!」
帰宅を告げる声たちに、わたしも「おかえりー!」と気持ち大声で返す。
「お、これは油もんだな?」
ここからじゃ見えないけど、おじさん、絶対舌なめずりしてるよ。
「もうちょっとで出来るからー!」
そう呼び掛けると、出来るだけの配膳をしてくれていたお母さんが冗談めかして言う。
「ふふ、もうすっかり料理人ね?」
「だってお母さんの娘だもん。これくらいできなきゃ」
「まあ! ――ふふ、そうね。わたしの娘だものね」
と、最後の1枚が揚げ上がった。
「いただきます!」
言うが早いか、おじさんとフロイデさんはシュニッツェルに飛びついた。
ナイフで切り分ける事なく、ソースにべったり付けて、そのまま齧りつく。品は無いが、それだけ食事を楽しんでくれていると言う事だ。
「がつがつ……!」
「もっもっ……!」
体に大小はあれど、共に冒険者である。その食べっぷりは全く同じと言っても良いだろう。
「かーっ! うめえ……!」
おじさんは素直な感想を口にした。
「どーお? わたしだって成長してんだから!」
「ああ、見直したぜ」
食事に夢中で、その口振りはまるで寝言のようだ。
だけど、それだけに素直な賞賛であり、わたしの自尊心は大いに満たされたのだった。
「そういえば、リーベさんは油を使えるようになったのですね」
フェアさんが言うように、以前は油を使わせて貰えなかった。理由はもちろん、危ないからだ。
食堂において大事なのは一に衛生、二に安全で、味や収益はその次に位置する。だから油を使うことが認められるということは、それだけわたしが信頼されていると言うことであり、些細なことではあるが、わたしにとっては油を使えることは誇りなのだ。
「ええ。リーベも大分成長しましたからね」
お母さんは誇らしげに言った。賞賛はともかく、身内に褒められるというのは何となく気恥ずかしいもので、わたしは羞恥を誤魔化すべく、主菜を頬張った。
シュニッツェルは叩いて広げた肉を揚げる料理だが、肉々しいを損ねない程度に叩いている為、満足感は高かった。それに加え、トマト、キノコ、レモンの3種類のソースも奥深い味わいに仕上がっていて、揚げた肉にマッチしていた。
自分の料理に満足していると、お父さんが訝しげにフェアさんに尋ねる。
「……ちゃんとしたもん食わせてんだろうな?」
「もちろんです。リーベさんほどではありませんが、多少、腕に覚えがありますので」
お父さんはその仲間2人を見る。
おじさんとフロイデさんは共に蒼い顔をしていた。
「……そうか」
昔お父さんに聞いた話だけれど、フェアさんの料理は健康を気にするあまり味が良くないらしい。
そんな事情があるからか、おじさんとフロイデさんの2人は目に見えて咀嚼回数が増えたのだった。
食事と片付けを終えると、わたしはおじさんたちに言う。
「ねえ、おじさん。また、冒険の話を聞かせてよ」
おじさんが語る冒険譚は明らかに誇張が入っているけれども、その分、聞いてて楽しいのだ。わたしは子どもの頃からこれが好きで、会うたびにこんな風にねだっていた。
爪楊枝を使って歯を掃除していたおじさんは、わたしの方を見て、それから何故かお父さんに目配せする。
「……それよかリーベ。暇ならコイツの案内をしてやってくんないか?」
そう言ってフロイデさんの背中を叩いた。彼は動揺して、あたふたと視線を彷徨わせる。
「……え? なんで?」
「なんでも何も、これからしばらくテルドルにいるんだ。それなのに不案内じゃいられねえだろ?」
「それは……」
救いを求めるようにフェアさんを見やるも、彼もまた、同意見のようだ。
「街を知り、地域の人と交流を図るのも大事な事ですよ?」
返す言葉がないのか、彼は俯いた。嫌がっているのに連れ回すのはどうかと思うが、フェアさんに「お願い出来ますか?」と言われると、つい了承してしまった。
「それじゃ、行きましょうか」
「……うん」
彼はぎこちない動作で立ち上がると、壁に立て掛けていた長剣を背中に掛けた。
「馬車には気を付けるのよ?」
お母さんに言われると笑顔で返す。
「うん。行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
食堂を出て数歩のところでご近所に住むウワサ好きなご婦人、サラさんに声を掛けられた。
「あらリーベちゃん。いつの間にボーイフレンドなんて作ったんだい?」
その言葉を聞いた途端、隣にいたフロイデさんはボッと音が出そうなほど一気に赤面した。
「ボーイっ……⁉」
彼が俯く様子に苦笑しつつ、答える。
「はは……この人はフロイデさんで、ヴァールおじさんのお弟子さんです。今は街の案内をしてる――」
「ああ、この子がかい! そんでまあ、こんな可愛い冒険者がいるなんてねえ!」
サラさんは爛々と輝く瞳をフロイデさんに近づけた。
「う、うう……」
彼が表情を引き攣らせつつ仰け反ると、サラさんは大声で笑った。
「もう、そんなにビクビクしないでちょうだい! まるであたしが虐めてるみたいじゃない!」
言いながらガサゴソと腕に掛けたバスケットを漁る。
「脅かして悪かったね、ほら、飴ちゃん舐めて機嫌直してね」
完全に子供扱いであるが、フロイデさんは至って嬉しそうだ。
「ありがと、おばちゃん……!」
「まあ!」
その無邪気な笑みにサラさんはすっかり機嫌を良くして、おまけで数個手渡した。
「ふふ、仲良くお食べ。デートの邪魔して悪かったね。それじゃ!」
訂正する間もなく行ってしまった……まあ、訂正する機会ならいくらでもあるか。
そう考えていると、フロイデさんがあめ玉を2つ、差し出してきた。
「ん」
あめ玉に頬をぽっこりさせる彼の瞳に緊張の色はなかった。それは甘味のお陰か、単に美味しいものを食べて機嫌が良くなったのか。何れにせよ、見ていて心地よい笑顔だ。
「ああ、ありがとうございます」
受け取り、包みを取り除く。すると薄いピンク色をしたあめ玉が表れる。内部には種子と思しき粒が閉じ込められていて、どうやらイチゴ味のようだ。
わたしは女の子の例に漏れずイチゴが好きだった。自然と心が弾んでくる。
「いただきます……ん! 甘い!」
「……おいしいね」
「はい!」
何気ないやり取りの中で目が合った。真っ黒く大きな瞳は無邪気に煌めいていたが、次第に羞恥が滲み、背けられてしまった。そんな様子をいじらしく思っていると、彼は不機嫌そうに言う。
「……リーベ、ちゃん?」
「あ、すみません。それで、何処から行きましょうか?」
「ぼくに聞かれても……」
「ふふ、そうでしたね。ギルドにはもう行きましたか?」
「うん」
「そうですか。じゃあ……」
中空を見上げ、フロイデさんが行きそうな場所を思い描く。
あそことあそこと……
「うん。それじゃ、ご案内しますね?」
道中、知り合いに呼び止められつつ、目的地に到着した。
それは一見すると単なる民家であるが、小さな庭で薬草を栽培している。薬草特有の香気に鼻がすーってなるのを感じていると、フロイデさんが尋ねてくる。
「ここは?」
「ここは診療所です。医者のランドルフ先生は評判で、お父さんもケガをした時はお世話になっていたんです」
「へー……」
「専門は外科ですが、軽い風邪とかも見てくれるんです」
「ぼく、風邪引いたことない……!」
フロイデさんは得意げに言った。
「そうなんですか? わたしは毎年罹っちゃうので……秘訣とかってあるんですか?」
「毎朝牛乳を飲む」
「牛乳かあ……」
料理の具材のひとつとしか認識していなかったけれど……確かに、健康には良さそうだ。
「そっか、早速明日から実践してみますね?」
「うん、きっと良くなる……!」
「ふふ、それじゃ、次に行きましょうか」
服屋や床屋など。必要と思われる施設はあらかた紹介し終えた。
あとは……
わたしの向かう先にはテルドルにしては珍しい赤い屋根をもつ建物が現われた。その入り口の斜め上には看板が吊られており、剣と斧が交差したシンボルが描かれている。
「見ての通り、ここは武器屋です。武器屋ですが、キッチンナイフも売って――」
「入っていい?」
フロイデさんは期待を満面に浮かべていた。
「はい。もちろんです」
すると彼は放たれた猟犬の如く店内に飛び込んでいった。
後を追って入店すると、お馴染みのご婦人が出迎えてくれる。
「おや、リーベちゃん。こんにちは」
「こんにちは、スーザンさん」
スーザンさんはここの店主で、西にある工房で夫のダルさんが作った武器を販売しているのだ。そんな婦人はフロイデさんを見つめながら、溜め息交じりに問い掛けてくる。
「これがウワサの坊やかい?」
「はい、多分そうです」
「へえ、とても冒険者には見えないねえ」
繁々と武器を見ていたフロイデさんがキッと視線を返す。
「チビじゃない……!」
誰もそうは言っていないけれど……まあ言ったようなものか。
「ははは! こりゃ失礼! 詫びの品はないが、ゆっくり見て言ってよ。うちは冷やかし大歓迎だからねえ!」
スーザンさんは裏表のない人で、故に言葉を選ぶこともしないのだ。
それはそうと、わたしはフロイデさんに付いて武器屋を見学させてもらう事にした。
天井にクモの巣が張られている店内には、多種多様な武器が置かれている。
剣は剣でも、ダガー、短剣、長剣、大剣とあり、この4カテゴリーの中でさらに形状が違っている。今までじっくり見たことはなかったけど、剣にも個性があって見ていて楽しい。なんだか服を選んでいるような気分だ。
「いろいろありますね」
「うん……!」
フロイデさんは純粋な眼差しを剣に向けたまま言った。
一緒になって観察していると、にわかにスーザンさんが冗談を口にする。
「なんだい? リーベちゃんも冒険者になるんかい?」
驚くべき発言に振り向くと、その瞳が期待に煌めいているのに気付いた。
「まさか! だってわたし、女の子ですよ?」
「女の冒険者がいたって良いじゃないか。それになにより、あのエルガーさんの娘なんだ。アンタにも才能がある筈だよ」
「わたしが……冒険者…………?」
想像してみた。
『てやー!』
『ぐおーっ!』
ぺち!
『きゃー!』
きらーん☆
「…………わたしにはムリですよ、はは……」
「そうかい? やってみなきゃ分からないよ?」
「それはそうですけど……」
「……あ、背中にクモが」
フロイデさんが言う。
「え、うそ!」
「うそじゃないよ。ほら」
と、見せつけられたのは脚の長いクモだった。
「きゃああああ! あああ、あっちにやってください~!」
必死に顔を背けていると、スーザンさんが溜め息をつくのが聞こえた。
「はあ……こら、ホントにダメかもねぇ」
「はあ……」
武器屋を見物しただけなのにすっごい疲労感……
「……ごめんね?」
「いえ。フロイデさんは悪くありません……むしろ、助かりました」
答えつつ、空を見る。赤く焼けた空には金色の雲が漂っている。その雄大な景色に見蕩れていると、何処からかカラスの声が聞こえてきくる。
「かーかー」
今日のは大家族だな……
和んでいると、フロイデさんが言う。
「そろそろ、帰ろ……?」
キラキラした瞳には夕食を期待する気持ちが表れていた。
「ふふ! そうですね――と、その前に少しだけ、付き合ってくれますか?」
「つ、付き合う……!」
彼は夕日に負けないくらい真っ赤になった。
「そういう意味じゃありません! ……もう、寄り道ですよ」
「……って、どこに?」
「それは着いてからのお楽しみです!」
街の北端にやって来た。
ここら一帯は草地がこんもりと盛り上がっていて、ちょっとした丘になっている。北側に隔壁が聳えているほかは何もないが、その景勝っぷりから誰が決めたか、展望台と呼ばれている。
「ふう……ついた…………」
わたしが溜め息をつく一方、フロイデさんは事も無げな様子。
「わあ……」
小さな口をぽっかりと空けていて、一足先に景色を堪能しているようだった。
「ふふ」
わたしはちょっぴり得意になりつつ、自分もまた展望した。
眼下にはテルドルの灰色の街並が見え、家々にランプが点り始めていた。そんな街並の向こうには、西日によって赤と黒に塗り分けられた高原が広がっている。そのさらに向こうにはグラ・ジオール山が厳然と佇んでいて、まるで自分こそが世界の中心であると主張しているようだ。
「きれい、だね……」
「……この景色はテルドルの宝です」
「そう、なんだ」
それからしばらく、2人で夕焼けを眺めていたが、いい加減、帰らないとお父さんたちが心配する。今頃『リーベが誘拐されたああっ!』とか言っているかも。
「ふふ、そろそろ帰りましょうか」
「……うん」
わたしは丘を下り始めたが、フロイデさんの気配が近づいてこない。
「フロイデさ――」
「リーベちゃんっ!」
不思議に思って振返った途端、彼が飛びついてきて――
バサッ!
彼の背後――直前までわたしのいたところに大きな陰が過った。
「……え――ごふうっ!」
背中に衝撃を受けたのも束の間。フロイデさんは立ち上がり、背中の長剣を引き抜いた。
「ぼくが引き付けてるから、ヴァールたちを呼んできて……!」
「え?」
フロイデさんは言うけれど、一体何が――
身を起こすと、すぐそこに体高2メートルほどの大きな……大きなカラスがいた。
……時に、生物の中で特異な生態・能力をもつ存在を魔物という。
その定義に当てはめればこれは――
「まものっ⁉」
「早く!」
フロイデさんが叫ぶと同時にカラスはくちばしを伸ばして――
「――っ!」
わたしは怖くなって顔を背け、そのまま走り出した。
ごめんなさい、ごめんなさい……!
心の内で謝りつつ、わたしは脚を速めた。
~~~~~~
リーベちゃんが逃げた方とは逆へ跳ぶと、直径30センチはありそうななくちばしが真横を過る。
着地すると、傾斜のせいで危うく転倒しかけた。もし転んだならば、そのままゴロゴロと長い坂を転げ落ち、目が回ったところを襲われる羽目になるだろう……気を付けなきゃ。
「くっ……」
ぼくが歯噛みする一方、カラスは苛立たしげな声をあげて振返った。
「カーッ!」
そのくちばしは先端が鋭く、全体が光沢を帯びていて、西日を受けてギラリと鋭く煌めいた。その物々しさたるや、まるで黒鉄の槍のようだ。その一方でつぶらな瞳をしていて、その落差に、子供が蝶の羽根を毟って遊ぶような残酷さを思い起こされた。
「…………」
チラリと胴体を観る。
脚の付け根を覆う紺色の羽毛には乾いた泥が大量に付着していて、樹上性のカラスとは根本的に異なる生物である事が窺える……だとすると、この魔物の正体は――
「……ヘラクレーエ…………!」
「クアッ!」
短く鳴いたかと思えば、またくちばしを伸ばしてくる。
くちばしは真っ黒な上、微妙に湾曲しているせいで距離感が掴みにくい。
……それでも、経験と勘とで対応するしかない!
「っ!」
右足で踏み込み、攻撃線上から外れる。くちばしが袖を撫でるのを感じつつ、体を90度左に向け、そのまま刺突の態勢に入る。狙うは左眼。視力を奪って有利を取るんだ!
「ふっ!」
刺突を繰り出すと切っ先が眼球を貫いた。
ぷちゅりという気色悪い感触に本能的な不快感を催す中、ヘラクレーエは絶叫を轟かせた。
「クアアアアアアアッ!」
傷口から鮮血が滲むと同時にアレは盛大に仰け反った。
反撃を警戒して飛び退いたが、小石か何かを踏んでしまった。
「うわ!」
視界がぐわんと回る――
~~~
魔物の悲鳴を聞いて振り返ると――フロイデさんが坂を転がっている⁉
「フロイデさん!」
魔法で助けなきゃ!
慌てて駆け出そうとするも、脚が動かなかった。
『ぼくが引き付けてるから、ヴァールたちを呼んできて……!』
彼はそう言っていた。魔物絡みの事件において、冒険者の指示は絶対だ。
踵を返そうとした時、わたしの自制心が……良心が呼び掛けてくる。
『それでいいの?』
……分かってる。理屈じゃなくて、単に怖いから引き返したくないんだ。
でも……わたしが逃げたら、フロイデさんはどうなるの?
懊悩していたその時、お父さんの言葉が脳裏に蘇る。
『俺に頼れば済むって考えがあるから、誰もカンプフベアに立ち向かおうとしないんだ……そのせいで対処が遅れて、危険にさらされる人間が出てくるんだ…………』
おじさんたちがどうにかしてくれると妄信して逃げたら、誰がフロイデさんを護るの?
今、彼を救える人間がいるとすれば、それは街の何処で何をしているとも知れない冒険者たちではない。
今ここにいて、魔法が使えるわたしだけだ!
「っ!」
世界を蹴り飛ばすつもりで駆け出した。
展望台からはさほど離れておらず、すぐに駆けつけられた。
肩で息をしながら状況を確認すると、フロイデさんは坂の下で起き上がろうとしていた。しかし平衡感覚を失ったのか、酩酊したみたいにふらついている。
一方、カラスはポタポタ血を垂らしながら、体の向きを変えていた。絶叫が聞こえていた事と合わせて、相打ちになったのだと予測できる。だが、そんな考察は何の意味もない。
急いでホルダーからワンドを引き抜き、魔法を放つ。
「ええいっ!」
放ったのはこぶし大の小さな火球だった。こんなちっぽけな魔法じゃ倒せないだろうけど、気を引ければそれで十分だ……しかし、狙いが甘く足下に着弾した。
だったら数だ!
「当たれ! 当たれ! 当たれぇっ!」
距離を縮めながら乱発すると、2発が大きな胴体に当たった。
「クアッ⁉」
不意の高熱に短い悲鳴を上げたカラスは、ビクリと仰け反った後、恨みがましい視線を向けてくる。
その時、大きなくちばしに西日が反射し、まるでナイフを突きつけられるような恐怖を感じた。
「ひっ――」
「カアアアアア!」
ピョンと1度の跳躍で詰めてきて、そのままくちばしを――
「うわっ!」
思わず仰け反るとフロイデさん同様、坂を転げ落ちた。だが、お陰で避けられた。
攻撃を外したカラスはキョロキョロと辺りを見回している。
「……どうしたんだろう?」
よく見ると、左目が潰れていた……フロイデさんがやったんだ。そう悟った時、当の本人が駆け寄ってきた。
「どうして、戻って来たの?」
「その……心配で……」
彼は口を開くが……出かけた言葉を呑み込んだ。気持ちを切り替えるように小さく溜め息をつくと、言う。
「あとはぼく1人で大丈夫だから」
彼はそう言うが、ここまでして任せるのは無責任だ。そう思い、わたしは食い下がる。
「あの、わたし、魔法が使えます!」
ほんの一瞬、逡巡するように目を瞑り、頷いた。
「…………魔法を使うときは、何を使うか叫んで」
「……はい!」
魔法には技名が定められている。
それは後衛である魔法使いが自分の行動を仲間に伝えるためのものであるが、冒険者に限らず、魔法使いの常識とされている。それは今回のように、冒険者に協力せざるを得ない状況を想定してのことだ。
「…………」
もう引き返せない筈なのに……不思議と胸が高鳴った。勇気ではない……多分、昂揚だ。お父さんがしてきたことの、その一端を体験できることに対する昂揚なのだ。
我ながら浅はかだとは思うが、フロイデさんとこの街を守れるなら、それでいい。
ワンドを握り絞め、フロイデさんの斜め後方に陣取る。辺りには坂も何もなく、動きやすい。戦うには良い環境だろう。
「ふう……」
呼吸を整えている間に、カラスは私たちを見つけていた。
「カッカックアアアアア!」
変な鳴き声を上げたかと思うと、正面にいた剣士を目掛けて飛び掛かってくる。
対する彼は勇敢にも脚の下をくぐり抜けて背後へ回り、鍛練の時に見せた構えを取る。整然とした構えはそのまま攻撃へと発展し、紺色の体を赤く塗り変えていく。
「クアアア!」
不利を悟ったのか、カラスは大きな羽を広げて、風を捕らえようとする。
「リーベちゃん!」
「ファイア!」
頭部を狙った火球は運良く、負傷した目に命中した。それは強烈なまでの痛みをもたらしたようで、全身をびくりと痙攣させ、地面を離れたばかりの鳥は地に墜ちた。
「やあああああッ!」
透かさず駆けつけたフロイデさんが、起き上がり掛けたカラスの翼を斬り付ける。
いつかお父さんが言っていたけれど、冒険者はいきなり心臓とかを狙わないで、手脚を断つなどして着実に戦いを進めていくらしい。
フロイデさんはその点でも模範的だった。
「カーッ⁉」
バサリと翼が落ちたその時、カラスは静止した。
翼のない鳥は、もはや鳥ではない。頭の良いカラスであるからして、自らのアイデンティティの喪失を悟ったのかもしれない。
そんな考察を肯定するかの如く、カラスは沈黙を貫き、胸を貫かれた。
カラスの赤黒い血液が街路を浸していくのを呆然と見つめていると、ふと周囲が騒がしいのに気付いた。
見るとそこには観衆が集まっており、彼らは恐怖や畏怖、そして若干の好奇心を湛えた瞳をカラスの亡骸に向けている。
「あの坊主がやったのか?」
「剣持ってるし、そうだろうな」
「知ってるか? アイツ、ヴァールさんの弟子なんだってな」
そんな会話がひそひそと聞こえていたが、大音量がそれらを蹴散らした。
「リーベ!」
お父さんが観衆をかき分けながらやって来た。
「魔物が出たって聞いたが、まさかお前が襲われてたなんて……」
そんなことを口にしつつ、熱心にわたしの体を確かめている。
「もう、お父さんたら……心配しすぎだよ…………」
「しすぎも何もあるか! お前は俺の娘なんだぞ!」
怒鳴るような大音量にビクリと跳ね上がったのも束の間。お父さんは胸板に押さえつけるようにわたしを抱きしめた。
その鼓動に、体温に。
わたしは緊張の糸がぷつりと千切れるのを感じた。
「お父さん……うう…………」
安心した途端、涙が溢れてきた。こんな大勢の前で泣いているなんて知られたら……明日ぜったい揶揄われる。バレないようにとお父さんの胸に顔を埋めていると、僅かにだが、体の向きが変わった。
「お前には礼を言わねえとな、フロイデ」
「……う、ううん。ぼくの方こそ、助かった…………ありがと、リーベちゃん」
胸板から顔を離し、彼を見るも、視界が滲んでよく見えない。
「い、いえ。こちらこそ……ありがとうございます。フロイデさんって、強いんですね」
指先で涙を拭うと、鮮明になった視界の中でフロイデさんは顔を赤くしていた。
「そ、そんなこと、ないよ……」
彼はスカーフと前髪を掴んで顔を背ける。照れ屋さんだ。
「ん? 助かったって、もしやリーベ! お前が戦ったんじゃ――」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!」
ドスの利いた叫びが聞こえた途端、観衆が悲鳴を上げて左右に分かれる。こうして出来た人垣の合間を猛然と駆け抜けて巨漢が現われる――おじさんだ。やや遅れてフェアさんもやって来る。
彼らはそれぞれ武装しており、どうやらお父さんだけ武器を持たずに先行していたようだ。
それはそうと、おじさんは死骸を見て、弟子を見て、小首を傾げる。
「ああん? どうしてフロイデが……まさかお前がやったんか?」
巌のような顔は焦燥から安堵へ、安堵から疑問へと変化していった。
「ううん。ぼくと、リーベちゃんで」
彼が答えた途端、観衆はざわざわし始める。
「……ひとまず、後始末は我々に任せて、おふたりはお戻りください」
フェアさんの言葉におじさんが続く。
「そうだな。さっさと帰って、シェーンを安心させてやれ」
そう言ってグローブを付けた手で頭を撫でてきた。
「あー!」
髪の毛を気にしていると、お父さんが言う。
「んじゃ、後は頼んだ――いくぞ」
「う、うん……」
去り際、わたしはカラスを見つめていたフロイデさんに呼び掛ける。
「フロイデさん、ありがとうございました」
黒く滲んだ空の下、魔導師の人が街灯に明かりを点けて回っている。そうして出来た青白い光の中でわたしはお父さんと肩を並べて歩く。
現場を後にして以降、お父さんはむっつりと口を閉ざしていた。日頃おしゃべりであるからして、怒っているのは明確だった。わたしは居心地が悪いのを感じつつも、弁明の言葉を発する事もできず、ただ緊張に押し黙るばかりだった。
張り詰めた心を宥めようと深呼吸をしていると、お父さんの低い声が耳朶を打つ。
「どうして戦ったんだ?」
「それは……フロイデさんが心配だったから…………」
「だとしても、あの時お前のやるべきは、誰でもいいから冒険者を呼ぶことだ」
元冒険者のお父さんの言葉だ。重みが違う。だがそれでも、自分の選択が正しいという確信は揺るがなかった。
「で、でも! 本当に危ないところだったんだから!」
「結果論だ――じゃあ聞くが、お前の心配は全くの杞憂で、それどころか、余計な被害を招いたとしても同じ事が言えるか?」
「それは――」
一蹴され、閉口させられた。
どうにか言い返そうと考えを巡らせていると、お父さんは溜め息と共に続ける。
「冒険者の世界じゃ、仲間を見捨てることなんて当たり前だ。命あっての物種なんだからな」
冒険者は死と隣り合わせである以上、合理的な決断が求められる。翻って、見捨てられる覚悟がある人が冒険者になるのだろう。だとすればわたしは、余計なことをしてしまったのかもしれない。
残酷な考えに苛まれていると、お父さんが実感の籠もった声を零す。
「……ディアンの腕がないのは、俺を庇ったからだ」
「え」
「アイツは冒険者であることを誇りに思っていた……腕をなくしたとき、アイツがどれだけ絶望したことか…………救われておきながら俺は、お前にはそうなって欲しくねえんだ」
「お父さん……」
長い腕がわたしを包み込んだ。太い指先が肩に食い込むのを感じつつも、わたしはされるがままでいた。
「……無事で、良かった…………」
「お父さん………………ごめんなさい……」
大きな手が後頭を包む中、耳に馴染んだ心地よい声が響いてくる。
「リーベ!」
お父さんの胸板から顔を離し、振り返るとそこにはお母さんがいた。
「ああ……帰って来ないから心配したのよ!」
「ごめんなさい……」
「良いのよ、無事でいてくれればそれで――まあ! こんなボロボロになって」
その言葉に視線を落とす。
ライムグリーンのワンピースは擦過でボロボロになり、砂と草で汚れ、見るに堪えない状態になっていた……
「ああ⁉ ……そんな…………」
がっくしと肩を落としていると、お父さんが明るい調子で言う。
「なあに。服なんてまた買えばいい――」
「良くないよ!」
娘の大声にお父さんは目を丸くした。
「……お誕生日プレゼントだったのに…………」
服なんてこの世界にいくらでもあるが、誕生日の――しかも15歳の成人祝いにもらった服は1着しかないんだ……それを思うと無性に悲しくなってくる。
「くう……! リーベっ!」
何故だかお父さんが抱きしめてきた。
太い腕に締め上げられ、分厚い胸板に押しつけられる。その苦痛たるや、もはや抱擁の域にはない。拷問だ。
「うぐぐ……ぐ、ぐるじい…………!」
腕を叩いて知らせるも、中々解放されない。微かに聞こえたお母さんの警告も聞き入れられなかったようで、わたしはしばらく苦痛に喘ぐこととなった……
ご精読いただきありがとうございます。
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