025 無事の帰還
アリサさんの指導に従い、親指と人差し指で輪っかを作って乳頭を摘まむ。残る指を根元から先端に掛けて握り込んでいくと、ぴゅーっと、勢いよく生乳が噴き出す。
「わ! 出た出た!」
「おお……!」
隣で一緒に乳搾り体験をしていたフロイデさんが感嘆の声をあげる。牛乳好きな彼としては、まさに夢のような光景だろう。
「ふふ、こんなもんじゃないわよ。この子たちはまだまだ出るんだから」
そう言うとアリサさんは乳頭を2本掴んで効率よく搾乳した。ミルク缶にはじょぼぼぼと生乳が溜まっていき、大容量かに思われたそれを、たった1頭で半分まで満たしてしまった。
「へえ、こんなに出るんだ」
「これ、飲める?」
フロイデさんが期待を満面に浮かべて問いかけるも、アリサさんは顔を橫に振った。
「ううん。一度加熱しないと飲めないわよ?」
その答えに彼は肩を落とした。
「搾りたて……」
「ふふ、でも安全に飲めることが何より大事だからね。これも仕方ないことよ?」
「うん……」
彼が納得を見せたところで、アリサさんは腰に手を当てた。
「乳搾り体験はこんな感じで良かったかしら?」
「はい、お忙しい中、どうもありがとうございました」
「ありがと」
「若い子が興味もってくれて私も嬉しいわ。それじゃ、手を洗っていらっしゃい」
「はーい!」
乳搾りを終え、手を清めたわたしたちはパウロさん宅に戻った。
入ってすぐの食堂ではおじさんとフェアさんが食卓に着いており、今後のことを語らっていた。わたしたちが入ってくるのを見ると、対象的な2つの顔がこちらへ向く。
「終わったみたいだな」
「良い体験ができたようですね」
その言葉にわたしたちは頷いた。
「うん! 知ってた? 牛乳って1頭からたくさん出るんだよ?」
「大量……!」
体験で得た知識を披露していると、厨房の方から家主であり村長でもあるパウロさんが、食事を手にやって来た。彼はわたしたちの話を聞いていたようで、微笑ましげに笑みを浮かべていた。
「はは! 楽しんで頂けたようで何よりだよ。さ、朝食をどうぞ」
朝食はオーソドックスに丸パンとベーコンエッグ、サラダ。そしてライル村自慢の牛乳だった。
「わ、美味しそう」
「牛乳……!」
そうして4人分が配膳されると朝食となった。
パウロさんはアリサさんが戻って来てから朝食を摂るようで、申し訳ないが、わたしたちだけ先に頂く事になった。
フロイデさんは真っ先に牛乳を飲み干し、白髭を作る。
「朝はこれに限る……!」
彼が水差しから牛乳を補充するのを眺めながら問い掛ける。
「フロイデさんは毎朝牛乳飲むんでしたっけ」
「うん。……ん? リーベちゃんは、飲んでない、の?」
何故だか彼は不満そうな目をしていた。
「どうかしましたか?」
「明日からやってみるって、言った」
何のことだろうと首を傾げるが、やがて思い出した。
彼にテルドルを案内していた時、彼が風邪をひいたことがないと聞いたわたしは、その秘訣を問うた。その答えが『毎日牛乳を飲む』というもので、わたしは『早速明日から実践してみますね』と言ったのだ。
「ああ……すみません。あの後いろいろあって、忘れちゃってました。今度こそ、実践しますね?」
「約束……」
「はい」
そんなことを話し合っていると、フェアさんがパンを千切りながら口を挟む。
「お話も良いですが、食事を終えなければ出発できませんよ?」
「そうだ。さっさと村を出ねえと、テルドルを閉め出されちまうからな」
おじさんの言葉に事情を思い出したわたしは、これから待ち受ける過酷な試練にげんなりさせられた。
試練を乗り切るためにも、たくさん食べて精を付けないと……!
食事を終えるとすぐに出立することとなり、わたしたちはパウロさんとアリサさんに見送られることになった。
「ヴァールさんたちはしばらくテルドルにいるんですよね?」
「ああ。と言ってもあと一月くらいだがな」
その言葉にわたしは動揺したが、会話は流れていく。
「もしかしたらまたお世話になることもあると思いますが、その時はお願いしますね?」
「ああ。……まあ、そうならねえのが1番なんだがな」
「確かに!」
2人が笑みを交わす中、アリサさんがわたしたちを見る。
「リーベちゃんもフロイデくんも。その時はまた村を護ってね?」
「うん、護る」
「……あ、はい。わたしも、頑張ります」
その時フェアさんがおじさんに耳打ちする。
「ヴァール、そろそろ」
「お、そうだな。そんじゃ、元気にな」
おじさんに続いて口々に別れを告げると、夫妻に「道中、お気を付けて」と笑顔で見送られた。
半日ほど歩き続けたがしかし、未だに視界の両端には鬱蒼とした森林が広がり、正面には坂道が果てしなく続いている。この光景がわたしにどんな印象を抱かせたか。それは語るまでもないだろう。
「うへえ……」
緩やかな勾配にいじめ抜かれたわたしだが、それでも健気に脚を動かし続けている。
だが心の中では『馬車が通りかかれば乗せてもらえるのにな~』と、情けない事を考えているのだった。
「ぜえ……」
喘いでいると、前方で振り向いたおじさんと目が合った。
「休むか?」
「も、もうちょっとだけ歩かせて……」
疲れたけど……いつまでも疲れていられないんだ。体力を付けないと……!
おじさんが「そうか」と呟く傍らで、フロイデさんは心配そうにこちらを見ていた。
2人が視線を前に戻すと、替わってフェアさんが手が差し伸べてくる。
「杖はご入り用ですか?」
「お願い、します……」
彼の手を借り、歩き続けると広場が現われた。
広場と言ってもここは自然界。出店やベンチはなく、単に街道の幅が広がっていたのをそう表現しただけだ。だが焚き火をした痕跡があるということは、何処かの誰かも同じように感じていたのだろう。
「ちょうどいい。ここらで休憩にするぞ」
その言葉を聞いた途端、脚の力が抜けた。
「ああ~! もう動けない……!」
「じゃあ置いてくか」
「えー、酷い!」
なんて残酷な!
「だはは! そんだけ声が出せりゃ、大丈夫だ。それよか、今のうち飯食っちゃえ」
おじさんがそう口にしたとき、フェアさんが待ったを掛ける。同時にわたしの背筋にぞわりと、冷たいものが這い上る。
「食事の前に回復薬をどうぞ」
「うげっ!」
「以前のものは魔力回復用ですが、こちらは体力を回復させるものです。さ、飲んでください」
説明台詞と共に小瓶を押しつけられたわたしは、救いを求めておじさんとフロイデさんを見る。しかし2人は非情にもわたしから目を背け、黙々と食事を取っていた。
「そんな~……」
胃の中から立ち上る青臭さに噎せながらも、わたしは一所懸命、歩みを進めていた。
「ふう……ふう……」
体力の消耗を低減するべく規則正しい呼吸を心掛けているものの、果たしてどれくらい効果があるものか。今にも底を突きそうな現状から推察するに、恐らく気休め程度のものしか持たないのだろう。
そうこうする内、空は赤くなり始めていた。急がないと……!
「ふっふっふっ……」
わたしの呼吸が変わったのに気付いたのか、おじさんが直ぐさま言う。
「ペースを乱すな」
「で、でも……このまま、じゃ、日が暮れちゃう、よ?」
声を発するだけでも大変で、フロイデさんみたいなしゃべり方になってしまった。
「俺が急かしたワケじゃねえんだから、急ぐ必要はねえだろ?」
会話がかみ合ってない気もするが……確かにそうだ。
「う、うん……ごめんなさい」
おじさんは小さく溜め息をつくと幾分明るい声で言う。
「ちゃんと間に合うから気にすんな。ほら見ろ」
「ん? ……あ、練習場だ……!」
赤焼けた空の下、練習場の柵と小屋と的が哀愁を漂わせて佇んでいた。それを見た途端、わたしは『帰ってきたんだ』という感慨に溺れた。
「や、やっとここまで来たんだ」
「そうだ。だからあとちょっと、気張ってけよ」
「頑張って」
おじさんの激励に、フロイデさんが言葉を添える。
2人の言葉を受け、わたしは足と、フェアさんの手を握る手に力が籠もった。
「その意気です」
「はい!」
脚が腫れ上がってしまったかのような錯覚に苛まれつつ、わたしはひたすらに歩き続けた。
その間、無情にも空は黒くなり始めていた。それに伴って周囲に広がる森も暗黒色に染まっていき、このままわたしたちをも闇に呑み込んでしまいそうに思われた。
しかしその時、わたしの目は見慣れた隔壁が現われた。
「あ……」
それは木々と同様に黒く染まっていたが、わたしには何故か、灯火のように明るく、温かいものに感じられた。
「テルドルだ……!」
「ああ、そうだ――」
おじさんが何か言っているが、わたしは生まれ育った故郷に無事帰り着いた感動で胸がいっぱいで聞き取れなかった。
門まで近寄ると、東門の外側を警備していたアランさんがわたしたちを出迎えてくれた。
「おや、ヴァールさん。それにリーベちゃんたちも、おかえりなさい」
「た、ただいま、です……」
力なく返すと、彼は笑って「今門を開けますから」と、全身を使い、門扉を外側に引っ張った。
そうして見えた街並は、もはや目を閉じても思い描けるものだった。
街路の両脇に並び立つ街灯。その合間を行く人々。その両岸をに佇む石造りの家々。窓から漏れる明かり。住人の陰……帰ってきたんだ。
中に入ると靴裏から砂を噛む感触が消え、代わりに硬質で均一的な石畳の感触が足に響く。
「やあ、リーベちゃん。おかえりなさい」
門番のサイラスさんが親しげに手を上げた。
「ただいま、です……ぜえ」
それから、彼らと同様に「おかえりなさい」を言ってくれる人が何人もいた。しかし私は体力も限界で、元気に返せなかったのが申し訳ない限りだった。
そんな思いを胸に、わたしは実家であり、以前の職場でもある食堂〘エーアステ〙に帰り着いた。おじさんたちに先頭を譲られ、わたしはドアノブを捻つ。
「ただいま……!」
ホールはお客さんでいっぱいだった。そんな中、誰よりも早く反応したのはお父さんだった。
「おかえり! リーベ!」
お父さんはオーダーの途中であったにも関わらず、わたしの元までやって来ると、怪我が無いか、舐め回すように観察した。そんなお父さんに嬉しさと呆れとが募る中、わたしの背後でおじさんが言う。
「約束通り、擦り傷ひとつ付けてねえよ」
「ああ。ありがとうな、ヴァール」
「良いってことよ。そんじゃ、俺たちはこれで」
「え、帰っちゃうの?」
「こんな格好じゃ、中に入れねえからな」
おじさんは背中に帯びた大剣の柄を示しながら言う。
「あ、そっか」
「そう言うこった。んじゃ、後で迎えに来るから、それまでに支度しとけよ」
「うん、待ってるね」
そう言い残すとおじさんはフェアさんとフロイデさんを連れて帰っていった。わたしは手を振って見送ると、ホールに入る。するとお客さんたちからも「おかえり」と言われる。それは誕生日を祝われる時のような、若干の気恥ずかしさをもたらすも、わたしは素直に挨拶を返した。
そうして厨房前にやって来ると、調理をしながらホールの様子を伺っていたお母さんと目が合う。不安そうなその顔は次第に安堵へと変化していく。
「おかえりなさい、リーベ」
「ただいま、お母さん」
「今は手が離せないけど、後でいろいろ聞かせてね?」
「うん!」
わたしは両親とたくさんのお客さんに見送られながらホールを後にする。
痛む脚に鞭を打って階段を上がり、自室にやって来ると、薄闇の中、寂しそうにこちらを見上げる大きな子犬の姿があった。
「ただいま、ダンク」
お風呂に行くための支度を終えたわたしは、おじさんが来るまでの間、冒険の後始末をすることにした。
まずは着替え。これはラソラナの唾液で汚されたためライル村で洗濯させてもらったものの、わたしの衛生観念はいまだ許していない。明日にでももう一度、徹底的に選択する必要があるだろう。
そんなことを考えながらポケットを探っていると、アデライド(ソキウス)の抜け毛の束が出てきた。
「――っ!」
わたしはハッとそれを隠すと、恐る恐るダンクを見た。
「…………」
つぶらな瞳は避難がましくこちらに向けられていて、他所の犬に現を抜かしたわたしを責めているのは明白だった。
「ち、違うんだよ! これは、その……記念品でね? あはは……」
抜け毛を後ろ手に隠しつつ、机に向う。抜け毛をリボンで束ねると、小物入れに大事にしまい込んだ。
蓋を閉じようとしたその時、小物入れの中にチョコレートの包装紙が見えた。
「あ」
忘れるはずもない。これは例の事件が起こる直前、わたしがスーザンさんにもらったものだ。
わたしは包装紙を手にすると、それを両手で包んで黙祷した。
……スーザンさん。わたし、もっと頑張りますから。どうかお空の上から見守っていてください。
彼女の形見をしまっていると、外からおじさんの声が聞こえて来た。
「リーベ! 下りてこい!」
「あ、はーい!」
小物入れをしまうとダンクを一撫でして、それからお風呂セットと着替え(私服)を持って部屋を出た。
裏口から出て、表に回るとそこにはおじさんとフェアさんとフロイデさんが待っていた。各々、手には着替えを持っているが、フェアさんだけはお風呂セットも持っていた。
「おまたせしました」
「なんだ。随分元気そうじゃないか」
おじさんは安心とも呆れとも着かない顔で言う。
「うん。お父さんたちに会ったら元気が出てきたの」
「はは、単純なヤツだな」
「おじさんにだけは言われたくないよ」
「あ? どういう意味だ?」
言い合っているとフェアさんが割って入る。
「まあまあ。ここじゃお店の邪魔になってしまいますし、続きは歩きながらでお願いします」
彼の言葉に従い、わたしたちは言葉の刃を収め、歩き出す。
風呂屋へ向う道中、わたしはある事を思い出した。
「そうだ。ギルドに依頼達成の報告はしないの?」
「ああ。問題は解決してるんだし、報告ならいつでもいいだろ」
おじさんの言葉にフェアさんが笑って付け加える。
「それに、ギルドはすでに終業時刻を迎えていますからね」
「あ、そっか……」
「なんだ? ギルドの連中にまだ働かせるつもりか? 鬼畜め」
もおーっ、おじさんったら! すぐ意地悪言うんだから!
「忘れてただけですー! そんなひどいこと思いつくおじさんの方が鬼畜なんですー!」
と、その時。背後から溜め息が聞こえて来た。
振返った先ではフロイデさんが苦虫を噛んだような顔をしていた。
「フロイデさん? 具合でも悪いんですか?」
「お風呂……」
溜め息交じりの一言に、彼がお風呂嫌いであることを思い出した。
「まったく。名前に『風呂』が入ってるくせにな」
おじさんはケタケタと笑ったが、当人の耳には届いてない様子だった。