021 光明
スーザンさんの訃報がもたらされてから一夜が明けた。
今日は平常どおりに営業することとなったわけだが、客足は目に見えて減っていた。僅かなお客さんたちはみんな鬱々とした面持ちで、ホールにはいつもとはほど遠い、絡みつくような空気が充満していた。
「リーベちゃんも危ないところだったんでしょ?」
常連のご婦人が言うと同時に、方々から視線が集まるのを感じた。
「あの――」
「運が良かったわね? あの坊やと一緒じゃなかったら、今頃――」
「おい」
お父さんの険しい声がご婦人を黙らせた。同時に、わたしに向けられていた視線の数々が散っていく……お客さんを脅すなど言語道断だが、わたしは救われた気がした。
しかし脅された側はそうはいかない。お父さんを――街の英雄を怒らせてしまった恐怖と動揺、そして羞恥とに縮こまっている姿は見るに堪えない。だからわたしは何事も無かった風に尋ねる。
「ご注文をお伺いします」
「そ、そうね。じゃあこれと、これで」
わたしがオーダーを取る一方、お父さんはお母さんに呼ばれた――そこに叱責が待っていることを、わたしはよく知っている。
あのご婦人の後にも好奇心を焚き付けてものを言う人が何人も現われ、わたしは嫌な気分にさせられた。それでも笑顔を忘れず、ランチタイムを凌ぎきったわたしは疲れと不快とに困憊しきっていた。
片付けを終え、世間的には遅めの昼食を取っていても気分は相変わらずだった。
それは一緒にホールで働いていたお父さんも同様で……いや、口止めの為に脅すことを禁じられたことで、わたし以上の不満をため込んでいるらしい。それはカツカツと乱暴に食器を扱う様から見て取れる。
お父さんがこんなに怒るのは、昔、わたしが近所の男の子にいじわるされたとき以来だ。
「まったく、不謹慎な連中ばっかりだな」
「気持ちは分かりますが、お客さんを威圧するなんて言語道断ですよ?」
お母さんの理性的な言葉に一言にお父さんは瞑目して答える。
「ああ……悪かったよ」
しかし食器の扱いは相変わらずだった。
剣呑な空気が流れるうちに昼食を終えた。
普段であれば憩いのひとときとなっていた筈なのだが、今日に限ってはそうもいかず、わたしはモヤモヤしながら仕事に戻る。
ディナーの分の仕込みをしていると、ホールの方からカウベルの音が聞こえて来た。
「お、ディアンじゃねえか」
ホールの掃除をしていたお父さんが来訪者の名を告げた。意外な名前に厨房に立っていたわたしたちは目を合せる。
今は準備中というのもあるが、なにより昼夜逆転しているはずの彼が昼間に訪ねてくるなんて珍しい。不思議に思っていると、お父さんも同様の事を言った。
「商談を終えたばかりなんだよ。それより、妙な噂を聞いてな。リーベはいるか?」
「ああ、リーベ。ちょっと来い」
お母さんに目配せをすると、わたしはホールに出た。
そこには確かにディアンさんがいた。年相応に皺の目立つ顔は険しいが、わたしを見た途端、微かに和らいだ。
「お前が魔物に襲われたと聞いてな。顔が見れたなら結構だ」
「心配してくれて、ありがとうございます。でも、もう1週間くらい前のことですよ?」
「ワシは引きこもりだからな。情報が古いんだよ」
「威張って言うことか」
お父さんがツッコむとわたしは可笑しくて仕方なかった。笑っている間にもディアンさんは曰くありげな目でわたしを見ていた。
「それとだ。お前が冒険者になるって噂も聞いたが、それはどうなんだ?」
ディアンさんが声を潜めて言った。
その言葉を聞いた途端、スーザンさんの言葉が思い起こされた。
『リーベちゃんも冒険者になるんかい?』
冒険者になる?
わたしは頭も悪くて、力もない。
こんな人間が冒険者になったところで、一体何を守れるというのだ。
『あのエルガーさんの娘なんだ。アンタにも才能があるはずだよ』
そんなの……あるはずがない。
わたしはあのカラスと対峙したとき、戦うことにわくわくしていた……それは英雄の血が騒ぐとか、そんな大それたものではない。ただ、未知との遭遇を無警戒に喜んでいただけなんだ。未知の事柄に対し、真っ先に警戒を抱けない。そんな人間に冒険者としての素質が宿っているとは到底思えない。
「…………なれません」
いたたまれなくなってそう答えた。
わたしを見据えていた瞳は不健康に白いまぶたによって隠される。
「そうか」
「ディアン、お前……」
「邪魔したな」
そう言い残して彼は去って行った。
カウベルの残響が耳鳴りのように響く。わたしは内からこみ上げてくる煩雑な感情から逃れるべく、厨房へ足を向ける。スイングドアに手を掛けたとき、お父さんがいつまでも友人が去ったドアを見つめているのに気付いた。
「お父さん?」
「ん、ああ。わりい、ボーッとしてた」
「そう? 何でもないならいいや」
仕事に戻ろう。
昼と夜でお客さんの顔ぶれが変わるものだが、彼らの関心がスーザンさんの死にあることは変わらなかった。
給仕をしているとどうしても会話が聞こえてしまうもので、わたしの心には人々の恐怖と悲嘆とが蜘蛛の糸のように嫌らしく絡みついていく。
「…………」
看板娘として暗い顔はできない。だから笑顔を繕うも、とあるお客さんの会話を耳にした時、それは解けてしまった。
「はあ……街中に魔物が出るなんてな」
「安全なとこなんて、何処にもないってことだろ」
「エルガーさんも引退しちまったし、もうこの街もお終いなんだな」
その会話はこの街に垂れ込める憂愁を、何よりも雄弁に言い当てていたのだ。
それから1週間というもの同様の会話を何度も小耳に挟んだ。
限られた空間の中で多く耳にするあたり、テルドルに住む誰もが不安を感じているのかもしれない。
お父さんが引退した矢先、2度も魔物の襲撃を受け、ついには犠牲者が出たんだ。不安が爆発してしまうのも致し方ないだろう。
納得する一方で、とある疑問が胸に起こる。
……もしもお父さんが引退していなかったら、みんながここまで落ち込むことはなかったのかな?
スーザンさんが『リーベちゃんも冒険者になるのかい?』と聞いてきたのも、わたしが冒険者になるというウワサが起こるのも、全ては英雄不在の不安を解消するためだったのでは?
だとすると、テルドルの陰鬱を取り除けるのは……
「…………」
「どうしたリーベ?」
打ち明けたらお父さん、どんな反応するのかな? やっぱり怒る? それとも認めてくれる? ……何れにせよ、1人で悩んでいたって始まらない。言うだけは言ってみよう。
「ね、ねえ……お父さん」
「なんだ?」
「ちょっとだけ、良い?」
わたしが言うと、お父さんは僅かに表情を引き攣らせた。その様子からして、わたしが何を言いたがっているのか、察しているのかもしれない。
打ち明けるのは怖いけど、頑張ろう。