001(旧001~003) 英雄とその娘
ここら一帯は高山地帯で、緩い坂道が蛇行しながら麓へ続いている。右手に木立を。左手に急斜面を見ながら坂を下っていると、まるで自分が遭難しているかのように思えてくる。
昨日の今頃は愛する妻子と食堂を切り盛りしてたってのに、どうしてこうなったんだか。
俺はとっくに引退しているし、なにより46歳だ。あちこちガタが来てるし、いい加減、若い連中に自力で解決して欲しいもんだ。
……だが全ては愛するヤツらの住む、愛する街の為だ。そのためならたとえ耄碌しても剣を取るさ。
「…………」
意気込んだは良いが、相変わらず孤独だ。最初は心地よく聞こえていた鳥の声が、今では嘲っているように聞こえてならない。孤独は人を狂わせる。それに抗うためには余計な感情を遮断することだ。
「…………」
パキッ!
「――っ!」
反射的に木立を見ると、美味そうなウサギの姿があった。
「きゅ?」
「なんだ……あっち行け」
蹴飛ばすフリをすると丸い尻尾が木の陰に消えた。
俺はそのまま、注意深く木立を見る。
坂道が蛇行しているという事もあり、木々の合間に小さく坂道が見える。正規の道程を無視してショートカットしたくなるが、それをグッと堪える。
俺のダチに先回りしようとして、そこに潜んでいた魔物に足をやられたヤツがいる。
急いては事をし損じるとはいうが、冒険者でそれは洒落にならない。
急がば回れの精神でいこう。
木立から顔を背けようとしたその時、俺の耳は蚊の鳴くような小さな音を拾い上げた。
「――ゥゥ……」
「っ……!」
この低音……間違いねえ。奴め、この近くにいるな?
俺はいつでも動けるように腰を落として備える。
耳に全神経を集めて所在を探っていると……
パカパカ……ガラガラ……
音のした方――木立の方に顔を向ける。木々の合間、横道を1つ挟んだ向こうに小さく馬車が見える。2頭曳きの豪華なヤツだ。
「――っ⁉」
馬車の前の茂みが揺れた……まずい!
急がば回れだ? 人命が掛かっているときにそんなことは言ってられねえよ!
俺は坂道から飛び出し、太い枝を足場にしてショートカットする。枝から枝へ飛び移り、時には幹を蹴って距離を稼ぐ。道中カラスの巣を蹴ったが……許せ。
景色がグングン流れていき、視界が一端ひらける。折り返してきた街道だ。道が横切っているということは、もちろん足場はない。このままでは落下する――ワケない!
前方に手を伸ばし、向かいの木の枝を掴む。それからサルがするみたいに枝を渡り、馬車を至近に捕らえた。直後、悍ましいの呻き声が大きく聞こえてくる。
「グルルウウウウウゥゥゥ……」
ハッとしたのも束の間、のっそりと、馬車の正面に不細工なクマが現われた。
上体の筋肉が異常に発達していて、広背筋がコブのようになっている。その重みで猫背になっていて、おまけに左右で腕の太さが違う。コイツは右腕を使い込んでいるようだ。
「ふっ!」
クマの後ろに着地するとズサッと靴底が砂を噛む音が響いた。それを聞きつけてヤツが不細工な顔を向けてくる。
「グルルル……」
まぶたは蜂に刺されたように剥れていて、半開きの口からは肉の挟まった牙が見える。
コイツはこの醜悪な見た目と、凶暴であるために畏怖されており、よく子供の教育に用いられたりする。
『良い子にしてねえとカンプフベアに喰われちまうぞ』ってな。
俺は背中と左腰からロングソードを引き抜くと、挑戦状がわりに吠える。
「ダアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッッッッ!」
カンプフベアは闘争心が強い魔物で、同族間では正面に立って吠える事は決闘の合図とされている。だからヤツも吠え返してくる。
「グルルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッッッッッッ!」
残響が消えぬ間に右腕が飛んでくる。
それはブオンと悍ましく空気を唸らせて……なるほど。右腕使いなだけはある。
後ろに飛んで躱すと、即座に裏拳が飛んでくる。
ここは坂道であり、俺はアイツよりも高い位置にいる。必然的にヤツの攻撃は下半身へと向かう事になる――だから跳ぶ!
「っ!」
脚の下を豪腕が過る。掠ってもいない坂道にはスコップで抉ったみたいになって、その拳圧がすさまじいことが伝わってくる。
異常に発達した広背筋から繰り出される裏拳は脅威だが、そんだけ勢いよく振って後隙が生まれない道理はない。
着地と同時に比較的未発達な左腕を狙う。
右足を前に、両手の剣を体の左に構える。腕の筋力だけではない。左足の踏み込みから剣の重みまで。使えるものを全部使って、寸分違わず同じ場所を斬り付ける!
「ダリヤアアアッ!」
右手の剣が肉を裂き、左の剣が骨を断つ……痛快な感触が伝わってくると同時にカンプフベアは絶叫し、のし掛かってくる。
即座に前転すると、カンプフベアと場所を入れ替える形になった。
「ふう――」
「グオオオオ……!」
振り返るとヤツは倒れ、起き上がれないでいた。あんなに体が重いのだから、片腕だけでは起き上がれまい。
納得する一方、必死に藻掻く姿に罪悪感がこみ上げてくる……だが俺は、これからさらに酷い事をしなければならない。それは絶対に必要である以上、罪悪感は捨て置かなければならいないのがなんともな……
「……許せ」
勝負は俺の勝ちだが、生死を賭けた戦いは最後まで何が起こるか分からない。
念の為、俺は抵抗できないでいるヤツの両脚を斬り、右腕を半ばまで断つ。
コレでヤツは起き上がるどころか、寝返りを打つことさえも出来なくなった。
……かわいそうだが、生き物ってのは死に際が1番凶暴なんだ。安全確実に仕留める為には痛めつけなければならない。倫理がどうと言っている場合ではないのだ。
最後に首を落として終わりだった。
「ふう……」
頬に付いた返り血を服で拭いながら馬車の方を見ると、御者はおろか、馬車馬さえもが放心していた。
「もう大丈夫だ」
「…………はっ! あ、ありがとうございます。それでは……」
御者は疲れ切った顔を軽く下げ、会釈をすると轡の向きを変えた。
その時、車内から声がする。
「お待ちください!」
馬車が止まり、車から貴族だか商人だか、とにかく身なりの良いヤツが出てきた。
「いやはや……まさかカンプフベアに遭うとは…………死を覚悟した次第で……申し訳ありません。お礼の言葉も見つかりませんで」
真っ青な額にハンカチを当てながら謝る。
「礼なんていいさ。俺はギルドに頼まれてきただけだからな。それより、慌てて逃げようとしなかった御者を褒めてやれ」
見やると死んだ目をした御者が「恐縮です」と脱帽する。
「そうですね。では後で褒美を取らせると致しましょう。あの、つかぬ事お伺いしますが、双剣にその強さ……もしや貴方が〘断罪〙こと、エルガー・ミットライト様で?」
「そうだ」
答えるとその蒼い顔に生気が蘇る。
「おお! 命を拾ったばかりか、あの英雄にお会い出来るとは――」
こんな反応をされるのには慣れているが、それはそうと大きな間違いがある。
俺は手を翳して待ったを掛け、訂正する。
「エルガー・エーアステ。それが今の俺だ」
~~~
窓枠に切り取られた景色はまるで動く絵画のようで、石畳の上を人や馬車が行き交う様はいつも変わらないようで、しかし日々、確かに変化している。その些細な変化に気づけたとき、わたしは小さな幸福を感じられるのだ。
今日もほら、お向かいさんのプランターに植えられたガーベラがツボミを付けている。
ガーベラは気品あふれる名前をしているのに加え、花弁もそれに相応しいくらい鮮やかであるからわたしはとても好きだった。だからあのツボミが花を咲かせた時、わたしも、そしてここで食事をされるお客さんたちもきっと幸せな気持ちになれるはずだ。
素敵な想像を巡らせていると、厨房からお母さんの凛とした声が響いてくる。
「リーベ、ボーッとしてないで掃除を済ませてちょうだい」
「あ、はーい」
声だけ返して仕事に戻る。
ここは食堂、〘エーアステ〙のホールだ。
狭い店内には6つの丸いテーブルがあり、それぞれ4脚ずつ椅子が上げられている。
わたしが窓を開けると、昨夜から滞留していたであろう肌寒い空気が飛び出し、代わりに新鮮な温かいものが流れ込んでくる。春の匂いに包まれた店内の掃き掃除を済ませると、今度はモップを掛けた。それが終わると今度は椅子を下げ、座面とテーブルとで手早く磨いて行く。それも終わればメニュー表を綺麗にして、それから……
「…………」
入り口脇の壁に掛けられた1枚の絵に目が留まる。
それは20年前に起きた、魔物との戦争を描いたものだ。
中央には2人の剣士と、1人の魔法使いが描かれている。彼らを背中から見る構図であり、画面の手前には他の戦士たちの背中が大きく描かれている。
雄壮極まる彼らの睨む先には無数の獣の姿が。獣は犬だったりクマだったり、はたまたカマキリだったりと、その姿一様ではない。共通しているのは体が大きく、血に塗れているなど、醜悪に描かれていることだけだ。
ただの獣を写すだけであるならば、恐らくこんな誇張は不要だろう。それなのに誇張されているということは、即ちこれらが魔物であるからだ。
蜜蝋で磨かれた額縁には真鍮板が付けられていて、そこには『断罪の時』と、題名が彫られている。
「断罪……」
わたしの視線は中央の男性に吸い込まれていった。この人物は――
カラン。
「ただいまー!」
カウベルの音をかき消すように、若干掠れた低音がホールに響き渡る。
思わず耳を押さえながら振り返ると、そこにはお父さんがいた。
彫りが深く、日に焼けた顔が逞しい。尖った顎先と口下にはヒゲを生やしていて、それが中年男らしい威厳をかもしていた。193センチという長身と、衣服の上からでも分かる隆々とした肉体がその印象を裏付けている。
背中と左腰には剣がある。
帯剣が認められているのは騎士と兵士と冒険者だけであり、お父さんはその3つ目だった。
「もう、お父さんったら! 声が大きいよ!」
叫び返すと愉快そうに詫びられる。
「わりいわりい!」
謝りつつもにこやかだったお父さんは、わたしの脇に手を差し込み、ひょいと持ち上げた。
「今帰ったぞ!」
分厚い唇をほっぺに押しつけてくる。ブチュっと押しつけるようなその感触にゾッとしたのも束の間、ヒゲがちくちくと攻撃してくる。
「痛い痛い! もお、やるならヒゲを剃ってからにしてよ!」
「なんだと! ヒゲとケガは男の勲章なんだぞ!」
そんなやり取りをしていると厨房からお母さんが出てきた。
わたしと同じあかね色の長髪を耳の後ろで結わえていて、肩口と首筋の間に向こうの景色が見え、その華奢なラインから繊細な印象を受ける。それを助長するように目元は切れ長で、そこに収まる緑の瞳はまるで宝石のように煌めいた。
濡れ手をエプロンで拭っていたお母さんの瞳には、夫への愛慕がほんのりと滲んでいて、見ているとなんだか気恥ずかしくなってくる。
「お帰りなさ――」
言いかけたところで唇を押さえつけられる。キスは数秒に渡り、離れる頃には目元はとろけるように歪んでいた。
「……もう、リーベの前ですよ?」
恥じらいつつも、満更でもなさそうだ……仲が良いのは結構だけど、娘の前では男女にならないで欲しいものだ。
「はは! 夫婦なんだし、こんくらい普通だろ?」
愉快そうに笑っていたが、ふと感慨を滲ませ、真摯な瞳を妻に向ける。
「ただいま、シェーン」
「……お帰りなさい。エルガーさん」
2人はじーっと見つめ合って、今度はどちらと無く顔を寄せ――
「こほん!」
わたしが咳払いするとお母さんはハッと身を離した。背中を向け、そそくさと厨房へ逃げ込んでいく様は生娘のそれだった。
「もう……イチャイチャするなら娘のいないところでやってよ」
「はは、わりいわりい……」
今度は確かな反省を窺わせた。
それはそうと、お父さんは顔中、汗でテカテカしている。
「ここは食堂なんだから、汗だくでいられちゃ困るよ?」
「お、そうだな。んじゃ、俺は風呂屋に行ってくるわ」
「うん。ゆっくりしてきてね?」
「娘が働いてるのに呑気してられるかよ」
そう言い残すとお父さんは武器をしまいに2階の住居へ向かった。
「…………」
冒険者としての仕事を終えてきたばかりだというのに元気なものだ。
畏敬も過ぎれば呆れになるもので、わたしは小さく溜め息をついた。
「はあ……」
絵画に視線を戻すと、中心に描かれる剣士に目が留まる。
魔物の軍勢を前にしてなお、雄壮と佇むこの男性。その背中と左腰には鞘があり、両手には長剣がある……この人物があのお父さんだなんて、にわかに信じがたいものだ。
準備を終える頃には既に行列ができていた。
開店時間にはまだ早いけれど、お客さんを待たせるのも申し訳ない。
わたしは厨房を覗き込んで尋ねる。
「ねえ、お客さん待ってるから開けちゃってもいい?」
「ええ。失礼の無いようにね」
「はーい」
わたしは手鏡を取り出し、前髪を整えるとドアを開け、お客さんを出迎える。
「いらっしゃいませ! 〘エーアステ〙へようこそ!」
並んでいたのはお馴染みの人ばかりで、お客さんと店員の関係でありながら、ご近所さんみたいな挨拶を交わしていった。
このお店にはテーブルが6つしかない以上、お客さんには相席していただく事になったが、みんな快く受け入れてくれた。
「リーベちゃん」
あるお客さんがわたしを呼んだ。埃を立てないように、しかし迅速に向かう。
わたしを呼んだのは肉付きが良く健康そうなご婦人とその旦那さんだった。
「こんにちはスーザンさん。ダルさん」
「はい、こんにちは」
スーザンさんは隣で手を弄んでいた夫を小突く。
「ほら、アンタもむっつりしてないで、挨拶くらいしたらどうなんだ?」
「俺は単なる客だ」
確かに、その通りだ。
この淡泊さ、日焼けした肌。そして異様に逞しい上腕……名探偵ならきっと、彼が鍛冶師だと見抜けることだろう。職人気質なだけあってその腕は凄く、お父さんの剣や、お母さんのキッチンナイフは彼の作なのだ。
「ごめんね? ウチの旦那は愛想がなくて。まったく、シェーンちゃんが羨ましいよ」
そう答えるとスーザンさんは厨房の方へ――お母さんへ向けて手を振った。
「いえ。お待たせしてすみません。ご注文をお伺いします」
「いつもので頼むよ」
「はい。〘鶏のグレントマト煮〙と〘ザクザクバゲット〙ですね」
トマト煮は当店の看板メニューで、バゲットと組み合わせ特に人気だった。
それを裏付けるかの如く、「同じの!」と手を上げる人が続出した。
「はーい! ありがとうございます!」
開店直後にやって来るお客さんは大抵これを頼む。それは真実おいしいからであり、同時に、開店直後、厨房で働くお母さんに掛かる負担が小さくなるようにという、お客さんからの気遣いなのだった
このお店は愛されている。
そう実感出来る瞬間だった。
「美味しかったよ。また来るね」
「ありがとうございます! またのご来店をお待ちしております!」
最後のお客さんを見送ると濡れた毛布を被ったみたいに疲労がのし掛かってくる。
溜め息をつきつつ、表の札を『準備中』に変えたその時、「もし」と男性の声がした。
「はい?」
お客さんかな? だとしても、今はお迎えできないんだけどな……
そう考えていたが、どうやら違うらしい。
男性は背広を纏い、立派なお髭を蓄えており、貴族か商会の会長と言った風格をかもしている。
見慣れないお顔に首を傾げると彼は丁重に用件を述べる。
「お仕事中に失礼致します。こちらがエルガー・エーアステ様のお宅だとお聞きしたのですが」
「ああ……ごめんなさい。生憎お父さんは不在で――お急ぎですか?」
「いえ。急用という程ではございません。実はわたくし、ここへやって来る道中で魔物に襲われまして。危ないところをエーアステ様に助けて頂いたのです」
「そうでしたか……ご無事で何よりです」
もし助けに入るのが遅れたらこの人は……そう思うとゾッとした。
それは彼も同じの用で、滲んだ汗をハンカチの角で吸い取っている。
「お礼をと思って伺った次第なのですが、不在とあれば仕方がありません。わたくしは急用を控えておりまして、不躾ですが、お嬢様の方からお伝え頂けますでしょうか?」
「分かりました。……父もきっと喜ぶはずです」
素直な言葉に彼は微笑んだ。
「いやはや……立派な娘さんをお持ちのようで! あの、コレはせめてものお礼として……」
そう言ってこぶし大の革袋を差し出される。微かにジャラリと、硬貨が擦れる音がした。
「そんな! お父さんもギルドの方から報酬を頂いていますので――」
「そうとおっしゃらずに! 救われるに甘んじるは商人の恥ですので!」
動揺している隙に、半ば強引にお金を渡されてしまった。その重みはそのまま、感謝の重さなのだろう。
同様の事が過去にもあり、彼らは皆、お父さんに深く感謝していた。日頃の行いのせいでそんな大人物には見えないけれど……どうやらわたしから見たお父さんと、みんなから見たお父さんは違うようだ。
「それでは。失礼致します」
彼は会釈をすると通りの向かいに停めてあった馬車へと向った。
「あ!」
結局受け取ってしまったが……今更どうしようも無い。ひとまずお母さんに渡すとしよう。
ずっしりと重たい革袋を手に厨房へ向かうと、そこにはランチタイムを凌ぎ、ホッと一息つくお母さんの姿があった。
「これ……」
袋を差し出すとお母さんはギョッとした。
「だ、誰に貰ったの」
「商人って言ってた。テルドルに来る途中でお父さんに助けて貰ったんだって」
「そう……困ったわ……」
悩ましく溜め息をつきながら頬に手を添える。
「リーベ。お父さんはギルドからちゃんと報酬を貰ってるんだから、お気持ちだけを頂戴しないとダメでしょ?」
「断ったよ! だけど、断り切れなくて……」
言葉が消え入ると、お互いに困って呻いた。
しばらくして、お母さんは丁重な手つきで袋を受け取る。
「仕方ないわね。もしかしたらまたいらっしゃるかもしれないし、それまでは預かっておきましょう」
「うん……その、ごめんなさい」
「良いのよ。それだけお気持ちが強かったという事なのだから」
励ましの言葉を口にしながらも、その顔には夫を誇る気持ちが隠せていなかった。
「それよりお父さんったら、やけに遅いわね?」
「確かに……また誰かと話し込んでるんじゃない?」
主婦と冒険者は話し好き、というのは通説だ。
「私はお昼の用意をしておくから。リーベはお父さんを呼んできてちょうだい」
「わかった」
エプロン畳み、カウンターに置いてからわたしは外へ繰り出した。
この街、テルドルは高山地帯に築かれた街で、豊富な石材を生かした建築が盛んだ。お陰で街全体が無骨で、雨雲のようなどんよりとした印象を与えるものになっている。そのため、お向かいさんみたく花で彩る人が一定数いるのだ。
岩山のような光景を尻目に歩いていると、前方に知り合いの冒険者が見えた。
つるぴかりんで、体はお父さん以上に筋肉質だ。しかしお父さんの方が洗練されて見えるのは身贔屓な評だろうか?
彼は頭頂に陽光を煌めかせながらこちらに駆け寄ってくると、存外高い声で呼び掛けてくる。
「ああ、リーベちゃん! ちょうど良いところに!」
「こんにちは、バートさん。そんなに急いでどうかしましたか?」
「それがね、エルガーさんとボリスが我慢比べしてたんだけど、2人とものぼせちゃって」
「ええ⁉」
挨拶もそぞろに風呂屋へ急行する。
青空の下、広場には出店や露店が所狭しと並び、主婦や休暇中の冒険者で賑わっている。……中には仕事をさぼって間食をする衛兵の姿も。
その喧噪から外れ、風呂屋の方へ抜ける小道にはベンチが据えられていて、そこではお父さんとボリスさんが真っ赤な肌を春風に晒して呻いていた。
「お父さん!」
「お……リーベか。ちょうど良いところに」
お父さんは言うなり「アー」と大口を開けた。
「もう、仕方ないんだから!」
わたしは腰に付けたホルダーからワンド(短い魔法杖)を取り出し、先端の珠をお父さんの口内へ向け、念じる。
するとチョロチョロと水が出てきて、お父さんの口内を湿らせる。しかし、透かさず飲み干されるせいできりがない。
「ごくごく……ぷは! 風呂上がりは娘の出した水に限るぜ!」
妙な言葉に衆目が集まる。
「もおーっ! 変な言い方しないでよ!」
「そのまんま言っただけだろ?」
「それが変だって言ってるの!」
言い合っているとクスクスと笑う声がした。
カーッと羞恥がこみ上げてくる中、向こうのベンチでボリスさんが言う。
「リーベちゃん、俺にも水をくれ~」
「あげません!」
「まったく……お父さんのせいで恥かいちゃったよ!」
「な~いい加減、機嫌直してくれよ」
「いや!」
先へ先へとつま先を繰り出すも、視界の隅からお父さんがいなくなる事はなかった。
連れ帰ってくるのが目的だったのに、どうして振り払おうとしているのか。もはやわたしにも分からなくなっていた。
お父さんにとってはひどく理不尽なものだろうけど、わたしにはそれが……何故だろう。とても心地よかった。
「……ふふ」
「なにニヤけてんだ?」
「ニヤけてない!」
コツコツ靴を慣らしていると〘エーアステ〙に……わたしたちのお家に着いた。ドアノブに手を掛けたとき、温かい気持ちが胸に弾けた。
「…………」
「どうした?」
お父さんが顔を覗き込んで来るも、わたしは背ける。
「ううん。なんでもないの」
そう答えると、大きな手のひらが頭に乗った。
「……そうか。なら、帰ろうぜ?」
「…………うん」
わたしはドアを開いた。
今は準備中でホールはガランとしているが、テーブルのひとつには3人分の食事が用意されていた。その脇には配膳を進めるお母さんの姿があり、私たちに気付くとにっこりと笑みを浮かべた。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま」
わたしとお父さん。2人の声が重なった。
今日のお昼ご飯はトマト煮とサラダと丸パンだった。
「お、今日はトマト煮か!」
好物が食卓に並び、お父さんも嬉しそうだ。
わたしたちは普段、余り物とか、痛んできた食材ばかり食べている。だから看板メニューのトマト煮が食卓に出ることは滅多にないのだ。
「今日はお父さんが頑張ってくれたものね」
「そういえば、お父さんが冒険に出るのも久しぶりだよね」
実に2ヶ月ぶりのことだった。
「ねえ、今日は何と戦ったの?」
パンを千切りながら尋ねると、お父さんは口に運び掛けたスプーンを下ろして答える。
「ん? ああ……ラウドブロイラーだ」
ラウドブロイラーは二回りくらい大きいニワトリだ。その名の通り大声で叫ぶのが最大の特徴だ。
しかし食堂の娘としては魔物としてではなく、食材として注目してしまう。その身は大きく、それでいてニワトリより味が良い。家畜化されていないけど、1体から沢山肉がとれるためにそれほど高くはないという……素晴らしい食材なのだ。
「ねえ、ラウドブロイラーってどのくらいうるさいの?」
「そうだな……森が震えるくらいか?」
「そんなに⁉」
あんなに美味しいのになんで家畜にしないんだろうって不思議だったけれど、そういう訳か。納得しているとお母さんが話題を転換する。
「あの、さっき商人の方があなたを尋ねていらして、お金を置いていったんですよ」
「商人……アイツか。礼はいいって言ったんだがな」
お父さんは困った風に頭を掻いた。
「それで、また来るっていってたのか?」
お母さんがわたしに目を向ける。
「ううん。急用があるからって……ああ、あと、よろしく伝えてくれって」
「そうか……リーベ。俺はギルドから貰うもん貰ってんだから――」
「それは私の方からも言いましたよ」
「そうか」
他の冒険者なら『貰えるもんは貰っとけ!』って言いそうだけれど、お父さんはその辺しっかりしていた。あの商人が深く感謝してくれているのも、そう言うところに胸を打たれてのことなのだろうか?
「…………」
不思議に思って見つめていると、お父さんがニヤリと笑う。
「どうしたリーベ? 俺に惚れちまったか?」
「違うよ!」
まったく、しょうがない人!
昼食を取るとお父さんは仮眠を、お母さんは仕込みを。そしてわたしは店内の掃除をした。
「掃除終わったよ?」
前まではお母さんによるチェックがあったが、最近では無くなった。だからお母さんは淡然と了解して、「それじゃ、こっちにいらっしゃい」と招く。
ポニーテールを結い直しながら厨房に回る。
わたしはこの家の娘であるからして、将来はこの食堂を継ぐのだ。その為の修業として、数年前から仕込みを手伝いつつ、料理を教わっているのだった。
「グレントマトの湯むきをするから、お湯を沸かしておいて」
「わかった」
鍋を軽く洗い、かまどに置く。
それからワンドを取り出し、魔法で水を張り、薪に火を点ける……このように魔法は調理において重要な役目を持つ。だからわたしの魔法も、料理人修業の一貫として身に着けたスキルなのだ(もっとも、世の主婦は大抵使えるものだが)。
「氷水も用意しとく?」
「あ、お願い」
ボウルを用意して、魔法で氷と水を出す。
「それじゃ、トマト20個を湯むきしておいて」
料理の勉強に奮闘する内、ディナータイムまであと1時間を切った。
「お疲れ様。開店まで一休みしていて」
「ううん。わたしも手伝うよ」
「ありがと。でも、もうやれる事は殆どないから」
「そう? じゃあ、休憩入るね」
渋々と厨房を出るとお父さんが起きて来た。
寝癖を立てていて、ほっぺには腕で枕をした跡がある。寝起きなのは誰の目にも明らかだが、その目はシャキッとしていて、眠気を微塵も感じさせない。その奇妙な姿が可笑しく、わたしは小さく笑いながら問い掛ける。
「おはよう。もう寝なくていいの?」
「ああ。たったの半日だったからな。そんなに疲れねえんだ」
「へえ……」
お父さんは早朝も早朝、まだ日も昇らないような時間に出ていったのだ。その上で魔物と戦って……わたしなら明日の朝まで寝ても足りないだろう。
とても46歳とは思えない体力に感嘆としていると、ゴンゴンと、ノッカーが鳴った。
「誰だろう?」
窓の外に馬車が見える……あの人だろう。
「俺が出る」
お父さんがドアを開けると、そこには例の商人がいた。
ドアは閉められたが、窓は開いていて、2人の会話が聞こえてくる。
「おや……お休み中にでしたか?」
「ちょうど今起きたとこさ」
「そうでしたか……お察しの事と存じますが、伺いましたのは一言、お礼を申したいからでございます」
「ああ。リーベから聞いてるさ」
「おお、美しいお名前で。いやはや、そのお名前に相応しい立派なご令嬢でございました」
「~~っ!」
あんな紳士に振る舞いを褒められるのはどうにもムズムズする。
「お嬢様に言伝をお願い致しましたが……やはりどうしてもわたくしの口から一言、お礼を申しておきたかったのです。度重なる訪問、失礼致しました」
「いいや。そんなに感謝して貰えるなら、冒険者冥利に尽きるってもんだ」
「恐縮でございます……何分、蜻蛉返りする予定でございまして、護衛を雇っても随伴できないと判断したのでございます。ですがまさか……こんな時に限ってカンプフベアに遭遇するだなんて――」
「か、カンプフベア⁉」
その名前に思わず叫んでしまい、ハッと口下を覆う。
窓の外では会話が止まり、厨房からはお母さんが蒼い顔を覗かせる。
「……失敬」
「……いや。だが、気の緩んだときに限って災難に遭うものさ」
「ご高説、痛み入ります」
その時、ドアが開いてお父さんが顔を覗かせる。
「リーベ。アレを持ってこい」
「あ、うん……」
お金を持ってきて手渡すとわたしはそのまま外に残った。
夕焼けの下、商人はわたしを見ると丁重に会釈をしてくれた。わたしが恐る恐るお返しをする一方、お父さんはお金を差し出した。
「カンプフベアが出たんだ。森の魔物は気が立ってるに違いねえ。今からでも遅くねえから、ギルドに行って冒険者を雇うことだ」
商人は恥じ入るように目を瞑ると、粛然と金銭の返還を受けた。
「……承知いたしました。命をお助けくださったばかりか、ご忠言まで頂いて……もはや、感謝の言葉もございません。お言葉に従い、早急に護衛を雇おうと思います」
「ああ。道中、気を付けてな」
「お、お気を付けて」
「はい。それでは、失礼致します」
商人が馬車に戻る中、真新しい衣装に身を包んだ御者が、整然と主人を出迎えるのだった。