#1 数学係
「みんなプリント出したー? 持って行っていいー?」
私は教卓の上で数学の課題プリントを整理しながらクラスを見渡す。
「美桜、ちょっと待って~あとほんのちょっと!」
「おけおけ」
廊下側の席で大急ぎで丸付けをしているのは、クラスメイトの上野梨花。私の仲良しグループのひとり。プリントをまとめ終わった私は、提出かごを持って梨花のところへ行った。
「あっ、もしかして答え写したの?」
「写してない! たまたま答え学校に置いて帰っちゃったの!」
「冗談冗談、梨花は真面目だもんね」
実際彼女は成績も常に上位で、クラスはもちろん、学年でも一目置かれる存在だ。私もわからないことがあるときはよく質問させてもらうけど、いつもわかりやすく説明してくれるからすごいなあと思っている。
「終わった! 遅れてごめんね、待ってくれてありがとう」
「いーのいーの! じゃあ行ってくるね」
「いってら! 終わったら4人でクレープ食べに行こ!」
「うわあ行く行く! 早く戻ってくるね」
ぱあっと顔を輝かせてかごを持ち上げた私に梨花は首を振り、にっこり笑って小声で付け加える。
「宮野先生のとこでしょ? 時間気にしなくていいから話してきなよ」
その名前を聞いただけでドキッとしてしまう。直後、はっとして周りに聞かれていないかそっと確認し、顔が赤くなりそうになるのを必死でごまかしながら「梨花ってば」と軽く睨む素振りをした。梨花はまだ意地悪そうな笑みを浮かべたままで、私は逃げるように教室を出た。
私、遠坂美桜が数学の教科係をしているのは、教科担当が宮野先生だから。紛れもなくそう。先生と関わる機会を少しでも多く持ちたいから、先生に話しかけに行くきっかけにしたいから。
数学は1週間に一度は課題が出るから教科係の仕事も多く、やりたがる人はあまりいなくて、立候補したらすぐ決まった。課題提出に行くのは先生に話しかける絶好のチャンスだから、毎週何を話そうか考えてるし楽しみで仕方がない。なんなら毎日課題提出があってほしいくらい。
今日もそう、少し話せたらいいなあっていう期待はもちろんある。テスト直後だし、忙しそうなら引くけれど。
テストが終わった放課後の廊下は、解放感に満ちた表情で駄弁る人たち、久し振りの部活へと急ぐ人たち、みんなで遊びに行こうと集まっている人たちなんかで賑やかだ。人と人との合間を縫って職員室へ向かう教科係も私だけではない。
人がごった返す職員室前で、開いているドアからそっと中を覗いてみた。見慣れた場所にパソコンに向かう宮野先生の姿があった。ちょっと立ち止まってその大きな背中を見た後、ドアをノックした。少しずつ心拍数が上がっていくのを感じている。
「失礼します、2年6組の遠坂です。宮野先生に提出物を出しに来ました」
私の声が聞こえたようで、先生はぱっと振り返った。目が合うとちょっと口角を上げて「どうぞ」と合図してくれたので、かごを持って職員室に入り、先生の机まで向かった。
「ありがとう、遠坂。みんな出してくれてる?」
「はい! クラス全員分集まりました」
「おお、良かった良かった。さすが6組」
自分が褒められてるわけではないけど、ちょっと嬉しかった。かごを先生に手渡して、私の仕事は終了。
「そうだ先生、今回の中間考査作ったのって宮野先生ですか?」
まだ少し先生と話していたくて、テストの話題を振ってみる。先生はかごを机の上に置き、椅子ごとこちらに身体を向けてくれた。ちょっと話してもらえそうだ。
「そうそう、俺。どう、難しかった?簡単だった?」
「最後の問題が難しくてわかんなかったです……」
「ああ、あれ。あれはね、入試レベルに近いからちょっと難しかったね。100点取らせないための問題よ」
「やっぱそうですよねえ。あ、でもそれ以外は結構自信ありますよ」
「お、まじ? 採点楽しみにしとくわ」
大きくうなずくと、先生もにっこりと笑ってうなずき返してくれた。そしてそのままふと思い出したように言う。
「遠坂、数学頑張ってるよなあ。数学教師としては嬉しいわ」
(先生が褒めてくれた……!)
飛び跳ねたくなるのは堪えるけど、嬉しさに思いっきり頬が緩む。ありがとうございます、と言った後で、少し付け加える。
「先生の授業楽しいから、数学好きなんですよ!」
なかなか言う機会もないけど、生徒の立場である私からできるささやかなアピールのつもりで。嬉しそうに「ありがとう」と返してくれた先生の表情を見ると、胸がキュンとした。アピールなんて言いながら、好きになっていくのはいつも私の方ばかりなのだ。
「まあそんなわけでいつも頑張ってるからたまにはゆっくり休めよ」
「これから友達とクレープ食べに行きますよ」
「いいじゃん。気を付けて行っておいで」
「はーい! 先生、採点頑張ってください」
失礼します、と先生の机を離れ、職員室を出たところで立ち止まる。ちらっと振り返ってみると来た時と同じようにパソコンに向かう先生の後ろ姿が見えて、その姿を目に焼きつけた。名残惜しくはあるけれど踵を返し、教室に戻りながらついさっきの先生との会話を頭の中で思い返していると、自然と口角が上がってしまう。周りの人に見られないよう必死で抑えながら階段を駆け上がった。