8 魔法の手
桜介はマメだった。
映画の帰りにラインを交換した後、桜介は頻繁にメッセージを送ってきた。内容はくだらないものばかりだけど。
『最近、会ってないけど寂しい?』
最近って、2日前に映画に行ったばかりだよね?
『今、俺のこと考えてたりする?』
考えないと、ラインの返事打てないよね。
『なにやってんの?』
なにって、ラインの返事打ちだよ。
『会いたくなってきた。家行っていい?』
だ、だめだめ! 今、酷い恰好してるんだけど………
ピンポーン。
返事を打つ前にチャイムが鳴った。桜介め、思い立ったらすぐに行動取りすぎだ!
暑かったので、キャミソールにショートパンツで寛いでいた私は、慌ててクローゼットの扉を開ける。な、何か着なきゃ……
七分袖のカットソーを手に取り、広げていると、部屋の扉が無遠慮に開けられた。
「よお!」
「うわぁ!!」
びっくりして、手にしていた服を胸元で抱きしめる。
「桜介ぇ? なんで家はいってんの!?」
「おばさんが入れてくれたけど?」
お母さんめ……私に一言、声かけて……!
「久し振りだな……」
「っっっっっ!!」
桜介に背を向けていると、背後から長い腕が2本伸び、私をギュッと抱きしめた。甘い香りがふわりと漂ってくる。
わー! わー! わー!
こんなカッコの私に気楽にハグなんてするんじゃない! 露出した二の腕に、桜介の手のひらがまともに当たるじゃないかあ…
桜介の温もりを肌で感じ、不覚にも顔が赤くなっていく。
「な…にやってんのよ…、離してよ」
「まあまあ、そう言うなよ。俺さぁ、ちゃんと反省したんだぜ。このくらいなら痛くないだろ?」
「そりゃまあ、痛くないけど……」
私を抱きしめる桜介の腕は、力は籠っているものの、あの時のような苦しさは感じない。ちゃんと学習してんじゃん……
って、違う! そもそも友達にこういう事、日本では普通しないんですから…!
桜介の距離感て、ほんとに一体どうなってんの!?
「柚葉も、俺に会いたかっただろ?」
私の耳元で甘い声が響き渡る。桜介の温かい息が耳にかかり、――私はついに、キレた。
「………てってよ」
「…ん?」
「桜介、今すぐ出てけぇ……!!!」
私の足が、背後の人間を全力で蹴り上げた。
◇ ◆
きちんとした格好に着替えたあと、優しい私は改めて桜介を部屋に招いてあげた。
本当は2度と入れてやるかと思っていたけれど、リビングで母と談笑している姿を見て、慌てて引きずり込んだのが正解だ。
「桜介君、すっかりカッコよくなったわねぇ。柚葉が夢中になるのも分かるわぁ」
「おばさんも相変わらず綺麗ですよ」
「あらぁ、お上手ねえ。もうねぇ、あの子ったらここんとこずっと、桜介は桜介は…って、桜介君の事ばかり喋ってるのよ」
ひ――!
誤解を招くような事、言わないで!
逆だ逆。桜介と映画に行ってからというものの、お母さんの方が『桜介君とは付き合ってるの?』だの『デートは楽しかった?』だの、うるさいんじゃないか!
桜介の事ばかり喋らせているのは、誰よ………。
「俺に夢中なの?」
桜介が、にやついた顔をして私を見ている。
母に誤解をさせた元凶の癖に……。
「お母さんの言う事、真に受けないでよね」
「照れてる?」
「ないよー! …ところで、何しにきたのよ」
「ああ。柚葉の髪、触りにきた」
「へっ?」
なに言ってんの? コイツ。
呆気に取られる私の後頭部に、桜介が両手を伸ばした。適当に束ねられた髪のゴムに指をかけ、するりと優しく解いていく。
「…暑いんだけど。ゴム返してよ」
「そんな事言わずにさ、髪いじらせてよ。この前みたいにヘアアレンジして遊ばせて」
映画に行った日、桜介に作って貰った髪の毛を思い出した。あれはとても上手だった。
「やけに上手いと思っていたけど……趣味なの?」
「将来、そっち方面に進もうかと思ってるくらい好きだな」
そ、それって相当じゃん……!
「面白いじゃん。髪って、少しいじるだけで雰囲気変えられるんだぜ。元気よく見せたり、甘さを出したり、大人っぽくなったりとかさ」
「この前は、服装に上手に雰囲気合わせてたよね。でも、元気なだけじゃなくて、可愛いもちゃんと混ざってた!」
「そうそう、その辺の絶妙なバランス具合とか、上手く行くとたまんねえよな」
嬉しそうに語りながら、桜介が私の髪に手を掛けだした。ポケットからコームを取り出し、とかし出す。優しく滑らかな手つきに、なんだか気持ち良くなってくる。
「髪が決まるだけで、女の子って何倍も可愛くなれるんだよね。それでさ、大抵の子は俺が髪を作ってやると、こないだの柚葉みたく笑顔になってくれんの。そういう、誰かに喜んで貰えるとか、幸せな気分にさせられるってのがさ、いいなって俺は思ってる」
ごめんね。
私は桜介の事、正直言って、軽くてヘラヘラしてるだけの男だとばかり思ってた。
ちゃんと好きな事とかあるんだね。こんな風に……真面目に考えていることも、あるんだね。
私の方が全然、なんにもないくらい。
「今日はアップにしてみようかな。柚葉の髪、アレンジし甲斐あるよなぁ」
くるくると髪をねじり、頭の上で形を作り上げていく。
ラフな部屋着に良く似合う、ざっくりとしたお団子ヘアの出来上がり。
「わー素敵!」
「いや、まだ完成じゃねぇ」
桜介の指が細やかにリズムを刻む。動くたびに髪にルーズ感が出て、私はその度にため息を吐いた。
これ、難しいんだよね。
不器用な私は毎回上手く行かず、諦めておろしたままで終わる。
「俺、仕上げが一番好きなんだよね。最後に魔法をかけたみたいだろ?」
別人のように優しい声で、桜介が言葉を紡いだ。
鏡に映る私は、普段より何倍も可愛く見える。
本当に魔法だよ………。
「桜介の手は魔法の手だね」
ふわりと笑うと、桜介がすこし真顔になった。
私の耳元に顔を寄せてきたので、さっきのように何か囁くのかと思っていたら、不意に、頬に柔らかくて温かいものが触れた。
「――っ、桜介!」
「さっきの、仕返し」
ぺろりと舌を出し、にまりと桜介が笑った。
蹴ったけど。蹴ったけどその仕返しでこれって…。
桜介。アンタの友達との距離感、ほんとにほんとにおかしいから…!
◇ ◆
桜介の距離感は私の価値観とは大きくずれていて、時折私の心を騒がせたものの。
長い5月の休みの間、私と桜介は、過去からは考えられないほど仲良く過ごしていた。憎まれ口は相変わらずだけど、昔のような意地悪をされることはなかったし、それどころか時々、気味が悪いくらい優しい態度を向けてくる。
私の部屋に来ると、桜介は決まって私の髪を楽しそうに結いだした。私も、可愛く変身出来るこの時間を、ちょっぴり楽しみにしてしまっていた。
「お、これうめぇな」
「ほんと? 良かった」
私の淹れたアイスティーを一気に飲み干し、桜介が笑顔を見せた。
5月にしては暑い日が続くせいか、冷たい飲み物は好評だったようだ。ダージリンを飲んで渋そうにしていたので、今日は飲みやすいフレーバーにシロップを加えてみたのが、正解だったのかもしれない。
葡萄の甘い香りと桜介の笑顔が、私の心を綻ばせる。
「桜介の言う通りだね」
「なに、急に」
「自分が何かをして、相手に喜んで貰えるのって、嬉しくなるねってこと!」
桜介には敵わないけれど。
私の手も少しくらいは魔法の手に、なれたのかな……。
「出来上がり」
鏡を見て、感嘆の吐息を漏らす。
片編み込みのハーフアップ。くるりと回転してみたら、背中に垂れる髪がふわりと軽く揺れた。編み込みも、きっちり編み込んだ後に程よく崩していて、とても可愛い。
「ねえ、ちょっとお散歩しに行こうよ」
「これから?」
「うん、この髪で外、歩きたくなった!」
こうして。
私はすっかり、桜介の親しい友人になれた気で、いたのだった。