望まぬ再会
体育祭なんてイベントが霞むほどに、日菜とのデートは楽しみだった。
家を出る前にお風呂に入って顔色を少しでもよくしようとした。いつもは使わないドライヤーの微風モードで髪を乾かした。服は前日にアイロンをかけてハンガーにかけておいた。鏡を見る度に前髪を弄り、左右非対称になっている服も何度も治した。普段はしないような化粧もしてみようかと思ったけど変になったら嫌なのでいつも通りに薄く伸ばした。くせ者だった頬の赤みが消えていて、昨日よりも自信がついた。
こんな万全の準備、体育祭でしたことはない。私がしたことがあるのはせいぜい朝にバナナを食べるくらい。おばあちゃん曰く体力がつくからとのことらしいが効果は多分、そこまでなかった気がする。ともかく今日の私は本気なのだ。・・・・・・靴を買いに行くのに本気もなにもないか。
そういえば1つ、嬉しいことがあった。
ここ最近、私は朝の占いをかかさず見ている。相も変わらずとんがり帽子の魔女おばさんが出ている番組だ。
そして今日の1位は我らがさそり座だ。
街を歩く人たちの中にどれださそり座がいるのだろう。さそり座は比較的人口の多い星座だし100人いたらその中の10人はさそり座ということになる。とすると今通り過ぎたスーツ姿の女性もさそり座という可能性があるわけで、そう考えると途端に1位という称号がうさんくさくなった。
でも、それでいいのだ。占いなんて。くじ引きみたいなものだ。ようはその日の運試し。
つまり今日の私は朝から幸先がよく、日菜とのデートも大成功するに決まっていた。大成功の条件ってなんだろう。考えるけど、恥ずかしい方へと思考が傾いたので途中でやめた。
本屋で立ち読みをしていた私は、足がむくむ気配を感じ歩き始める。といっても約束の時間まであと2時間もあるので結局どこかで時間を潰す必要がある。外は風が吹いてたから行きたくない。
早く来すぎてしまった・・・・・・。
ご飯は、まだ食べたくない。お腹はそこそこに減っているけどここで食べてしまったら日菜と靴を買ったついでにご飯を食べに行けない。日菜と外食なんて滅多にある機会ではないので逃すわけにはいかないのだ。食べてきたと言われたら・・・・・・コンビニでおにぎりでも買おう。
となると、どうやら私はこの本屋で時間を潰すほかないらしい。幸い面白い漫画を1つ見つけたので最終巻まで読んでみようと屈伸してから再びさっきの場所に戻る。
「あれっ?」
その時、私の後ろで声がした。親しみのない声。日菜のものではない。そもそも私にかけられたものなのかもさだかではない。名前を呼ばれるまで振り返らないでおこう。
「結芽ちゃん?」
「・・・・・・」
振り返った。
「結芽ちゃんだよね」
最悪だった。
とんがり帽子の魔女おばさんを心の中でひたすら憎んだ。やっぱり占い師なんて詐欺師とたいして変わらない。適当なことを神妙な面持ちをして言ってみせればお金がもらえるのだから楽なものだ。こっちの気も知らないで。
「久しぶり、でいいのかな?」
喉から声が出てこない。頭に言葉が浮かんでこない。だけど、ここが本屋ということも手伝って私のぼそぼそ呟くような返事はそこまで不自然なものにはならなかった。
「ひ、ひさし、ぶり」
「びっくりしたぁ。電車が来るまで立ち読みでもしてよっかと思ったんだけど、まさか結芽ちゃんに会えるなんて。結芽ちゃんもなにか読んでたの?」
「あ、いや」
手に持っていた漫画をバレないように下の本棚に滑り込ませた。『熟れた夜と百合の花』というタイトルがごとりと揺れる。
私をまっすぐに射貫く視線が体を硬直させる。手のひらにじっとりと汗を感じ、スカートを握りしめる。せっかくアイロンをかけたのに、しわになってしまった。
「そうなの? あ、じゃあ暇つぶしだ。誰か待ってたり?」
「そんな、とこ」
「彼氏だ」
「友達」
私が言うと、彼女は驚いた様子で元々大きい目を見開いた。
それ以降話すことがなくなり、互いに向き合ったまま無言になる。会話のないその時間がいやに気まずい。なにか話して欲しい。そうじゃなければどこかへ行って欲しい。ここまで居心地の悪い感覚は久しぶりだった。
「何時に待ち合わせなの?」
「2時」
「えっ、まだ2時間もあるじゃん。わかった。楽しみだからって早く来すぎちゃったんだ」
肯定するのが恥ずかしかったので俯いたまま察してくれと念を送った。それが届いたのか、彼女は他に言及はしなかった。
彼女は私の隣を陣どり、目の前の本を手に取ってパラパラとめくる。
「昔から結芽ちゃんそうだったもんね。誰よりも早く約束の場所に来てさ。それで待ちきれなくて1人でご飯食べちゃってたりしたこともあった」
本を読んでいるようで読んでいない宙を彷徨う視線。それは彼女だけでなく、私も同じだった。
「ふふっ、懐かしいなぁ」
彼女は笑う。髪型も顔つきも、昔と随分変わったけどその笑い方だけは今も変わっていない。あの時と同じ。私に「ごめん」と言って、困ったように笑う気遣いに満ちあふれた艶然としたさまに、背中が寒くなっていく。
まるで体中を毛虫が這いずり回るような悍ましい感覚に吐き気を催す。人と話すのって、ここまで辛いことだっけ。
「ね、よかったら時間までご飯でも食べに行かない? ちょっとお話したいことがたくさんあるんだ」
「あ、や、でも。待ち合わせが・・・・・・」
「大丈夫だって30分前には帰ってくるから」
「それでも、万が一遅れちゃったら嫌だから」
日菜だって、私ほどじゃないにせよ早く来るかもしれない。それは遅れないようにと私に気を遣ってくれているということで、そこに私が居合わせないのは日菜に申し訳ない。
日菜は多分そんなこと気にしないかもしれないけど、これは私の問題。私が日菜にしてあげたいほんのちょっとの不器用な気遣いなのだ。
彼女はすでに漫画には目を通しておらず、視線は私に向いていた。
「大事な友達なんだね」
「うん。大事な、友達」
声はそれほど大きくないけど言葉自体はしっかり紡いだ。言い淀むことはしたくなかった。
「そっかぁ」
彼女は諦めたように息をつくとパタンと本を閉じて棚にしまった。
「本当はね、偶然じゃないんだ。やることなくてぶらぶらしてたら結芽ちゃんが本屋に入っていくのを見て後をつけて声をかけたの」
やはり、困ったように笑う。
「でも、わかった」
肩のトートバッグをかけ直して、彼女は言う。
「変わったね、結芽ちゃん」
「・・・・・・そう?」
「うん。変わった。言い方を変えると、私が変えてしまった結芽ちゃんが、また変わってくれた。かな」
心臓が不快な跳ね方をしたのが分かった。それを掘り起こすのかと今に始まる惨劇を予期して恐怖する。だけど、そう。私から言わせてもらえば、彼女はあの時からなにも変わっていない。
「ごめんね」
その優しいところは、中学の時のままだった。
「そんな、謝ることじゃ。それに私こそ、その・・・・・・」
言いづらいことを言おうとしている私の意図を察知したのか彼女は首を振ってそれを制止する。
「今更ね、結芽ちゃんにもう一度友達になろうなんて言わないよ。結芽ちゃんも気まずいだろうしね。だから私はここらでドロンしますよ」
胸の前で印を結んで顔を綻ばせる。
その様子は、いつかの休み時間。いつかの休日。いつか一緒に過ごした時間を彷彿させる。
「でもね最後に、これだけ。これだけ言わせて貰っていい? というか、ずっとこれを伝えたかった。伝えるためにここまで来たの」
でも、もうあの時とは違う。人は成長し、時間は過ぎ、環境は変化していく。彼女の思いも私の想いも移り変わって隣を歩く人も、もう違う。
大人っぽくなった彼女は、投げられるように置かれた『熟れた夜と百合の花』というタイトルの漫画に目をやり、そのあとに私を見て言った。
「結芽ちゃんは、間違ってないよ」
それだけ言うと、彼女は「じゃあね」と手を振って去っていった。
歳を取ると、異端と正常の境界線がだんだんと色濃く見えるようになってくる。
彼女には、それが見えているのだろうか。
見えているうえで、私にああ言ったのだろうか。
もしくは。
境界線なんて、本当はどこにも無いのだろうか。




