日野くんの家と不穏な影
「なんか最近野菜買う量増えたけどどうしたの?」
日野くんに夕食を作るようになって一か月が経過した休日。八百屋さんで会計をしてもらっていると、店番をしていた美耶ちゃんが首を傾げた。
確かに、野菜を買う量……というか食材を買う量は倍になった。
一人分が二人分に、要するに日野くんの量が増えたからだけど、「クラスの男子に昼食と夕食を作ってるんだ」とは少し話し辛い。どうしてと聞かれても答えられないし。
それに、あともう少しで夏休みだ。日野くん、休みの間お昼や夕食はどうするんだろうと思うけどまだその話を彼としていない。
普段彼には土日用に、氷漬けにした自家製冷凍食品を渡したり、電話をしながら作り方を説明したりして食べてもらっているけれど毎日は厳しいだろう。気温ももっと高くなるし。
かといって夏休み中にお弁当を渡しに行こうか尋ねて、休みの日に会いたがっていると思わせてしまったら申し訳なくて私は言い出せずにいた。
「うん、研究かな?」
「そっかあ、何か最近野菜めっちゃ売れるんだよね。スムージーにしたりとかするんだって」
「スムージーかぁ……」
食べるより飲むことのほうが手軽だし、栄養不足を補うのには最適だ。
でも、スムージーってどちらかといえば、普段の食事の足りない栄養素を補ったりが目的だからそもそも食事が出来てない彼にはどうなのだろう……。
モデルをしている人はわりと量を食べない印象だったけど日野くんはよく食べる。
すらっとしていて腕も足も細身だから、どこに入っていくのか疑問なくらいだ。自分のことを「燃費が最悪でさ、すぐお腹減るんだよ」と言っていたから、消化の速い液体と日野くんの相性には疑問が残る。
「あっそういえば瑞香ちゃん聞いてよ」
「ん?」
「珱介がさあ、雑誌のインタビューで理想の彼女像について語ってたんだけど、見てよこれ、好きなタイプのところ!」
お客さんがいない時に読んでいたらしく、美耶ちゃんはお会計をする机の下から雑誌を取り出して広げた。ピンクや黄色など可愛い色味で統一されたページを読んでみると、『日野珱介の恋愛観』とポップ体で載っていて、下には一問一答形式で彼が答えている記事だった。
「好きなタイプは、世界で一番可愛い女の子です……だって! 珱介、絶対彼女いるよね? あの顔でいないわけないし。これ完全に雑誌使って惚気てるよね。ほら見てよここ、好きな人としたいことの所、何気ない食事だって。同棲してるみたいじゃない? 超羨ましいよねえ! 珱介夏にキスシーンの撮影あるらしいみたいなインタビューも載っててさあ、うわーとか思ってたんだけどこれ見てたらもう余計にうわーだよ!」
美耶ちゃんは「本当にうわー!」と繰り返しながら雑誌をばさばさ閉じたり開いたりを繰り返す。
日野くんに、彼女がいるのだろうか。
彼は引く手あまただろうけど、恋人がいるならいくらクラスメイト同士とはいえ、買い出しに私を誘うことはしない気がする。
それに、マグカップだって好きな色がなく、私の好きな色を選ぶくらいだ。彼女がいるならその子の好きな色にするだろう。
でも、彼女はいないと思うよと伝えようにも根拠は言えない根拠なわけで、口を噤んでいると美耶ちゃんの後ろから八百屋のおじさんが現れた。
「お前この間野球坊主と同じ傘で帰ってたじゃねえか」
「え、お父さん見てたの!?」
「当たり前だろうが! 店番してたら! こそこそこそこそ端のところで別れやがって。親に会わせられねえような奴なら、俺は認めねえからな!」
「そんなんじゃないってば! ただの同級生だから」
顔を真っ赤にして怒る美耶ちゃんを見て、おじさんは拗ねた声色で複雑そうに声を荒げた。
「んなこと言ったって、あっちはどうか分かんねえだろ! 相合傘してお前傘ん中入れてやって、自分の肩ずぶ濡れにしてたんだからな! お前に気がねえわけねえだろうが」
「ああああ! もう! お父さんはあっち行ってて! 私は瑞香ちゃんとお話してるの!」
彼女は八百屋のおじさんを強制的に店の奥へ押し込んでいく。そして顔をぱたぱた仰ぎながらこっちへ戻ってきた。
「さっきのお父さんの言ったこと、本当気にしないで! 忘れて! 全然そんなんじゃないから」
「うん。分かったよ」
「あ、そ、そういえばねえ! 商店街の曲! 暮れ盆の時期にスピーカー修理出して新しくするから、曲が変わるらしいよ。一週間は寂しくなるけど、ニューソングで旋風を巻き起こす! なんて自治会長が言ってたから、変な曲になりそうなんだけど」
美耶ちゃんは話を変えるようにして商店街で流れる曲について話を始めた。でも、話の半分も頭の中に入ってこなくて、つい返事がおざなりになってしまう。
「瑞香ちゃん、どうしたの?」
「ううん、何でもないよ」
ずっと黙ったままの私を見て、美耶ちゃんが不安そうにしていた。私は慌てて首を横に振り、笑みを浮かべる。
日野くんに、彼女。いないとは思うけど、二人分の食器を買っているところから見ても好きな人はいるのかもしれない。
……日野くんに、好きな人。
「じゃあ、私帰るね」
「うん、気を付けてね瑞香ちゃん」
美耶ちゃんに手を振って、八百屋さんから離れる。私は、どこか胸のあたりがもやもやしていくのを感じながら商店街を後にしたのだった。
◇
商店街に向かった翌日私は部屋のカレンダーをじっと見つめていた。縁に描かれた絵は先月の紫陽花から変わり、向日葵が描かれている。明後日からは夏休みだ。
休みの間は当然日野くんとは会えない。授業が無くて嬉しいはずなのに、どこか気が重い。明日は終業式で午前授業で、彼は何も言ってこなかったから、多分昼食も夕食も必要としていない……と思う。
というか日野くん。夏休みが入ったら夕食と昼食、どうするんだろう。土日の食事は仕事があるから、マネージャーさんに買いに行ってもらってると言っていたけれど心配だ。なんとなく、この夏レパートリーを増やそうと揚げない揚げ物の練習をしたりはしているけど……。
「……でも、日野くんの、彼女……」
変な思考を止める為に事実を呟くと、より胸がずしりと重たく感じた。いるかいないかは決まった訳じゃない。
彼女がいるのに、私なんか……と言っても一応女子な訳で。二人きりでお昼を食べていい訳ない……はず。
だからやはり彼女はいないかもしれない。彼は光熱費を払おうとした時自分のことを「泥棒」なんて言っていたくらいだし、きっちりした人のはずだ。
「よし」
夕食作りに取り掛かるべくエプロンに着替えるとスマホが震えた。画面を確認すると送り主は日野くんだった。
『明日って暇?』
『俺の家に、夕食を作りに来てくれないかな?』
連なるように並ぶ二つのメッセージに目が釘付けになっていると、またぽんと浮かび上がるように新しいメッセージが表示された。
『夏休み、暑くなるし、そろそろ家で夕食作って欲しくて』
『だめかな?』
それらを目で追って、呆然とする。
日野くんの家で、私が作る――? 届けるじゃなくて?
確かに、夏だし食材の痛みも早い。でも、どうやって返信しよう。なんて返そう。後で返そうにも今まさに見てしまっているせいで、日野くんのメッセージの隣には既読がついてしまっている。
「い、い、よ、っと」
とりあえず三文字。了承の旨を伝えるメッセージを送信するとすぐに既読がついた。そしてまたメッセージが追加で表示される。
『五十嵐さんもうちで食べるよね?』
『いつも夕飯は別だから一緒に食べたいな』
『洗い物は勿論俺がするよ!』
『あと調理器具はあるから持ってこなくて大丈夫』
凄まじい動きで泳ぐ、ペンギンのスタンプ。
あれ、じゃあ明日は日野くんの家で、彼とご飯を食べるってこと?
『五十嵐さんはそれでもいい?』
『やだ?』
『大丈夫?』
考えている間にもどんどんメッセージは送られてくる。私は慌ててスマホの操作を始めた。
「日野くんが、よければ、お言葉に甘えた、い、で、す」
文字を打って、送る。
すぐに既読がついた。ペンギンが喜ぶスタンプとお礼の言葉。私も同じように動物のスタンプを送り、「明日よろしくお願いします」と打って送信しスマホを閉じる。
……明日、日野くんの家に、行く。
なんだか現実味が湧かない。なのに心臓はばくばくしてきて締め付けられる気がしてくる。
どうしよう……いやどうもしないか。いつも通り、いつも通りがちょっと変わっただけだ。何作ろう。日野くんの家で作るから前日から下準備……とかは出来ない。夏だし、加熱済みならまだしも傷んでしまう。
……でも、これは日野くんに出来立ての料理を食べてもらうチャンスではないだろうか。
冷めても美味しく出来るように作ってはいるけど、出来立てはやっぱり美味しいし……。煮物は出来立てより冷えた方が好きとか、派閥は色々あるけど、焼き魚とかソテー類は熱い方が美味しい。
じゃあ、明日作るのは出来立てが美味しい料理……。あとは、弁当じゃないから生ものも使えるようになって色々制限が無い……。
そう考えて自分の心が浮き立っていることに気付いた。慌てて頬を叩いてしっかり気を引き締める。
駄目だ。落ち着こう少し。食べ物のことを考えよう。レシピを読んで明日の事を考えなきゃ。雑誌を手に取りぺらぺらめくると筑前煮のレシピが出てきた。
――うん。五十嵐さんの料理だったらな……って。五十嵐さんの料理、好きなんだよね。なんか力が抜けるって言うか、落ち着く
ふと日野くんの声を思い出して、顔に熱が集まっていく。私は顔を横に振って熱を逃がすようにしてからまた料理雑誌を読み込んでいった。
◇
終業式当日。私は体育館に響き渡るホイッスルの音を聞きながら、コートの端に寄ってバスケの試合の様子を眺めていた。
というのも、新設校で一応は進学校でもあるこの高校では、座学が重視され体育や美術などの教科は比較的後回しな組まれ方をする。今日は終業式だけど、雨などで延期になり授業日数が少なくなった体育が一時間目から二時間分行われていた。
皆はリレーや持久走などきついものじゃない分楽しそうに授業を受けている。
コートの中では白熱した試合が繰り広げられているけれど、私は今日の放課後日野くんの家にいくことが頭から離れずそれどころじゃない。
一方の隣にいる芽依菜ちゃんも顔色を悪くしながらちらちらと後ろを気にしていた。視線を追うと、丁度男子たちも隣のコートでバスケを行っている。
「真木くん、怪我しないかな……」
芽依菜ちゃんは真木くんを心配しているらしい。
彼は気怠そうにしながらコートの端で体育座りをしていた。試合に参加する意欲は皆無そうだし、怪我することはなさそうだけど相手は真木くんだ。
何も無いところで転び、この間は三輪車に轢かれかけて坂から転がり落ちたらしく包帯を腕に巻いていた。芽依菜ちゃんの心配も一概に過保護とはいいきれない。
「日野くん、これ! ビブスどうぞ!」
遠くから発された声なのに私は反射的に視線を向けてしまう。視界に入ったのは、女の子たちが日野くんにビブスやタオルを渡す光景だった。
日野くんすごい人気だ。でも、いくつものビブスやタオルを差し出される彼はどこか浮かない顔をしている。
「日野、相変わらず女子に囲まれてんじゃん。羨ましいなぁくそがよお!」
声の主は私たちの後ろにいた隣のクラスの男子だった。
体育は二クラス合同で行われているけど、やっぱり他のクラスの男子が近くにいるのは落ち着かない。彼らは試合を終えたらしくタオルで顔をゴシゴシ拭きながら呼吸を整えていた。
「俺本当あいつ嫌いだわ。誰にでもいい顔して」
「そうか? あいつすっげー冷てえじゃん。女子にも」
「は? 女子にも? まじで? あの日野が?」
隣の男子たちの話を聞いて、頭に疑問が浮かぶ。
日野くんが、冷たい?
「物の貸し借りとか、すっげーさりげなくだけど断るし、誰かが触ろうとしたり近付くと微妙に避けてんだよ。潔癖っつうか。あいつが誰かに物貸したりしてんの見たことないだろ」
「あー、そうかも」
「初めは男相手だけでなんだこいつって思ってたけどさ、普通に女子にもそうだから俺逆に好感高いわ。全方位バリケード張ってるっつうか」
「まじか」
「なんかトラウマとかあんじゃねえの? すげえキャアキャア言われてるし。アイドルの握手会でやべえ奴毎年出てくんじゃん。舐めた手で行くみたいな」
男子たちはタオルで汗を拭きながら去っていく。
……日野くんが、触られると嫌がる?
そんなこと聞いたことない。だけど日野くんのことだ。嫌でも気を遣って黙っていることは想像に容易いし、あんな酷い目にあったのだ。人に近づかれることを嫌がってもおかしくない。
もしかしたらお弁当の受け渡しの時に触っちゃってたかもしれない。だとしたら私は彼に嫌な思いをさせていたのでは……?
……今日は日野くんのおうちに行くとき、彼に触らず絶対近付かないように気をつけないと。
私はしっかりと男子たちの言葉を胸に留め、バスケの試合を眺めていた。
◇
終業式を終えた私は学校を出ていつもとは逆の道へ向かって歩いていく。
帰っていく生徒たちから逃げるように裏の路地へと入ると、日野くんがスマホに目を向け壁にもたれかかるように立っていた。彼は私を見つけるとぱっとにこやかに笑う。
「五十嵐さん」
「ま、待たせちゃったかな」
「全然大丈夫だよ。じゃあ、行こう」
「う、うん」
歩く日野くんの後をついて行く。
四時間目で下校ということもあって、周囲の住宅街からは美味しそうなお昼ご飯の匂いが漂っている。
コンビニでお昼ご飯を買ったらしいおばあさんやおじいさんともすれ違うけど、通学路とは一本遠い路地だから生徒の姿はない。
日野くんは平然と歩いているけど、私は緊張でどう歩いたらいいか分からない気持ちだ。
近づかないように、触らないように、嫌な思いをさせないように。それに男子の家に行くのなんて初めてだ。それも一人で。ハードルが高い。
当然何もないのは分かってるけど緊張はする。それに彼のキッチンで料理を作るわけだから迂闊に汚せない。
「昨日は突然ごめんね? 家に来てなんて送っちゃって」
不意に日野くんがこちらに振り返り顔が近づいた。焦って後ずさると彼は「驚かないでよ」と少し傷ついた顔をしてから話を続けた。
「実は前から思ってたんだ。五十嵐さんがうちに作りに来て、そのままうちでごはん食べて欲しいって。そうしたら、調理器具とか食器の洗い物も俺が出来るし、一緒に食べられるのになーって」
「そ、そうなんだ」
一緒に。
その言葉が強調された気がして心臓の鼓動がまた一段と早くなった。顔に熱がこもっていくのを誤魔化すように俯いていると、彼は私の顔を覗き込んで私の肩に触れた。
「五十嵐さん来るから、食材一通り揃えたんだ。だから好きなの使ってね」
日野くん何てことないように話をしているけど、彼は買い物が苦手なはずだ。囲まれるとか言っていたし宅配の件だって多分傷は癒えていないはず。それなのにお買い物しておいてくれたんだ。
「ありがとう。日野くん」
「気にしないで、普段五十嵐さんにしてもらってることだし……。こちらこそいつもありがと」
夏の日差しを受けながら、日野くんは笑う。彼の笑顔は何度も見たはずで特に思うことなんてなかった。
でも、今日は酷く胸がぎゅっとして、私は顔が赤くなるのを隠しながら日野くんの隣を歩いていた。
◇
「嘘でしょ……」
あれから少し歩いて更に人気のない道からタクシーに乗って四十分。辿り着いたのはそれはそれは立派なタワーマンションだ。
タクシーの外の景色がどんどん都会的に栄えていき始めたあたりから、もしや日野くんの家はとんでもない家なのではと予感はあった。
でもこんな、観光のポスターに映り込んだりするようなマンションにご在宅だとは思わなかった。
そして更に驚いたのは、日野くんの家の中だった。広いというのも勿論あるけれど、私が特に驚いたのは――、
「最新型の……システムキッチン……」
「へー。これそうなんだね」
日野くんの家の最新型のシステムキッチンを眺める私をよそに、彼は平然としている。でも私は全然落ち着けない。
グリルも焼く煮る蒸すと様々な調理法が選べて、吐水口の引き出しも可能。シャワーも調節出来るから、野菜を洗うの……特に泥汚れを落としたりするのに、めちゃくちゃ便利な機能を持ったキッチンが、今、私の目の前にある。
私の家にあるものは、普通の三口コンロに魚焼きグリルがついている一般的なものだから、本当にこういう、多機能です! というキッチンは憧れるし、わくわくしてしまう。
「すごい……すごいよ! 野菜、綺麗に、それに早く洗えるよ!」
昂る気持ちのままに日野くんに伝えると、彼は押し黙るようにして私を見ていた。その目は引いているというよりも、何かを注意深く覚えようとしているような瞳で私は首を傾げた。
「どうしたの?」
「ああ、ごめん。そうやって、五十嵐さんが熱心に何かしてるの好きだなと思ってさ」
「え」
日野くんの言葉に固まった私を見て、彼は「駄目だった?」と問いかけてきた。
駄目ではないけれど今のは心臓に悪かった。慌てて首を横に振ると、彼は冷蔵庫へと近づいて行く。
「ね、五十嵐さん何飲みたい? 紅茶もコーヒーもジュースも、色々揃えてみたんだけど……。あ、冷蔵庫の中見る? こっち来て」
いわれた通り日野くんに近づいていくと、両開きに開かれた扉から溢れんばかりの食材が顔を出した。調味料も野菜も果物も魚も肉類もすべて揃っている。
彼が好きな煮物は勿論のこと、和食御膳みたいなのも作れそうだし、パエリアも、ブイヤベースも出来るし、八宝菜、酢豚……、材料が多くて迷ってしまう。
というかこんなに食材があって、腐らせてしまわないのだろうか……?
「日野くんは何食べたい?」
「うーん、何だろ。五十嵐さんの作ったものなら何でもいい……っていうと、多分困らせちゃうんだよね」
「で、できればリクエストほしいなって。日野くんの食べたいもの、作りたいな」
「じゃあ……鱈。前に話してた鱈の揚げ物が食べたい」
鱈フライか。丁度鱈もある。鱈フライにして、ポテトはじゃが芋を里芋に代えて……。カリフラワーを半分足して、海老ピラフ……。となると酸味欲しいからスープはミネストローネ、タルタルソースはカロリーが出ちゃうから、マヨネーズをヨーグルトに変えて……。
一つ一つ取捨選択をして献立を組んでいく。
鱈フライはそれ自体作っていなかったし、今日は揚げないで作っていこう。そう考えて、ふと頭の中に疑問が浮かんだ。
日野くんに、鱈のフライの話なんてしたこと、あったっけ……?
私は彼に、揚げ物を作ることを避けていた。なんとなくモデルである職業についている人だし、避けたほうがいいかなと思っていたからだ。揚げない調理法を覚えたのは昨日だから、それまでは絶対的にその話はしていないはず……。
「五十嵐さん?」
思い返していると、日野くんが不思議そうにこちらを見ていた。私が忘れているだけで、魚の話とかをした延長で言ったことがあるのかもしれない……。
「大丈夫。今作るからね」
うん。きっとお腹が空いていた時に話をしたのだろう。そう考えるとちょっと恥ずかしい。私は気を取り直して鞄からエプロンを取り出した。
キッチンに立ち、流しで手を洗い終え顔を上げると日野くんと目が合う。彼はカウンターを挟んだ向かい側でテーブルに肘を預けながらじっとこちらを見ていた。
「五十嵐さんのこと手伝っていい? 邪魔になる?」
「いやいや手伝わせるわけにはいかないよ。日野くん今日の夜お仕事でしょ? それに私お金とか貰っちゃってるんだし」
「じゃあ、見てていい? 五十嵐さんのこと」
「え」
「作ってるところ見たい。ここら辺なら気が散らない?」
そう言って日野くんはすぐそばのダイニングチェアに座った。
「お、面白いものじゃないだろうけど、それで良ければ……」
「ありがとう。すごく嬉しい」
子供みたいに笑う日野くんを見てまた心臓が強く跳ねた。さっと彼から目を逸らし、気を取り直して主食の準備に取り掛かる。
まずお米だ。きちんと洗ってから炊飯器にお米と、分量通りよりちょっとだけ少なめのお水を入れる。カリフラワーを細かく刻んで、コンソメ、ミックスベジタブル、冷凍のむき海老と一緒に投入。早炊き設定にして炊飯ボタンを押した。
出来上がるまでの間、サンドイッチとか軽くつまめるものを作ってたほうがいいかな……?
日野くんの方をちらりと窺うと、彼はじっとこっちを見つめていた。心なしか、瞬きすらしていない気がする。や、やり辛い。緊張の他に好きだっていう気持ちで動悸がする。
……こういう時は、料理に集中しよう。
私は冷蔵庫に向き直って、野菜を取り出した。人参、玉ねぎ、茄子、トマトを手早くみじん切りにして、そのままボウルへと放り込んでいく。ふわりとラップをかけ、電子レンジに入れた。
その間、鍋にオリーブオイルをならして、細かく切ったベーコンを炒めた。電子レンジの加熱を終えた野菜たちも一緒に炒めて、コンソメをお湯で溶かして鍋に注ぎ、塩胡椒で味を調えたらミネストローネの出来上がり。このまま蓋を閉じて煮込んで完成だ。
そしてメイン、鱈のフライ。
鱈は下処理をしてぶつ切りにしたら、醤油とおろし生姜で揉み込んで放置。その間、ボウルにふるった薄力粉に、牛乳、溶き卵を加える。
塩胡椒、チリペッパー、パプリカ粉、オールスパイス、コンソメも投入。
練らないようにさっくり混ぜて香辛料が均一に広がったら、鱈をくぐらせクッキングペーパーを敷いたトレーに乗せていく。
里芋はフライドポテトの大きさに切って、片栗粉と塩、胡椒をまぶし、鱈を囲うようにトレーへ入れてオーブンに任せるだけだ。
炊飯器のピラフが炊けて、ある程度蒸し終わった頃には焼きあがるだろう。
最後にソースだ。ボウルに水を切ったヨーグルトを出して、ほんの少しマヨネーズ、みじん切りにしたピクルスとキャベツ、マスタードを混ぜる。これでタルタルソースの出来上がり。
タルタルソースを器に盛り、炊飯器とオーブンが完成を知らせてくれるのを待っていると、見計らったように日野くんが近寄ってきた。
「後は炊き上がるのを待ってる感じ?」
「うん、そうだよ」
「そっか……なら道具でも見る?」
そう言って彼はシステムキッチンの引き出しを引く。鏡面仕様の引き出しからは、スキレットや変わった形をしたケーキの型、買おうかなと思って悩んだりしていた調理道具たちが丁寧に収納されていた。
「わ……」
「引き出しにあるものとか、ここにある道具全部使っていいから」
「え、い、いいの? すごく高いのもあるよね……?」
「五十嵐さんならいいよ。好きに使って。俺はどうせ鍋くらいしか使わないし」
一緒に同じところを覗き込んでいたからか、日野くんがこちらに顔を向けたことで顔が近づいてしまった。近付いたらいけないのに。慌てて距離を取ると、彼は距離を詰めてきた。
「何で避けるの?」
不機嫌そうな、不満げな日野くんの声。どう答えていいか分からず俯いていると、彼が私の腕を掴んできた。
「俺のこときらい?」
巣食うような瞳がどんどん近づいてきて、咄嗟に離れようとするけれど腕を掴まれていて離れられない。
それどころか彼の瞳はどんどん大きく見開かれていて、なんとなく本能的に恐怖を感じた。
「い、いや、ち、違くて、日野くん人と距離近いの嫌だって聞いて」
「誰から?」
「と、隣のクラスの男子から」
「何で? 知り合い? 友達? 五十嵐さん隣のクラスの男子と絡みあったっけ? どういうこと? 何で? 誰? 親戚ってここら辺の高校にいないよね?」
無表情で矢継ぎ早に質問をしてくる日野くん。まるで尋問みたいだ。私は慌てて体育の時のことを話した。
「たっ、体育の時間、たまたま男子たちが話してるの聞いちゃって、日野くん、人が近付くと避けたりするから、だから、近付いたら嫌われてしまうと思って、日野くんが嫌いというわけでは決してなくて。その、お弁当渡す時とか触ったかもしれなくて、どうしようって」
「え……? 今俺に嫌われるかもって思って避けたの?」
半ばパニックになりながら話すと、日野くんは泣きそうに、それでいてあやす様に問いかけてきた。恐る恐る頷くと彼はどこか安堵した顔で私の腕を離した。
「五十嵐さんはそんなこと、気にしなくていいのに。どうせくだらない嫉妬だろうから」
……嫉妬? なら、男子たちは嫉妬をして、日野くんが冷たいとか、そういう話をしていたということ?
「よくあるんだよね。その女の子と話しすらしたことないのに彼女奪ったとか一方的に言われるの。それで無視してると性格悪いとか言われてさ。変な噂流されたり」
「じゃ、じゃあ日野くん、触られるの嫌じゃない……?」
「うん。五十嵐さんは何にも気にしないでいいんだよ。ぶつかってきてもいいし、俺で良ければ好きなだけ触って、腹がたったらサンドバックにでもしてもいいし。結構丈夫だし五十嵐さんの腹パンなら何十発でも受けれるんじゃない?」
日野くんは、先ほど緊迫していたのが錯覚だったかのように柔らかな雰囲気を纏っている。少し子供っぽい口調に強張っていた身体の力が抜けてきた。
「なにそれ、腹パンなんてしないよ……!」
「笑わないでよ、俺本気だよ? 蹴ってもいいし、針で刺してもいいしね。ベランダから放り投げてもいいよ。ぽーんって」
彼はおどけながら笑っている。さっきの彼はちょっと怖かったけれど、嫌われてないとか、近づいても大丈夫って言われて安心した。でもベランダから放り投げるとか、相変わらず彼の発想は突飛だ。
そろそろ鱈もご飯も出来た頃じゃないかとオーブンや炊飯器に目を向けると、丁度完成を知らせる音が鳴り響いたのだった。
◇
食卓に出来た料理を置いて日野くんと向かい合わせに座る。テーブルにはお店で彼が買っていた水色とオレンジのランチョンマットが並べられていて、私は水色、日野くんはオレンジだった。
真ん中にはブーケを飾る花瓶が飾られている。あまり生活感のないおしゃれな内装の雰囲気もあってか、並べているのは私の作った料理のはずなのにお店で食べるみたいだ。
「いただきます」
どちらからともなく声を合せて手を合わせると、日野くんはうっとりした顔で食卓に並んだ今日の夕食を見渡す。
「すごい美味しそう。いい匂いだね」
「い、一応カロリーとかも考えて、ピラフは半分カリフラワーで出来てて、鱈フライは揚げてないから、えっと、色々大丈夫なはずだよ……!」
「やった! じゃあ沢山食べよっと」
そう言って日野くんは鱈フライを口に運ぶ。私も後を追うようにフォークを手に取っていると彼は驚いた顔をして目を見開いた。
「ん……これ本当に油で揚げてないの? 本当に鱈?」
「そうだよ」
「フライドチキン食べてるみたいだ。美味しい……! それにタルタルソースも優しい味がする」
「マヨネーズじゃなくてヨーグルトにしたんだ」
「へー、さっぱりしてて俺こっちのが好き」
顔を綻ばせながら次々に鱈フライを食べていく日野くんを見ていると、胸が切なくなってお腹も空く。里芋ポテトを一口食べると、カリッとした食感が独特なとろみと重なっていった。上手く出来て良かったと安心していると彼はピラフを頬張り始める。
「あぁ……味がする。美味しいなぁ……。カリフラワーとご飯って合うんだね。カロリー考えてくれてよかった。これおかわりしてもいい? まだあるかな?」
「うん。一応冷凍して好きな時に食べられるようにって、多めに炊いてあるからまだ残ってるよ」
「やった。ありがとう五十嵐さん」
満面の笑みを浮かべる日野くんは本当に……苦しい。駄目だ。心臓が苦しいを通り越して痛い。
春の頃は何とも思っていなかったのに、この気持ちは何だろう。苦しい。痛い。彼からミネストローネへと視線を移し口に運ぶ。スープが喉を伝ってじんわりと温かさが通っていって、心を落ち着けてからもう一度彼へ視線を戻すと、同じようにミネストローネを飲む姿があった。
「五十嵐さんがミネストローネ飲んでたから、真似しちゃった」
やめてほしい。上目遣いでこちらを見るのも。色々、全部。スプーンをぎゅっと握りしめていると、日野くんは私のスプーンを持つ手にそっと触れた。
「俺さ、冗談抜きで最近、五十嵐さん以外の人間が関わった食事するの辛いんだよね」
「それって、何かまた嫌なことが……?」
「ううん。何も起きてないけど、ケータリングの食事すらしんどい」
「ケータリング……」
それって確か……お仕事で出てる食事だっけ? お店の人が来てくれるとか聞いたような……。仕事のときに食べる食事が辛いのは、それだけ日野くんが業者に盗撮されたりしたショックが拭えていないということだ。
どんどん不安を感じていく私とは裏腹に、彼は目を輝かせて笑った。
「五十嵐さん、すごいね。俺のこと簡単に殺せる……完全犯罪だよっ」
「え」
突然放たれた言葉に目が点になる。しかしそんな物騒な言葉を使った目の前の日野くんは、子供が玩具を買って貰った時みたいに酷く無邪気に笑っていた。
「……こ、殺せるって。そんなこと出来ないし……っていうかしないよ!」
「出来るよ。俺このままだと五十嵐さんの作ったものしか食べられない。だから、五十嵐さんが俺のご飯作らなくなったら、俺は間違いなく餓死するよ」
「が、餓死って……」
「五十嵐さんが半年くらい俺のこと放っておいたら、そこら辺で骨とかになってるんじゃない? そのうちニュースでやると思うよ。この部屋も事故物件になるから、相当安く買えるだろうね」
日野くんの目は本気だ。彼が指さす方向にはカーペットが敷かれていて、力なく横たわり瞳を閉じる彼の姿を想像して怖くなった。しかし彼はどこか興奮した様子で「俺のこと殺したくなったら、いつでも殺していいよ」と恐ろしいことを話す。
「し、しない! そんな恩を仇で返すようなこと絶対しないよ」
「仇にならないよ。これだけ五十嵐さんの時間沢山貰っちゃってるからね。俺だって相応の対価を払わないといけない。嫌いになったら殺す権利が五十嵐さんにはあるんだよ」
「ひ、日野くん……!」
「はは、五十嵐さん。そんな困った顔しないで」
優しい声色に、ふっと張りつめていたような空気が和らいだように感じた。
目があまりに真剣だったから騙されてしまった。本当にびっくりした。ニュースとか骨とかあまりに具体的に言ってたから本気で戸惑ってしまった。
日野くんの話の仕方はなんだか想像を促すような感じだったし、よく分からないけど演技力みたいなのもすごかった気がする。
「冗談やめてよ……びっくりしたよ」
「ごめんごめん……でも冗談じゃないけどね」
「あ、あんまりからかうと私も怒るからね」
「大変だ。おかわり禁止にされちゃう」
焦ったようにおどける日野くんを見てほっとした。心臓に悪いけれど、彼と囲む食卓は本当に楽しい。美味しく食べてくれる様子も見られるし。
私は恥ずかしさを隠すようにスプーンを持ち直し、食事を再開したのだった。
◇
街灯やオフィスビルの並ぶ通りを日野くんと歩いていく。
周りはこれから家に帰る会社員の人たちでぽつぽつ人通りがあるけれど、それなりに薄暗い為か彼を気にすることもなければ、ましてや私を認識するなんてこともない。
あれから昼食を食べ終える頃には夕方で、日野くんは夜からお仕事があり、仕事へ持っていくおにぎりを作って解散になった。
初めは彼の分だけ握ったけれど、彼は「五十嵐さんの夕食の分は?」と譲らなかった為、私の分も握らせてもらった。
そして今私はおにぎりを鞄に入れて、日野くんの背中を追っていた。のんびりと歩く彼は私を送ることを当然のように申し出てくれたけど、そろそろお別れをした方がいい気がする。もうすぐ駅に着くし人通りだって増えてくる。
「ねえ、日野く――」
「月が綺麗だねえ、五十嵐さん」
こちらを振り返りながら空を見上げる日野くん。空を見上げると、卵の黄身のような色をした月が浮かんでいた。
「そうだね」
「今日見れて良かったな……」
切なげな声色に胸が締め付けられた。最近の私は本当に変だ。日野くんがご飯を食べていない姿でも心臓がおかしくなる。重病だ。そろそろ本当に一人で帰らないと。
「送り迎えはここでいいよ。悪いし」
「それは無理。五十嵐さんが危ない目に遭ったら絶対に嫌だから、安全なところまで送るよ」
違う。勘違いするな。日野くんは安全を考えてるだけだ。他意はない。……他意ってなに? 私は、何を勘違いするなと思っているんだろう……? 疑問を感じていると、彼は喉の奥で笑った。
「まぁ、俺の傍っていうのが、一番危ないかもしれないけどね」
「え?」
「実は刃物持ってたり?人間なんて裏で何考えてるか分かんないもんだよ? 悪い人間はどこにでもいるからねえ」
日野くんの笑顔はこれまで何度も見た。でも、月明かりに照らされた今の笑い方は確実に何か、今までと違う気がする。彼はそのまま私の髪に触れた。撫でるよりなぞって掬い上げる触れ方にどうしていいか分からなくなる。
「五十嵐さんの知らないところで、物凄く悪いことをしてる人は、案外近くにいるものだよ」
「え……?」
「ほら、品行方正でやってきたバスケ部だって今年出場停止になったんだって。どんなに外側で取り繕っててもさ、信用したらそこで――」
どきどきと心臓が脈打つ。でも今のこの感じは今までのものとは違う、何か別のものが混ざっている、ような。
「終わりだよ」
日野くんは私の髪から手を離し、「行こう?」と腕を引いてきた。結局私は別れを告げることができず、駅まで彼に送られてしまったのだった。




