もっとふたりに◆
瑞香に弁当を作ってもらい昼を共にする作戦は成功した。ただ調理実習中に佐々木が瑞香の焼いたマフィンを横取りしたせいで佐々木との接点が増えてしまった。仕方がない。必要な犠牲だ。
それにしても、驚くほど瑞香は俺の話を信じ込んでいて不安になった。彼女のトークアプリの送受信を監視できるようにアプリを仕込んでもばれる気配もないし、簡単に連絡先を渡してきた。むしろ俺の事務所的にダメなんじゃないかと心配する人の好さだ。でも密室で二人きりの昼休みを送るようになったことで俺が瑞香を頼るという状況に不自然さはなくなり、一緒に買い出しに行くこともできたのだ。
これで彼女の好きな色のマグカップが俺の家にあっても気味悪がられずに済む。最初から二人分の食器を用意されるより予備として購入しているところを見せたほうがずっと状況を自然に受け入れられるだろう。瑞香に弁当作りを頼んで二週間。そろそろ次の段階に移行する時だ。
「おっと……」
「珱介大丈夫っ?」
「寝不足?」
「なんかつらいことあるなら話聞くよ?」
朝教室に入って鞄を机に置くふりをしながらさりげなくよろける。すぐに周りにいた女子生徒が騒ぎ出した。べたべたこちらに触れてこようとする手を「大丈夫」と安心させる顔で制していると、こちらからやや離れた窓側の席に座る瑞香が不安そうな目をこちらに向けていた。
瑞香が嫉妬されて酷い目に合わされないよう、俺は教室で……二人きりの時以外は声をかけない。かけることができない。でもこの距離感は好都合だ。
「実は、最近ちょっと寝れなくてね……はは」
俺を囲み訳を聞こうとする女子を前に曖昧な笑みを浮かべた。こうして少しずつ調子が悪いところを見せ何かあったのだと瑞香に刷り込む。彼女は善良だから心配するだろう。
じっくりじっくり不安の種を育てて、開花寸前に「実は俺、夕食の宅配業者に盗撮されてて……」と話せばきっと瑞香から夕食づくりをかって出てくれるに違いない。夏は物が腐りやすくなることは彼女自身がよく分かっている。自然に俺の家に誘導することだって可能だ。
「仕事? ドラマの撮影忙しいの?」
「あっ、そういえばキスシーンあるんだよね?」
「まぁね。忙しいけど充実もしてるよ。ちゃんとやらなきゃって思うし」
「えーなんか悩みあるならうちら聞くからね?」
ドラマ。キスシーン。撮影は夏の終わりだ。他人に自分から触れるのは初めてだけど、相手は瑞香がいいと思う。調子が悪いふりをするため睡眠薬の処方箋も手に入れて薬も貰ってきたけど、それを使って眠らせて瑞香に俺の初めてを全部貰ってもらう予定だ。そしてその為にも、調子の悪い日野珱介を演じる必要がある。
「五十嵐おはよ」
駄目押しに頭痛のふりも追加するかと額に手をあてた瞬間、耳障りな声が聞こえてきた。瑞香の隣の席の男――河内だ。この間瑞香の筆箱を踏み壊した忌々しい男。「ちょっと頭が痛いかも……」なんて言いながら二人のほうを見ると、瑞香は俺じゃなく河内に視線が向いていた。
「おはよう河内くん」
「なぁ、昨日の科学の時配られたプリントって今日提出だっけ? 明日? 今日だったらちょっと見せてもらってもいい?」
「今日だよ、はい」
瑞香はなんてことなさそうに自分のプリントを河内に渡した。休んでいたわけでもない、授業中寝てやってなかっただけなのに。彼女の努力を摂取されてるみたいで苛々する。
「珱介まじで顔色悪くない? 大丈夫?」
「平気。ちょっと宿題忘れたかもって思っただけ」
「見せてあげよっか?」
「ううん。っていうか俺トイレ行ってくる。ごめんね」
どうして謝らなければいけないのか。漠然と毒づきながら教室を後にする。あれだけ砂糖に群がる蟻みたいな状態でも流石に女子だからトイレまではついてこない。いっそわざとらしいほどの青い空を横目に廊下を歩いていると、ヘッドホンをつけぼーっとした顔の真木が向かい側からやってきた。
「五十嵐、今日は日直だからこの後科学準備室に行くよ。ひとりで」
ぼそりとすれ違いざま聞こえてきた言葉に足が止まる。振り返ると真木は歩みを止めることなくゆったりした足取りで教室へと入っていった。瑞香は確かに今日、日直だ。彼女の名前が出された以上行かないわけにはいかないし、真木は現状園村としか会話をしない。
となると園村が命令した可能性にいきつくけど、あれは明らかに真木に好意を抱いているし、俺を誘き出してどうこうしようなんて思わないだろう。
トイレから別棟にある科学準備室へと行き先を変え物陰に身を潜める。埃っぽく薄暗い非常口を横目に待つと、真木の言う通り瑞香が慌てた様子で科学準備室へと入っていった。やがて彼女は一枚のプリントを持って廊下に出てくる。
「五十嵐さん」
「あっ日野くん!」
瑞香は俺が現れたことに驚いているみたいだ。目をぱちぱちさせ、びくっと身体を動かす姿は可愛くて加虐心が胸を巣食う。
「驚かせてごめんね。プリント、今日の課題?」
「うん。私日直でね、授業の準備に来たんだけど今日実験なしで自習になったんだって」
見せてくれたプリントには今日は機材が届いていなくて実験ができないことや自習になることが書かれていた。何かと河内が瑞香に質問をするし、教科書を見せてもらったりするから教室の授業は嫌いだ。舌打ちしそうになり歯を食いしばると瑞香は不安気な顔を向けてきた。
「どうしたの日野くん……、みんなも心配してたけど、体調悪い……?」
「何でもないよ」
瑞香のいいところは、話聞くよと軽々しく言わないところだ。俺が苦し気な演技をすると踏み込もうか躊躇いを見せる。おそらく俺が相談したとしても行動の指針を示すことはないだろう。
「みんな、本当に俺のこと心配してるのかな」
「え……?」
「俺のこと心配してるように見せかけて、実はざまあみろって思ってたりして」
精神的に参っている声色を作り俯く。ゆっくり視線を窓に移して、校庭を見下ろした。
「案外死んじゃえって思ってたり」
そう言った瞬間、ばっと腕を捕まれた。あまりの勢いに驚いて振り返ると瑞香が真剣な眼差しで俺の腕をぎゅっと掴んでいる。
「え……」
「あっご、ごめん日野くん。うわ、ごめん痛かったよね……どうしよう、お仕事に影響が……あっ傷とか」
彼女は即座に手を放して「どうしよう」「氷を」なんていいながら手を彷徨わせる。はっとした俺が大丈夫だよと微笑んでも顔は青ざめる一方だ。
「ごめん、本当に……今保健室でシップを……」
「いいよ。全然ほら、傷にもなってないし。そもそも痛くないし」
いっそ傷になってくれたら責任とって瑞香は結婚してくれるのかな。償いとして。でも俺じゃなくモデルを傷物にした罪悪感に彼女は呑まれてしまいそうだ。笑みが溢れると彼女は不思議そうに俺を見ている。
「そもそも五十嵐さんの力で俺をどうこうなんて無理があるよ」
「そ、そんなことないよ。私今ぎゅってやっちゃったし、完全に無意識で――」
無意識。その言葉に引っ掛かりを覚えた。今無意識で瑞香は俺の腕を握ってくれたのか。あれだけ俺を気遣いおろおろして、自分の発言をあまりしない彼女が。
「無意識でも、なんでも。傷付けてくれたっていいしね。それよりそろそろ教室行かないと自習の連絡遅れちゃわない?」
「あっ……えっと……ほっ、本当にごめんね日野くん。傷とか跡になったら言ってね。じゃあっ!」
瑞香は時計とにらめっこして教室に行くことを選んだようだ。ぱたぱたと駆けていき徐々にその背中は見えなくなっていく。やがて完全に彼女の姿が消えた後俺は自分の腕を見た。
掴まれた腕がどくどくと、心臓みたいに鼓動している気がする。好きな人に触ってもらえたというより……もっと決定的な感じがする。もう片方の手で触れられたところをなぞると、胸のあたりが詰まった。
「すき……、いや、好きは好きだけど……」
もっとこう、別の何かのような……。俺は不思議に思いながら時間をずらし、教室へと向かったのだった。
◇
教室に戻るとなぜか河内の座席の近くで真木がうつ伏せに倒れていた。転んで動けないらしい。先生が担架を持ってきているようで園村が慌てているし、先に戻っていった瑞香も「こういう時は動かさないほうが……!」とスマホを片手に園村を落ち着けている。
俺はさっき抑揚なく話していた真木の姿を不思議に思いながらも、みんなに合わせ真木を囲う人だかりに混ざっていた。
下準備の甲斐あって瑞香は俺の夕食を作ってくれることになった。家に呼べるようになるまであと少しだ。横取りをした分際で佐々木が俺にマフィンを作ってきたトラブルはあったけど、釘はさせた。気持ちがすっとして瑞香に浮かれたメッセージにスタンプまで送ってしまった。
送信履歴を眺めながら空き教室で瑞香を待つ。瑞香用に買ったペンギンのゆるキャラスタンプを意味もなく送りそうになっていると彼女が現れた。
「お待たせ、日野くん」
「五十嵐さんお疲れ様。今日もありがとう!」
明るい声を発して笑みを浮かべる。でも、瑞香に効いている気はしない。彼女は大きなランチバックから俺の弁当と自分の弁当を出しておかずの説明を始めた。この時間が俺は好きだ。彼女が俺のことを想って時間を消費していることがはっきりと分かるから。
今日は和食のお弁当と紹介する瑞香の言葉通り、木目の印刷がされている弁当箱の中身にはぎっしりと卵焼きや煮物、鮭が詰まっている。今まで何か具が混ざったご飯に対して効率がいいとしか思うことがなかったけど、ツナと人参の混ざったご飯を見てどこか浮き立つものを覚えた。
でも、今日は少し違う。いつもなら瑞香はどんな具でもバランスよく入れる。別に何がたくさん入っていようが彼女のお弁当というだけでいいけれど何かあったのか不安にはなる。
「あと、お昼の煮物なんだけど、よく食べてくれるから多めに詰めておいたよ」
かけられた言葉にはっとした。そう言えば俺は以前瑞香が入れてくれたからという理由で蓮根が好きと言った気がする。それを覚えていてくれたのか。俺は煮物をよく食べる……? 意識して何かを食べようと思ったことはないからよく分からない。でも思い返してみればそうかもしれない。
俺のことを、瑞香は結構見てくれているのかも。
「……これ作ってる時、俺のこと考えてくれた?」
「え、え?」
「煮物、俺の為に詰めたって言ってたから、違った?」
「う、うん」
「嬉しい。俺も最近、撮影で使う食べ物とか料理見ると、五十嵐さんの顔が浮かぶから」
「私の顔?」
「そうだよ。五十嵐さんの料理だったらな……って。五十嵐さんの料理、好きなんだよね。なんか力が抜けるって言うか、落ち着く」
「あ、ありがとう……」
瑞香の挙動を見るに人が良く優しいから、悪くて捨て犬に餌でもやってるか、よく言えば人命救助程度の認識だろうと思っていた。でも案外これは予想よりすぐに瑞香が手に入るかもしれない。
思ってもみなかった進展の様子に心が軽くなり自然と箸が進んでいく。好きになってもらえるよう好意を伝えながらお弁当を食べていると、瑞香はほっとした様子で微笑んだ。
「日野くんにお弁当作れて良かった……」
「……え?」
「だって、日野くんご飯食べてるとき本当に美味しそうに食べてくれるから、嬉しくて。それに最近ずっと辛そうだなって思って何かできないかな……と思ってたから」
「五十嵐さん……」
俺の嘘に心を痛める瑞香を見て、この間掴まれた腕が甘く痺れた。感覚を取り戻すみたいに手のひらを握りしめると彼女は俺をまっすぐ見た。その視線にこれまでとは全く異なった、心臓が抉られる錯覚を覚える。
「日野くん」
「……なに?」
「私、日野くんが栄養たくさん摂れるように頑張るから。だからその……上手くは言えないし、こんなこと言っても困っちゃうかもしれないけど……が、頑張る!」
瑞香がぎゅっと唇を引き結んでこくこく頷く。おろおろしていたり、ふにゃっとしている目は力強くこちらに向けられていて息を呑んだ。廊下を伝って聞こえる声も、校庭で男子生徒が騒ぐ声もずっと遠くに聞こえるのに彼女の声だけが近く、耳のすぐ傍に聞こえているような錯覚を受けた。
「えっと、ごめんねこんな話、急にして」
「ううん。いつもお弁当作ってくれてありがとう」
いつも通り、食べ終わった後に伝える言葉を吐く。でも不思議と正しく笑えているか分からなくなった。今瑞香に向けている顔は変なものじゃないか。おかしくはないか。確実に変だと思うのに、彼女は気にする素振りがない。
俺は瑞香に嘘をついている。そのことに罪悪感なんて微塵も抱かなかった。だって俺は瑞香が欲しい。手に入れる為ならなんだってしたい。それなのに。
じくじくと胸が膿んでいく気がする。
今まで瑞香の顔は目に焼き付けたいと思った。彼女の瞳に何をしてでも映りたかった。それなのに俺は彼女から目を離し窓際に咲く散りかけの紫陽花に目を向けていた。