もっとふたりで
日野くんに、美味しくて栄養のあるものを!
そう思って栄養辞典を買って勉強したり、ネットで野菜を調べてお弁当の献立を考えるようになり、一週間が経過した。けれど近頃、彼の様子がおかしい。
どことなく寝不足気味というか、ぼーっとしていたりふとした瞬間暗い顔をしている。お弁当を食べている時はそうでもないけれど、食べ終わる前や終わって別れる時の彼の様子は、心ここにあらずというかとにかく元気がない。
だから私は日野くんが貧血や栄養失調なのではと疑って、五月はもう終わりそうだけど五月病に効く! なんてレシピを模索して作っている。
しかし彼の不調は続くばかりで、それとなく彼に体調について尋ねてみても、「大丈夫」と言って、それ以上を話そうとしない。あまり追及するのもいけない気がして、私は自分の無力さをひしひしと感じていた。
そして今日も何とかしたいという気持ちで作ったお弁当を持ち、いつもの空き教室に向かっているけれど何となく不安だ。
廊下の窓の外も暗くどんよりしていて、心配な気持ちをより一層強くしてくる。今日はお昼が終わったら体育があるけど、この調子じゃ雨が降って屋内になりそうだ。
「五十嵐っ」
ぼーっと窓を眺めながら歩いていると、後ろから声がかかった。振り返るとそこにいたのはスポーツ刈りをした男子生徒で、確か同じクラスのバスケ部で――この間ぶつかってしまった……名前は河内くん、だったはず。
「どうしたの?」
「いや、俺この間ぶつかって五十嵐の筆箱壊しちゃったじゃん。だから好み聞いて代わりの買ってこようと思って……」
河内くんは申し訳なさそうに俯く。私は「大丈夫だよ」と首を横に振った。
「実は新しいものにしたんだ。だから平気だよ」
「えっ……、あっ、じゃあ弁償する!」
「ううん。気にしなくていいよ。私も不注意だったし、お互い様だよ。二人とも怪我しなくてよかったってことで」
私の言葉に彼は「でも……」と納得いかない顔だ。しかし何度かやり取りを繰り返していくと、伏し目がちに頷いた。
「悪い。ほんとはすぐ声かけるつもりだったんだけど、バスケ部で出場停止とか、いろいろあって……」
「出場停止? どうして?」
「なんか部室で先輩たちが酒飲んだ、とかそういう写真が出たらしくて……。顧問も校長もキレてさ、俺たち一年とか何もしてないし関係ないのに、試合全部出場停止になってて、俺初めて大会出る感じだったんだけど……」
「そうなんだ……大変だね」
この高校は新設校だけど、確か運動部のコーチは優秀な人を雇ったりして力を入れてる……みたいな話を入学前に聞いた。河内くんのことはよく知らないけれど、多分一年生で試合に出れてるわけだしすごい人なんだろう。
「本当、まじでごめん」
「ううん、じゃあ、これで」
そう言って河内くんと別れようとすると、彼は不思議そうに首を傾げた。
「あれ、五十嵐どこ行くの? そっち教室も食堂もないけど……」
「うん。ちょっと用事があって」
「そっか」
河内くんは男子だけど彼の口から日野くんと食べていることや、どこで食べているかを皆に知られてしまったら日野くんがゆっくりご飯を食べる場所がなくなってしまう。
私は河内くんの疑問の目から逃れるよう、足早に彼と別れ日野くんと待ち合わせている教室へと向かっていったのだった。
◇
いつも通り、お弁当を二つ持って、空き教室の中で日野くんを待つ。するとしばらくして日野くんがやってきた。
「あ……」
こちらに近付いて来た日野くんに声をかけようとすると彼はふらつき体勢を崩す。慌てて駆け寄った私は、彼の肩を支えた。
「あ、あー、ごめん。お腹空きすぎちゃって……はは」
日野くんが弱々しく笑った。顔色も酷く悪い。心なしか呼吸も浅く、瞳もどこか虚ろに見える。熱がある感じでも寝不足でもなさそうで、より不安が強まった。
「大丈夫……じゃないよね……? 体調悪いよね、保健室行こう?」
「ああ、違う違う、風邪とかじゃない、本当に、空腹で……」
日野くんは私に支えられながら、重い足取りで椅子に座る。机に乗せられたお弁当箱の包みを見て表情を緩めるけれど、全然嬉しくない。彼は絶対大丈夫じゃない。空腹だとしてもこんな顔色が悪くなるはずない。
「日野くん、保健室に……ううん今日は早退した方がいいよ」
「大丈夫、風邪じゃないから」
風邪じゃないなら、もっと別の、良くない病気なんじゃ……? もしかして、日野くん、大きな病気を――?
不安になる私を見て彼は首を横に振った後、俯きがちに呟いた。
「実は最近夕飯食べてなくて」
「それって、仕事が忙しいから……? 体調が良くなくて食べられない、とか……?」
「違う」
日野くんが明確に否定するけれど、その次の言葉は中々紡がれない。沈黙が訪れしばらく黙って待っていると、彼はやがて震えるような声色で口を開いた。
「……俺が夕飯、宅配サービスを使ってるって話……したよね?」
「うん」
「……その店の人が、俺の部屋、撮ってた」
「と、撮るって、盗撮ってこと?」
「ん。……相手おじさんであんま警戒してなかった俺も悪いんだけど、娘に見せてたらしくて、俺が私服でいるとことか……で、娘がネットの裏アカとかで色々流してたらしくて……」
そう話す日野くんは、言葉を紡ぐことすら辛そうで、私はどう答えていいかわからなくなった。
彼を取り囲むのは基本同い年の女の子たちだ。だから警戒するのもそのあたりだと思っていたけど、確かにファンの人の家族も彼に興味があるだろう。でも、毎日同世代の人たちに囲まれる中、自分より年齢が上の相手にそんな酷いことをされるなんて思い辛いし、思いたくない。
でも、日野くんはひどいことをされてしまったんだ。
「なんか最後のほう、娘が一緒にいたらしいんだけど出前の中に……何か、してたっぽくて……。その、色々、入れたり……とか。それから、仕事の差し入れとかもキツくて、外食とかも、色々思い出して、なんか入れられてんのかなって疑うと、疑うの止まんなくなって……戻したりとかして」
宅配サービスの人が盗撮をしてたなんて。どんなに怖かっただろう。ここのところ日野くんが暗い顔をしていたのはこれが原因だったんだ。
「ねえ、もしかして日野くん、最近お昼一食だけで済ませてたり……?」
「まぁ……ね。仕事の時は気張ってるから大丈夫なんだけど、五十嵐さん見てたら、なんかほっとしちゃって、ごめんね。別の会社にとか考えたんだけど、店員と目を合わせるのも辛いって言うか……何かもう、色々無理で」
自分が信頼していたことに裏切られる。食べていたものに、嫌なものが入っていた。
されたことは無いけれど想像は出来る。きっと日野くんが受けた苦しみの何百分の一にも満たないものだろうけど、想像ですら苦しくなった。私に出来ることがあるなら、何とかしたい。力になりたい。
「……私が、夕食の分も、持ってこようか……?」
「え……?」
「私で良ければ、日野くんの夕ご飯も作らせてほしい」
日野くんは昼の一食――要するに私の作ったものはどうやら食べられるみたいだ。それなら、私が彼の夕食を作ればいい。そうすればきっと、彼は辛い思いをせずに済む。
私は日野くんの食べるところが好きだ。でもそれ以上に彼のことが心配だ。このまま彼が苦しんでいるのを黙って見ていることだけは絶対に嫌だ。
「でも、五十嵐さんに負担じゃ……」
「放課後の予定は全然入ってないから大丈夫だよ。部活も入ってないし。それに私の夕食とかと一緒に作るだけだから」
日野くんに笑いかけると、彼は申し訳なさそうな顔をしてまた俯いた。辛いのか、心なしか肩が震えている。
「今貰ってるお金多すぎるくらいだし! というか、やっぱり減らそうよ。多すぎるし」
「……じゃあ、五十嵐さんの食費、それと光熱費と水道費と雑費、俺が払うってことでいい?」
「え……?」
ぱっと日野くんは顔を上げた。しかしそこに先ほどまでの弱々しさは一切無く、巣食うような瞳がただこちらに向けられていた。
「前から思ってたんだよね。一回で使い切らないものとか、調味料とかは元々五十嵐さんの家であったやつを使ってる。調理だってそう。水を使わないわけがないよね? 調理する上でどこかを拭く紙代すら俺出してないんだよ? なのに俺は今日も五十嵐さんの作った料理を食べてる。善意だけじゃなく、物理的にも食い荒らしてる。俺は今払うべきお金を、のうのうと踏み倒してる状況だよね」
「えっ、そんな、違うよ。日野くんは踏み倒してなんていないよ。大丈夫だよ」
「そんなことないよ。泥棒だよ泥棒。今俺は五十嵐さんの生活費を盗んでる状態なんだよ。五十嵐さんが料理を好きな気持ちを勝手に消費してる害虫だよ」
「どっ泥棒とか、が、害虫とか、話が突飛すぎるよ、全然そんなこと思ってないし、お、落ち着いてよ日野くん。待ってよ」
言葉が強い。しかし彼は本気でそう思っているようで、真剣に、まくしたてるような早口で話し始めた。
「待たない。そういうの曖昧にしてると、後で色々事細かく決めなくちゃいけなくなったりするから。今のうちにちゃんと決めておかないと。それに、どこに出かけたとか、何を買ったとか、俺に報告して全部把握されるのも嫌でしょ? 俺は別にそれでもいいけど。レシートとか領収書、買い物をするたびに俺に出すの面倒じゃない? 俺毎日学校来るわけじゃないし」
「でも、買いに行くのはスーパーだし、交通費はかからな……」
「今はそうだろうけど、この先どうなるかなんて分からないし、今度からそうしよう? ね?」
「いや、日野くんの負担が大きすぎるよ。それにお金なんて……」
「俺は今のほうが負担だよ。申し訳なくて五十嵐さんに顔向けできないよ」
きっぱりと言われ、胸が掴まれたような緊迫した気持ちになった。今の状態が日野くんの負担……? でも生活費まで出し始めたらそれこそ彼の負担になるのでは……。彼の様子を伺うと、今度は何故かしょんぼりした様子で私を見つめていた。こちらをおそるおそるうかがう目に、何が正解か頭の中が曖昧になっていく。
「駄目かな? 五十嵐さん」
「駄目……駄目とかじゃなくて……日野くんが私に払うお金が少ない方がいいよ、私は」
「それは無理、五十嵐さんにはずっと俺の食事作ってもらいたいから、お金のことはしっかりしておきたい。毎日こうやって献立考えて、色々俺のこと考えてもらってるし。なら今度まとまったお金渡すよ」
「いや、待って、領収書持ってくるから、それ見て決めよう?」
ふと、過去に日野くんが私に渡してきた封筒の額を思い出した。彼のまとまったお金なんてどんな額になるか分かったものじゃない。きちんと領収書見て計算しないと。
「分かった。じゃあ今度光熱費とかの領収書、持ってきてね」
「う、うん……」
「ありがとう。五十嵐さん」
日野くんはさっきまでの体調不良がすっかりなくなってしまったかのように、快活な笑みを浮かべはじめた。彼が元気になって嬉しい。だけどこの、何となく不安感が拭えないのは何故だろう……。
「じゃあ、早速だけど五十嵐さんのお弁当、食べていいかな」
「うっ、うん、勿論。どうぞ」
日野くんはお弁当の包みを開いて、手を合わせた。私も包みを開いて、彼と同じように手を合わせる。
「いただきます」
二人で一緒にそう言うと、彼は嬉々として箸を手に取った。どれを食べようかあれこれ悩む姿を見ているだけで、不安だった心がどんどん温かくなっていく。
とりあえず明日から夕食も栄養あって、美味しいものを作らなきゃ。
私は箸を手に取り、日野くんが美味しそうにお弁当を食べるのを眺めながら、心の中で強く誓ったのであった。
◇
お弁当を食べ終え空き教室を出る支度をしていると、日野くんは窓の外を眺めていた。外は暗く灰色の絵の具をべったり塗ったみたいにどんよりしているのに、彼は対照的に楽しそうだ。
「……どうしたの?」
「今年の夏が、楽しみだなあと思って」
日野くんの視線の先を辿ると、外に植えられている紫陽花が咲きかけていた。もうすぐ梅雨が来る。彼の横顔に視線を合わせるとどこかうっとりしていて、私は理由のわからない不安を抱いたのだった。
日野くんの夕食作りを請け負った次の日の朝、私は早速台所に立っていた。明日の日野くんの夕食はキーマカレーで、目の前には黄金色に透けたコンソメスープが入った小鍋がある。
これは固形のコンソメを溶かして、さらに生姜で味を調えたものだ。これを製氷機で凍らせたものをフリーザーバックに入れてストックしているから、チンしてそのまま飲めたりもするし、下味をつけるにはぴったりだ。ひき肉を入れて、私はコンロの火をつけた。
そのまま鍋の中身が水分を失うまで木べらで混ぜていくと、ふっくらと仕上がったひき肉が顔を出した。野菜と一緒に炒めてそぼろを作るのもいいけど、こうしておけば肉に下味がつくし、しっとり仕上がる。鍋底を掬っても水気が出なくなったのを確認して火を止めた。
次にフライパンに油を回し、そこにみじん切りにした玉ねぎ、人参、茄子、ピーマンを香ばしい香りが出るまで炒めていく。
野菜全体がしんなりしてきたらカレー粉、ウスターソース、ケチャップを入れて、最後に醤油を一回し。熱がカレー粉に入り始め、特有のスパイスの薫りが一気にフライパンから漂ってきた。最後にさっき作ったコンソメのそぼろと和え、バターをひとかけ落としさっと混ぜたら出来上がりだ。
もうそのまま食べてしまいたくなる気持ちを抑え、キーマカレーをバットに移し、フライパンを洗う。
今度は荒くみじん切りにしたトマトを炒めていく。トマトの水分を軽く飛ばして香りが出てきたら溶き卵を回し入れ、しばらく炒めればトマト炒り卵の完成だ。お弁当には赤と黄色、緑がそろうと見栄えよくおいしそうに見えるというけど、赤と黄色で彩り的にもいい感じだ。あとはサラダを入れれば、完璧に揃う。
この炒り卵にキーマカレーを混ぜて食べても、香辛料の辛味が卵の優しい口当たりと馴染んで美味しいし単体で食べても美味しい。酸味のあるサラダにも合うだろう。
好きなように食べられるようにとキーマカレーにトマトの炒り卵は混ぜないでおこう。
これに後はシーザーサラダ風コールスローをつけて、日野くんの夕食セットの出来上がりだ。コールスローの味つけは、マヨネーズ、レモンの代わりにゆず、マスタードとジンジャーパウダーをほんの少し隠し味に入れた。時間が経ってから食べるものだから、一応お酢は強めに効かせてある。
使い捨てのランチボックスに、カレーのために少し固めに炊いたご飯を盛って、トマト炒り卵、キーマカレーの順番に盛りつけ、彩りにパセリを少しだけ散らす。コールスローはカレーと味が混ざったりしないように別のプラスチック容器へ入れて、これで完成だ。
残ったもう一人前のカレーやサラダは私の今日の夕食だ。
私は自分の分と日野くんの食事を冷蔵庫にしまいながら、今日の夕ご飯は明日の彼の夕食と同じものを食べるのかとしみじみした気持ちになった。なんだか、変な感じだ。
「……嬉しい、なんて思っちゃだめだ。不謹慎だし、日野くんは困っているんだから」
ばし、と頬を叩き、気持ちを切り替える。仕度して学校行こう。お昼のお弁当はもう鞄にしまってある。夕食がカレーで洋風だからお昼は和食にした。
ツナとにんじんの炊き込みご飯。鮭のみそ焼き。白ごま入り出汁巻き卵、筑前煮、小松菜と油揚げのポン酢和えだ。
炊き込みご飯は昆布からとった香りの良い出汁でお米とツナ、千切りにした人参、そして出汁を取り終えた昆布を刻んで炊いた。鮭はみりんと蜂蜜で溶いた白味噌をつけてじっくりと焼いたから、ふっくらしてほんのり甘く、炊き込みご飯にもよく合うはず。
いつもの出汁巻き卵には、白ごまをいれた。そして日野くんの様子を見ていると、彼は甘めよりしょっぱめの煮物が好きだと分かったから、筑前煮は多めに詰めた。蓮根が好きだと言っていたから、蓮根を多めにして。箸休めの小松菜と油揚げの青じそ和えは、ドレッシングを使うか迷った結果しそを刻んで手作りすることにした。
なるべく野菜を摂れるように、食べごたえがあるようにと作ったお昼ご飯と夕ご飯。
今日も、美味しいと思ってくれたら嬉しいな……。
私は祈るようにランチボックスを見つめてから、学校に向かうべく台所を出たのだった。
◇
朝練に向かっていく運動部とすれ違いながら教室へと歩いていく。日野くんに夕食を作る時間が増えた分学校に到着する時間は遅くなるかと思ったけれど、そんなことはなかった。
日持ちして傷みにくいものは完成させ、そうでないものも夜のうちにある程度仕込みを済ませていたからかもしれない。
梅雨の切れ間を喜ぶようにグラウンドでは野球部が校庭のとんぼかけをしていて、廊下には掛け声が響いている。いつも通りの光景、いつもと変わらない登校時間だ。
吹奏楽部の音出し練習を聞きながら階段を上っていると、不意に上の踊り場から佐々木さんの横顔が見えた。なんとなく足を止めると、彼女が口にした名前に心臓の鼓動が激しく変わった。
「日野くん、これ、マフィン作って来たんだ。前に美味しいって言ってくれたから、嬉しくて……受け取ってくれない?」
佐々木さんは遠目からでもわかる綺麗な唇に弧を描いた。その手にはマフィンが添えられ、否応なしに今彼女が日野くんにマフィンを渡そうとしている場なのだと理解ができた。
今、日野くんはどんな表情をしているんだろう。何となく彼の表情が気になったけれど、死角になっていてこちらからは見えない。
日野くんは、マフィンを食べるのだろうか。彼ははじめ、佐々木さんが作ったと言っていたマフィンを受け取った。皆のは断っていたけれど、彼女のは特例だ。あとから私が作ったとわかったけれど、彼が食べたのは佐々木さんが作ったからだろう。
だから、今佐々木さんが差し出すマフィンを日野くんが食べてもおかしくない。人が作ったものがトラウマになっているらしい彼が、彼女の作ったものを食べられることはいいことのはずだ。
いいことのはず……なのに、不思議と胸がざわざわした。日野くんの返事を聞きたくないような……。自分でも理解しがたい感情に襲われて、どうしていいかわからなくなる。
「ごめん。事務所厳しくてさ。受け取れない」
俯いて、じっと上履きを見つめていると、酷く冷たい日野くんの声が響いた。間髪入れずに佐々木さんの戸惑った声も聞こえてくる。
「でも、この間は受け取ってくれたじゃん」
「この前のは例外だよ。学校で買った材料で作ったものだし」
「わ、私が変なもの入れてると思ってるの……?」
「ううん。佐々木さんを疑ってるわけじゃないよ。その場で出来ていないものは口に入れないようにしているんだ。佐々木さんに悪気はなくても、佐々木さんが学校に運んでる最中に何かあるかもしれないでしょ? 確かバス通学だっけ? 佐々木さんは」
「う、うん。覚えててくれたんだ……で、でも私……」
「バスに乗ってる間に、何かあるってこと絶対否定できないでしょ? 俺、一応一人で仕事してるわけじゃないんだよね。俺の自己管理ひとつで、撮影とかストップしちゃうし。ごめんね。みんなの期待裏切りたくないんだ」
「わ、分かった」
「じゃあ、教室で」
日野くんの足音が遠ざかっていく。目の前には、泣きそうな佐々木さんの横顔が見えた。前を通るのも気不味くて踵を返し階段を下りていくと、スマホが振動を始める。
慌てて画面を確認すると、日野くんのメッセージが表示された。
『もう学校来てる? 俺今日お昼楽しみで早く来すぎたかも』
『はやく食べたい(??´・ω・`)????』
『なんか俺めっちゃ食い意地はってるみたい』
『嫌わないで』
ゆるいペンギンのスタンプが、また送信されてきた。
何一つ、嬉しいことは起きてない。それなのに私は途方もなく安堵を感じて、ぺっこりお辞儀をするペンギンのスタンプをなぞったのだった。
◇
「お待たせ、日野くん」
お昼休みいつも通り空き教室に入ると、既に日野くんは椅子に座ってスマホを眺めていた。彼はこちらに気付くと、真剣な表情から一変し、こちらを見て目をきらきらさせた。
「五十嵐さんお疲れ様。今日もありがとう!」
「どういたしまして、えっと今日のお昼は和食のお弁当で、夕ご飯はキーマカレーとコールスローです」
「カレー!? 俺カレー大好きだよ。嬉しいなぁ」
「あと、お昼の煮物なんだけど、よく食べてくれるから多めに詰めておいたよ」
日野くんにお弁当を差し出しながら椅子に座ると、返ってくると思っていた返事が全く返ってこない。
なんだろう。普段なら何を煮たのかとか、矢継ぎ早に質問が飛んできてもおかしくないのに。
日野くんの顔を見ると、彼はお弁当箱の蓋を開けたまま意外そうに私を見つめていた。
「あれ? 煮物好き……だよね? ごめん違ってた?」
「いや……好きだけど、どうして分かったんだろうと思って」
「ああ、それは見てて何となく好きだろうな……と」
「見ててくれた?」
確認するように問いかけられ、頬が熱くなる。駄目だ。これじゃあまるで日野くんをずっと見ていたみたいじゃないか。
「反応が気になって……ごめんね」
「ううん、謝らないで、予想外っていうか、想定外のことで嬉しかっただけだから」
「想定外?」
「ううん、こっちの話……食べていい?」
「も、勿論」
頷くと日野くんはにっこり笑って「いただきます」と手を合わせる。私も追うように手を合わせてお弁当箱の蓋を開いた。彼はどれにしようかわくわくした後、煮物に狙いを定めたようだ。
「おいし……味が染みてて、落ち着く……。蓮根多めにしてくれたんだね」
「うん」
「本当に五十嵐さんの作るごはんおいしい……大好き」
嬉しそうに煮物を頬張る様子に、ただただ幸せな気持ちになった。私も筑前煮から食べようと箸をとると、彼は「ねえ」と上目遣いで見つめてきた。
「……これ作ってる時、俺のこと考えてくれた?」
投げかけられた言葉に箸が止まる。食べようとしていた人参は奇跡的に弁当の中に転がり落ちて、出汁まき卵の上に着地した。
「え、え?」
「煮物、俺の為に詰めたって言ってたから、違った?」
こちらを見つめる日野くんは、妙に艶っぽくて心臓に悪い。手が震え、体温がどんどん上がっていくのを感じながら頷くと彼がさらに目を細める。
昨晩、爽やかな笑顔で人気とテレビに出ていたはずの彼笑みは、どこか湿った雰囲気を感じた。
「嬉しい。俺も最近、撮影で使う食べ物とか料理見ると、五十嵐さんの顔が浮かぶから」
「私の顔?」
「うん。五十嵐さんの料理だったらな……って。五十嵐さんの料理、好きなんだよね。なんか力が抜けるって言うか、落ち着く」
「ありがとう……」
凛と心に響くような日野くんの言葉が、じわじわと心に浸透するみたいに沈んでいく。彼は「美味しい」と言いながら煮物を頬張っていて、私の視線に気づく気配はない。
この表情、ずっと、ずっと見ていたいなぁ。
出来れば、なるべく、ずっと。
ぬるい風が窓から吹き抜けていく中、私はそんなあり得ないことを願ってしまうのだった。