ふたりでおかいもの
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朝から一向に止む様子の無い雨空を見て、廊下の窓から溜息を吐く。窓の外は薄暗く鈍色の雲が覆っていて、帰宅を急ぐ生徒たちは水たまりを避けながら歩いていた。
日野くんにお弁当を作りはじめ、結局一週間。あれから結局彼の頼みを断るほど困ったことも起こらず、お弁当作りは継続する運びとなった。
ということで今日、私はお昼に日野くんとお弁当を食べ、彼が美味しいと笑う顔を見た。思い出すとなんだか胸のあたりがもやもやする。放課後下駄箱へ向かっている今ですら、まだ変な感じが抜けていない。ビニール傘を差す生徒たちが膜を張った外側にいるみたいな、よくわからない気分だ。
だからなのか、五時間目ぼーっとしていたせいで、バスケ部の男子とぶつかってしまい、がま口型の筆箱を壊してしまった。金具が割れて最早自力で閉じることは不可能になり、今はクリップで留めている。中学の頃から何となくで使っていて寿命と言えば寿命だけど、この雨の中買いに行くことを考えると少し落ち込む。
そんな私の隣を、これから部活に向かうジャージ姿の生徒たちが通り過ぎていった。窓から校庭の様子を確認して、「土砂降りじゃん」なんて嫌な顔をする子たちもいる。その様子をぼんやり眺めていると、ポケットに入れていたスマホが震えはじめた。
誰だろう。お母さんとお父さんは時差の関係でかけてこない時間のはずだ。
画面を確認すると、今日は仕事へ行くためお昼を食べて早退した日野くんの名前が表示されていて、私は目を見開いた。慌てて下駄箱の隅へと向かい、誰かに聞こえないよう音量を落として電話に出る。
「もしもし……?」
「あ、俺だけど。突然かけちゃってごめんね。今どこにいる? 学校?」
「うん、丁度今から帰るとこ」
「そっか。ねえ。急で申し訳ないんだけど今日時間ある? 実はちょっと買い物に付き合ってほしくて、五十嵐さんいないと駄目でさ……」
「え、う、うん、大丈夫、だよ?」
「ありがとう。じゃあさ、駅前のショッピングモールの時計台前に来てくれないかな」
学校の前には、駅に向かうバスの停留所がある。皆そこを使うから時刻表は校舎内のいたるところに張り出されていて、そばにあった張り紙を見つけるともうすぐ出発の時刻になっていた。
「分かった。バスすぐ来そうだからもう行くね」
「ごめんね。よろしくー」
スマホをタップして、電話を切る。
日野くんの買い物に、付き合う。どうしよう、流れるままに承諾しちゃったけど、相手は芸能人な訳で。色々まずいのでは……いや、でも、いいよって言っちゃったし……。
いや、でも、日野くんは今困っている。彼から支払われるお金は、毎回おかしな金額だし、ちゃんと返せるように役に立たないといけない。私は意を決してスマホをポケットにしまい込み、私は学校を出たのだった。
◇
言われていた時計台の前に辿り着くと周囲はカップルで埋め尽くされていた。大粒の雨は降っているけれど、週の終わりの金曜日だからか学生や会社員っぽい人たちと色んな年齢層で賑わっている。
色とりどりの傘を見比べ辺りを確認していくと、明らかに一般人とは思えないスラッとした立ち姿で、真っ黒の傘をさす人影が見えた。
日野くんだ。
てっきり変装とかしているものだとばかり思っていたけど、制服にマスクをつけているだけだ。傘で顔を隠しているためなのか周りが気付く様子はない。どう声をかけようか迷っていると、彼がこちらに気付いた。
「あ、五十嵐さん。ありがとう来てくれて」
日野くんは私を見つけ平然と駆け寄ってくる。周りの人たちは彼の声を聞き、首を傾げはじめた。皆彼に注目して、連れの人とこそこそ話をしている。
「あの、ひ、人が見てるよ」
「そう? 気のせいじゃない?」
気のせいじゃない。断じて気のせいじゃない。明らかに周りの人の視線が、「どこかで見たことある人」を思い出す目だった。それにちらちらと「あの人さあ?」という声も聞こえる。写真を撮られたりしたら、一緒に居るのが私みたいなどこにでもいる凡人でも、彼に多大な迷惑をかけてしまうだろう。
「ばれてるよ。い、いくら私みたいなのでも、人と歩いてるのとか撮られたら、日野くんの仕事に影響が」
「無いよ。むしろ話題性利用するような場所選んだんだから。行こ?」
日野くんは周囲の視線を一切気に留めず、軽い足取りで歩いて行く。とりあえず、この場を離れた方がいい。私がそのまま日野くんについて行くと、彼は私に歩幅を合せてくれた。
「俺の事務所さ、使えないと思われたら秒で切られるんだけど、その分商品価値があって実力見せてれば、週刊誌に何枚写真撮られようが結婚しようが、大丈夫なところなんだ。それに俺、おいおい海外に拠点絞ろうと思ってるから、ある程度騒がれて顔が知れたほうがいいし」
日野くんは笑って話すけれど、ひやひやしてしまう。後ろを振り返ると、こちらについてこようとしないまでも人々の視線は彼に集中している。
「それに俺の知り合いとか、彼女いるの公表してるしね。知らない? 常浦って歌手。湖月と騒がれてたでしょ」
「ご、ごめん私あんまり詳しくなくて。でも、日野くんの事務所が自由なのは聞いたことあるような……」
美弥ちゃんも同じことを言っていた気がする。日野くんの事務所は交際自由だから、もう彼には彼女がいるかもしれない……とか。
「そう。俺の入ってる事務所、結構えぐいっていうか。ドラマの視聴率上げる為にあることないこと週刊誌に書かせるくらいのとこだからさ。気にしなくていいよ」
「そうなんだ……」
自由、というのは聞こえがいいけど、大変なところだな……。芸能界って大変だって聞くけど、もっと私の想像できない大変なことをいつも彼は前にして頑張っているのかもしれない。
話を聞いていると、不意に彼は思い出したようにこちらに顔を向けた。
「ん……、そういえば五十嵐さんの両親も確か海外でお仕事してるんじゃなかった?」
「そうだよ」
「じゃあ五十嵐さんは今一人暮らしなの?」
「うん」
頷きながら、私は疑問に思った。私は日野くんにそんな話をした覚えはない。
両親が仕事で家にあまりいないことは芽依菜ちゃんに話をしたけど、海外赴任についてまでは伝えてない。両親がすぐ傍にいないことを伝えるのは、無用心だと止められているからだ。八百屋のおじさんには両親が娘をよろしくと挨拶をしていたけど、なんで彼は知ってるんだろう。先生から聞いた……? 問いかけようとすると、日野くんは「なら俺と一緒だ」と笑う。
そういえば、彼は一人暮らしをしていると言っていた。食べるのは好きだけど、料理を作る時間があまりとれなくて、それで女の子たちからのごはん作りの申し出を断っていたっけ……?
「俺さー、基本朝は食べないし、夜は大抵仕事だから差し入れとかで済ませちゃうんだよね。打ち合わせついでにー、とかざらだし。だから五十嵐さんに作ってもらうご飯が唯一の食事でさ。最近すっごく調子いいんだよね」
「へえ……」
そんなの、絶対足りない気がする。お腹空いちゃうとかのレベルじゃなく、栄養も偏ってしまう気がする。
今度から、お昼と一緒に夕食、一品くらい持ってこようかな。でも、モデルとして身体作りとかもあるかもしれないし。余計なお世話ってこともある。
……これからはお昼のお弁当、もっと栄養計算して、もっともっと気を付けていこう。カロリーを抑え気味で、栄養もあって美味しいものを作ろう。
帰りに本屋さんに寄って栄養の本を買うことを決め、周りを見て今日どこへ行くのか全く分かっていないことに気が付いた。ショッピングモールの前で待ち合わせをしたけど、もう随分と離れている気がする。大通りからも離れて、人気のない路地の道を私は日野くんと歩いていた。
「あのさ、日野くん。そういえばお買い物のお手伝いって何をすればいいの?荷物持ちなら普段大根とか南瓜とか、お米で鍛えてるから大丈夫だけど……」
「はは、五十嵐さんに重たいものなんて持たせないよ。今日は雑貨屋に行きたくて、ほらここ」
そう言う彼は傘を畳んだ。周りを見るとすでに屋根があって私も慌てて傘を畳む。目の前に建っていたのは海外のブランドを取り扱ったセレクトショップだった。
確か手頃な価格帯と高級なハイブランド? のものを取り扱ってる……。みたいなことをやってるのをテレビで見た気がする。買い物カゴがバスケットになってるとかの……。うん、その後レシピ動画のアレンジコーナーを見たから、よく覚えてる。絶対にここだ。
「ここさ、結構好きでよく来るんだ。キッチン用品も取り扱ってて。俺の家、皿とかコップとか、食器? 殆ど無くて、五十嵐さんのアドバイスが聞きたくてさ。どういうのが使い勝手がいいかとか。教えてほしいんだ」
なるほど、食器の相談かあ。作る食べるほどじゃないけど食器を見るのは好きだし、集めるのも好きだ。専門家みたいなアドバイスは出来ないけど、便利な食器や洗うのが大変な器の区別は出来る。それなら私でも役に立てそうだ。
「うん。分かった」
「ありがと」
日野くんと一緒にお店の中へと入っていく。内装は白が基調とされて、床はぴかぴかとこちらを反射していた。端にはテレビで見たとおりのバスケットがあって、商品棚には紅茶だったり、食器だったり、小物が並べられている。彼は食器の列へ向かうと、一つ二つと手に取ってこちらに振り返った。
「早速だけどこのお皿と、この沢山あるやつならどっちがいい?」
視界に入ったのは大きめのお皿と、それより二回りほど小さな中皿の五点セット。
平たいお皿は冷ましたり、大きめのお皿にワンプレートとして盛ったり、とわりと使う。中皿は取り分けで一枚は必要だけど、五点もいらないような……。
「日野くんの家って小ぶりなお皿は一枚も無い?」
「ううん、二人分ならあるよ」
「なら大きめのほうがいいと思うよ。ワンプレートご飯とかも出来るし」
「そっか……じゃあ二枚買おうかな」
彼はお皿を二枚取った。あれ、でも一人暮らしなら一枚でいいような。でも、割ったときのこともあるし、何枚買うかは日野くんの自由だ。納得していると日野くんは今度はグラデーションのように並べられているカラフルなマグカップを指で示した。
「ねえ、俺は黒が好きなんだけど、五十嵐さんは何色が好き?」
「オレンジと水色かな?」
「じゃあオレンジと水色にしようかな……」
彼はそう言うと近くのバスケットを取り、そこに持っていたお皿二枚と、水色とオレンジのマグカップを入れ始めた。
「え? な、何で? 日野くんの好きな色は?」
「俺、何色でもいいからさ。どうせなら五十嵐さんの好きな色がいいかなって」
並べられたマグカップのラインナップをよく見てみると、確かに日野くんの好きだと言う黒はない。好きな色じゃなかったら、もう何でもいいってことか。
それにしても本当にいろんな色のコップがある。見惚れるように眺めていると、彼は「なんかこうして一緒に食器見てると、一緒に住むみたいだね」と悪戯をする子供みたいに笑った。
「えっ」
「はは、五十嵐さんさっきから、えっ、ばっかりだ」
くすくす笑う日野くんに、揶揄われたのだと瞬時に理解した。戸惑ってしまったのが恥ずかしくて、私は誤魔化すために俯いた。
「ご、ごめん驚いちゃって、冗談だよね、ごめん」
「本気だけどね。五十嵐さんが家に来れば、毎日三食五十嵐さんの作ったものが食べられる……そんないいことないよ。それに俺、四月に入って……」
日野くんはどこか不安げな表情をした。何かに怯えている表情だ。苦し気に辺りを見回した彼は言葉を続けることなく視線を落とした。なんだろう、何か言いたげだった気がする。
「日野くん?」
「ううん、何でもないよ。それよりあっちの道具のコーナーの相談ものって」
「わ、分かった」
ぱっと顔色を変えた日野くんは調理道具のコーナーへ向かっていく。話を逸らされた……?
私は何となく心に残るものを感じながら、その後を追ったのだった。
◇
街灯が少しずつ灯り始めた頃、あれだけ降りしきっていた雨は止み夕景が広がっていた。どんよりとした雲も消え空は雲一つなく、私は水たまりの残る道を日野くんの隣を歩いていた。
「今日はありがとうね、五十嵐さん」
「ううん、気にしないで」
あれから雑貨屋を何軒か巡ったけれど、日野くんは無事食器を買い揃えることが出来たようだ。役に立てて良かった。
「そういえば」
日野くんが思い出したように立ち止まると、両手に持っていた紙袋の一つに手を入れた。そして何か、ベージュ色の包みを抜き出す。
「良ければこれ貰ってくれない? 今日のお礼」
差し出された包みを見つめていると、彼は私の手を引いてそれをのせた。今日のお礼と言われても、私はただ食器選びを手伝っただけだ。物を貰うようなことなんてしていない。
「受け取れないよ」
「何で?」
「だって、私、食器選びしかしてないし……」
「食器選びしか、じゃないよ。五十嵐さんに似合うと思って買ったものだから、開けてみて? 俺このままこれ持ち帰っても、使えないし」
私の為に、ということは私が受け取らないと無駄になってしまうのだろうか。
恐る恐る包みを開くと、中に入っていたのは丸みを帯びた黒革のペンケースだった。チャックのところにはラインストーンが花の形にあしらわれていて、向きによって色を変えている。ステンドグラスみたいでとても綺麗だ。
「似合うなあって思ったんだ。よければ貰ってよ」
「ありがとう、日野く――」
お礼を言いかけると同時に、彼は突然はっとした表情を見せた。そして「ああ……」と申し訳なさそうに顔を歪める。
「……ごめん。元々使ってる奴……あるよね?」
「ううん、実は今日ペンケース壊しちゃってて。っていうか壊れてなくても大切にするよ……でも、いいの? 私が貰っちゃって」
「五十嵐さんに似合うと思って買ったから、五十嵐さんが使ってよ。……出来れば沢山使ってくれると嬉しい」
「うん。ありがとう」
日野くんは眩しげに目を細めている。ペンケース、可愛いな。すごく嬉しい。間違っても落としたりしないよう包みにしまっていると、彼の表情がまた深刻なものに変わった。
「どうしたの?」
「……申し訳ないんだけどさ、俺がそれあげたこと、内緒にしててくれないかな」
「あ、それは勿論、そうするよ! 大丈夫、安心して。噂になったら大変だもんね」
彼が私にペンケースを渡したのは親切心で、疾しいことは何もない。けれど万が一私にペンケースをあげたなんて噂がたったら、彼にはマイナスイメージになってしまう。特別扱い、なんて言う人も出てきてしまうだろう。
安心してもらう為に私は大丈夫と何度も頷いた。しかし何故か彼はさらに顔を暗くし、俯いてしまう。
「日野くん?」
「噂とかはどうでもいいんだ。でも俺、職業柄他人に好意を持たれることが多くてさ……一方的に。だから五十嵐さんと噂になるのが嫌なんじゃなくて、俺がペンケースあげたって知った周りの人間が、五十嵐さん攻撃し始めるのが嫌で……。それは分かってほしい」
日野くんはぎゅっと眉間にしわを寄せながら私を見た。確かに彼はクラスでも人気だし、ほかのクラスの人たちが見に来ることもよくある。大変な思いをしてきたんだろう。私にお弁当作りを頼むくらいだし、自分が関係ないところで人同士が揉める、なんてこともあったかもしれない。
「うん。分かった」
「ならいいけど……。今日はありがとうね。一緒に買い物付き合ってくれて」
「こちらこそペンケースありがとう。大切に使うね」
「ん……次は月曜日かな。気を付けて帰ってね」
「うん、日野くんも気をつけて……」
日野くんは紙袋を持ち直して私に背を向け去っていく。あんまり不躾に見ているのもよくないと、私も彼に背を向けた。
これから、栄養があって、美味しくて、日野くんの心が安らぐようなお弁当が作りたい。
私は手始めに明日の献立を考えながら、家に向かって歩き出したのだった。