◆毒のある味
「じゃあ、二十分休憩入りまーす」
「お疲れ様です、ありがとうございまーす」
冷房がついていることすら疑わしいような市営の公共の図書館の中で、撮影のスタッフに頭を下げながら邪魔にならないよう捌けていく。
用意された椅子に座るとすぐにメイクスタッフがやってきて、撮影で乱れた俺の髪を整え始めた。きりっとした表情で俺の前髪に櫛を入れる女は俺より一回りも年上にみえるのに、こちらを見て頬を赤らめ去っていく。他の人間も大体同じ反応だ。
窓の外に目を向ければ、太陽がアスファルトを焼いているのが見て取れる。夏は嫌いだ。暑いし、ただただ不快指数が高い。湿度も高いしまだ冬のほうがましだ。うんざりしていると休憩によって撮影位置が変わり、照明の光がこちらに向いて窓に俺の顔が映り込んだ。
俺の父と母は、二人とも一般的に優れていると言われる顔を持っていたらしい。親戚連中が口を揃えて小学校中学校高校大学会社、何処に行っても誰より美しかったと言っていた。
そんな二人の血を混ぜ合い出来た俺は、小さい頃から物を贈られ、媚を売られ、囲まれ、求められた。
俺を引き取った姉夫婦だってそうだ。このままだと誘拐されてしまうと俺を閉じ込めるようになり、日の当たらない納戸にしまい込んだ。その末に警察に捕まった。そんな境遇を哀れに思った独り身の親戚のおじさんが新しい義父になり、俺は新しい生活を送ることとなった
普通に暮らしていたけど転機が訪れたのは小六の頃だ。義父が結婚した、書類上俺の義理の母親にカテゴライズされた人間は、俺を息子ではなく男として手に入れようとした。
結局、義父にばれて失敗していたけど。
「ねえ、ちょっと日野くんにID渡してきてくれない?」
「やだよ、自分で渡してきなよっ!」
「えー! 日野くんのID知りたくないの?」
「知りたいけどさぁ、ぜったいセンパイに怒られちゃうでしょ?」
だからか、後ろから聞こえてくるひそひそ声に溜息を吐きたいのを必死に堪える。
義理の母親は俺を求めた結果、警察、病院を巡り最終的に施設に送られた。当然だろうと思う。最終的に物だろうが生き物だろうが全てを「俺」だと認識し、所かまわず痴態を見せつけていたのだから。
そしてそんな人間の夫になってしまった義理の父親は、世間一般で言えば、極めて優良で出来た人間だったらしい。自分の妻を狂わせた俺を完全に放り出すことはせずマンションの一室を買い与え、預かっていた俺の両親の遺産を俺に明け渡した。会うのは必要がある時だけでという言葉を最後に、電話番号を俺に渡して去っていった。
正直に言えば義父や義母、自分のせいで狂っていく人間を見ても何も思うことがない。
生きる上で便利だとは思うけど応えたいと思わない。利益にならない好意も、毎回毎回のことだから何も思わなくなってくる。
ただ漠然と、俺は俺を求める生き物たちを見てるだけだ。
モデル業も小学校に上がる前くらいにキッズモデルとして取り扱われ、今に至るまでだらだらと続けているだけだ。ただ傍観者として見ているだけ。
それは今日も同じだ。俺は連絡先を答えず済むよう、手洗いを装って移動を開始する。
撮影まであと十分以上あるというのにどうして移動しなきゃいけないのか。撮影場所から離れすぎないよう気を付けながら歩いていると、辿り着いたのは料理本のコーナーだった。
「料理ね……」
食に興味は一切無い。食べることすら面倒だと感じる。美味しいものだろうが不味いものだろうがどうでもいいくらいだ。だから仕事で必要なとき以外はサプリを飲み、食事なんてしない。
嫌いな食べ物どころか、好きな食べ物すらないから、雑誌のインタビューで聞かれると困るくらいだ。大抵記者に好きな食べ物を聞いて、俺も好きで誤魔化すか、面倒な時は同業者の答えで多い肉と答えている。それくらい関心が持てない。
そもそも、食事をしたところで味を感じるのは一瞬だけだ。その為に苦労して物を作るなんて気が狂ってるとすら思う。
後ろを振り返ると、同業の女が俺を探しに辺りを見回すのが見えた。本当に面倒くさい。身を隠すように書棚の並ぶ通路に入ると、熱心に本を読んでいる人間にうっかりぶつかりそうになった。しかし相手は本を手放すことも無く、俺に気付かず、ただずっと本……家庭料理の本を黙々と読んでいる。
……そんなに集中して読むような本だろうか?
物語を読むことは楽しいことらしい。俺は空想の話なんて読んで何が楽しいのかと思うけれど。でも世の中には楽しいと思う人間のほうが多い。俺みたいな考えは少ない。この相手も同じで、料理本を楽しく読むという少数派に入るのだろう。
興味本位でさり気なく顔を窺うと、目も唇も弧を描いて幸せそうな笑みを浮かべていた。ページをめくるたびに鎖骨あたりにかかった黒い髪がゆれて、時折「わぁ」と無邪気な声が漏れる。
嬉しそうに、優しげに、穏やかに。
花が咲くことに美しさを感じたことなんて微塵もなかったはずなのに、目の前の人間がまさしく花でそれはそれは可憐で尊いもののように感じた。
もっと見たいと、誰かの顔を初めて見たいと思った瞬間だった。
◆
クリーム色をした赤い屋根の一軒家を前にして、はっと息を吐き出す。冷たい感触の工具箱を握りしめた俺は、意を決して玄関のチャイムを鳴らした。扉の周りにはカラフルな植木鉢が並んでいて、食用ハーブが風を受けて靡いている。毛筆で五十嵐と書かれた表札とはあんまり合っていない気がした。
「はーいっ!」
「すみません。水道の点検に伺いました」
「少々お待ちください。お母さん水道局の人が来たってー!」
インターホンから聞こえる声に心臓の鼓動が激しくなったのが分かった。じり、と足場をならすように足を動かす。今日この家の夫妻は海外に転勤する為飛行機に乗る。一階のリビング近くの窓のサッシにつけた音声でそのことを聞いたとき、チャンスだと思った。外側からじゃなく内側からも家主の娘――瑞香の挙動を知るチャンスがとうとうやってきたのだ。
「おっ、お待たせしました。ごめんなさい。母と父は今ばたばたしてて……えっと今日はどこの点検を……」
扉が開くとずっと待ち望んでいた人の姿が現れた。そのまま抱きしめて連れて帰りたい衝動をぐっと堪えて帽子を深く被りなおす。瑞香はハーフアップの黒髪を揺らしながら戸惑った顔で俺を見ていた。
「流し台、洗面台、トイレとお風呂ですね。他に水回りで気になった場所があれば点検させていただきます」
「はいっ、スリッパはこちらになります」
両親が海外に発つことでばたばたしているらしい。瑞香は額に汗をにじませながら家の中に入るよう促す。作業着と帽子は一応水道局員を模倣しているものの、細かな色味は違うから不安に思っていたけど彼女が気づく様子はない。
「あっお疲れ様です、よろしくお願いします」
「ごめんなさいごちゃごちゃしてて」
イラストパネルが並ぶ廊下を通ってリビングを横切ると、瑞香の両親がキャリーバックに荷物を詰めているところだった。昨日まで仕事をしていて、時間がなく準備は朝からになってしまったのだろう。彼女の両親はいつも仕事で忙しい。そんな二人の為に彼女は料理を作るようになったというのは、音声を聞いていて察しがついた。
「えっと、そこのダイニングの奥にキッチンがあって……」
ダイニングテーブルは四人掛けだ。今朝まで三人で囲んでいただろうに、今日から瑞香は一人でそこに三年間取り残されてしまう。高校受験の合格と共に出された親の転勤辞令によって彼女はこの家で一人で暮らす。三駅先に祖父母がいるが、従姉が身を寄せ子育てをしているから気を遣って頼ることは少ないだろう。
かわいそうに。
可哀想だけどこの機会を利用しない手はない。
「ご両親のお手伝いをされていても大丈夫ですよ」
二階のトイレを確認するふりをしながら、隣で立ち会っている瑞香に声をかけた。
「えっ」
「何かご旅行に行かれる準備をされているようなので……。点検が終わったらお声掛けしますよ」
「あっ、ありがとうございます。失礼します」
瑞香に見られるのは嬉しいけどいつまでも隣に立たれていては作業ができない。しかし彼女は俺の言葉を親切と受け取って、頭を下げると両親の元へ向かっていった。
俺は工具箱から機材を取り出して、台所の裏側や机の下に取り付けていく。リビングは人がいるから後回しだ。気配を殺しながら入れる部屋に設置すると、思ったよりも簡単に作業は終了した。録音も録画も完璧だ。最後に入った瑞香の部屋を見渡して、おかしい場所がないかきちんと点検する。
温かみのあるウッド調で揃えた家具は両親の趣味だろう。リビングの感じと同じだ。ただ本棚にある料理雑誌は他ならぬ彼女の痕跡を感じられて嬉しい。真新しい制服が飾るみたいにかけてあって、俺は感慨深い気持ちで胸元のエンブレムに触れた。
「一緒の高校に、通える」
図書館で瑞香の姿を見つけたあの日から、俺はまさしく狂ったのだと思う。
非合法な手段で彼女の素性を調べ上げ志望校を割り出し推薦合格を知ると、同じ高校に入学した。それほど一緒の高校に行きたかった。
制服なら抱きしめてもいいだろうか。でも、せっかくアイロンがけもしてあるのに、ぐしゃぐしゃにしてしまうのは可哀想だ。名残惜しい気持ちで部屋を出て階段を下りると、ちょうど瑞香がリビングから出たところだった。
「二階のお手洗いの点検は終わりましたよ」
「ありがとうございます。えっと次はこっちのお手洗いをお願いします。ちょっとわかり辛い場所にあって……」
彼女はそう言って、廊下の先にある壁に向かっていった。スライド式の扉になっており一目見てトイレだとわかり辛い設計になっている。空間デザインの会社に勤めている両親の工夫だろう。
さすがにトイレの中まで録画や録音をしようとまでは思わない。トイレの窓につながる庭先はすでにリアルタイムで映像が俺のスマホやパソコンに送られているし、廊下にも機材はついている。
「じゃあ瑞香、俺たちもう行ってくるな!」
どうやらもう両親の出発の時間らしい。
「どうぞ行ってきてください。何かおかしなことがあれば声をかけるので」
「すみません……!」
瑞香はぱたぱたと玄関のほうへ向かっていった。俺は隙を見てリビングに忍び込み、また機材を取り付けていく。
壁には海外に出張が多い両親が買ってきたであろう民芸品が並んでいた。どれも娘や子供の幸せや健康を祈る厄除けの類で、その間に置かれる家族写真がこれまで大切に育てられた彼女の来歴を物語っている。
ただ、しっかりしているとはいえ子供を残して海外に発つのは悪手だと思うけど。
現に、家の中にもう俺みたいな人間が入り込んでいるわけだし。
リビングに立っていると瑞香は「さっきはすみませんでした……!」と申し訳なさそうに入ってくる。悪いことをしているのはこちらだ。この状況すら録画され、今まさに俺の元へ送られているのだから。
「えっと、の、喉乾いてませんか?」
「え?」
俺が返事をする前に瑞香は台所に立ち、冷蔵庫から麦茶ポットを取り出した。カランカランと氷の涼やかな音が響く。やがて彼女は麦茶を注いだグラスをこちらに差し出してきた。受け取った瞬間、わずかに手が触れる。「あっすいません!」と謝りつつもガラスのものを扱っているからか手は離さない。俺も謝ってうつむきがちに彼女に声をかけた。
「では、いただきますね」
そう言うと、了承するみたいに瑞香は笑ったのだった。
◇
作業を終えた俺は夕方に瑞香の家を出た。薄暗い住宅街を歩きながらスマホを確認すると通知を知らせるバイブが鳴る。マネージャーから仕事の連絡だ。
どうやら近々、秋に放送されるドラマのインタビューとポスター撮影があるらしい。来週発売の雑誌のチェックもしてほしいとのことで、画像ファイルが添付されている。高校生の女子向けファッション雑誌だからと淡い色味の服を着ている自分の姿を見て、今作業着を着て帽子を目深に被る自分との落差に笑いが出そうになった。
「これ瑞香買ってくれるかな……」
夏に発売されるブランドの服を着る自分の右側には、『春の自分磨き料理編! 簡単映える世界料理!』なんてポップに書かれた文字が並んでいる。ネットで有名な料理研究家が初心者でも出来る海外の料理をまとめたそうだ。彼女はあまりファッション誌を買わないし服装に興味はなさそうだけど、料理本とにらめっこをすることはままある。
期待できるかもしれない。雑誌の特集画像を見て胸が高鳴った。だって彼女は、受験勉強がつらくて図書館の料理本コーナーに通うほど食事を作ることが大好きなのだから。でも、その前に入学式がある。俺は笑みを帽子で隠しながら月夜の道を歩いたのだった。
◆◆◆
入学式当日は、晴天に恵まれ遅咲きの桜が舞う、出会いの場面としては最高の日となった。
ただ、家の映像を確認して瑞香が玄関を出たところまで見届けたのに肝心の彼女の姿が見当たらない。道を聞くふりをして接触を試みようと思っていたのに。桜並木の通学路では新入生がぞろぞろと校門へと入っている。俺に気付きちらちら視線を向けながら歩く女子生徒の姿もいて、焦燥と苛立ちが募るばかりだ。
好意の目というのは本当に隠せないものだ。こちらに分からないよう盗み見ているつもりだろうけどよく分かるし、気遣っているのか隠し撮りをしようとしているのかも区別がつく。時計を気にしながら、盗聴器を制服にも仕込むべきだったと後悔していると「あの、珱介くん、だよね?」と横から声がかかった。
「え、えっと、私珱介くんに憧れてモデル目指してて……佐々木ゆりって言います。あの、同じ高校……だよね?」
振り返ると華奢な女子生徒が俺の隣に立っていた。制服は新しいし同じ一年生だろう。「そうだね」と返事をすれば嬉しそうにしているけど、俺の心は冷えた。モデルを本気で夢見て目指しているか、とりあえず同業枠に入ろうと嘘を言っているかの見分け方は、目を見なくてもできる。体型と姿勢に現れるからだ。
モデルはとりあえず痩せていればいいわけじゃない。服を美しく見せる体型でいなければいけないし、姿勢だって日常生活から正しておかなければ長時間の撮影に耐えられない。今俺の目の前に立つ佐々木という生徒は重心の置き方もおざなりで、嘘をついているのが見て取れた。挙句そういう人間は狡猾だから他者を押し退け足を引っ張ることだけ一人前だ。
瑞香とは同じクラスだということが分かっている。学校側は俺の影響力を理解していて、本来クラス名簿は昇降口のそばに張り出されるけれど、俺は先にクラス名簿を確認させてもらったからだ。そして記憶が正しければこの女も同じクラスにいる。一人飛ばした瑞香の右隣の席だ。
「えっと、学校行かないの? もしよかったら……」
「ごめん。仕事の連絡待ちしてるんだ。じゃあ」
大げさに手を合わせると佐々木は「そっか、またね」と校門へ向かっていった。またなんてもう来ない。そう言ってしまえたらいいのに。仕方なくスマホを取り出し連絡を待つふりを続けていると瑞香の声が聞こえた。信号を三つ挟んだ歩道に彼女がいた。
「ごめんね瑞香ちゃん。真木くんのブレザー洗うの手伝ってもらっちゃって……」
「ううん気にしないで、それに私ただ鞄持ってただけだし」
へにゃ。そんな効果音が付きそうな顔で笑う、可愛い瑞香。そしてその隣で申し訳なさそうにしているのは園村芽依菜だ。入学説明会の時前後になって瑞香と親しい雰囲気になっていたけど、道中合流したのかもしれない。ほっと安堵するとともに園村芽依菜の隣にいるぼーっとした男……真木がこちらを見ている気がして、慌てて視線を落とす。
俺はさりげなくスマホを耳に当て電話をするふりを始めた。イヤホンだけでもいいけど、スマホを持っているほうがやはり電話をしている認識をされやすい。不自然にならないよう瑞香たちの後ろについて、耳をすませる。
「それにしても今日の入学式晴れて良かったねえ」
「うん。一昨日とか風も強かったから桜散っちゃったかと思ったけど、まだ咲いてるし。良かった〜」
なんだか、小学生みたいな会話だ。どうでもいいけど瑞香が加わっていると思うだけでいいものに感じてくる。その相手が俺だったらもっと嬉しいのに。
でも、ただ会話を聞いているだけではいけない。今日みたいなこともあるし、盗聴器とGPSを鞄につけておこう。幸い道は新入生で詰まるようになっていて、人同士の距離もかなり近いから俺が瑞香の鞄に触れても俺自身が死角となって気付かれない。隙を見てチップを瑞香の鞄の裏側につける。これで完璧だ。ほっと安堵した瞬間、真木がぱっとこちらを振り返った。
「どうしたの?」
「いま、どのあたりにいるのかなって……、学校まであとどれくらい歩けばいいの……」
「もう校舎見えてるよ真木くん……」
真木の言葉に園村芽依菜が不安げな顔をする。瑞香はおろおろしていて、ただただ可愛い。でも、さっき真木の振り返ったタイミング。あれは一体何なんだろう。俺は不安を抱きながらも、これから瑞香と同じ学校に通える喜びを感じながら歩いたのだった。
結論から言ってしまえば、入学して一週間、俺が瑞香と高校生活を共にして得たものは彼女の連絡先や信頼でもなんでもなく、ただただこのままだと一切仲を深めることなく卒業してしまうという危機感だった。
中学と比べ高校の全校生徒の数は倍になり、授業だろうが休み時間だろうが俺には視線が向いてしまう。そんな状況で瑞香に声をかけてしまえば今までみたいに嫉妬の餌食になってしまうことは想像に容易かった。
いままで人が壊れていくのを何度も見てきたし、俺のことが好きで好きでたまらなくて苦しいから自殺未遂を図った人間や、ただ俺の隣の席で落ちた消しゴムを拾われただけでいじめの対象になった人間だっていた。今まではどうでもいいと思っていたけど瑞香は違う。迂闊に近づけない。一人の時を狙って近づく機会はある。ただ理由が揃わない。理由があっても人目につく場所で話しかける必要が出たり雁字搦めだ。
だからせめて視界に入りたいと昼食は学食で取っているものの彼女の興味は日替わり定食やメニューで、全くと言っていいほど俺に関心を持っていなかった。席も離れているし授業の班分けも何もかも違う。仕事の時間が空いている時、後ろから気づかれないようついて歩くことしかできない。
昨日瑞香は俺の雑誌を買ってくれた。でも、料理特集がある別冊ページだけきれいに切り抜いて、雑誌は他人にあげてしまった。彼女が週に二回は必ず行く八百屋の娘は俺のファンで、話している様子を見ながら不安に思っていたら案の定だ。
ここまでくると彼女を絶対に手に入れると確信めいた希望が淡いものに変わっていく。いっそ休日に拉致したほうが早い気がしてくる。今日の昼だって瑞香は中華定食に興味津々だったし、女子に囲まれる俺を景色か何かとして見ていた。一昨日、園村芽依菜とメロンパンの話をしていたから、今日の昼はそれにしたのに。
悶々としながら廊下の水道の蛇口をひねる。手についたメロンパンの砂糖を流していると、不意に教師が後ろを通り抜けていった。運んでいるノートの束に自分のクラスの数字が見え俺は慌てて後を追う。
「先生!」
「……おお、日野どうした?」
「お手伝いさせてください。俺、学校とか先生に迷惑かけてるんで……」
そう申し訳なさそうにすると、中年の教師は怪訝な顔をした。「別にそれが仕事だからなぁ」と腑に落ちない様子だ。しかし「まぁ、せっかくだしな。頼むわ」と俺にノートとプリントの束を渡してきた。
「これどこに運べばいいんですか?」
「別棟の奥の準備室の机に置いといてくれ……あ」
教師はポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。そしてノートの束の上に鍵を置く。
「それ空き教室の鍵だ。昼食う時とか、仕事で中途半端な時間に遅刻してきて暇つぶすときに使っていいから」
「えっ……」
「食堂、ぐちゃぐちゃでこのままだと運営に支障が出る。だからまぁ、弁当食うなり買ってくるなりしてくれってことらしい。まぁこのご時世面と向かっては言えねえから、あくまでお前の過ごしやすいようにってことにしたみたいだけどな」
確かに、俺が食堂に行くことで中はごったがえってしまっている。俺のいる場所だけ。それに食堂を利用している生徒ならまだしも弁当の生徒が半数くらいいて、持ち込みは可能とはいえ俺を野放しにしたら経営にも関わるのだろう。挙句の果てに他の生徒の通行の邪魔をしていたり、周りを汚していたりとかなり好き勝手している。注意はそれとなくしていたけど受け止めている気配はなく、「ちゃんとはっきりものが言える日野くんかっこいい」「珱介に注意してもらえた!」なんてこちらを馬鹿にした反応だった。
「すみません」
「別にお前が謝ることでもねえよ。そもそもあいつらもう高校生なんだから、自己責任だろ」
教師は欠伸をして俺に背を向けた。俺は一応頭を下げてから廊下を歩いていく。この間教室の椅子にかかっていたブレザーにあらかじめ付けておいた盗聴器の音声からは、大体今聞こえてきているものと同じような音が聞こえてくる。結構距離が近いはずだ。このままいけば、瑞香に会える。優しい彼女はきっと俺を手伝うだろう。プリントをばらまいてもいいかもしれない。ほくそ笑みながらどんどん足を速めていく。
学食にはもう行けない。でも空き教室の鍵を手に入れた。これはチャンスかもしれない。俺が学食を使えないのなら、瑞香だって使えなくなればいいのだ。上手くやれば、昼に空き教室で二人きりの時間が手に入る。
今日の家庭科は調理実習だ。そこで瑞香の作ったものを食べて感銘を受けたことにして、弁当作りを頼む……?
ちょうど昨日、瑞香は俺のドラマの話を聞いてきた。仕事が忙しくて自分の弁当を作る暇がないと言える。彼女は料理を作るのが好きだし、負担になることは心苦しいけど手段は選んでいられない。そう考えて、はっとした。
盗撮だ。コンビニも店も何もかも嫌な目に遭って使えないと言えばいい。不愉快だと思うことしかなかったけど恐怖していることにしよう。報酬にお金を渡し続けバイトであり仕事という意識を持たせて、いずれは俺に弁当を作ることを習慣の一つとしてしまおう。
そして負担を与えた分だけ俺が支えればいい。そうすればいつも料理を作ってもらって悪いからと行動に理由付けができる。
どうしてもっと早く思い浮かばなかったんだろう。もっと早くに思いついていればこの一週間無駄にしなくて済んだかもしれない。奥歯を噛み締めた後、慌てて顔の力を抜く。もうすぐ瑞香と会うことになる。まず手始めにプリントをばらまこう。もう一度俺の存在を認識させよう。
下準備はしっかりしないといけないって、瑞香も言っていたのだから。
俺は廊下の曲がり角、逆側から来るであろう彼女を待ちながら逸る心を抑えていたのだった。