さよならごはん
「はぁ、真木くん大丈夫かな……」
家庭科室で芽依菜ちゃんは頭を抱えている。今日は調理実習だ。夏休みが明けてからだから、かなり久しぶり。メニューはスープカレーとオーブンで焼くナンで、先生から説明を聞いて調理器具をそろえ終えた私たちは、小麦粉に少しずつ水を加えナンの生地をこねていた。
「真木くんが燃えちゃったらどうしよう。カレーがぐつぐつ煮える鍋に、真木くんが手を突っ込んじゃったらどうしよう……。そもそも野菜を切ってる時に指を切り落としちゃうかも……」
「芽依菜ちゃん、真木くんの元に行ってきて、私は大丈夫だから」
心配しすぎて虚ろな目になり始めた芽依菜ちゃんの肩にそっと手をのせる。今回も彼女は真木くんの班に行ってもらった方がいい。本当に真木くんならやりかねないのだから。
半年間同じクラスで生活してみて、ただのクラスメイトとして見る真木くんですら驚異的な危なっかしさを持っていると分かった。
しかもその危うさは日々更新している。幼馴染である彼女はもっと危なっかしいところを見ているのだろうから、この心配も納得できる。
あと、心配させながら別の班で調理実習を行うのはあまりに酷だ。芽依菜ちゃんが精神疲労でどうにかなってしまうかもしれない。
「カレーのしつこい油汚れは任せて……!」
私の言葉に芽依菜ちゃんしばらく考え込んだ後、まるで洗剤の広告みたいな言葉を言って真木くんの元へ向かっていった。
戦いに向かうような背中を見送って、ナンを捏ねる。今日のカレーは基本に忠実なもので、バターチキンだとか、ほうれん草とかを足した緑色のカレーではなく普通のシンプルなものだ。
お肉にじゃがいも、にんじん、玉ねぎとカレールーと基本の材料で構成されている。
少し隠し味を足してみたくなってしまうけど、お醤油などは必須の材料に加えられていないということで使えない。
「調理実習、俺ら違う班だね」
ぼそっとした声が聞こえ振り返ると、日野くんが私のすぐ隣に立っていた。
不思議と彼を囲う女の子たちはいない。どうやら備品のボウルを取りに来た帰りらしく、ボウルや木べらを手にどこか恨めし気にこちらを見つめている。
「そうだね……?」
「本当に残念だなあ。俺五十嵐さんの班入っちゃだめ?」
「だ、駄目だよ、そんなことしたら。日野くんと一緒になりたい女の子沢山いるし、パニックになるよ」
「そっかあ、残念」
真木くんはこの間の科学の実験でボヤ騒ぎを起こした。芽衣菜ちゃんと別の班で、先生が目を離した一瞬の隙にだ。
その時は慌てて芽衣菜ちゃんが消火してボヤ騒ぎ程度だったけど、フランベを通り越して小規模火災だった。
だから真木くんの班に芽依菜ちゃんが行くのはクラスの皆も納得するだろう。むしろ推奨するレベルだ。
でも、日野くんが移動するのは違う。
そもそも移動が許されるなら女子の皆は皆日野くんの班に入りたがる。それだけ真木くんと芽依菜ちゃんが例外と言うことだ。
「最近夕食一緒に食べれないし、一緒に食べたかったのにな」
そう囁いて、日野くんは去っていく。
私が彼への気持ちを自覚してから約二週間。私たちはずっと一緒に夕食を食べていない。それどころか休日はお昼もだ。
私は彼に作り置きやお弁当を渡したりして、一緒に食べるということはしなくなった。
ある時は用事があって。ある時は親戚の家に行かなきゃいけなくて。そうやって理由を作って私は日野くんを避けてしまっている。
彼は寂しそうな顔をしているけど、接触を増やして私の気持ちが伝わってしまってはいけない。思いを知られたら最後、私はきっと彼の大きなトラウマになってしまうからだ。
日野くんは、自分のことを恋愛的な意味合いで好きになる女の子は気持ち悪いと言っていた。
春頃業者の人に盗撮をされたり、それ以前に囲まれたり、食事を満足に取れないストレスや、私の知らない嫌なことが沢山あったんだと思う。
そんな彼にいつも食事を作っている私が好意を持っているなんて知られてしまったら、彼から食事を奪うことになってしまう。
私の作った食べ物以外みんな同じ味だと言っていたのだ。私の食事は、かなり信頼してくれている。この恋心の発覚は絶対に阻止しなければいけない。
だから私はこれまで通り、いつも通りに戻れるように、気持ちが落ち着くまでは日野くんと一緒に食べるのではなく、ただ作ることを続けるのだ。
……そしていつか、ちゃんとこの気持ちを無かったことにする。消す。
これが私のこの二週間の中で考え抜いて下した決断だった。日野くんと距離を取って、きちんと落ち着くまで待つ。時間が経てばきっと気持ちは冷めていく。そう信じて。
私は心を落ち着けるように、彼のことをなるべく考えないようにする為、一生懸命ナンの生地を捏ねていた。
「よっと」
カレーを盛りつけた皿、そしてナンを盛った大皿をテーブルの上に乗せる。
せめて何か美味しく工夫出来ないかと思って、じゃがいもと人参はごろごろと大きめに切って、玉ねぎは半分はそのまま櫛切りに、もう半分だけ千切りにしてみた。
玉ねぎを薄く切ることで早く溶け、煮込んだ感じが出るかなと思ってやってみたけど、やっぱり限られたものの中で作るのは難しい。
一方のナンはといえば、ふっくら、外はパリパリに仕上がっていると思う。いつもナンを焼くときはフライパンだったけど、オーブンのほうが気持ちふっくらしている気がする。
今度日野くんに作りたいなぁ、なんて考えてはっとした。
駄目だ。食べ物のことを考えると日野くんのことを思い浮かべてしまう。
頭を横に振って思考を散らす。なるべく考えないように、そうだ。宿泊体験について考えよう。
来週は宿泊体験学習で一泊二日の旅行がある。行先は隣の県の行楽地。温泉卵に、温泉饅頭。お土産……うん。大丈夫、心がお土産や名産品に行きはじめている。
買うお土産は何にしようかと考えていると、楽しそうな声が聞こえてきた。
「そういえばさ、宿泊体験の自由行動ってさぁ、確か近くにあい――……、えっ?」
女の子の声を中断するみたいに、お皿の割れる音が教室に響いた。
どうやら真木くんがお皿を割ってしまったらしい。芽依菜ちゃんと一緒に先生も床に散らばった欠片を一生懸命集めていた。
「びっくりしたー、また真木くんかあ。……それでさ。あそこ、一昨年今のバレー部の主将二人で行ったらしいんだって」
「あ~仲いいって有名な二人だよね! じゃあめっちゃ効果あるってことじゃん。日野くんはどう思う?」
「俺あんまりそういう占いみたいなの信じないんだよね」
「そうなの? でもね、ちょっとホラーっぽいところもあるんだよ。あのね恋人同士以外で行くと無理やり結ばれちゃうんだって」
「へぇ……」
「それでその二人が他の人に目移りしちゃうと、目移りした人じゃなくてされた人がどんどん呪われて殺されるんだって! 怖いよね!」
「ふうん」
日野くんは興味がなさそうだ。彼の班は私のいる班の向かい側だから、その姿がよく見えてしまう。私は俯いて、もう十分綺麗になったテーブルを拭くことを繰り返す。
「それにしても美味しそうに出来たね、日野くん」
「そうだね」
その声を聞いて無意識に視線がそちらに向いてしまった。彼は背を向けているからその表情は見えないけれど、周りの女の子はカレーの入ったお皿を手に嬉しそうに彼へと話しかけている。
――嫌だ。
じくじくと胸が痛みはじめた。日野くんを見ていると胸が苦しくなったり心臓が痛くなるけど、いつもと違って刺されるように痛くて辛い。佐々木さんに合わないと言われた時ともまた違う。頭がもやもやしてきて、見ないほうが絶対にいいのに視線が逸らせない。
「美味しく出来てる! ねえ日野くんも食べてよ!この野菜切ったの私だから」
「味付けしたのは私だから、ね! 日野くん食べて!」
――食べないで。
そんなことは無理だし、何様なんだろうと思う。それなのに、欲張りで汚い思考が止まってくれない。
「美味しい日野くん? どう?」
「もっと食べて」
女の子たちは日野くんにスプーンを差し出し、食べさせているようだった。
彼の返事は食器の音や調理の音に重なって聞こえない。ここからだと、日野くんの背中しか見えない。だから彼が食べてるところを見なくて済む。
前までは、彼の食べている所を見ていることが好きだったのに、今は、彼がこちらに背中を向けていて、良かったとすら思った。
日野くんを元気にしたい。幸せになってもらいたいのに、なんでこんなことを思ってるんだろう。もうやだ。何でこんな性格の悪いこと考えてるんだろう。どうして、こんな。
――気持ち悪い。
日野くんの言葉を思い出して、頭が熱くて痛む。
嫌だ。何でこんなこと考えてるの。何で胸まで痛むの。喜ぶべきなのに。苦しい。本当に嫌だ。辛い。
こんな汚い気持ちが、日野くんを苦しめるような気持ちが、傷つけるような気持ちがどんどん湧いて出て苦しい。私は今すぐ、日野くんを好きなことをやめたいのに。
ぎゅっと、手のひらを握りしめる。食べ物を前にいらないなんて思ったことは一度もなかったのに、私は初めて目の前にあるカレーとナンを見て食べられる気がしなかった。
……誰かにあげよう。
私は漠然とそう思いながら、ただただ目の前のテーブルを眺め俯いていた。
◇
放課後、窓の外で赤く染まる木々と同じ色をした夕焼けを横目に、私は壁にもたれるように自分の席に座っていた。
もう帰りのホームルームは終わっていて、教室には私しかいない。今日はお昼に日野くんに夕食の入ったお弁当を渡したから、まっすぐ家に帰れる。
なのに足が重くて動ける気がせず、ぼんやりと今に至るまで座ってしまっている。五時間目と六時間目の授業の内容の記憶すら朧気だ。
調理実習の後、日野くんと軽いお弁当を食べたはずなのにどんな顔をして食べたかも、どんな話をしたのかも、味もどんな感じだったのかも覚えてない。
どうして、こんなになっちゃったんだろう。
私はどうして日野くんを好きになっちゃったんだろう。彼を苦しめるだけなのに。
初めはただ美味しそうに食べている表情がいいなと思って。ただそれだけだったのに。今では彼の姿を見たり声を聴いても惹かれる自分がいる。
初めは興味なんて全然なかったのに。あの頃に戻りたい。
夕日が刻々と沈んでいくのに帰る気が起きない。でも、そろそろ帰らなくてはいけない。重い手足を動かして机の横にかけていた鞄に手を伸ばすと、教卓側の扉ががらりと開いた。
「めーちゃんのお友達だ」
扉に、真木くんが立っていた。気怠そうな雰囲気で、パーカーの袖をだぼだぼに緩ませている彼は欠伸をすると、教卓の机にゆっくりよじ登るようにして座る。
「めーちゃんの友達が泣いてる……」
「泣いてないよ、ちょっと、自己嫌悪というか反省というか」
「痴情のもつれ……?」
「ううん。違うよ」
私は頭を横に振って否定した。真木くんとは未だに芽依菜ちゃんを介してでしか会話をしたことがない。
なんとなく気不味くて教室を出ようとすると、彼はぽつりと独り言のように呟いた。
「休めば?」
振り返ると彼はじっと私を見ていて、自分に言われたことだと認識した。どう言葉を返していいか分からないでいると、彼は「宿泊体験、休めば?」と続ける。
「……どうして?」
「今のままだと、いなくなっちゃうから。めーちゃんのお友達いなくなったら、めーちゃん寂しくなって、かわいそう」
のんびりとした真木くんの言葉は、よく分からない。
一番初めの彼の呼びかけ方的に芽依菜ちゃんのお友達というのは私のことだ。でも、宿泊体験に行って私がいなくなるってどういうことだろう。
「好きなら好きって言わないと、手遅れになるって言ってるんだよ」
すらすらと流れるような言葉が突然聞こえてきて目を見開く。声の主は真木くんだ。そして今、教卓に座っているのは先程とは打って変わって気怠さなんて何も無い年相応の佇まいの彼だった。
突然豹変した様子に驚く暇もなく、彼は言葉を続ける。
「人間なんて、どんなに取り繕っても矛盾だらけの獣なんだよ。結局その場その日で定義をどんどん変えていく。相手はこうだ、なんて決めてたら痛い目見るよ」
「真木くん……?」
彼はまるでこちらを俯瞰するように見る。本当に、目の前の人は、いつも見ている芽依菜ちゃんの幼馴染なのだろうか……。
「まぁ、本当に駄目になったら、高校の間だけは何とかしてあげる。芽依菜はきっとそれを望むから」
「え……」
「これからも、めーちゃんをよろしくね。あと、今日の俺のこと、あの子に何か言ったら殺すから、それもよろしく……めーちゃんの、おともだち……」
真木くんは最後に冷えきった目で私を見ると、そのまま机の上で膝を抱えるようにして眠り始めた。呆然としているとぱたぱたと足音が響き芽依菜ちゃんがやってくる。
「あっ瑞香ちゃん今帰り……って真木くん!? こんなところで寝てたら風邪引いちゃうよ! ここベッドじゃないから! 真木くん起きて!」
「うう……、めーちゃ……? ベッド硬い……」
「そう! 真木くんが寝てるの教卓だから! ベッドじゃないの! ここ学校! 起きてっ!」
芽依菜ちゃんが一生懸命揺らすと、真木くんは半分溶けかけながら身体を起こしていく。そしてむずがるみたいに呻いてまた眠ろうとした。
「真木くん、起きて」
「めーちゃん声おおきいねぇ」
先程とは異なる彼の様子に戸惑っていると、ポケットに入れていたスマホが振動した。
画面を確認すると日野くんからメッセージが送られてきていてそこには『いがらしさん いえきて どうしよう』とだけ焦ったように平仮名で打たれている。
日野くんに、何かがあったのかもしれない。
私は急いで帰り支度をすると、芽依菜ちゃんと真木くんへの挨拶もそこそこに、急いで教室を後にしたのだった。
◇
日野くんのマンションに滑り込むように駆けていき、インターホンで彼を呼び出す。胸がざわざわして落ち着かない。学校から電車に乗ってここの最寄り駅に辿り着く間、彼にメッセージを送ったけれど、既読は一切つかなかった。
最悪の想像が頭を駆け巡りながら祈るように待っていると、丁度マンションのエントランスホールから日野くんの姿が現れた。
「五十嵐さん、来てくれたんだ」
日野くんは思ったよりも落ち着いていて、私を手招きするように奥へ入るよう促す。言われるままに近寄ると、彼が私の手をがっしりと掴みそのまま引っ張った。
「えっ、ひ、日野くん?」
「ちょっと部屋まで来て。誰に見られるか分かんないから」
彼はそう言って私を連れエレベーターに入ると彼の部屋の階のボタンを押す。私は何が何だか分からず、言われるがまま彼の部屋へと向かったのだった。
◇
おずおずと日野くんの後を追い彼の家へと入っていく。今日は木曜日で、月曜日からずっとお昼を食べるときに夕食を渡していたからここに来るのは約四日ぶりだ。あまり日が経っているわけじゃない。
変わったところも特にないはずなのに、室内は異様な雰囲気に包まれているように感じた。
「実はさっき宅配届けてもらったんだけど、その人女の人で、なんとなく嫌な感じがして……。特に何も無かったんだけど、怖くなって五十嵐さんに連絡送っちゃったんだ」
……宅配。
日野くんは以前、夕食を運ぶ業者に嫌な目に遭わされている。そのことがフラッシュバックしたのかもしれない。弱々しい声色に胸を痛めていると、彼は「今日、忙しい日なんだよね? ごめんね」と頭を下げた。
「ううん。大丈夫だよ」
「でも、今日用事があるって言ってたよね?」
「そうだけど……でもほら、日野くんの安全には変えられないことだし」
本当は用事なんてなかった。今日も一緒に夕飯を食べることを断ってしまったのは、私が彼に合わせる顔が無いからだ。そのことに二重の罪悪感を感じて、私は彼から視線を逸らした。
「じゃあ、申し訳ないんだけど、今日、一緒に夕食食べてくれる? 怖くて食欲なんか無かったんだけど、五十嵐さんがいるなら食べられそうな気がする。今日は夜仕事あるし、ご飯食べておきたいんだ」
「えっと……」
「駄目……?」
日野くんと、一緒にご飯を食べる。せっかく気持ちを落ち着けてきたのにと思う反面、今日彼を怖い目に遭わせてしまったことへの罪悪感が胸の中でざわついた。
もしかしたら、私がいれば何とかできたかもしれない。私が受け取っていれば……なんて思うけれど、一方で私に何ができるのだろうと思う。
でも、怖い目に遭ったとき、一人でいるのは心細い。彼をここに置いていくわけにもいかない。
「いいよ。大丈夫」
これ以上好きにならない。好きなことはやめる。今日はなるべく日野くんのことを見ないように、声を聞かないように、優しさを感じないように食べ物のことを、料理のことだけを考えよう。
私は心細そうな日野くんに頷くと、一生懸命笑みを浮かべたのだった。
◇
今日、日野くんへと渡していた夕食はナポリタンだ。彼からお弁当箱を受け取った私は、ナポリタンを取り出すとそれをスキレットに盛り火にかけた。
もう炒めてあるから、あたらしく油をならす必要はない。具材である玉ねぎ、マッシュルームやピーマン、ソーセージは既に熱が入っている。スキレットが温まってきたのを見計らい、私はボウルに卵を溶きはじめた。
牛乳と粉チーズを少し入れて、チーズの塩分も考え胡椒だけで味を調えていく。
ナポリタンを囲うように卵液を回し入れ、全部混ぜ切らないようそっとかき混ぜると卵液の表面が固まってきた。
火を止めていると、丁度日野くんはお弁当箱に詰めたほうれん草のサラダ、デザートのヨーグルトティラミスを器に盛り付けていた。
「コースター出してるよ」
「ありがとう」
私は日野くんにお礼を言って、サラダ、ティラミスと並ぶテーブルに、出来上がったばかりのナポリタンを並べた。彼は不思議そうにナポリタンを見つめている。
「どうしたの?」
「なんで一人分なのかなと思って」
彼は私を窺うようにじっと見つめる。私はその瞳を見ないようにしながら「私の分は家にあるから」と誤魔化した。本当は一緒に食べてしまったらもっと好きになってしまう気がして、それが怖いだけだ。
「なら」
日野くんはいつも日野くんが座る席の隣に、私が座っている椅子を移動させ始めた。何をしているんだろうと思っていると彼は「ここ座って」と、椅子をぽんと叩く。
「俺も今日、不安で全部食べ切れるか分かんないから、一緒に食べよ?」
「え……」
返事をする前に日野くんは私を座らせると、自分も隣の椅子に座る。そして私を見つめながら手を合わせた。
「ほら、いただきますしよ」
「でも」
「ね? いただきますってしよう?」
言われるがまま手を合わせる。日野くんは嬉しそうに「いただきます」と手を合わせた。
「早速だけど食べていい?」
「うん。どうぞ」
「やった、五十嵐さんありがとう!」
日野くんは手を合わせてフォークを手に取ると、綺麗な所作でナポリタンを卵ごと絡め取り、卵と一緒に口に運んだ。
なるべく表情を見ないように彼の手元に視線を集中させると「んん、卵とろとろ! ナポリタンとめちゃめちゃ合う! 美味しい」と幸せな声が聞こえて心臓がひと際強く脈打った。
駄目だ、声でも心臓が苦しい。
今までは幸せな時間だったけど、今は辛い時間だ。日野くんが美味しそうに食事をしてるのを見ると、嫌でも恋心を自覚させられる。
お昼ご飯の時だって辛くて、だからせめてと夕食は避けていたのに……本当に、辛い。駄目だ、食べ物のことを考えよう。
「サラダ、サラダもすっごくおいしい! 俺この組み合わせ好きだな」
「そのティラミス、ヨーグルト使ってて、あと卵も使ってないからカロリーは低めに出来てるよ」
「そうなの? ありがとう五十嵐さん!」
ヨーグルトティラミスは、チーズの代わりにヨーグルトを使ってる。水切りをした加糖のヨーグルトを、泡立てた生クリームと混ぜて、後は普通のティラミスみたいに、コーヒーをたっぷり染み込ませたビスケットの上に盛り付けて冷やして、食べる時にココアパウダーを満遍なくかけた。
ビスケットは市販のもので、穀物多め、カロリー低めのものにしたけど、ここも手作りすればまた栄養とかカロリーの調整は出来るから、まだまだ色々手が加えられる。それに、日野くんのおやつにもなるし。
そう考えて、自然と次も次もと日野くんに食事を作ろうとしていることに気付いた。本当に駄目だ。今日のカレーの時も彼に他の子が作ったご飯食べないでと思ったり、今だってあたかも食事作りが永遠に続くみたいな考え方だった。
本当によくない。俯きそうになっていると、不意に視界にオレンジと黄色が混ざった。
「はい、五十嵐さんあーん」
日野くんが、フォークで掬ったナポリタンをこちらに差し出している。私はどうしていいか分からず固まってしまった。
しかし「食べて、ほら、落ちちゃうから。服汚しちゃう」という彼の言葉によって急いで口を開ける。
「いいこ」
口の中に酸味のあるナポリタンとふわふわの半熟卵の味わいが広がっていく。戸惑いを感じたまま食べて飲み込むと、また「はい、あーん」と追撃するように口元に運ばれた。
日野くんは私に食べさせ、嬉しそうにしている。そんなに嬉しそうな顔をしないでほしい。そしてまた彼は私と揃えるように自分もナポリタンを口に運び、今度はほうれん草のサラダを私に食べさせた。
「ねえ、五十嵐さん」
サラダを食べていると話しかけられ視線だけを日野くんと合わせる。彼は「今日さあ」とどこか昏い声色で口を開いた。
「何で河内にカレー食べさせたの?」
日野くんの問いかけに、今日の出来事を思い出した。彼は調理実習について言っているのだろう。
私は確かに今日河内くんにカレーを食べてもらった。
ナンは半分食べられたけどどうしても後が食べる気になれなくて、困っていると違う班の河内くんが食べることを申し出てくれたのだ。
そのことを答えようとほうれん草サラダを食べ終え口を開くと、また口の中にナポリタンが放り込まれた。
「河内のこと好きなの?」
返事をしようにもナポリタンが口の中に入っていて答えられない。首を横に振ると日野くんは私を試すように見て眉間に皺を寄せた。
「じゃあもう他の奴に食べさせないで。女子も男子も駄目。余ったら俺が全部食べるから。約束して」
日野くんの言葉に頷く。彼は私の反応を見て「約束ね」と念を押すようにフォークを持っていないほうの手で私の手を握った。彼に手を触れられている。緊張で自然と身体が強張った。
「……そうだ」
奇妙な沈黙を感じていると、日野くんは何かを思い出したように壁にかけているカレンダーに視線を移した。私の手を握っていた手を放し、そっとカレンダーに向けて指を示す。
「明日の、宿泊体験、仕事で俺休むんだ。だから良かったら五十嵐さんも休んで俺の仕事してるところ見に来ない?」
日野くんの仕事を見に行く? 明日お休みして?
突然の彼の提案に、頭が真っ白になった。話せる状態になっても尚言葉が紡げない私に、彼は「冗談だよ」と笑う。
「俺明日休むからさ、宿泊体験の思い出、いっぱい聞かせてね」
日野くんは楽しそうに笑っているのに、どこか瞳の奥は妖しくて虚ろだ。
返事をしようとすると、声が出る前に今度はティラミスを食べさせられてしまう。
彼に食べさせられたティラミスは、昨日味見をしたものよりずっと甘い。それでいて、昨日とはどこか決定的に違うような味がした。




