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恋が潜む食卓  作者: 稲井田そう
抹茶フレンチトースト
13/21

新学期


 窓から蝉の声が鳴り響いてくる廊下を横目に教室へと歩いて行く。校庭では真っ青な空の下、汗を流しながら野球部やサッカー部が朝練に励んでいた。


 夏休みが明け、とうとう新学期の始まりだ。けれど生活の流れに変化はない。休みの間は朝起きて日野くんの家に行って過ごしていたし、夏休み中彼の家にいた時間がまるまる学校になっただけだ。


 今日だって、朝起きて日野くんのお昼ご飯を作って持ってきた。今日彼は仕事がないと言っていたから、放課後家に行って料理を作る。


 あまり変わらない日常だけど、あの水族館でイルカのショーを日野くんと一緒に見る前に起きた出来事は、夏休みから一週間経っても尚、私の頭から離れなかった。


 あれは、紛れもない事故だ。互いの不注意が重なっただけの接触事故。


 なのに日野くんをどう見ればいいのかとか思ったり、意識してしまって最近では上手く話せている気がしない。


 昨日も話の途中でしどろもどろになって、彼に顔を覗き込まれ余計に取り乱してしまった。


 溜息を吐きながら教室に入ると、丁度窓際の座席で私と同じように脱力するどころか、机に頭を完全に伏せている芽依菜ちゃんの姿があった。


「おはよ。芽依菜ちゃん。どうしたの……?」


 私は慌てて彼女の元へ行き声をかける。彼女はゆっくりと顔をあげ、疲れを滲ませた顔で「おはよ」と力なく笑いながら理由を話し始めた。


「昨日……ちゃんとチェックしたのにね、坂道で真木くんの鞄の底が一気に抜けてね、鞄の中身が全部道に散乱して……体操着、泥まみれになったの洗ってたんだけど、鞄完全に駄目で……」


 芽依菜ちゃんの指すほうへ視線を向けると、窓際に真木と書かれた体操着が干されていた。


 夏風を受けはためいているけど、しっかりと窓枠に固定され飛んでしまう心配は必要なさそうだ。


「なるほど……」


「ちゃんとチェックしたつもりだったんだけどなあ……どうしよう今月末宿泊体験もあるのに」


 彼女はそう言って遠い目をした。一方、黒板の近くに座る真木くんは椅子を大きく後ろに引きながら、猫のように伸びをして眠っている。


「じゃあ今日帰り鞄を買いに行くの?」


「え、あ、あー、そうなるのかも……そうなるね」


「芽依菜ちゃん掃除当番だよね? 私が代わりにやっておくよ」


 掃除は三十分程度だし、日野くんの夕食作りに響くことはない。真木くんは芽依菜ちゃんを待つ間にまたトラブルに巻き込まれそうだし代わってあげた方がいい。最悪大怪我の可能性だってある。


「でも……」


 芽依菜ちゃんは私の提案に悩んでいる。「待ってる間とかも色々あったら大変だし」と真木くんのほうを指さすと、彼はこちらを見ていた。


 その瞳はどこかいつもの気怠さが無い。何だろう。違和感を感じていると彼が会釈をした。そして次の瞬間、眠たそうにして欠伸をして机に突っ伏した。芽依菜ちゃんにそれとなく伝えようか迷ったけれど、彼女は真木くんが一瞬しゃきっとしたことに気付いてない。


「うーん……、じゃあ代わってもらってもいいかな……本当にごめんね。今度瑞香ちゃんの掃除当番二回代わるから!」


「いやいや、一回で大丈夫だよ」


 芽依菜ちゃんは決心がついたらしい。私に向かって頭を何度も下げる。そんな彼女を制止しつつもう一度真木くんの方を見ても彼はぐったりと伏せたままだ。


 ……なんだろう。気のせいだろうか。一瞬だけ真木くんが生きてるというか、脱力してない、普通にしっかりとした人みたいに見えた。いや、生きてるけど……


 私はどことなく疑問が拭えない思いを抱きつつも、気のせいかと思い直し芽依菜ちゃんとの会話を続けたのだった。





 地面に落ちた木の葉を箒で攫って集めていく。放課後になり芽依菜ちゃんと掃除を変わった私は中庭で落ち葉掃除をしていた。


 それにしてもこうして緑色の木の葉を集めていると、ほうれん草を木べらで炒めている気分になってちょっとお腹が空いてくる。


 でも、食欲の秋というにはまだ暑い。葉を落とす木々にはもれなく蝉がとまって鳴き声を聞かせているし、上から降り注ぐ日差しも中々に強いもので肌がひりひりする。


 まだまだ残暑が厳しいし今日の夕食はどうしよう。


 日野くんの家は冷房がしっかり効いていてとても涼しく快適だけど、寒暖差で体調不良が起きるかもしれない。


 エネルギーがしっかりとれて、それでいて栄養がある、スタミナがつくような栄養のあるものにしたい……。


 何だろう、冷しゃぶ……とか?


「ねえ」


 ぼんやりと地面の葉っぱを見つめながら献立について考えていると、すぐそばで綺麗なローファーが視界に入った。


 顔を上げると佐々木さんがにっこりと笑って立っていた。確か出席番号順の位置的に、彼女はここの掃除ではないはず。


「佐々木さん?」


「今暇だよね? ちょっといい?」


「あっ待って。今掃除を……」


「いいから」


 何だか只ならぬ雰囲気を感じていると、佐々木さんは私の腕を掴んでぐいぐいと引っ張っていく。


 驚くまま連れられていると、彼女は私を校舎裏の壁に突き飛ばすように押した。


「わっ」


 私はよろめき、持っていた箒は手から滑り落ちた。カラン、と乾いた音が響く。佐々木さんは私が拾う前に箒を力いっぱい踏みつけた。


「お前のせいで、珱介にメッセ無視されるようになったんだけど」


「え……」


 冷たい声色に呆然とする。しかし彼女は私の態度により一層苛立ったらしく、鋭い目でこちらを睨み付けてきた。 


「なんかずっと怒ってるし……ねえ、珱介と一緒に歩いてたよね? 夏休み。商店街のほうでもわざと距離開けてさ。水族館も……あの時本当は一緒に行ってたんじゃないの?」


 商店街のほう。


 間違いない。あの電話の時だ。そこを佐々木さんは見ていたんだ。そして彼女は水族館で私と日野くんが一緒にいるところを見て、今日やってきたんだ。


 ……あれ? でもそうなると話の辻褄が合わない気がする。水族館で一緒にいるのを見られたとき、彼女は疑うというより驚いている感じだった。


 いや、今は考えていないでとにかく否定しないと――。


「ねえ、どういう関係なの?まさか彼女ってことないよね?」


「も、勿論だよ。た、たまたま会っただけで……」


「じゃあどうして五十嵐さんなんかが日野くんと一緒に歩いてるの? 歩く必要はなくない」


「それは日野くんと目的地が――」


「何してるの? 俺が何?」


 突然言葉を投げかけられ、佐々木さんと共に声がかかったほうへ顔を向ける。そこには無表情の日野くんが立っていた。


 彼は溜息を吐きながらこちらに向かってくる。佐々木さんは焦りを隠しながら「何でもないよ?」と首を傾けた。


「ただちょっと五十嵐さんとお話ししてて、ね? そうだよね?」


「う、うん」


 柔らかな声色でこちらを振り返る佐々木さんの目は笑っていない。慌てて合わせると。彼女は何事もなかったかのような笑みで日野くんに近付いて行く。


「それよりどうしたの珱介……」


「……ねえ、珱介と一緒に歩いてたよね? 夏休み。商店街のほうで。それに水族館も……あの時本当は一緒に行ってたんじゃないの?」


 日野くんが佐々木さんの口調を真似た。でもふざけている感じは一切なくて、棒読みで、無理矢理機械の音声を繋げて話をさせたみたいだった。


 彼女がその話をしたのは随分と前だから、日野くんはかなり前から私たちの話を聞いていたということになる。


「……五十嵐さんに、俺と仲良くするなとか、そういう話をしてたんでしょ?」


 不機嫌さを隠さない日野くんの鋭い瞳が佐々木さんを射抜いた。彼がそんな表情になったのを見たのは初めてで、私は息をのんだ。


「ち、違うよ、そんなこと言わないよ。ね、五十嵐さん。私そんなこと言ってないよね?」


「五十嵐さんにこれ以上嘘吐かせるつもり? 俺、言ったよね。水族館での五十嵐さんへの態度、良くないからやめてって」


「でも」


「言ったよね? 地味系で合わないなんて失礼なことを言うの、やめてって言ったよね?」


「で、でもあれは五十嵐さんが……」


「言ったよね?」


 日野くんは「言ったよね?」と壊れた機械みたいに繰り返し、やがて彼女は静かに頷いた。すると日野くんが「あははははは」と、声をあげて笑い出した。


「はははは! 言ったよ。言ったよ俺は。何度も言ったよ!」


 口は綺麗な弧を描いているし、目も細めている。


 でも声だけが氷みたいにしんと冷えていて、いつもの日野くんとは全くの別人の姿に私はただただ戸惑った。


「言ったよね」


 一瞬にして日野くんから表情が消える。佐々木さんは怯え首を何度も横に振って「ごめんなさい……」と繰り返すけれど、彼は「俺に謝られてもねえ」とただ見下ろすばかりだ。


「学校辞めてとかは言わないからさ、これから先絶対に五十嵐さんに何かするのはやめて、教師から頼まれたことでも話しかけないでくれないかな。関わるのも、誰かのこと間接的に使うのも、全部」


「わ、分かった……」


「俺、本当にこういうことされるの嫌いだから、よろしく」


 日野くんはそう言い放った後、ぱっとこちらに振り返った。さっきまでの冷たい表情を一変させ、明るい声色で笑みを浮かべる。


「じゃあ、五十嵐さん。行こう? 五十嵐さん呼んで来いって俺先生に言われててさ。そろそろ行かないと俺怒られちゃうよ」


 彼はまるで、佐々木さんの存在が見えていないみたいだ。私の肩を軽く叩いてくるだけの動作なのに、全身で佐々木さんを拒絶しているのが伝わってきた。


「五十嵐さんほら、先生呼んでるから」


 促されるまま日野くんについて行く。しばらく無言で歩いていると、校舎に入り廊下を曲がったところで彼が立ち止まった。


「ごめんね、五十嵐さん」


「え」


 聞こえてきた声が全くの予想外のもので顔を上げると、日野くんは泣きそうな顔をしていた。


 水族館の時と同じ表情だ。彼は私が悪く言われると泣きそうな、心底辛そうな顔をする。辛そうな瞳に胸がじくじくと痛みだして、無意識のうちに彼の肩に手を伸ばしていた。



「日野くん……」


「ごめん。俺のせいで、五十嵐さんが悪く言われるって、相当堪える……」


「そんな、私は気にしてないよ。全然大丈夫だし」


「俺が、大丈夫じゃない……。五十嵐さんのこと守れないし。頭に血がのぼって、嫌味言ったりとかしたしさ、五十嵐さんまで怖がらせて……ほんと最悪……」


 日野くんは水族館の時と同じように私の肩に顔を埋めた。縋るみたいに背中に手を回されて、恐る恐る彼の背中を撫でる。


「なんか上手くいかないな……。手段なんかどーでもいいと思ってたのに。五十嵐さんが傷つけられると思うと、訳わかんない気持ちになる。自分でも意味わかんないや。なんなんだろ、俺。苦しい」


 彼はそう言って、私の背中に一瞬だけ手を回したあとすぐに身体を離した。髪の隙間から少しだけ見えた彼の瞳は酷く悲しそうで、それはそれは昏い。


「日野く……」


「じゃあ、また家で」


 笑って立ち去る日野くんは、今にも夕焼けに攫われてしまいそうだ。きっと一人にしてはいけないのに、私は足が針で縫われているみたいにその場を動くことができなかった。





「えっと、今日の夕飯は……」


 放課後。いつも通り日野くんの家に向かった私は冷蔵庫の中身を確認していた。


 一方の彼はソファに座り、眼鏡をかけながらノートパソコンを操作している。


 視力に問題はなくブルーライトをカットするものらしい。キーボードを叩きながら一生懸命お仕事をしている。


「う~ん、この取材で、インタビューの締め切りが……?」


 家で私を出迎えた日野くんはいつも通りの彼だった。でも、戻ってるというのが正しいのか分からない。変わってしまったってほうが、正しいような……。


 今日の献立を考えるべく、野菜やお肉を確認していくけど、何となくぼんやりして、思い浮かばない。


 今度は乾物コーナーをチェックしようとするとスマホが振動した。


「あ、五十嵐さん」


「ん?」


 ポケットからスマホを取り出そうとすると、日野くんが私を制止した。言う通りに手を止めると、彼はノートパソコンを操作して何かを確認し画面を見ながら「やっぱり」と呟く。


「俺、明後日あたり午後から夜までぶっ続けで仕事でさ、だから夕食弁当にしてほし……、うん明後日だ。明後日の夕食なんだけどお弁当にしてもらっていいかな?」


 日野くんはノートパソコンを閉じてこちらにやってきた。じゃあ明後日の夜はお弁当だ。スマホを取り出してスケジュールにメモをしてからトークアプリを開くと、何の表示もされていなかった。


 さっき、きちんと震えていたはずなのに。


「あれ……?」


 一応電話はずっと鳴る設定だ。メールはあまりしないし、お母さんやお父さんから連絡が来る時間でもない。


 一回だけ振動したと言うことは間違いなくトークアプリの通知のはずなのにメッセージが入った形跡がまるでなかった。


「どうしたの?」


「うん、何か振動したと思ってたんだけど、表示されてなくて」


 返事をすると日野くんは眉間に皺を寄せ考え込んだ表情に変わった。彼はこちらを不安そうに見つめて私の腕に触れる。


「……いや、振動した音なんて聞こえなかったよ。五十嵐さん、大丈夫……?」


 酷く深刻そうな声色にスマホの振動についての自信が持てなくなった。気のせいだったのかもしれない。彼は私を労わる様子で腕を何度も撫でる。


「ごめんね、俺が散々料理作らせてるから、五十嵐さんを疲れさせて……」


「そ、そんなことないよ。最近テストとかあったし、ちょっと寝不足で……」


「本当に? だって幻聴って疲れで出ることもあるってテレビで言ってる人いたよ?」


「いや、本当に大丈夫だから。何にもないよ」


「……なら、俺この間撮影で行った喫茶店で、疲れが取れるお茶の作り方見て来たから、それ淹れてもいい?」


「え……」


 日野くんは「座ってて」と私をソファに座らせると、颯爽とキッチンへ向かっていく。ぼんやり様子を窺っていると、彼はポットを取り小鍋を出しはじめた。死角になっていて手元は良く見えないけど、なんとなく手際の良さそうな所作だなと思う。


「大丈夫だから座ってて。なんなら寝ててもいいし」

「でも」

「寝てな。ほら、ブランケットもあるから」


 彼がブランケットを出して、私にかける。更にクッションを枕代わりになるよう出してくれて、あれよあれよという間に寝る体勢になってしまった。


「ほら、目つぶって」


 言われるがまま目を閉じると、かぽ、と何か蓋を取るような音がした。たぶん茶葉の音だろう。目を閉じて音に耳を澄ましていると、何かを削る音が響く。


 日野くんが、同じ空間にいる。


 心臓がぎゅってすることは止まないし胸が苦しくならない日はないけど、前みたいな、慣れなさからくる緊張はなくなった気がする。


 心臓はぐちゃぐちゃになるけど。彼といるとほっとするような、落ち着くと感じることが増えた。


 美味しいと何かを食べる姿だけが好きだったけど、ちょっとおどけたように笑ったり、優しい言葉ふとした仕草に、胸が切なくなることが増えた。


 思えば、四月から沢山一緒にいるなあ……。


「出来たよ」


「わ!」


 傍で声をかけられ飛び上がるようにして目を開くと、日野くんがすぐ傍でお盆を持って立っていた。


「どーぞ」


「ありがとう……」


 差し出されるマグカップを手に取ると、中には胡桃色の液体が湯気をのぼらせ波紋を描いていた。甘い匂いの中に、つんとしたような香りがした。


「いい匂い……」


 火傷しないように気を付けながら口に運ぶと、優しい甘みが広がり喉の奥へと流れていった。独特な香りだけど、ミルクが入っているからかきつくもない。舌触りはとろとろしていて、飲みやすくて美味しい。


「……チャイ?」


「そー、リラックス効果と、安眠効果があるんだって。疲労に効果があるように、お砂糖じゃなくて蜂蜜を入れてみましたー」


 そう言ってまるで店員さんのように軽く会釈をしてから私の横に座る日野くんは、私の頬に触れた。幼い子をあやすみたいに親指で頬を撫でられ、私は視線が彷徨ってしまう。


「ちょっとスパイス強すぎた?」


「ううん、そんなことないよ、美味しい……」


「五十嵐さんが手作りでカレー作ってくれたじゃん? この間。バターチキンカレー。あれのスパイスちょっと貰っちゃったんだ」


「そうなんだ……」


 飲んでいるとほっとしたのかどんどん身体の力が抜けて来て、瞼が重たくなってきた。

 冷めてしまっては勿体ないと飲もうとするけれど、腕も酷く重たくて力が入らない。段々と日野くんの声も遠くなってきて、子守唄を歌われるみたいにぼーっとしてきた。


「ああ、眠たくなってきちゃった? 一回お昼寝したほうがきっと疲れもとれるから、寝ちゃった方がいいよ」


 なんとかチャイを飲み切ると、日野くんが私の手からマグカップを取る。お礼を言おうとするけれど、口が上手く開かない。眠くて眠くて仕方ない。呂律が回らない。


「……ひ、の、く……」


「大丈夫だよ五十嵐さん。眠ってていいからね。五十嵐さんが眠っている間に、全部片づけて綺麗にしてるから安心してね?」


 ぽんぽん、と頭を撫でられた後に、額に何か柔らかいものが触れた。それが何だかすごく心地よくて、私はそのまま目を閉じたのだった。





「ん……、ん?」


 瞼の裏が明るい気がしてゆっくりと目を開いていくと、私の部屋にはないルームライトが天井に吊るされていた。


 でも、見覚えがないわけじゃない。チューリップが逆さになったみたいなこの形は、私の知っているものだ。


「あれ」


 手を付ける場所を探しながら身体を起こそうと、お腹にかかっていた柔らかい何か――水色のブランケットがずるりと落ちた。


 どうやら私はソファで眠っていたらしい。こんな色のブランケット持ってたっけ……? と疑問を浮かべつつ拾っていると、「あ、起きた?」と日野くんの声が聞こえてきた。


 顔を向けると、システムキッチンのカウンターに彼が立っていた。そうだ、私チャイを飲んだ後寝てしまっていたんだ。


「おはよ、五十嵐さん。っていってももう夜の十一時だけど」


 日野くんの言葉に時計を慌てて確認すると、確かに午後十一時……それもあと二十分くらいで日付が変わろうとしていた。


 駄目だ。長居しすぎだ。彼に迷惑をかけてしまう。私は慌ててソファから立ち上がった。


「ご、ごめん今から帰るね!」


「だーめ。今日は泊まっていきな? もう夜も遅いし、それに五十嵐さんすごく疲れてるから寝ちゃったんでしょ? 心配だから今日はもう外に出しません」


「でも」


「あ、コンビニでお泊りセット買ってきたよ。合ってるか分かんないから、あっちの部屋で見てきなよ、ね? 要らないのは悪いけど自分で捨てておいてもらってもいい? あっても俺使わないからさ」


 日野くんは私にコンビニ袋を渡し、部屋に出るよう促してきた。言うとおりにしてその場で袋を開くと、タオルの他に、シャツやスウェット、そして、下着などのセットが入っていた。


 それも、S、M、Lとサイズを網羅したようなラインナップだ。捨てるって、こういうことか……。


 とりあえず、中身を確認したことだし日野くんのいるリビングに戻ると、何かが焼ける音と一緒にバターの香りが漂ってきた。彼はフライパンで何かを炒めつつ視線だけをこちらに向ける。


「お腹空いてる?」


「う、うん」


「なら、出来たら一緒に食べよ。その間にスウェットとか洗濯と乾燥させてれば、五十嵐さんがお風呂から出るころに全部綺麗に洗えてるだろうから。悪いけど洗濯機回してもらってもいい?」


「いやこのまま着るよ。もう夜だし」


「防音あるから平気。それに俺が買ったもので、五十嵐さんの皮膚にもしもの事があったら嫌だ。俺の我儘聞いてくれない? 駄目?」


 日野くんの上目遣いに胸がまたぎゅっとする。落ち着かない気持ちになり、私は彷徨わせるように視線を逸らしてから頷いた。


「じゃ、じゃあ洗濯機回してくるね……。日野くんの洗うものとかはある?」


「ううん無いよ。五十嵐さんの分だけ入れて回しちゃって。その方が速いから、ね?」


「わかった」


 脱衣所へ向かい。洗濯機に買ってもらった服を入れて回す。


 洗濯機は最新型だけど、手順は前に日野くんに「好きな時使ってね」と教えてもらい覚えていた。きちんと動き出したのを確認してから、彼は今一体何を作っているのかが気になってきた。


 バターの香り。あと少しだけど野菜の香りがしたかも。あとは炒めてて……。


 クイズのように連想しながらリビングに戻ると、丁度日野くんがダイニングテーブルにお皿を並べ終えた後だった。


 白く半透明のガラステーブルには、オレンジと水色のスープ皿が向かい合わせに並んでいる。その中にはクリーム色をしたシチューが入っていて、人参やコーン、じゃがいもに玉ねぎ、ほうれん草など色とりどりの野菜が顔をのぞかせていた。


「美味しそ……」


「野菜をバターで炒めて、牛乳入れて……あとコンソメで味つけしてみたんだけど……。ごめんね。やっぱ見た目からして下手だよね。作ってる間に五十嵐さんってすごいなあって再認識したよ。いつもありがとう、五十嵐さん」


「い、いや……、私は全然……」


 優しく微笑まれてまた私は日野くんと視線が合わせられなくなってしまった。俯く私に彼は「頑張って作ったから、食べてくれる?」と言って椅子に座るよう促した。


 お互いが座るのを見計らい手を合わせると自然と二人の動作が合った。


 彼は嬉しそうに笑っていて、顔に熱が集中するのを誤魔化すように私はスプーンを手に取る。


 シチューを口に運ぶと、野菜は炒めたことで香ばしくもあり、柔らかくて食べやすい。塩味も丁度良く一口食べただけで労わってくれているという気持ちが伝わってくる味だ。美味しくて何度も何度も口に運んでしまう。


「美味しい。優しくて、日野くんみたい」

「俺みたい?」

「うん。すごく落ち着く」


 思わず笑みが溢れると、日野くんは驚いたように目を見開いた。何か良くないことを言ってしまったのか不安になって、私は食べる手を止める。


「ど、どうしたの?」


「……今俺の作ったものが、五十嵐さんの身体の中に入って、五十嵐さんが笑ってる光景、目に焼き付けておこうと思って」


「え」


「五十嵐さんを構成してるものに関わってるって、感慨深い。いっつも俺は五十嵐さんに作ってもらってるから」


 私の作ったもので、日野くんが構成されている……?


 そう考えるだけでなんだか胸がじんわり温まるような嬉しい気持ちになった。彼の役に立てて、嬉しい。もっと役に立ちたい。


「俺、五十嵐さんの料理ずっと食べたいから作るの上手くならなくていいと思ってたけど、こんなに美味しそうに食べてもらえるなら料理の勉強しようかな」


 その言葉は駄目だ。本当にもう勘違いしそうになる。せっかくの日野くんの作ったシチューだ。きちんと味わって食べたいのに。


 私は心を落ち着けてから、日野くんと一緒に美味しくてぽかぽかするシチューにスプーンを向けたのだった。





「そういえばクラスのグループメッセージ見た?」


 食事を終えソファに座ってぼんやりしていると日野くんが隣に座った。スマホは彼がテーブルに置いてくれていたみたいだけど、特に触ることなくそのままだ。


「見てないよ。どうしたの?」


「なんかねえ、佐々木さん学校停学になるかもなんだって」


「え」


 日野くんの言葉に頭が真っ白になった。佐々木さんが停学……? そんな重い処分、よっぽどのことがない限りされないはずだ。梅雨前にバスケ部が部活動停止になったのも、部活が止められただけでお酒を飲んだとされている生徒たちは何日か休んだ後普通に登校していたみたいだし。


「結構前からずっと万引きしてたんだって。他の学年のメッセのグループに投稿されてて、結構噂にはなってたみたいだよ」


「他の学年……?」


「うん。バイトとかしてないのにお金回りが良すぎて、同じ中学の人とか家は普通なのに、どうしてだろうって思ってたんだって。それで他の部活……バスケ部だっけ? の先輩がふざけて追ってたら、万引きしてる動画撮れたらしくて……知らなかった?」


「……うん。私あんまり話したことないし、それに他の学年に知り合いもいないから……」


「良かったんじゃない? 万引きとかして自分と無関係の人間のこと合わないって評価する奴なんか、五十嵐さんとは絶対合わないし釣り合わないよ。良かったね。変なのが学校から消えてくれて」


 そういう日野くんは、特に佐々木さんに対しての興味が無さそうな話し方をする。


 好意どころか嫌悪すら存在していないみたいだ。私は今聞いた話が突然すぎてついていけていないでいると、彼は何か思い出したように「あ」と声を明るくした。


「で、今日の話だけど、和室と洋室二つ空き部屋あるから、好きなほう使っていいんだけど……どっちがいい? 普段五十嵐さんベッド派だけどふとんにしてみる?」


「え、えっと……」


「決まったら教えて。あ、洋室のほうは買って使ってない折り畳み式のベッドがあるからね。あと、父親も母親もここには帰ってこないから、気を遣わなくていいよ」


「わ、分かった……」


 頷いてからはっとした。日野くんから家族の話題が出たのは、今が初めてだ。それと同時に今まで全く彼が家族について何も話さないことに疑問を抱いてこなかったことに気付いた。


 部屋を見回すと周りは綺麗に整頓されている。いつも通りの彼の家のリビングだ。でも相変わらず生活感は感じられない。


 それは綺麗だから高級だからと思っていたけど、もっと根本的に人が生活している感じが全く感じられないのだ。


 台所やリビングは私も出入りしているから何となく感じるけど……。お父さんやお母さんがいる……日野くんが誰かと住んでいるという気配が、全くしない。


 どうして今まで気付かなかったんだろう……。


 日野くんの両親は、今どうしてるの?


 ふつふつと緩やかに沸騰していくみたいに日野くんへの疑問が浮かんでいく。聞いてしまいたいけれど、事情もあるかもしれない。


 第一、彼は一切家族について話をしなかった。今までで一度もだ。


 彼が両親を父親、母親と呼ぶこと自体今初めて分かった。ということは、話をしたくないからと考えたほうがいいはず。


 ……それに私は、ただのクラスメイト。友達か友達じゃないかでいったら、友達ですらない。


「ああ、仲悪いとか家族関係複雑系じゃなくて、俺の小さい頃に死んでるだけだから、心配しないで」


 さっき、佐々木さんの停学を伝えた時と同じように抑揚のない声で日野くんは付け足してきた。けれどあまりに壮絶な内容を困ったように笑って話す彼に私は愕然とした。


「そんな……」


「泣きそうな顔しないでよ。俺の首も据わって無い頃で顔も分からないし、親が死んだってのが当然だったから別に悲しいとかもないから。それに俺、親っていう存在自体好きじゃないし。寂しいとかないよ?」


 けらけらと、笑い話のように話す彼の言葉に、次の言葉が紡げない。


「次の義理の父親と母親っていうか、母親がどうしようもない感じでさあ。俺血が繋がってないって言っても息子なのに、好きだーとかやってくんの。結局病気ですぐ死んだんだけどそれで義理の父親もしんどかったみたいで、俺に慰謝料渡して家渡して自分は地方の山籠ってるんだよね。だから今が一番気楽だよ。とっても元気」


「日野くん……」


「だからかな、普通人に好きって言って貰えると嬉しいんだと思うけど、キモいなーって思っちゃうんだよね、俺。好きな子相手なら別だけど佐々木さんとか普通に無理。俺のこと好きっていう女の子って皆俺と話す相手攻撃したり盗み撮りとかするじゃん? 最近は女子と話すのもきつくてさー、仕事ならいいんだけど。だから五十嵐さんだけが俺の――……、五十嵐さん?」


 日野くんに呼びかけられてはっとした。冷え切った身体を擦るように腕を掴んでから、私は無理矢理笑みを浮かべた。


「ごめん日野くん、わ、私お手洗い行ってきてもいいかな?」


「う、うん」


 声が震えないよう、気付かれないようすぐにリビングを後にする。そうして扉を閉じた時、瞳からぽたりと涙が伝った。


 日野くんは傷ついている。お母さんとお父さんは死んじゃって、義理の両親に酷い目に合わされて。そうして一人で頑張って生きてきたんだ。だから辛いのは彼だ。


 ――普通人に好きって言ってもらえると嬉しいんだと思うけど、キモいなーって思っちゃうんだよね。


 なのに、笑いながら話をしていた日野くんの言葉が頭から離れない。ずきずきと胸が張り裂けそうに痛くて、今まで見ないふりをしていた自分の気持ちがはっきりと分かった。


 美味しいという声を聞いて、笑う顔を見て幸せを感じる。触れられて落ち着かなくなる。見つめられると心臓が激しく鼓動する。それは、全部――……私が日野くんのことを、好きなせいだ。

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