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恋が潜む食卓  作者: 稲井田そう
春野菜プレートとチョコチップマフィン
1/21

星のような彼

「なーにしよっかなあー」


 学校帰りスピーカーから流れる軽快なメロディに耳を澄ませながら歩きなれた商店街を進んでいくと、お肉屋さんから漂う揚げたてのコロッケが、漬物屋さんからは少しつんとした糠が香る。


 出来立ての食べ物の匂いを嗅ぐたび商店街に来たという実感が湧いた。並んでいる商品に足を止めたり、また目的を思い出して進むことを繰り返していくと、通りの隙間から桃色の花びらが流れてくる。


 商店街の裏手にある桜並木の花びらが風にのって飛んできたらしい。


 手のひらを広げてみると、爽やかな風を含むように舞った桜は手のひらにすとんと収まる。周りでは商品に花弁が落ちたりしないよう慌てて庇ったりシートを被せなおしていた。


 商店街の人たちは桜に、「こんなところまで飛んでくるなんて」と呆れながらも、どこか見惚れるようにしている。そんな人々を通り過ぎていくと目指していた八百屋さんに辿り着いた。通りに沿うようにカラフルな野菜たちが丸い網籠に乗せられていて、瑞々しく鎮座している。


 春だ。春がある。


 春は出会い、別れの季節と言うけれど、私にとってはアスパラ、かぶ、たけのこ、しらす、キャベツの季節だ。


 特に春キャベツは、いつもの季節より甘さも瑞々しさも格段に違う。千切りにしたものを塩で揉みこんだだけでも美味しいし、ごま油を加えて風味を変えたり、ラー油をかけて辛みのアクセントをつけたり、他の季節でも美味しい味付けが春キャベツというだけで格段に美味しくなる。


 本当に、いい季節だと思う。大好き。


 というわけで、私、五十嵐瑞香いがらしみずかの春は、出会いや別れより旬の食べ物。典型的な花より団子派。さらには団子の中では草の香りがたっぷりとするよもぎと、とろっとした蜜がかけられたみたらし団子、どっちも美味しい派の高校一年生だ。


 今日も美味しいもの作って食べるべく、新鮮な野菜たちを前に品定めをしていると、八百屋の中から温和な笑みを浮かべたおじさんが編籠と電卓を片手に出てきた。


「おじさんこんにちは」

「瑞香ちゃん、いらっしゃい。今日はかぶが採れたてで安いよ!」


 小さいころはお母さんとこの商店街に来ていた。この八百屋さんには毎回訪れていたから店の主人であるおじさんとは知り合いだ。それにおじさんの娘さんは私とは三つ違いでよく一緒に遊んでいた。


 おじさんの言葉を聞き、かぶに目を向ける。葉は青々としていて根はつやがある。見るからに美味しそうだ。「じゃあ、かぶと……」と他の野菜も見ていくと、おじさんは「そうだ!」と思い出したように手を合わせる。


「あの天高あまこうに入学したんだって! すごいねえ!」

「へへ、ありがとうございます! やっと受験終わってせいせいですよー!」


 天高とは、県立天津ヶ丘高校(あまつがおかこうこう)。この春私が入学した高校のことだ。


 自由な校風と新しく改築された新校舎を大々的に謳う有名な学校で、図書館は国立のものと匹敵するらしい。それに普通の学校にある施設だけじゃなく、様々な設備が備わっている。天体観測ができる部屋や、大きなシアタールーム。屋内陸上競技場なんかもある。


 けれど、私はちっとも興味が無い。


 私が天高を受験したのは親や先生の勧めによるものだ。私は美味しいものを作って食べることが出来ればいい。だから高校受験をするにあたり、志望校がなくて、調理系のところがあるなら行きたかったけれど通学に何時間もかかるような……つまり県外だった。


 私は美味しいものを作って食べたいだけだから、調理師になりたいわけでもなくて、担任の先生に勧められるがまま、流されるまま、天高を受験することになった。いわば流された結果だ。


 でもこの高校に受かってよかったと私は心の底から思っている。何故なら受験が終わってくれたからだ。本当にどこでもよかったけど、受かってよかった。そう思うほど、本当に、心の底から、私は受験がきつかった。


 天高の偏差値は新設校とあって本当に平均値を出されていた。死ぬ気で受験勉強をしなければいけないという状況……でもなかったけど、気を抜けば落ちてしまう。偏差値を落としてゆとりある学校を受験すれば、私の性格上、気を抜いて料理を作って食べてしまう。結局どこの高校を受験するとしても私は受験勉強を頑張る必要があった。


 だから受験に臨むにあたり家にある料理本はつい読んでしまうからと金庫に入れて封印した。夕食作りを買って出たり、おやつを作ったり、料理動画を見る生活から料理を抜いて、勉強に切り替えたのである。


 端的に言って心が壊れそうだった。


 自分で決めてやったことだけど、食への関心一直線で生きていた私にとって、長く、苦しい日々だった。


 だから結局辛すぎて図書館に通いつめ、勉強の合間に料理本のコーナーを端から読む!なんて本末転倒なことを繰り返したりもしたけれど、それくらいきつかった。


 でも合格し見事入学を果たした今、受験勉強ともお別れだ。これからは料理を存分に楽しむことが出来る!


 あと二年くらいすれば今度は大学受験だけど、とりあえずこの一年は好きなものを作って食べることが出来る。夕飯を自由に決めることが出来る。


 八百屋さんに並ぶ野菜はどれも瑞々しく新鮮で、もうこのまま食べても絶対美味しいけど春野菜の天ぷら盛り合わせも美味しそうだ。


  サクサクふわふわの衣を纏った野菜に塩をかけて食べるもよし、出汁をとって醤油、砂糖を加え煮立たせたつゆをかけて天丼も捨てがたい! となると副菜は甘酸っぱいマリネ?煮びたし……煮びたしはかぶで……。でも一人で天ぷらするのもなあ……。


 ……いいや。とりあえず買って冷蔵庫と相談しよう!


「すみません、これとこれでお願いします!」


 八百屋さんに並ぶ青々しいキャベツを半玉、かぶ、玉ねぎを手に取り、店主のおじさんに渡してお会計をしてもらう。


「ははは! 瑞香ちゃん結構悩んでたねえ!」

「自分で献立決めるのは嬉しいんですけど、一人で使い切らなきゃって考えると、また難しくて……」

「ああ春から一人で暮らしだもんね! よし! アスパラとジャガイモ! おまけしてあげるよ!」

「わあぁ! ありがとうございます! サラダと炒め物にしますね」


 そう、私が現在買い物をしているのはお母さんやお父さんのお使いではない。正真正銘、夕食の買い出しなのだ。


 現在、両親共々海外に出張中で、家には私一人。初めは私を連れて行く予定だったみたいだけど、出張が決まったのが私が高校に入学する直前。私が地獄のような思いで勉強して受かった高校を簡単に蹴らせるわけにはいかないと、私は日本に、そして我が家に残ることになって、丁度高校の入学式の一週間前に両親は日本を発った。


 二人が出発する当日は水道局の人が点検に来たことでばたばたして大変だったけど、何とかお見送りは出来た。


 ということで私は今、三食の食事……朝ごはんと、学校でのお弁当、夕ごはんの全ての調理を担当している。毎日好きなものを作って食べられる。こんなに幸せなことは無い。


 ああ! じゃがいももアスパラもすごくおいしそう。早く帰って食べたい……!


「瑞香ちゃんだあ!」


 まだ少し泥のついたじゃがいもを蒸して皮を剝き、マヨネーズと和え具材を加えポテトサラダにする算段を立てていると八百屋のおじさんの娘さん--さらさらとポニーテールを揺らした美耶みやちゃんが走って来た。


「わ、美耶ちゃん久しぶり、会えてうれしいよ」


 美耶ちゃんは今年中学生で、買い物に来て顔を会わせる度にお話をする。ハイタッチをしていると、彼女は不意に私が下げていたビニール袋に視線を向けた。


「あっまたレシピ本買ったの? 瑞香ちゃんはお料理好きだねえ」

「うん、でも今回は雑誌だよ、ほら」


 そう言って袋の中身を取り出し美耶ちゃんに見せる。今回はファッション誌に料理特集の小冊子が付録としてついてくるタイプだ。


「あー! いいな! この雑誌買えたの? 私買えなかったんだ!」

「この雑誌、そんなに売り切れるような雑誌だっけ?」

珱介ようすけが表紙だからだよ! ほら」


 美耶ちゃんが雑誌の表紙を指差すと、その顔を見た八百屋のおじさんは首を傾げる。


「この兄ちゃん、どっかで見たことある顔だなあ」

「当たり前だよ! 私の部屋にポスター貼ってあるでしょ! っていうか珱介天高生(あまこうせい)だよね? いいなあ瑞香ちゃん! 羨ましい!」

「そうかなぁ」


 雑誌の表紙を飾り美耶ちゃんの言う、「珱介」は、本名、日野珱介くん。私のクラスメイトだ。


 モデルをやってるとは聞いたことあるけど、いつも女子に囲まれてる人以外のイメージがない。どんな顔かはクラスメイトだから分かるけど完全に付録に目がいって、表紙なんて一切気にしてなかった。


「なら、これあげるよ。ただ付録のところだけ切り取ってもいい?」

「うっそいいの!? やったあ!」

「本当にいいの? 瑞香ちゃん」


 雑誌の付録を切り取っていると八百屋のおじさんが心配そうな目を向けた。


「はい! 私はレシピだけ手に入ればいいので」

「そっか、ありがとね」

「ありがとう瑞香ちゃん!」

「ううん気にしないで。……それにこちらこそ、じゃがいもとアスパラ、ありがとうございます!」


 私は美耶ちゃんに雑誌を渡し八百屋を後にする。袋の中には新鮮なアスパラやジャガイモがぎっしりと入っていて、私は浮き立つ気持ちで帰路を急いだのだった。


 ◆


 作り終えた料理を一つ一つテーブルに並べていく。家に帰った私は早速夕食に取りかかった。完成した今夜の献立は、鶏むね肉とアスパラのマスタード炒め、洋風肉じゃが、かぶの煮びたし、かき卵のお味噌汁だ。


 和食で揃えたメニューに欠かせないのはふっくら炊いたご飯。丁度明日の朝ごはんとお弁当で無くなるから、明日の夜は炊き込みご飯もいいかもしれない。


 ……いや、考えている場合じゃない。せっかくの料理が冷めてしまう。私は着ていたエプロンを脱ぎ、席について手を合わせた。


「いただきます」


 何から食べよう。メインから食べちゃおうかな。


 箸を取り、まずは鶏むね肉とアスパラを一口食べる。アスパラの歯ごたえと共に、鶏むね肉の香ばしい肉汁が溢れてきた。噛み締めるたびにマスタードの風味が効いて箸が進む。


 洋風肉じゃがは、肉のかわりにベーコン、出汁はコンソメを使った。具材はきつね色に染まったほくほくのじゃがいも、彩りが綺麗で甘い人参、あめ色の玉ねぎだ。これは多めに作ってあるから二日目に食べるも良し、チーズを混ぜてコロッケにしてもいい。


 かぶの煮びたしはとろけるように透け、箸を入れると出汁が広がる。味噌汁をすすると鰹と昆布が香った。


 今日も上手く出来た。良かった!


 満足気に作った料理を見渡してから、ふと視線を上げる。先月まで普段埋まっていた席は、今は空席だ。


「お母さんとお父さんは、今頃朝ご飯かなあ……」


 もう、二週間が経っているというのにまだ慣れない。


 統一されたランチョンマットにはお皿も料理ものってない。じっと見ているときゅっと胸が切なくなった。


 いつもならお母さんとお父さんの、「美味しいね」って笑顔を見ることが出来るのに。


 このマスタード炒めも、煮びたしも、二人に食べさせてあげたいなあ……。


「あとやっぱり揚げ物もしたい。鱈のフライとか食べたい……」


 寂しい気持ちを、食欲に変換していく。


 お母さんとお父さんのことを考えてるとやっぱり寂しくなってしまう。だから、食べ物のことを考える。


「いや揚げないで作れるな、鱈フライ……」


 思考がどんどん鱈フライに流れてはっとする。目の前のご飯を! あったかいうちに頂かないと!


 私はいつの間にか置いてしまっていた箸をとり、目の前にあるご飯が冷めないよう夕食を再開したのだった。


◆◆◆


「瑞香ちゃん、学食行こう!」

「うん」


 八百屋さんに行った翌日。お昼休憩の時間に自分の席で鞄からお弁当を取り出していると、同じクラスの芽依菜めいなちゃんがやってきて、私はお弁当を持って彼女と一緒に廊下へ出た。


「今日は窓際座れるといいね! 天気もいいし!」


 そう言って歩く芽依菜ちゃんに、私は頷く。二つに束ねた黒髪がしっかり者な印象を受ける彼女とは、入学者説明会をきっかけに友達になった。


 高校に入って友達が出来るか不安だったけど出席番号順の座席も隣同士だし実験の班も一緒だからとても心強い。


 芽依菜ちゃんは学食派だから、持ち込みが出来ることもあって、私たちはこの一週間食堂でお昼を食べていた。


「そういえば、駅前に新しく出来たショッピングモール、海外の調理器具の専門店?入るってテレビでやってたよ」

「え? そうなの?」


 海外の調理器具……。すごく興味がある。今度行きたい!


「テレビ見てて、瑞香ちゃんに教えないとって思ってたんだ。料理好きだって言ってたよね?」

「うん! ありがとう、芽依菜ちゃん!」

「どういたしまして。えっとね、限定のスキレット? 小さいフライパンが、オープン記念で売られるらしいんだけど……、あれって何に使うの?」

「あれはね、焼いた後そのまま器として使えるんだよ」

「そうなんだ! お店で出てくるやつみたいだね!」


 話をしている間に食堂に到着した。扉の前では食券の機械が並び生徒たちが列を成している。今日の日替わりランチのメニューは中華料理らしい。春巻きが美味しそうだなぁと目移りしながら中に入ると芽依菜ちゃんは足を止めた。


「何だろあの人だかり、また日野くんかな」


 彼女は近くの人の山を見て首を傾げる。視線を向けると、人の山はほぼ全員が女子生徒だった。誰かの周りをバリケードみたいに囲むようにして集まっている。その中央には日野くんが座っていた。


「珱介くんさぁ、今日調理実習で作ったマフィン受け取ってくれる?」

「えっずるい! 私もあげる! いーい?」

「駄目だよ。事務所で手作りとか、そもそも学校で貰い物はするなって言われてるから、ごめんね」


 四方八方からマフィンを出されながら菓子パンを食べる日野くん。まるで命令されているから食べてるみたいな、機械的な目つきだ。全然楽しくなさそうだし、美味しくもなさそう。食べること自体好きじゃないのかもしれない。


 ……なんか、不味そうに食べる人だなあ。


 でもまあ、あれだけ囲まれて食べてたら食べるのもしんどそうだ。誰だって、あの状況なら味わえない。美耶ちゃんは彼が出ていた雑誌を買えなかったって言ってたし、それだけ人気がある人なんだろう。


 ぼーっと日野くんを見ていると、彼がこちらを向いた。すると後ろの女子が、きゃっと浮き立つような声をあげる。


「ヤバい! 目あっちゃった!」

「まだこっち見てるよ!」


 思い返してみれば、朝も授業の合間の休み時間も人に囲まれている姿を見たし、トイレへ行くのすら大変そうだった。


 本当に、すごい人気だなあ。人気がある分美味しいものを食べる機会がありそうなのは羨ましいけど何だかとっても大変そうだ。


「行こう、あっちなら空いてそうだよ」


 芽依菜ちゃんは閑散としたテラス席を指で示す。私は日野くんたちのいる方から背を向けて、彼女の後についていく。


 今日のお弁当は、昨日のマスタード炒めと、かぶの煮びたし、桜海老を入れた卵焼きだ。ご飯は残り少なくていつもよりちょっと少ないし、いつもよりおかずも一品少ないけど、今日は午後から調理実習があるから丁度いい。


 早く食べたいなぁとわくわくしながら私は芽依菜ちゃんの後を追ったのだった。



 お昼を終えた私は芽依菜ちゃんと別れ、お手洗いに行こうと廊下を歩いていた。


 この昼休みが終わったら調理実習が始まる。課題はマフィンだ。


 午前ならまだしも、午後に調理実習があるクラスは食事系のものはきつい。かといって全クラス共通の課題じゃないと平等じゃない。だから実習は基本的にお菓子や軽食の課題になるらしい。私としては調理実習というだけで嬉しいけど、甘いものが苦手な人は大変だなと思う。


 それにしても調理実習楽しみだなあ。


 浮き立つ気持ちで曲がり角を曲がると、はらはらと、まるで昨日の桜のようにプリントが地面へと滑り落ちていく光景が広がった。昨日と違っていたのは、そこに人がいること。


 漠然と、驚いた表情をする男子生徒……日野くんが床に目を向け立っている。どうやら今彼が手に持っているクリアファイルの中身を滑り落としてしまったらしい。


「あっ」


 彼は私を見てはっとすると、慌てて散らばったプリントを拾い集め始めた。私も慌てて散乱した紙をかき集め始める。


 昨日話題にのぼっていた人が目の前にいる。


 なんとなく不思議な気持ちだ。私は日野くんと話をしたことがない。彼は気取ることも線を引くこともなく、誰とでも気さくに話す。


 ただ周囲にはいつも女子が集っていてその誰もがお洒落で可愛い。他のクラスの男子は彼を取り巻く状況について、大奥かよ、と古文で取り上げられた言葉になぞらえていた。声色には妬みも混じっていて、大変だなと思ったことは記憶に新しい。


「俺、ぼーっとしてて、ごめん……!」

「ううん、気にしないで」


 日野くんを見る生徒は三種類に分けられるだろう。お近づきになりたい人、羨ましがる人、そして私のように関わろうと思わない人、だ。


 彼の顔はどのパーツも均整が取れているらしい。すらりとしたいで立ちや、少し大人びた雰囲気が「いい」と聞いたけど、特に近づきたいと思わない。


 これで彼が料理番組に沢山出ていて料理の腕がプロ級であったなら、羨望の眼差しで私は見ていたと思う。勇気を振り絞り「あの味付けどうやってるか教えてください!」と聞いていただろう。


 つまるところ私は彼を見るたびに、ときめきを覚えるのではなく、自分は料理にしか興味が持てない人間なのだろうかと考えてしまうのであった。


「ありがとう五十嵐さん。助かったよ。これ先生に回収頼まれた大事なプリントで…………」


 今日もそれは同じだ。至近距離にいる日野くんについて感動を覚えない。


 見つめられて落ちない人間はいないなんて前に美耶ちゃんは言っていたけど、そこまで来たらホラーな気がする。そんなことを考えていると、同じものを拾い上げようとしたのか、彼の手と私の手がぶつかった。


 彼はプリントごと私の手を握っている。


「えっと……」


 一向に手を離す気配がなく顔を上げると、日野くんの淡い枯茶色の髪から深い黒色の瞳が揺らめくように覗いていた。


 その目が何故かじわじわこちらに迫ってくる気がして、私は視線を逸らせなかった。やがて彼は冷えたような、白けたような目をして立ち上がり柔らかく微笑む。


「プリント、拾ってくれてありがとうね。ごめんね五十嵐さんの貴重な時間潰しちゃって」

「ううん……あれ、それって……」


 散らばったプリントを手渡すと、日野くんが分厚いプリントの束の他に今日回収されたノートを持っているのが視界に入った。


 どうして誰かに手伝ってもらわないんだろう。日野君が行動を起こすたび、周りの女の子は彼の為に動くのに。廊下を見ても、私と彼以外いない。


「ノート運ぶの、手伝おうか……?」


 あまり積極的に関わりたいとは思わないけど、どう見ても一人で運ぶ量ではない。恐る恐る問いかけると、彼は「いいの?」と気遣う目で私を見た。


「うん。大変そうだし、私で良ければ」

「ありがとう、五十嵐さん。じゃあ職員室まで手伝ってもらっていいかな」


 頷きながら日野くんからプリントを受け取り、職員室へ向かって歩き出す。彼は「五十嵐さんが手伝ってくれて助かったよ」と私の隣を歩く。漠然とした違和感を覚えてその正体に気付いた。


 どうして、彼は私の名前を知っているんだろう。


 教室で自己紹介は行われなかった。中学の頃は新しいクラスになるたびに黒板の前に立ったりして、皆の前で名前や趣味を話した。高校でそういうのはなくて、私はクラスの中では有名人の日野くん、友達の芽依菜ちゃん、彼女の幼馴染しか知らないくらいだ。


 戸惑っていると、日野くんは「五十嵐さんだよね?」と私に問いかけてきた。


「うん。五十嵐、だよ」

「良かった。一瞬間違えちゃったのかと思った」


 日野くんはそう言って安心したように笑った。もしかして彼はクラス全員の名前を暗記しているのかもしれない。


「あのさ、もしかしてクラス全員の名前、覚えてるの?」

「ううん。まだ半分も憶えられてないよ。五十嵐さんはどう?」

「私は、一緒に話す友達くらいかな……」

「園村さんだっけ?」


 日野くんは半分と言っていたけれどすらすら名前が出ている気がする。


 確か昨日、美耶ちゃんが彼に関してモデルをしつつ役者さんとしての活動も始めて、早速秋にはドラマをする、なんて話していたような。


 確か学校が舞台で彼は先輩に恋する後輩の役と聞いた。初のキスシーンがあるらしい。嫉妬するとも美弥ちゃんは言っていた。


 テレビのうっすらとした知識しかないけど、台本とかを憶えなきゃいけないだろうし、きっとそういうので名前を覚えるのも早いんだろうな。


「うん。日野くん記憶力がいいんだね」

「そんなことないよ、俺忘れっぽいし、人の名前覚えるの結構苦手で」


 彼は謙遜しているけど、結構目立っている芽依菜ちゃんと違って私の名前を憶えているし記憶力はいいほうだと思う。


 でもそう言っても、また彼は謙遜するだろう。職員室まではまだ距離がある。変に気不味くなりたくない。何か話題がないか考えて、ドラマの話をすればいいと思い直した。


「ドラマ、秋から放送するって聞いたよ、すごいね」

「えっ……五十嵐さん、興味があるの?」

「あ、えーっと、友達が日野くんのこと応援しててね、主演ってすごいね」


 日野くんは私の言葉に「そっか」と視線を落とした。さっき、私がドラマと言ったときは少し圧らしきものを感じたけど、どことなく波が引いていくような気がする。


「あげてたもんね」


 ぼそりと彼が呟いた言葉に足が止まった。彼は私の先を二歩ほど進むと、「どうしたの?」と心配そうに振り返る。私は慌てて「何でもない」と歩みを再開した。


 さっきの日野くんの声、機械みたいに抑揚がなくて、感情が削ぎ落とされたみたいだった。


 というか、あげてたもんねって、どういう意味だろう。思い当たることが全然ない。


「五十嵐さんと会えてよかった。きっと五十嵐さんがいなかったら運びきれてなかったよ。ありがとう」

「えっ……あ、あー、気にしないで」


 いつの間にか職員室に辿り着いていたらしい。私の持っていたプリントたちは日野くんが抱えていて、彼は「ここでいいよ」と笑う。


「五十嵐さん。今日はありがとう」

「どういたしまして。えっと……じゃあね、日野くん」

「うん。またね」


 日野くんの声色にひやりとしたものを感じて、顔を上げる。でも彼は先ほどと同じく穏やかに微笑んでいる。全く憂いや暗さは感じられない。


 私はどことなく違和感を抱えたまま、日野くんの元を後にしたのだった。


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