3話【紅葉さんのお弁当】
「ねぇ、ママが作ったら?」
「朝から何の話?」
「お弁当よ」
「いいのよ、紅葉さんが作れば」
ママは自分の母親を紅葉さんと呼ぶ。
だからアタシもお婆ちゃんと呼んだことがない。
「楓、パパを起こして」
「はーい」
居間から階段に行きかけたときパパが下りてきた。
「おう、楓どうした?」
「パパ、掟は破れないわけ?」
「おいおい、恐ろしい提案するなよ」
婿養子のパパにはキツイ相談かもしれない。我が家には幾つかの掟が存在する。
その一つが、キッチンだ。
男性と十八歳以下の子どもは立ち入り禁止。
ママはアタシの通う学校の先生をしている。
毎日忙しそうだが、家事は手抜きもなくやりきる良き妻、良き母、良き娘である。
ただ、一点、お弁当作りを除いては。
紅葉さんはママのママだから実の親に甘えているのか、お姑さんには出来ない特権だ、とでも思っているのか、みんなのお弁当を作るために誰よりも早く起きている紅葉さんを労わらない。
この問題はアタシがお弁当を作ることになれば解決する。あの掟さえなければ。
「紅葉さん、掟は変えられないの?」
「さぁ、どうでしょうね」
「変えてもいい?」
「決めた人に聞いたら?」
「紅葉さんじゃないの?」
紅葉さんはそれ以上は言わずにアタシの背中をゆっくりとさすりながら笑った。
「えっ? 誰が」
「……」
紅葉さんの無言の笑顔から、目には見えない圧力がかかりアタシは言葉を失った。
「楓、早く食べなさい」
「はーい」
「さぁ楓ちゃん、頂きましょ」
「うん」
一瞬で紅葉さんの目から圧力のような強さが消えた。ママの声が聞こえたと同時に消えた圧力と掟に何か関係があるのだろうか……
「行ってきまーす」
「気をつけてね……」
同じ学校に通っていてもママは車でアタシは徒歩だ。駅まではパパと一緒に歩く。
「ねぇ、パパ……」
アタシは何から聞けばいいのかわからずにいた。
「紅葉さんはママの義母なんだ」
「義母って……」
「楓のお爺ちゃんの再婚相手だ」
「えっ」
パパはアタシが驚くための時間をたっぷりと作ってくれた。駅までの十分間を沈黙に包まれることで、アタシに寄り添ってくれた。
「大丈夫、楓はきっとママを理解できる」
「パパ……」
「急がずゆっくり向き合えばいい」
パパはアタシの肩をポンと軽く叩いて口元を緩めた。
普段はやらないくせに、バイバイ、と手を振りながら駅の改札口へと消えて行く。
義母と言うことは、ママと紅葉さんは血の繋がりは無い。アタシと紅葉さんにも血の繋がりは無いと言うことになる。
義母、血の繋がり、お弁当、掟と思い付くだけのものをメモ用紙に書いてみた。だが、そこからは何も見えて来ない。
アタシは行く先を変えて河原に向かう。携帯からママにメールをした。
(微熱あるから帰る、欠席届お願い)
ママからの連絡で心配する紅葉さんに電話をする。
「アイスを買って帰るから」
「気をつけてね……」
アタシたちが学校の時間は、寄居商店街がスローモーションのような動きで成り立っていることに驚いた。
スーパーの店員さんにはお婆さんが多い。夕方の部活帰りに寄るスーパーは、高校生や大学生のバイトがレジをしているからだろうか、全体の動きがゆっくりとして見える。
アイスを買って歩いていると知らない男が二人、何か言いながらついて来る。
「サボリ? 家においでよ」
「……」
「おっ、ムシかよ」
アイスの入った袋を掴まれた。手を離せば済むことだろうが離したくなかった。
アイスの袋を引っ張られ、引っ張り返す。また引っ張られて、またまた引っ張り返した。
「待ってたんだぞ、楓」
「えっ?」
アタシは恐る恐るアイスを引っ張る人を見た。
「俺のアイスあったか?」
「夏生くん……」
アタシは自分の心臓がドキドキ、ドキドキと爆発しそうなほどの緊張感を持っていたことに気づいた。
アタシについて来た男たちが怒りの矛先を変えて怒鳴り始めた。
「テメーはなんだ、引っ込んでろよ」
「朝からやるんっすか?」
「コイツ、寄居の夏生だよ」
「ウェー、俺って人気モン?」
アタシは動けずにいた。ついて来た男は、寄居の夏生にビビって尻尾を丸めて逃げて行った。
「楓、おんぶ代はアイスなっ」
「……」
「行き先は?」
「家族に見つからないところ……」
知らない人が見たらイケメン彼氏におんぶされて甘える女のこと言う憧れるべきシチュエーションだろう。
だが、残念なことに一歩も動けないアタシは、ブリキの人形のように関節を曲げ、おんぶしやすい形に変えられて、商店街から移動するだけの荷物にすぎない。
「ここは?」
「俺の泣き場」
「泣き場?」
「貸してやるよ」
クラスメイトの夏生くんは野球部のエースで校内一の喧嘩番長と言われている人だ。
アタシはママが言っていたことを思い出す。
( 夏生ほど優しい男はいないわよ )
アタシがクラス委員として男子と揉めて蹴飛ばされたときも、助けてくれた。
確か、お姉さんと一緒にお婆さんの家で暮らしているんだ。
学校の裏山に、町が一望出来る場所があることを知らなかった。綺麗な町なんだなぁ、と初めてこの町の姿を見たような気持ちだった。
「近すぎて見えないモンってあるよな」
「見えないモン?」
「あって当たり前のモンなんて、ないよ」
「当たり前……」
夏生くんはアイスを食べながら町を見ている。周りの人が怖がる鋭い目つきはどこにもない。
「夏生くん、ここには今も来るの?」
「いや、来ない」
「うん、よかった……」
「なんでこの状況で泣くんだよ」
一瞬、ホッとした。泣き場なんてものは持ち合わせていない方がいいに決まっている。
みんないろんなことがあって、一人で泣きたい日もあるけど、泣き場所を確保する人生なんて辛すぎるから。
「優しそうな婆ちゃんじゃん」
「うん、優しい」
夏生くんは前に学校で会った紅葉さんを覚えていたようだ。
「秋子先生も話を聞いてくれるし」
「うん、聞いてくれる」
「当たって砕けたら相手してやるよ」
「うん……」
夏生くんの泣き場を借りてアタシは元気を取り戻し、砕けたら頼れる友に背中を押されて、体当たりを決意する。
家の前では紅葉さんが羽織を用意してアタシを待っていた。
「楓ちゃん、大丈夫なの」
「紅葉さんが風邪ひいちゃうよ」
「さぁ、家に入りましょう……」
「うん」
部屋で制服を着替えてから居間にいくと、紅葉さんがミルクココアをいれてくれた。
「紅葉さん、お弁当と掟、聞いていい?」
「もちろんよ、楓ちゃんは家族だもの」
紅葉さんはお爺ちゃんの再婚相手だった。幼いママは紅葉さんにパパを奪われてしまうと警戒し懐かなかったらしい。
三段の弁当箱に沢山のおかずを詰め込んで幼稚園の運動会へ応援に行ったときの話だ。
「ずーっと作ってくれるのお弁当?」
「うん、うん、ずーっと」
「お婆ちゃんになっても?」
「うん、お婆ちゃんになってもずーっと」
「じゃ、いいよ」
紅葉さんは泣いていた。話をしながら遠い昔を思い出すように肩で息をしている。
「じゃ、いいよ」
「いいの?」
「うん、ママになってもいいよ」
「秋子ちゃん……」
「紅葉さんって呼ぶけど」
「うん、うん、ありがとう……」
その日から秋子ちゃんは私の宝になったのよ、あの約束だけは一生守りたいわ……
お婆さんになってもお弁当を作ると言うことは、ずーっと一緒にいていい、ってことなのよ、と紅葉さんは自慢するように言った。
ママは知っていたのだ。夫に先立たれた紅葉さんは、お弁当を作り続けることで、この家にいる意味を持って生きられる、と言うことを。
あの日の約束が紅葉さんの生き甲斐になっていると……
「今夜はお弁当にしない?」
「まぁ、いいわね」
「手紙、書いて入れようよ」
「楽しそうね、やりましょう」
紅葉さんの宝ものが帰宅したようだ。
「楓、熱は?」
「もう大丈夫」
「あら、今夜はお弁当大会?」
「秋子ちゃん、けんちん汁もあるのよ」
「紅葉さん最高だわ」
「さぁ、みんなで夕飯にしましょう」
パパも帰って来て、みんなが揃って食べるお弁当は美味しかった。
アタシは明日からも紅葉さんにお弁当を作ってもらおうと思っていた。
秋子ちゃんへ
「残さずに、食べてくれてありがとう」