1話【サクラのお弁当箱】
窓からふわりと吹き込んだ風がレースのカーテンを揺らした。やけに生ぬるいその風は、アタシの計画に賛同し背中を押してくれているのか、などと考えながら制服に着替える。
「サクラ、起きてるのか?」
「……」
毎朝、挨拶がわりに同じ台詞をキッチンから叫ぶ父さんは超がつくほど真面目な公務員である。
「サクラ、おはよう」
「おはよう」
平日の何でもない日に、朝食として並べられた品だと思うと、その美しさは拍手したくなるほど見事である。
「どうだ?」
「映えそう」
「味だよ」
ワカメと大根の味噌汁は白味噌で薄味だが身体の芯から温まる。特にワカメのトロトロ感は最高だ。ツルッと喉を通り過ぎる瞬間がたまらない。
出し巻き玉子はほぼ毎日テーブルに並ぶ。父さんの玉子焼きに飽きることはない。お皿の端っこに添えてくれるデップが日によって変わるからだ。和風大根おろしやからしマヨネーズ。あめ色の玉ねぎソースや明太子。今日はわさびマヨネーズだ。メインは厚切りベーコンに茹でたブロッコリーとプチトマト。
朝から二人で食べきれる量ではない。こんなに用意してくれてもアタシが一番好きな物は漬物だ。今日はキュウリとカブが並んでいた。茄子も人参も大根も好きだ。お婆ちゃんから教えてもらった父さんが毎日大切にかき混ぜている糠床。香りはなかなかキツイが味は最高だ。
父さんはアタシが一口食べるまでじっと見ている。これだけ準備したのだから仕方ない、アタシには期待に応える義務がある。わさびマヨネーズをつけ玉子焼きをパクリ。
「おいしい」
「よーしっ」
何がそんなに嬉しいのか、テンションマックスにガッツポーズで喜んでいる。
二人だけの食卓とは思えない賑やかさは必然的だ。父さんは必要以上に声を張り上げ、時には手振りまでつけて話をする。
あの日からずっと……。
「ご馳走さま」
「忘れ物するなよ」
小学生かよ、と言いたい気持ちを飲み込んで歯磨きをする。父さんはアタシの残した朝食を弁当箱に詰め込んでいる。このシチュエーションを何度も見てきた。ありったけの食料をアタシの前に並べて食べさせる。そして残りを自分がお昼に職場で食べるために弁当箱に詰めていく。
アタシのお弁当はもう出来上がり綺麗に包まれている。そこに残り物が紛れ込んだことは一度もない。父さんは朝から必死だった。母さんの姿がない寂しさを大量の食材と自分の笑い声で埋め合わせようとしているのだ。父さんが大きな声で笑っても二人分にはならないし大量の食材もママにはなれないのに。
「行ってきます」
「気をつけてな」
ふぅ、と肩をなでおろす。疲れる。非常に疲れる時間なのだ。
あのころは、ママが居なくなった寂しさよりも怖さの方が大きかった。
パパまで居なくなったらと考えると震えが止まらず、いい子になる努力をしていた。
嫌われたら捨てられると思っていたからだ。ママはいなくなる前の日にアタシに言った。
「いい子にしないと嫌われるよ」
いい子、それはいったいどんな子なんだ。ランドセルは買ったけど、まだ学校に行く前だったアタシには、いい子がわからなかった。
だから悪い子がやることはしない、と決めた。
ママが居なくなって心配だったのは一回だけだ。
小学校の入学式にパパとママの間で手を繋いで写真を撮らないと小学生にはなれない、と心配した時だ。
でも小学生になれた。あとは心配しなかった。
パパがいない子やママがいない子、二人ともいないでお爺ちゃんの家にいる子もいたからアタシだけが特別扱いされずに済んだのだ。
パパはママが居なくなってからお爺ちゃんとお婆ちゃんの暮らす家の広いお庭に小さな家を建てた。
パパとアタシのお城だ。
お爺ちゃんの家とは廊下で繋がっているから毎日遊んでもらえた。
ご飯や参観日をお婆ちゃんがしてくれると言ってもパパは断って自分でやると言った。
サクラのことは自分でやると決めているようだ、ってお爺ちゃんが言っていた。
背後から誰かが呼んでいる。
「サクラちゃん、待ってよ」
「あ、咲ちゃんおはよう」
幼なじみの咲ちゃんはママとお婆ちゃんの女系家族だ。
自分にちゃんを付ける咲ちゃんには毎朝話すお決まりの悩みごとがある
「咲ちゃん、結婚出来ないかも」
「大丈夫だよ」
「もう、他人事なんだからぁ」
他に、なんて言えばいいのだ。小学生のときから十年も聞いている話に付き合う身にもなってほしい。
「やっぱ、遺伝かな?」
「結婚は意志だからぁ……」
遺伝とは、と調べてみなよと言いたいが、言えないアタシだから十年も同じ話をされることは自分でもわかっている。
アタシは嫌われたくない八方美人タイプの人間だ。余分なことは、見ない聞かない関わらない、と決めている。
面倒くさいから、と言う建前の裏に隠した嫌われたくない症候群が人を近づけない。
母性と言う目に見えない凄い力を持ってしても嫌われたのだ、他人がアタシを好きになるはずがないと思って生きてきた。
今となればあの頃のアタシは幼すぎた……
咲ちゃんはアタシの計画を自分のことのようにワクワクしている。
「サクラちゃん、ワクワクするね」
「うん」
「楽しみだなぁ」
幼すぎたアタシはもういない。
朝から気怠い理由は卒業するから。
アタシは今夜、いや、明日の朝、幼すぎた自分から卒業する。
「お爺ちゃん、お願いね」
「おぅ、任せなさい」
「お婆ちゃん、ありがとうね」
「サクラ……」
お爺ちゃんはパパを誘って飲みに行った。普段は飲まないパパに無理矢理飲ませて眠らせた。
アタシはパパの目覚まし時計から電池を抜いて携帯電話を居間に移動した。
これで、パパは朝一番に起きられない。準備万端。
朝の空気は葉っぱと土の香りがした。外は静か過ぎて不思議な気分だ。
廊下を走るパパの足音が騒がしい。
「マズイ、ヤバイ、寝坊した」
「パパ、おはよう」
「あっ、サクラ、おは、えっ?」
「座って、パパ」
「……」
パパは驚いて言葉を失う……
箸を持つことも出来ずにいた。
ただ、並んだ料理をじっと見つめる。
「サ、サクラが?」
「パパ、タッチ」
「……」
アタシは右手をパパに差し出す。
タッチをして欲しくてそのままパパの右手が伸びるのを待ち続ける。
「早く、疲れるぅ」
「あ、ああ」
パパはゆっくりと手を伸ばしアタシの右手にタッチすると、ギュッと握りしめてポツリと言った。
「あ、ありがとう」
「何それ、アタシの台詞じゃん」
「ああ、ごめんごめん」
窓越しに渡り廊下からこちらを見ているお婆ちゃんが涙を拭いているのが見えた。お爺ちゃんは首を縦にコクリコクリと何度も動かし、赤べこみたいだった。
その日からアタシは家事をやるようになった。
お婆ちゃんに教えてもらいながら頑張っているが、今ならパパの気持ちがわかる。
毎朝、アタシに言われたかった言葉なのだろう。
テンションマックスにガッツポーズも仕方ない。
家を出ると咲ちゃんがニヤニヤしながら近づいて来た。
「サクラちゃん、おはよう」
「咲ちゃん、おはよう」
「おじさん、自慢してるらしいよ」
「そう」
咲ちゃんのママはパパの同僚なものだから仕事場のことを何でも知っている。ママから聞いたようすを真似てみせた。
「これ、娘が作った弁当です」
「やめて、ふざけ過ぎ」
わざとらしく真似てからかう。
「見てください、手作り弁当です」
「もう、やめて」
パパは美味しかったよ、と空のお弁当箱を流し台に置くだけだ。
でもそんな話を聞けば嬉しい。
アタシは自分がそうだったように、ありったけの愛情弁当を定年まで作ろうと決めている。
パパのお弁当はアタシの心の中から(嫌われる)と言う恐怖を払い除け、
(愛している)と言う感情を注ぎ続けてくれたのだから……。
パパへ
「美味し過ぎて寂しさなんか忘れてた……」