プロローグ『波乱の訪れ』
今日、うちに家政婦さんが来るらしい。
まだ家政婦さんの名前も知らないし、もちろん顔も見たことがない。
そのことを知ったのは昨日。突然父からメールで知らされた。
契約などは一ヶ月ほど前に、母の妹の叔母さんが済ませたらしい。
両親は海外にいるので、僕の面倒を見ているのは中学生の入学式から叔母さんだ。
ついさっき、叔母さんから連絡が来た。
もうすぐ家政婦さんが家に到着するらしい。
「これからお世話になるんだから、手厚くもてなしてあげて」、だそうだ。
今日は特に予定もなかったし、家事は家政婦さんに任せて、せっかくの日曜日、僕は家でダラダラさせてもらうとしよう。
僕が家事とかしないから、こうやって家政婦さんを雇うことになっているんだろうけど。
叔母さんも帰ってくるのは一週間に一回程度。家でのご飯はほとんどがコンビニ弁当かカップラーメンという、我ながら実に不健康な食生活を送っている。
「それにしても家政婦さんか。やっぱり家事とかお手の物なんだろうか……」
僕はふと、そんなことを思い、気付けば口に出していた。
ちなみに、家政婦さんは父の大事な友人の娘さんらしい。その娘さんは家事が大の得意らしく、父さんが僕の生活の話をしたら快く引き受けてくれたという。
時計を見る。
針は12時に差し掛かろうとしている。
昼食は家政婦さんが作ってくれるのか。いや、いきなり作ってもらうのも困らせてしまうか。
一先ず、昼食は家政婦さんが来てから決めることにした。
リビングのソファーに寝転んで、充電器からスマホを取る。
読みかけのネット小説を読もうと、サイトのページに飛んだ瞬間、家のインターホンが響いた。
「お、来たか」
僕はスマホを置いてリビングを出た。
なんだが、緊張するな……。
扉の取っ手に手を掛け、深呼吸して、一拍置く。
そして扉を押した。
「はー……い?」
扉を開けた先に立っていたのは、見慣れた少女だった。
それから、その少女は雲のように白いサラサラの長髪を垂らし、四十五度の綺麗なお辞儀をして見せた。
「栞田、さん……だよね?」
栞田あかね。僕のクラスメイトで、学校で男子から絶大な人気を誇る学内三大美女の一人だ。通称『女神様』。入学初日に二桁を超える告白を受けたらしい……。
高校二年生になっても未だに告白されたことのない俺とは、モテ度が雲泥の差だ。
そんな栞田さんが僕の家になんの用だろうか。
僕の問いかけに、お辞儀していた栞田さんが頭を上げた。
「今日からなぁくんの家で家政婦をさせていただきます、栞田あかねです。これからよろしくお願いいたしますね、なぁくん」
(え、何言ってんだこの人……⁉)
不敵に浮かべる笑顔に、僕は困惑を隠せず、返答の言葉を見失った。
そうこうしているうちに、栞田さんは僕の横を通って、家の中に入ろうとした。
「ちょ! 待って! 何してんの、栞田さん!」
「家に入らないと仕事ができないじゃないですか? 面白いことを言いますね、なぁくんたら」
自然と会話に混ざっている『なぁくん』というのは僕の呼称だろうか。
いやいや、確かに僕の名前は八幡夏斗だ。だけど名前呼びをすっ飛ばして、あだ名で呼ばれるような仲ではない。
「た、確かにそうだけど、ちょっと状況が理解し難いといいますか! なんで栞田さんが僕の家の家政婦として雇われているのか、理由が見当たらないといいますか!」
「なぁくん、焦っているのですか?」
「そのなぁくんって呼び方も気になるから、とりあえずやめてくれるかな!」
いつも寡黙で、教室の隅で静かに読書をしている栞田さんのキャラが、崩壊している。大崩壊だ。学校内の全男子がイメージしている栞田さんとは大きくかけ離れている。
理由はともかく、長話になりそうなので一先ず家の中に案内することにした……。
家の中は別段汚いわけでもなく、実質男の一人暮らしだが、そこまでゴミも溜まっていない。リビングのソファーに、栞田さんを座るよう促す。
冷たいお茶だけ用意して、僕は栞田さんの前に腰かけた。
「えっと、さっきの話の続きをいいかな……栞田さん……」
「私のことはあかねで大丈夫ですよ」
「いや、僕そこまで栞田さんと仲がいいってわけでも……」
「私のことはあかねで大丈夫ですよ」
「だから、今日初めて話し――」
「私のことはあかねで大丈夫ですよ」
軽くトラウマになりそうなので、ここは僕が了承して引き下がることにした。
「はい、あかねさん……。それでさっきの続きを」
「一先ず及第点といったとこですね」
「は、はぁ」
「なぁくんは何故私がここに来たのか、見当がついていないようですね。まぁそれも仕方のないことです。約束したのは十年近く前ですもんね」
(え、何。僕は十年近くも前に栞田さんに会っていて、何か約束したってことか?)
記憶を遡るも、さすがに思い出せない。
頭を抱える僕の様子に、栞田さんは小さくため息をして、
「いいですよ。約束どころか、会ったことすら覚えてないですよね」
「すみません、思い出せないです」
「気にしないでください。これからは毎日なぁくんの家に家事をしに来ます。実質夫婦ですね、私たち」
「え? 何言って――」
ふふふ、と僕の言葉を遮るように笑うと、栞田さんはソファーからゆっくりと細い腰を上げる。
そして再び口元を緩めて、僕にウインクして言った。
「今日からは私はこの家の家政婦ですよ、なぁくん」
――うちに来た家政婦がクラスメイトの通称『女神様』で、何故か一方的に愛され”すぎていた”件について。