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津波・春の旅立ち

作者: 北風 嵐

「桜が咲くこの季節、私は東の国に旅立ちます」


老人と風俗嬢のラブロマンスを書いていた最中に、3・11が起きた。 あの津波の画動はショックであった。主人公のかおりは東の国に帰ることを決意する。 と物語は変わった。 東日本大震災3部作とするうちの一つである。私は何かを書かずにおれなかった。

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海が燃えている。「タンカーの事故かしら?」とかおりは思った。

暗い都会を、群衆が押し黙って歩いている。何処?東京?

画面が変わって、波が・・家を浚っていく。津波だ。

津波が町ごと海に浚っていく。

テレビの画面が元に戻って燃えている夜の海が映し出された。

音声はない。気仙沼とテロップが流れた。燃えているのはかおりの故郷だった。

かおりは一瞬何がなんだか分からなかった。音声がやっと流れた。

今日の午後、2時45分ごろ、東日本の太平洋岸に、マグニチュード9.0の大地震があって、大津波があった事がやっと分かった。分かったけれど、テレビの画面に映し出されたことが真実とはにわかに信じられなかった。


かおりは、今日久しぶりに、母と待ち合わせて買い物に出ていた。河原町の高島屋の前で待ち合わせ、お昼をして、岡崎の美術館に行って、お茶を飲んで、お喋りをした。東北訛りでの二人の会話を珍しそうに聞き耳たてる隣席の人もあったが、かまわず話した。母は慣れていない京言葉を間に挟んで、かおりを見ていたずらぽく笑った。かおりは聞くのは好きだが、京都に来て3年になるというのに、関西弁は喋れない。母、雪絵は京都に来て一年と少し、母の方が、順応性が高いのだとかおりは思った。

 早い夕食も一緒に食べて、母と別れて、かおりは久しぶりの街中の孤独を楽しんだ。そんなわけで、地震は昼の2時45分頃あったというのに、気がついたのは10時を過ぎていた。かおりの故郷が悲嘆の中にある時に、かおりは母親との逢瀬を楽しんでいたのだった。


身体を動かすのは大好きだった。テープをなびかせて、大きなリングを持って、一回転、二回転、高校に入ったら体操クラブに入って、近代体操をしたいとかおりは思っていた。身長は皆と並んで後ろの方、胸は身長の割には真ん中ぐらい。男の子の目はあまり胸には意識しなかったが、短パンから伸びる足にはよく目を意識した。

 中学校ではあまり目立つ方ではなかったが、「おまえ、大きくなったら綺麗になるで!」と云ってくれる男の子もあったが、「それって、口説き文句、将来の保険?」と聞き流していた。「なんで、今、綺麗と言ってくれない」。東北の男の子はちょっと時間がかかってしんどい。


 かおりの父、鹿蔵はこの町で小さな水産加工を営んでいた。母雪絵と鹿蔵の弟の嘉平が手伝い、近所の奥さん4、5人のパートを雇っていた。工場といっても掘っ立て小屋同然で冬の仕事場は、海からの風が戸板の隙間から入り寒い。鹿蔵と嘉平の二人は朝早く、加工にする小魚の漁に出る。小雪降る寒い日も、少々波の荒い日も、よっぽどしけの日以外は休まない。

叔父の嘉平は鹿蔵より6歳年下で、一度結婚したが2年程で別れたという。子供はいない。若いとき博打にはまって、悪い手合いに関わったとき、間に入って話をつけてくれたのが鹿蔵で、それ以来、かおりの父を手伝っている。そんな事もあって、鹿蔵には頭が上がらない。仕事が終わって、近くの「弁慶」という居酒屋で、漁師仲間達と飲むのを唯一の楽しみとしている。

叔父の嘉平はお盆と、お正月に「それ!かおり、小遣いだ」と言って封筒を渡してくれる。鹿蔵からボーナスが出たのだ。封筒の中には気前のいい金額が入っていた。かおりも、弟の見栄晴も毎回楽しみにしていた。

 ある日嘉平は「兄貴は、仏さんのようにああー見えても、昔は、中々羽振りをきかせていた時期があったよ。結婚してお前が出来て、ころっと、変わったよ」と、かおりの知らない父を語ってくれた。かおりはもっと一杯、父の事を聞いておけばよかったと今思うのだった。

 

 かおりは小学校の高学年から、学校から帰ってきたら、母や、パートのおばさん達に混じって、仕事場を手伝った。僅かだったが、鹿蔵が「アルバイト代にも、なりゃせんね」と、恥ずかしそうに出してくれる月末のお金が嬉しかった。そのお金を、三つに分けた。一つは自分の今欲しいもの。二つ目は5歳下の弟のお小遣い。三つ目は、自分が将来欲しいものの貯え。貯まっては、消える貯えであったが、夢がある限り大事な三番目であった。レオタードが欲しかった。高校の体操部のレオタードは、胸にきらびやかなマークが入り、大会ごとに衣装は変わった。


桜が咲く春、かおりは県立の高校に入学した。高台にあるこの高校からは、街の大部分が見渡せた。港も見渡せ、港の向こうは大島である。下校時には、大漁旗をなびかせて、漁から帰ってくる漁船が見える。父の仕事場も見える。芥子粒のような人影は、父だろうか、母だろうか。


p2

かおりは父も母も大好きだった。父は無口だが、優しかったし、母は働き者で、てきぱきと仕事をこなし、パートさん達に指示を与えていた。女が三人よればなんとかで、仕事中のお喋りは絶える事がなく、笑い声も絶えなかったが、手は休んではいなかった。

 父は黙って聞いているだけで、叔父は、時々混ぜ返しの合いの手を入れ、場はいっそう盛り上がる。かおりはこんな仕事場の雰囲気が大好きだった。小学校5年の弟は、近所の男の子達とソフトボールに夢中で、仕事場には寄り付かない。来ると、なにやかやと仕事を言いつけられるからだ。


 小さな加工場の経営では、あまり贅沢は出来なかったが、それでも親子4人、生活に不自由はなかった。家の状況が変わったのは、かおりが高校に入って、夏休みのときだった。

 その日は朝から天気もよく「漁日和やなぁー。たんと取ってくるぜ!」と言って出かけたのだが、天候が急変し、漁に出た船が次々と港に帰ってきたが、父と叔父の船は、とうとう帰ってこなかった。あくる日から、大掛かりな捜索が行われたが、船は見つかったが、父も叔父も遂に発見されることはなかった。


 母は仕事場での要領は飲み込めていたが、肝心の漁が出来ないので、同じ町の大きな加工場の下請けをするようになった。利幅は薄く、仕事の量も一定しなかった。パート代を払うと残りは少なかったが、「働きに出るより、慣れた場所で慣れた仕事が出来るのが一番だ」と云って、母は頑張った。

かおりは物入りな体操クラブをやめた。学校が終わったら直ぐに帰って加工場を手伝うと言ったが、母は「以前のような仕事量でもないので、お前は好きなクラブ活動をしていいよ」と云ってくれた。レオタードは諦めて水泳部に入った。水着もレタードも大して変わらない。何より身体を動かしていたかった。泳いでいる間は、父の事も、母の苦労振りもみんな忘れられた。


高校時代はお洒落に興味がある頃だが、かおりは街中に母と一緒に出かけたときなど、「このセーターいい色ね」と母が言って、買ってくれようとしたときも、「前買ったセーターもまだ着ていないし」と断った。実際そのセーターの色は、淡いピンク色で、かおりの好きな色だった。

 加工場での手伝いのお金は、以前より少なくなったが、三等分の習慣は続けた。一番目は「母への贈り物」、スーパーに行くたびに、母が目に行く服がある。弟のお小遣いも減額したが続けている。三番目は自分の欲しいものだが、三番目は殆ど幾らも残らなかった。


 父がいなくなって、寂しくなったが、明るい母と元気な弟との夕食は楽しかった。学校であったことを弟と競い合って母に話した。それを母は、楽しそうに聞いてくれる。大好きな母がかおりの寂しい気持ちを軽くしてくれていた。

 

 かおりの寂しさを慰めてくれる親友が出来た。同じ水泳部の笹森百合子であった。家は洋品店をやっていた。百合子の店のバーゲンセールに誘われた。母の贈り物を買ういい機会だと思って行った。母がスーパーで見ていた水玉のワンピースに似たのがあった。持っていったお金では足りなかったのを、それとなく察した百合子が「かおり、幾ら持っている?」と聞いてきたので、所持金を云うと、赤のマジックで値段を書き直して、百合子は自分でレジを打った。その日の母の嬉しそうな顔たらなかった。「春になったら、これを着て花見に行けるね」といって、モデルのようなポーズを鏡の前で取った。


 百合子は、かおりと違ってはっきりものは言うし、何事にもテキパキとしていた。学校では男の子からかなり注目の的だったが、相手にしなかった。学校の成績も上位組みで、かおりが太刀打ちできるのは歴史ぐらいだった。「昔の事を勉強して何になるの。大事なのは将来どうなるかよ。未来学ってないの」が口癖で、歴史はあまり興味がないようであった。

 試験前など、お互いの家を行き来し、一緒に勉強した。殆どの科目を百合子から教わった。特に、かおりの苦手の数学を教わったのには助かった。「ここのとこ出るよ」と言った所が不思議なぐらい当たった。


父を亡くした当座、かおりは寂しくなると、近所の保育園によく行った。砂場で土をこねる子、かけっこをする子、滑り台ですべる子、幾ら見ていても飽きない。その表情、仕草が、一人一人皆違う。かおりは子供が大好きだった。 将来、小学校の先生か、保母さんになるのが夢だった。でも、父を亡くしてからの家庭の経済状態を考えたら、とっても、上の学校に行かして欲しいとは言えなかった。「そうだ、結婚したら、一杯子供を産めばいいのだ」。母のような優しくって、たくましい母親になりたいと思った。


p3

かおりに悩みが一つ加わった。好きな男の子が出来たのだ。それも二人。どちらかに決めたいのだが、それが決められないのだ。その悩みを百合子に打ち明けると「かおりはきっと多情なのよ」と言って笑われた。自分は優柔不断なだけだと思っていたが、「多情」という言葉にひっかかった。

 かおりの初恋らしきものは早く、小学校3年生のときだった。このときも2人。タイプの違う、ヒロシ君とヒトシ君、どちらも決められなかった。チョコレートを買うお金は一人分しかない。お菓子屋さんに行ってもまだ、決められない。〈神様、お願い。片目を瞑っていてください〉お菓子屋のおじさんがちょっと横を向いたとき、一つを拝借してしまった。一つだけの代金を払い、自分で作った可愛い箱に入れて、リボンをかけた。それを、ヒロシ君、ヒトシ君の靴箱に入れた。後で、気がついた。自分の名前を書くのを忘れていた。時には、「エイヤー」と思い切った事もするかおりであったが、抜けたとこもあるのだった。


 どうしても、父を思い出して、寂しくなったときは、加工場の裏手にある小高い丘と云っていいのか、少しだけ高いところがある。ともかく港が見渡せる。そこに登って、日が暮れるまで海を見ることにしていた。父と叔父を奪った海だけど、でも、かおりは海が好きだった。海を見ていると心が静まる。水平線から船が姿を見せる。港に近づき、その姿をはっきりさせる。父と叔父が乗っていそうに思える。本当に寂しいときは、ごまかさないで、その寂しさの中に浸りきることだとかおりは考えていた。少し涙を流す、心は落ち着き、明日のことが考えられる。

 父は物言わぬ優しい人だったが、〈かおりのことをどう思っていたのだろう〉〈人の世をどの様に考えていたのだろう〉と思うような歳にかおりはなっていた。


 百合子の家で、一度食事をよばれた。百合子の父はお酒をよく飲み、闊達に話した。「学校では何をしている?」「好きな男の子はいないのか?」とかの、質問攻めには困った。百合子の母は、やはり洋品店を切り盛りしているのか、テキパキしていて、百合子そっくりであった。百合子の下に弟2人の五人家族の夕食は、賑やかしかった。やはり一家の長がいるといないとでは違うとかおりは思った。


 好きになった男の子は結局決められず、よってチョコレートの告白も出来ず、初キッスもなく、高校3年生を迎えたのだった。百合子は東北でトップクラスの仙台の大学を受けるので、予備校に通い出し、以前のようには頻繁に会えなくなった。でも間隔が開くとどちらかとなく連絡を取り合い、短い〈逢瀬〉を楽しんだ。身体を動かすのが好きだったかおりには、思い切り泳げた水泳部は良かったし、父が亡くなって、母とは親子でなく、友情で結ばれたようで、百合子という友達も得て、かおりはそれなりに楽しい高校時代を送れたのだった。

 百合子は仙台の大学に無事合格し、かおりも仙台の市役所の公務員試験に合格。区役所に勤めることになった。受験勉強の合間に公務員試験を見てくれた百合子のお陰だった。「ここ出るよ」は、またまた大当たりであった。

 何より百合子と一緒の都市まちで仕事が出来るのが嬉しかった。忘れもしない、18才の3月25日、かおりと、百合子は仙台行きの高速バスで仙台に向かった。まだ見ぬ都会での暮らしにお互い胸が高鳴っていた。


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かおりは今、京都に住んでいる。仙台で公務員2年。東京で事務員1年。銀座のクラブで10年、そのクラブで主人、三郎と出会った。3年前に結婚して、京都に来たのだ。

 東の国と西の国は色々と違う。どうしても、西の言葉がしゃべれない。「東京の方ですか?」と言われる。銀座で働いて、東北訛りは厳しく注意されて消えたけど、京ことばに大阪弁、一度話して見たいが、無理して話そうとすれば、お国訛りが出てしまいそうになる。


 かおりが働いた店の名前は「てまり」といった。ホステスも10人程の銀座では小さい部類に入った。ママは田口良子といい、弟がインテリア・デザイナーとかで、和風モダンの内装が落ち着きを出し、ホステスは和服の似合う女性を良子は選んだ。ママの良子は言葉使い、礼儀作法は厳しかった。「身体を磨くだけでなく、心も磨きなさいよ。心を磨けば、指がたおやかに動くものなの、女は指で語るのよ」が口癖だった。いい加減な客あしらいをしたときには、「辞めなさい」と、本気で怒った。


 飛び込み同然で入ったかおりは3年程、良子のマンションの一室を与えて貰った。最初、着るもの、飾るものも皆貸し与えられた。徐々にその間に最低限のものを買い整えて行ったのだった。良子は28才で独立して20年近くを女手一つでやってきた。かおりには「私にはとっても出来ないこと」だと思えた。良子にはパトロンはいないが、恋人はいるみたいで、日曜日にはよくゴルフに出かけ、その日の帰りは遅かった。

 接客のイロハは無論、言葉使い、礼儀作法、着物の着付け、お料理、皆教えてもらった。男性の見分け方も。「かおりは素直で、いい娘よ。でももっと自分を大事にしなければだめ。誰かれなく好きになって、そのたびに傷ついていたら、心も身体も持たないわよ」

 良子はかおりにとって母のような存在だった。色白でふっくらとして、ちょっと渋めの着物がよく似合った


 店のお客も、接待より一人静かに飲む人、親しい仲間と来る人達が多かった。中には女性同士で来てママと喋って帰る客もあった。良子は同性からも好かれた。かおりには「てまり」がとっても居心地がいいところだった。気がつけば30才を越し、店では「こんな綺麗な人がいるんだ」と思うチーママの雪さんを助ける役割になっていた。

 男生とは何人か関係は出来たが、良子の忠告を守って深入りすることもなかった。当然、結婚を申し込まれるような出会いもなく、何時しか、「結婚して、いっぱい子供を産む」という夢も忘れていた。


そんな時に三郎と出会った。野球かサッカーの選手のような身長も高くがっしりした体格だった。出された名刺は(株)岡崎呉服店 営業部長 岡崎三郎と書かれていた。銀座にある百貨店の紹介であったが、やってきたのは三郎一人であった。かおりが最初に付いた。

「付き合いで話を合わすのが苦手でね。一人の我儘をかんにんしてもろうた」と三郎は云った。

「何かスポーツをやってられるのですか?」

「皆からそう言われるんやが、学校の体操以外、運動らしい運動はしてないねん。〈見かけ倒しの三郎〉といって学校では有名やったんや」と、西のやわらかい言葉で三郎は喋った。


「会社は江戸時代から続いている古いだけの呉服商で、父親が社長で、今回は、東京のデパートの催事で上京してきた」と言った。かおりは高校卒業まで、田舎の三陸から外に出たことはなく、唯一の例外が高校2年のときの修学旅行で、初めて見た京都の印象と、その時の感動を話した。少し熱っぽく話したので、相当な田舎者と思われたのではないかと恥ずかしかったが、三郎は楽しそうに笑って聞いてくれた。

 途中から入ったママが「岡崎さんゆうたら、高級な呉服で、京都でも5本の指に入るお店でしょう」と岡崎に問いかけた。

「古いだけで、でも確かに値段は高いですわ。いくら原価で買えても、結婚しても嫁さんにはよう買えません。最も親父の目を盗めば別ですけど」。

 三郎は催事で上京するたびに、店に寄り、かおりがついた。かおりは何時しか三郎の上京を心待ちするようになっていた。


 春4月、桜の咲く頃に京都に来ないかと三郎は誘った。修学旅行以来の京都に胸をときめかして、かおりは持っている一番高い着物を着て出かけた。南禅寺から哲学の道を通り、銀閣寺まで歩く桜景色は、かおりの心を修学旅行の17才の昔に帰してくれた。

「今日のかおりは、とっても若く見えるよ」と三郎が珍しくお世辞を云った。

「ええ、どうせ普段は年増ですからね」と返すかおりの言葉も弾んだ。

 夜は、丸山公園にしだれ桜を見に出かけ、祇園の有名な料亭で京料理をご馳走になった。その夜、かおりの泊った疎水べりのホテルで結ばれたのは自然な成り行きだった。「女として、生まれてよかった」と、かおりはそんな一夜を過ごせたのだった。

 京都駅まで送ってくれた三郎は、かおりとママにと2本の反物を土産にと持たしてくれた。


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次の出張で上京してきた三郎は店に立ち寄り、良子に話を通した上で、「京都の父と母に会って欲しいと」と正式なプロポーズをした。良子は「私の娘同然の子ですからよろしくお願いしますね」と答えを返し、「いいお話よ。辛抱して幸せになるのよ」とかおりの手の上に手を重ねた。

良子はかおりに「先方も老舗の呉服商。これを着ておいき」と自慢の衣装を出してくれ、着付けをしてくれた。帯びを結びながら「先方のお父様がどんな方か存じ上げないけれど、決して先方のご両親の前にはしゃしゃり出ないことよ。三郎さんは一本気だから、お父様との仲には気配りをするのよ。好きな人と一緒にいられる。それだけでも幸せよ。老婆心ね…」と云って、目頭をぬぐった。

「ママのおかげで、今、この幸せを掴みます。どんな辛抱でも耐えます」とかおりは涙をこらえて答えた。


 先方の両親とは、南禅寺の境内にある有名な湯豆腐店の別室で会った。三郎の父は70近いと聞いていたが、背格好も三郎に似てがっしりしていた。眼光鋭く、精悍な感じで、名前も仁左衛門と着物も似合う歌舞伎役者のようであった。

「かおりさんは気仙沼の生まれとか聞いとりますが、あそこには3回ほど旅行で寄りましたが、魚は何を食べても美味しかったですなー。マグロ漁も盛んとかで、あの刺身の味は忘れられまへんなぁ〜」とかおりの故郷に触れ、

「お父様は遭難されたとか息子から聞いておりますが、さぞお辛かったでしょう」と慰めの言葉をかけれたが、言葉とは違って、仁左衛門の表情は「結婚には反対」の意思がはっきりと読み取れた。

「好きおーた男女の仲を裂こうとは思いまへん、ただ三郎は私の後を継いでもらわなあきまへん。男女の仲と結婚は別に考えてもらいたいのです。京都という土地はそんな土地柄なんですわ・・・」

 日陰の身でよいなら認めましょうと言われたと理解した。良子の言葉にあったようにかおりは三郎と一緒にこの京都におれたら、それだけでいいと思った。


 結婚式こそ挙げなんだが、三郎は父、仁左衛門の意に逆らって、かおりを正式な妻として入籍した。かおりは三郎のその気持ちが嬉しかった。この人の為ならどんな犠牲をも厭わないと思った。そして一抹の不安を胸にしまった。

 三郎は実家を出て、子供が出来てもいいように嵯峨野に家を用意した。会社には今まで通り営業部長として出社し、二人の京都での生活が始まった。1年後、東北の母も呼び寄せた。

母は「水産加工の仕事はきつくなってきたし、京都に行くのは嬉しいが、私も働けるうちは働きたい」と云って、三駅離れた所にアパートを借りて、清掃の仕事を見つけてきた。こうして、かおりと母雪絵は京都で暮らすこととなったのだった。


そのまま、三郎が父の会社を続けていてくれたら、何の問題も無かったのだが、父の意に逆らった三郎を、仁左衛門は三郎の商売に対する姿勢と受け取った。三郎より三才下の次男の方に、仁左衛門の気持ちは傾いた。それと、伝統を守ろうとする父と、伝統に飽きたりず新しいものに挑戦しょうという子との仕事上の葛藤もあった。

 三郎は会社をやめて、友人がやっているアパレルに資本を出して、共同経営に踏み切ると云った。かおりの不安は的中した。入籍を云う三郎を説得すべきだったと悔やんだ。


かおりは良子に相談を入れた。良子の答えはこうだった。

「やっぱり、心配してたことが当たってしまったわね。反対しても三郎さんは聴かないでしょう。仕事の事で男が一旦決めた以上はね。気になるのは友達との共同経営よね。一からやるのは大変だけど、私なら一人でやるわ。上手く行けば良いけど・・・、ついていくしかないわね」

 事態は、良子の言うとおりになった。友人はしんどくなった会社を三郎に押し付けて逃げた。会社は僅かな人数の社員に給料を払うのが精一杯の状態が続いた。かおりは祇園のクラブに出ることにした。夫の給料は入ったり入らなかったりであった。

 今、かおりは、風俗で働いている。祇園のホステスと掛け持ちであった。京都でとはいうわけに行かない。大阪の梅田に近いホテトル嬢となった。昼間は大阪、取って返して夜は祇園であった。


p6

裸になった男達は、皆可愛かった。背広を着て、ネクタイ締めて、ブランド物の腕時計をして、飲んでいる男達の機嫌取りより、ズートかおりには良かった。身体は使うが、気難しい気を使わなくて良い。一緒にお風呂に入って、ベッドですることをして、余った時間は気のおけないお喋りだ。かおりは誰にもやさしかったし、男達も皆、かおりにやさしかった。裸になると、ほんと、裸の付き合いが始まるのだった。


 和菓子屋の主人は甘党のかおりの為に、わざわざ〈かおりオリジナル〉をいつも、2つ作って来る。「かおりオリジナルだけで店をやれば繁盛するのに」とかおりは思ってしまう。

 かおりに下着をプレゼントしてくれる校長先生。「へー、校長先生にもこんな面があるのだ」と、かおりは高校時代を思い出して笑ってしまった。

「お店に入るのって、恥ずかしくないのですか?」と尋ねると、

「初めてだから、心臓がパクパクしたよ」

「でも、サイズがピッタリですよ。私のサイズ判りました?」と訊くと、

「店のホームページを控えておいたんだ」。さすが、校長先生。

「でも奥さんに買ってあげて帰ったら、もっと喜ばれるのに」と言うと、

「そんなことしたら、気が違ったのかと思われるよ」と校長先生はネクタイを解いた。


 人生色々、何回か一緒になると、年配の人は自分の人生をポツリ、ポツリと語る。かおりの勤めた店は「お年寄りにもやさしい店」を売り物にしているので、年金生活の客も多いのだ。

「現代の60、70代は元気で、若い。気持ちなんかは今の20、30代より若いのではないか」と、かおりはそのような気がした。

自分の初恋を話す恥ずかしそうな顔、青春時代を語る若々しい顔、仕事に頑張った頃を話す自信に満ちた顔、そして息子や、娘をかたる落ち着いた顔、老いを感じると語るときの少し寂しげな顔、かおりはみんな好きだった。

 かおりは自分の方から身の上話はしなかったが、聞かれたことは正直に話した。あまり聞かれなかったが、「この道にどうして入ったの?」と聞かれたときは、「お金と、男の人が好きだから」と答える事にしておいた。その通りだし、こう答えておくと、それ以上は聞かれないからだった。お客のリピーター率は、いつしかかおりがナンバーワンになっていた。


そんなかおりのお客の中に、多村という一風変わった客がいた。年齢は70歳。70と云えば老人に入るのだろうが、水泳を長年やっているとかで筋肉にも張りがあり、とってもそんな歳には見えなかったが、若いときに腰を痛めたとかで杖をついていた。

「文章を書いている」と云ったので小説家?と思っていたら、持ってきたのを読んでみたら学校の作文の少し上。でも、何処か〈えもいわれない味〉があってかおりは好きだった。何より短いのがいい。絵も描いているという。スケッチブックを持ってきて、ベッドの上で見せてくれる。絵の方は上手だと思った。

 文章とか、絵とかを見せるお客は他にはなかった。〈変わった〉という意味はこういうことで、かおりを抱きに来ているのか、絵や文を見せるために来ているのか?「マー、二つを楽しんでおられるのだ」とかおりは考えることにした。

 そのうち〈かおりさん〉を描きたいと「写真を撮らせてくれ」と言い出した。少し困ったけれど、OKした。多村と云う客はどこか安心させてしまう独特なモノを持っていた。「なんだろう?」かおりも銀座、祇園とたくさんの客を見てきた。多少は人を見る目も出来たつもりだった。

 何より、かおりは「私」を描いてもらいたかった。「写真の私はあっても、絵の私はないのだ」。多村は着衣のかおりと、裸のかおりを撮って帰った。裸の絵はイマイチだったが、着衣の横顔は「私、こんなに綺麗」というように、淡い水彩で描かれていた。


p7

次は、浴衣姿の私を描きたいと、浴衣セットをわざわざ持ってきてプレゼントされた。これも写真を撮って帰ったが、半年経っても多村は姿を見せなかった。年金が出た月には必ず来ていたから、「どうなさっているのかな?」とかおりが思っていたら、12月に入って大きな包みを持ってやってきた。

 団扇を持って、茶色地に白い紫陽花の花柄の浴衣を着て、少し横顔のかおりが油絵で描かれていた。多村に見せてもらった絵は皆水彩画だったので、少し驚いた。

「私といえば私。でも、キリッと、しっかり一点を見つめている私は、私でない。私は、こんなに強い意志を持ってはいない」とかおりは思った。そのとき時の状況に流されてきただけだった。かおりはこの絵がとっても気に入ったが、こんな大きな物を持っては帰れない。かおりは以降、多村のニックネームを画伯にしようと思った。かおりはお客にニックネームをつけることにしていた。その方が親しみが湧いた。和菓子屋の主人は〈スイーツパパ〉。例の校長は、〈いけない校長先生〉と云う風に。


一緒にお風呂に入ったとき、多村が顔を出せなかった理由を語った。

お風呂に入って、「前立腺の癌で手術したんや。かおり、さわってみ。僕はあかんようになってしもうた。終わったんや…。70年も使ってきたから、もうーええねんけどな」と云って、笑ったが、やはり寂しそうだった。

 こんな時、何と言っていいのか、女のかおりにはわからない。「70年お勤めご苦労様!」と言って、お洗い申し上げるしかなかった。

「70年といったら、赤ちゃんのときから、女の人にお使いあそばしたのですか」と混ぜっ返すと、「まさか。でも赤ちゃんのピンコ立ちは可愛いもんやで。息子のオムツを代えるとき、オチンコがピーンと立つやろ。何やろと?思ったら。顔におしっこかけられた。その点、娘のときは物足りなんだねぇー」


 息子さんのオチンチンといったら、多村が書いたこんな話を思い出して、かおりは笑ってしまった。「何が可笑しいねん。男にとっては切ないことなんやで」


《息子さんが小学校3年生のとき、パンツも穿かずに、じかにズボンを穿いた。あそこの薄皮が、チャックにひっかかり、息子さんはのたうち、脂汗をかいて苦しみだした。事情を病院に電話したら、電話口に出た看護婦が「連れて来い」という。多村さんは「ばかやろう!」と、男の痛さを理解しない看護婦を怒鳴った。歩けるぐらいならそうしている。奥さんも留守で、困り果てた多村さんは、本当にごく薄く、ほんのチョットだけかかっているだけだから、まさか出血もなかろうと、ハサミを持ってきて切ろうとした。息子さんは下から「お父さん、それだけは止めてください」と懇願した。他に手立ても思い浮かばない多村さんは無視して、ハサミを近づけた。その瞬間、油で滑りを良くする方法を思いついた。食用油を塗り、そろりと引くと、嘘のように滑らかにチャックは下がった。助けてやったのに、「うちの親父は酷い人間だ。俺のオチンチン切ろうとした」と今でも恨んでいるらしい。女の人にはわからん話や》という内容の文章だった。多村の文章はいつもこのような笑うべきか、悲しむべきか悩む文章だった。


「今日で引退や。お別れに一回、一緒に飲めへんか」とかおりを誘った。一応、業界常識では、外でのお付き合いはご法度。でも、これでは断れない。主人との離婚話のもつれでイライラしていたかおりは、多村との忘年会も楽しいと思った。12月の15日過ぎに連絡を入れるということで、携帯の番号を交換した。かおりは番号、保存に画伯と印し、それを見せた。

「画伯か、それならいっちょ、頑張ってどっかの展覧会に入選せんといかんな」と多村は苦笑いをした。


p8

《もう、あの日から何日経っているのだろう。今日は何月、何日?年を越したのだろうか。お正月はまだなのだろうか。頭がボーとしている。お酒を飲んでは、眠り。食べては吐いた。近くのコンビニに行って、お酒と何か食べるものを買う以外に外出した覚えはない。料理した覚えも無い。主人が台所で何かこしらえているのは知っている。私に何か、なだめたり、叱ったり、注意していることはわかったが、何を言っているのか、自分がどう答えたかも判らない》

悲しかった。辛かった。悔しかった。泣いていた。消えてしまいたかった。三郎のあの一言がかおりの心を追い込んだ。


 離婚の話は半年前から出ていた。三郎から切り出した。「別れようと思う」とは言ったが、迷っているようだった。「どうして?」と聞いたが、三郎は黙っていた。一緒になるときも、エネルギーが要ったが、別れる時のエネルギー、消耗は凄いものだ。迷いと、決断。未練と執着。百通りの夫婦があれば、百通りの別れる理由があるだろう。一度は好きあった者同士が別れる。かおりは、三郎が好きで、好きでたまらなかった。「別れる…」心臓が引き裂かれる思いであった。


「どうして?理由もないのに、どうして別れられるの!」

「お前の、胸に聞いてみろ!」

「そんな言い方は卑怯よ!はっきり言ったらいいでしょう!」


「夫は私のことを知ったのだ。口が裂けても告白できない。もし、問い詰められても、〈知らぬ、存ぜぬ〉を通すしかない」とかおりは思った。

 そんな膠着状態が続いた。それでも、三郎はいつもの通り帰宅し、かおりは洗濯、掃除、食事の支度をした。別れ話が出ても夫婦の日常は欠かせない。残酷なものだ。いつしか寝室も一階と、2階に別れた。寂しくて夫のぬくもりが欲しい時がある。別れ話が出たと言っても、二人ははまだ、夫婦なのだ。


 三郎はかおりを拒んで言った。「お前は、ヨゴレテイル」と。


 言葉は暴力だ。一言で一刺ししてしまう。その言葉がかおりの心を打ちのめした。眠れぬ夜に睡眠薬は欠かせず、お酒に溺れ、今日が何日、何曜日かさえ判らない日を何日か過ごした。ハタッと、正気に戻ったかおりは、携帯を取った。電源オフにしていた携帯に電源を入れた。〈画伯〉と母からの受信が殆ど、〈画伯〉からの受信暦は異常なほど、やっと多村との約束を思い出した。おずおずと連絡を入れると、「心配したんやで、何かあったのか?」と問われ、「夫から〈別れよう〉とはっきり言われた」と、思わず言ってしまった。かおりの声は殆ど泣き出さんばかりの声だった。


心から心配してくれる多村に、かおりはメールの番号を伝え、二人のメールの交換が始まった。かおりはお酒も止め、診療内科に通院して、薬で何とか心の安定を保たねばならないほど、身体も、心もダメージを受けていた。

 三郎もさすがにかおりを気遣い、心療内科の受診を勧めてくれたのだ。家に居づらかったのだろう、自分の方から、3月末には出て行くと言った。

 そんなときに、多村からのメールはかおりの心の慰めになった。又、つらい気持ちも語れた。徐々に身体も心も回復に向かっていったが、「一人になって、どう生きていったらよいのか、自信もなく決断も出来ない自分」を考えると落ちこみも激しく、多村にメールの返事を返す事が億劫な日もあった。

 一番の慰めは母だった。母の家を訪ねたり、遠慮してあまり来なかった母も、三郎の留守に、かおりを気遣ってかおりの家を訪ねて来た。かおりは母が近くに居てくれるのが、これほど心強く思えた事はなかった。


p9

ニュースを見て、

《燃えている。私の故郷が。波に人家が飲み込まれて、流されていく。私の生まれ育った街が、町ごと流されていく。地は震え、海は千年の怒りを込めて波立った》かおりはそう思った。

 画面に映る映像が、アナウンサーの言葉が、俄かに信じられなかった。どうして良いか分からないかおりは、母に電話を入れた。母の声を聞いたら、泣けて、泣けてしかたなかった。電話の向こうの母も泣いていた。

 その晩、かおりは、父や叔父の夢を久しぶりに見た。《父と叔父が波となって現れ、かおりを飲み込んで、さらっていく。かおりは苦しくてもがく。『お前は、俺達を忘れ、故郷を忘れてしまった。だからお前をさらっていくのだ』と、波となった父と叔父の形相はものすごかった》

 恐怖に目覚めたが、それが夢だと気がつくのには暫く時間がかかった。夢から覚めたかおりは何か、深い思いに捕らわれた。父の夢はたまに見たが、いつも穏やかでやさしかった。あんな怖い父を見たのは初めてだった。


多村はその日、母親の受診に付き合い、三つの診療科を回り、老人施設から一時帰宅の母の買い物に付き合い。自宅に帰ってきた母に食事を作り、一緒に久しぶりの食事をした。母は話しに飢えていたのか、しきりに施設の愚痴を言った。あまり愚痴をいうような母ではなかったが、最近は多くなった。聞いてやるしかない。疲れと、話に付き合い、つい飲みすぎたので、TVのニュースを見るためにスイッチを入れたのは11時をまわっていた。

 ニュースは東北、関東で大地震があったことを伝え、大津波がこれらの地方の海岸を襲った事を伝えていたが、町が真っ赤に燃えている映像に、どうして津波と火災が関係あるのか暫く分からなかった。テロップが燃えているのは気仙沼であると流れた。


 そして、画面が変わり、津波に街が、町ごと襲われ、流されていくのを見た。多村は神戸の震災の揺れを経験し、翌日、市内に入りその惨状を目の当たりにしているが、津波の心配はなかった。あらためて津波の恐ろしさを知らされた。 三陸地方は度々津波を経験しているが、この様な津波は初めてであろう。

 気仙沼はかおりの故郷だ。かおりは〈雪がしんしんと降る音を聞きなが眠る思い出〉を語った。〈遠洋漁業のマグロ船が帰ってきた日の港の賑わい〉を語ってくれた。かおりの言葉を通して「どんなところだろう?」と、想像するようになっていた。いきなり見る映像がこれでは多村はショックだった。せっかく、前向きになりだしたかおりの気持ちが後退するのではないかと心配した。


 かおりは多村からその夜遅く「気仙沼の大変なこと」のメールを受け取った。あくる日早く、「かおりがこの事で、再度落ち込むのではないか。かおりの親戚や、知己の無事を祈る」と短いメールが入った。

そうだ、親戚のおばさんや、従姉妹はどうしている。仙台にいる百合子を思い出した。多村のメールを見て初めて気が付く程、かおりは昨夜から動転していたのだった。早速、電話を入れたが繋がらない。母に電話をしたら、昨夜、妹の所に電話をしたが不通で心配していると、消え入りそうな声で言った。


多村は翌12日福島の原発の爆発をテレビで知った。一瞬、一体、東の国はどうなっているのか?理解が飛んだ。


 津波の上に福島では原発が爆発事故を起こした。かおりはその日よりTVの画面に釘付けになり、新聞に気仙沼と書かれたとこは一行たりとも見落とさず読んだ。燃えている所や、家々が津波に飲み込まれていく映像は何度見ても衝撃的で、かおりの心は震えた。悲しみ、故郷の喪失感、そんなものを通り越していた。被災した人々の事、避難所の事、ひょっとして知った人がその画面に登場してこないか、見逃してはいけない、そんな事ばっかり考え、百合子に電話をかけ続けた。

 一週間後、百合子と連絡が取れた。気仙沼の実家に帰っていて、津波にあって、家も全てが無くなったが、家族は皆無事だったのが何よりだと百合子は語った。親戚の叔母の方の連絡は依然取れない。気長に待つしかない。


 かおりは親友が無事だったことを多村に伝えたメールで、偉い政治家の発言について「東北人を馬鹿にした発言で、怒っています」と添えた。


「不遜な思い上がった発言だと思う。政治家としても、小説家としても、人間としても。彼は都知事に立ったが、この期に及んでも、原発推進を言っている。それならば、東京湾沿いに作れと言いたい。天皇陛下のお膝元にこそ作れ、これほどの安全宣言はないのだから。福島も、新潟も全て東京の電力ではないか!東京は危険なものをいつも地方に押し付け、自らは繁栄をむさぼってきた。今回の災害で国家の危機が叫ばれているが、一番の危機はこの国の政治の劣化で、あの発言はそれを物語っている」と多村から過激なメールが来た。

 老いて益々盛んなのだ。「下は立たなくなられたが、ぜひ、都知事に立って欲しい」とそんなメールを返そうかとかおりは思って、苦笑してしまった。


p10

「あ、私は泣いていない」。 


かおりは突然、「故郷に帰ろう」と、決断した。そして、泣く事をやめた。60歳になる母の事を思ったが、「気仙沼に帰ろうと思う」と言ったら、「うん」と母は頷いた。母もかおりを頼って京都に来たけれど、寂しかったのだ。「大丈夫?」と聞くと、「お前より、沢山住んできたからね」と言って笑い、「海は山や川までは流さなかったしね」と母はかおりの手を取った。母の手はいつもあったかいとかおりは握り返した。


 決断すると、三郎のことも理解出来、見えてきた。「あの人は、先の見えない現実の中で、お父様の世界に帰りたいのだ。だったら、その様にすればいいのに。〈男の面子〉だか〈意地〉だとか、男ってなんと厄介なのだ」とかおりは思った。

「お父様の軍門に下がればいい。溺れて助かりたいとき、助けてくれる人があるなら、それにすがればいい。〈だから別れてくれ〉と私に言いさえすればよいのに…。他の言葉はいらない。私を貶める言葉で、あの人は自分のふがいなさを責め、自分を貶めた。弱くて、卑怯な主人。お父様に返そう。私も主人から解き放されよう」かおりは決意した。


「4百万円程どうしてもいる。何とかならないか?」と三郎はいった。かおりに言ったということは、借りられるとこは借りて、他はないということだ。少しあったのだけど、殆ど三郎から入らない状態で、手元には百万円ぐらいしか残っていなかった。それでも、かおりは何とか力になりたいと思った。


 あては、ママの田口良子しかいない。

良子は「いいわよ、ただし、分割で1年以内に完済が条件よ。来年店の改装を予定しているお金なの。利子、証文はなし」と用立てしてくれた。良子との約束は破れない、毎月30万円返さねばならない計算だった。

 祇園は夜からだから、昼間の手っ取り早くお金になる仕事はこれしかなかった。京都は無理なので大阪にしたのだ。「一年だけ」と言い聞かした。一年が過ぎて、お金は返せたが、三郎の会社も依然楽ではないようだった。お金もいったが、かおりはこの仕事がそんなに嫌ではなかった。そのあとも、無理でないペースで続けた。


「私を貶めたあの言葉の原因になった、あの3百万円だけは返してもらおう。私が身体を張ったお金だ。あの人は今、それもかなわない。人生は試練との闘いだとしたら、一文なしでは闘えない。闘いにはお金がいる」


 かおりは、岡崎仁左衛門を訪ねた。結婚前、南禅寺で会って以来である。全てを話し、「主人と話し合って欲しい」と述べた。そして、3百万円は返して貰いたいと言った。仁左衛門は黙って聞いていて、「明日改めて自宅の方に来て欲しい」と言った。

 あくる日伺うと、「息子を会社に帰す、帰さないは別にして、一度三郎とは、話し合ってみましょう」といって、二つの封筒をかおりの前に差し出した。

「一つは言われた金額。一つは私からの志、故郷に帰られる交通費だと思って欲しい」と云い、そして「貴女がどんな覚悟で帰られるのかは、存じ上げないが、今、貴女の故郷は大変だ。もしよかったら、この男を尋ねて下さい。昔からの知り合いだ」といって紹介状を添えた名刺を出した。かおりは三郎の父の好意を有難く頂いた。二つめの封筒には2百万円入っていた。渡された名刺の住所は気仙沼で、料理旅館の名前がそこにはあった。


かおりは、多村に気仙沼に帰ることの決意を手紙にした。メールでは短すぎて、心の思いは伝わらない。


《4月に入って桜便りも聞こえてきます。大好きな桜も今年は、涙で霞んで見る事が出来るだろうかと思っておりました。多村様とメールを交換し、励ましのお言葉や、楽しい雪だるまの添付されたお写真や、描かれた絵を写メールで送っていただいたりして、徐々に前向きになっていきました。でも、時には、一人で生きていく覚悟も、自信も出来ず、心細い思いに捕らわれて、落ち込んでしまう私でした。落ち込んだときはメールに返事も返さなかった事も度々でしたね。お許しください。心の重さを母以外に語れる人が出来た事は、どれだけ嬉しく、助かった事か知れません。多村さんから「今回の三陸の、地震、津波災害で持ち直して来ていた気持ちが、又落ち込まないか」と心配したメールが届きましたね。私も3日間ぐらいは頭が真っ白になって、何も考えられませんでした。親友や、親戚の安否確認すら、あくる日、多村様のメールを見てやっと気づく有様でした。故郷の惨状は何度見ても、心が震えました。

「突然、私の心に、原発ではありませんが、〈電源〉が入り、電流が流れたのです」としか言いようがありません。何もかも失っても気丈夫に振舞っている故郷の人々の顔を見ているうちに、「故郷に帰ろう」と思ったのです。父と母が元気で、水産加工の仕事をしていた加工場を思い出していました。父を海で亡くして、母のエプロンに縋って泣いた日を思い出しました。私は故郷を忘れてしまっていました。今回の津波は、そんな私に罰を与えるために来たのかと思えたぐらいです。夫との離婚話で泣いている自分が小さく思えたのです。人生が苦難や、試練の連続だとしたら、受けて立とうと思ったのです。泣いている暇はありません。故郷の喪失ではなく、故郷が蘇ってきたのです。そして私を後押ししてくれたのです。帰っても、寝る所もないのかもしれません。今は只、帰ってあの人達の中に立つ。それだけです。立ってから考えます。こんなに強い気持ちが湧き上がってきた事に、自分でも不思議な気持ちです。

 一番落ち込んでいたときに、多村様から戴いたお言葉は忘れません。私の励みにしていくつもりです。苦しいときはあの『私の絵』を見ます。絵は、戴いて帰ろうと思っています。神戸でお逢い出来るのを楽しみにしています》


多村はかおりに返事をしたためた。


《「待ちどうしい春の桜も霞んで見られるのでしょうか」と泣いていたかおりが、敢然と決断をしたのには正直驚きました。敬意すら感じます。故郷に帰るもよし、西の国に留まるもよし。今のかおりなら何処でもやっていけるでしょう。かおりが落ち込んでいるときに、「時間が沢山残っている人は、幸せになる努力をしなければなりません」と偉そうな事をいいましたね。私にも時間が残されています。時間がある限り、人間は努力せねばなりません。母の年まで20年。仕事も終え、一つずつ色んなことを終えていく寂しさや、90になる母の弱っていくさまを見るにつけ、老いの前におたおたしていたのです。貴女にえらそうに言ったのですから、これからは、決意をもって生きていこうと思っています。20年努力し続ければ、人の心に届く絵を描ける〈画伯〉になれるかも知れません。お別れではありません。20年後にお会いしましょう。かおりに逢えるためなら、20年、僕は死にはしませんよ》


 12月の実現しなかった約束を果たすべく、桜が満開の神戸で、かおりは多村と逢った。少し細ったけれど、元気になった笑顔を見て貰えることが出来た。「ルミナス」に乗り、海上のランチを楽しんだ。久しぶりの春の海の風は気持ちよく、海から見る春霞の六甲の山並みは美しかった。


「好きな人と暮らす。そしてその人の子供を産む」それが幸せだと思ってきた。勿論、大事な事だけど、全てではない。

 かおりは、〈幸せ〉をもう少し、広い、深いものとして、長い時間の中で捕らえて見ようと思った。20年、故郷は復興しているだろうし、そのときかおりはまだ55歳である。


多村は、二人の記念写真を撮ろうと言って、二人連れの若い女性にカメラのシャッターを頼んだ。二人は六甲を背にして並んだ。

 西の国はこんなにのどかなのに・・・。かおりは改めて日本列島の長さを思いやった。三陸に住んでいた頃、西の国の桜便りを聞きながら、桜前線が東の国に早くやってこいと思ったものだった。

 かおりは明日、東の国に旅立つ。正確には「帰る」のだが、かおりには「旅立ち」のように思えた。


            了 




拙いけど、初めて書いた小説で、私に取っては感慨深い小説である。

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