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NINE'S GATE

作者: 鈴河悟

【序幕】

その日はありふれた一日だった。

世界中のほとんどの人間が、目を覚まし、ものを食べ、働き、または学び、あるいは戦い、そして寝る。その日に生まれた者もいる。死んだ者もいる。国家元首は政治的な英断を下し、社長は資金繰りに頭を悩ませ、戦場では新兵が初めて人を殺していた。労働者は帰りがけの一杯を楽しみに汗を流し、ある患者は今日も意識が戻らずにいた。ある女性が息子の戦死を聞いて泣き崩れ、ある中年は競馬を当てて上機嫌だった。学生は講堂で居眠りをし、麻薬中毒の患者は禁断症状を起こし、ある老人は近所の後家のことを一日中考えていた。ある地域の子供は炎天下の下で餓死し、ある女性は高級レストランで口説かれていた。

全ては日常の一風景でしかない。太陽は東から昇り、西に沈んだ。そのスケールで言えば、何一つ特別なことは起こらなかった。

そんなごくありふれた一日だったが、その日、世界にとって重大な『死』が起こっていたのを知る者は少ない。


その日、日本の学生、月岡拓真は、不慮の交通事故に遭い死亡した。信号を無視して突っ込んできた車に、十メートル近く跳ね飛ばされた。彼は頭を下にして、アスファルトの地面に着地した。現場は騒然となり、すぐに病院に運ばれたが、搬送先の病院で彼の死亡が確認された。

その日、ロシアで女医を務めていたエレーナ・イコリノビッチは、大量の睡眠薬を飲んで昏倒していた。連絡がとれないのを不審に思った友人が、彼女の遺体を発見した。発見当時、ベッドルームには睡眠薬の錠剤がぶちまけられていた。

その日、中国の港湾部で、警察とマフィアの銃撃戦が行われた。当局の捜査官、李飛音は数人のマフィア構成員を射殺するも、業を煮やしたマフィアが放った銃弾を腹部に食らい、体をくの字に曲げてその場で死亡した。

その日、アメリカの数学者ハワード・ハントは、仕事場へ向かう途中、車ごと崖から転落した。ガードレールを突き破り、岸壁を削って海に真っ逆さまに落ちた。彼は研究に没頭するあまり、十分な睡眠をとっていなかった。

その日、ドイツの片隅で、クランツ・ベルガーは心不全を起こし、仕事場の整備工房で倒れた。しばらくもがいた後、彼は動かなくなった。変わり者の機械屋として知られていた彼のところには、ほとんど訪れる者はいなかった。

その日、公式の記録には残らない戦場で、ジェフリー・ワイズはライフルを握っていた。祖国を想い続けた彼は、敵兵の投げた爆弾によって命を絶たれた。司令部は、彼の心臓ビーコンが反応を消失させたことに少なからず動揺した。

その日、地中海の海底に、サハク・アリドゥ・アルドゥエルは潜っていた。目の前にある沈んだ遺跡を興奮気味に眺めていたが、不気味な音が突如響き、機器の些細なミスが致命的な事故を発生させ、アルドゥエルは海底に没した。

その日、イタリアのナポリのある私有地では処刑が執行されていた。はぐれ者の殺し屋だったファルコ・クローチェは、あるマフィアに捕まり、凄絶な笑みを浮かべて銃殺された。それを見たマフィアのボスは、忌々しそうに唾を吐き捨てた。

その日、ペルーの山中では、粗末な家のベッドで、ティトと呼ばれた少女がいましも死のうとしていた。流行り病はまだ小さな彼女を蝕み、静かに死に至らしめた。彼女が最期に見たのは、耳障りな羽音を立てて飛ぶ蠅だった。


そんな、世界から見ればありふれた九つの死。心肺停止、脳波の消失。彼らの死は間違いなく、現代医学で言う「死」だった。

ただ、それらの死は、グリニッジ標準時、午前零時十二分のことだった。彼らの死に共通点を見出すなら、全くの同時刻に九人は死んだということだった。

そしてその時、世界中に情報網を持つ【委員会】と呼ばれる組織が動き出した。彼らが探し求めているのは、その時刻に死亡し、十二時間後に「復活した者」たち。委員会はそれが、世界中で九人いることを知っていたが、誰が該当するのかはわからなかった。

だが、委員会は彼らに、何としても接触しなければならなかった。

そして九人は復活する。唐突に、物理法則の外で、彼らは復活した。

先の九人に接触した委員会は、彼ら九人を「NINE’S GATE」と呼んだ。


それから一月が経った。


東京都内の池袋駅は、今日も多くの人間が行き交っている。その時間はちょうど、山手線から降りた客でごった返していた。いけふくろうの像から延びる、改札から東口へ向かう地下通路には、様々な店舗が軒を連ね、人通りも多い。さらに行くと西武百貨店地下の連絡通路「アゼリアロード」となる。そこは簡素な通路であり、足早に通り過ぎる人がほとんどである。そこで立ち止まる人間はあまりいない。故に、その男は目立っていた。

それは和装の偉丈夫だった。藍色の和服を見事に着こなし、その上に濃紺の羽織を羽織っている。威厳を感じさせる人物だ。彼は、通路の一角に立ち止まっている。彼の前には簡素なベンチが据えられてあり、そこに、一人の男が力なく座っていた。

ぼさぼさの髪が男の顔を覆い隠していた。時折見える素顔はシャープな輪郭で意外に若い。だが無精髭が伸び、まるで古武士のような風貌であった。薄汚れたシャツとスラックスを着込み、何をするでもなく、ただ力無く座っている。

二人の、全く正反対に見える男たちが、人の流れゆく中、頑として対峙していた。

「……月岡君」

 和装の男、神城孝明はゆっくりと口を開いた。月岡拓真は、その声に反応を示さない。

 神城はただ、じっと拓真を見下ろした。

「委員会からの書簡を持ってきた」

 神城は懐からファイルを取り出すと、拓真に差し出す。しかし拓真はそれを見ることもなく、ただ虚空を見つめている。

「……一月前、私が言ったことを覚えているかね?」

 拓真は応えず、神城も答えを期待していたわけではなかった。

「君が見たものを、私は理解できん。私だけではない、世界中の誰も、君の絶望を共有することはできないのだ、と」

人波は途切れることなく続いている。ベンチに座る男と、その前に立つ男のことなど、誰もが視界に収めながらも意識しないでいた。

「私も、委員会の一員とはいえ所詮はただの人間だ。ここを通る多くの人々と同じように」

 月岡拓真はわずかに身じろぎした。

「だから、君に……君たちに相対する時、私は必死に虚勢を張っている。委員会の存在そのものが、結局は虚勢にすぎんからな。だが……」

僅かに俯き、横目で人の流れを神城は見やった。

「委員会は、『人間たちの総意の代行機関』なのだ。最大多数の最大幸福を、できうる限り実現するための、な」

 神城は拓真の脇に、ファイルを立てかけた。

「だからこれは、私たちの言葉は全て、願いや祈りに過ぎない。叶えるかどうかは君次第だ」

 拓真はぎょろりと目を上げた。

「……頼んだよ」

 神城は哀しそうな笑顔を浮かべて拓真を見つめ返した。

「……一つ、聞かせてください……」

 暗い目を向けて、拓真は呟いた。

「こんなことで、本当に……本当に世界が変わると思っていますか?」

 神城は僅かに口を綻ばせ、力無い笑みを作った。

「だから、『総意』だと言っただろう。変わればいいな、と、人間の誰もが思っているのさ」

 そう言い残し、神城は雑踏へ消えていった。


【エレーナ・イコリノビッチ】

「お久しぶりです、月岡君」

「……エレーナ……さん……」

長身痩躯、金髪を後ろで束ね、美しい顔の鼻先に丸い眼鏡をかけた白人女性、エレーナが、ベンチに座り込む拓真を見下ろした。淀みなく日本語を紡ぐ声は、冷気がこもっているかのように張りつめて冷たい。

「神城教授から話は聞いているでしょう?」

 エレーナは拓真の傍らのファイルに目を留めると、ひょいと拾い上げた。中をぱらぱらとめくる。

 美しい顔立ちが、少しだけ不快そうに変化する。

最後のページをめくると、署名欄が九つ並んでいた。そのうちの一つに、「エレーナ・イコリノビッチ」と署名する。

「では、あとを宜しくお願いします」

「……エレーナさんは、怖くないんですか?」

「怖い? 何のことですか?」

「自分のやることが本当に正しいかどうか、間違っているのではないか、と」

 エレーナは不意に表情を翳らせる。そして、

「もう、やめましたから」

 手をかざすと、不意にエレーナの掌に氷が生まれた。それは物理法則を無視して、全くの無から出現していた。

「間違っているかどうかなんてわからないし、もうどうでもいいんです。考えるだけ無駄だと思います。でなければ……」

 掌の氷を睨んで柳眉を歪める。

「こんなものの存在を受け入れられません。間違いというなら、これこそ間違いでしょう」

 拓真はぼんやりと、その姿を見つめていた。


【ハワード・ハント】 

池袋駅の地下に、一際目立つ存在があった。鮮やかな金髪に、顔を覆う豊かな髭。視線が全く読めないサングラスをかけた大男である。雑踏の中、人より頭二つ分は出ている。明らかに、この日本人の人波では浮いていた。典型的なアングロ・サクソンの風貌だった。

一歩一歩、大地を踏みしめる様な歩きぶりに、通行人もさりげなく注目している。白い通路を曲がると、彼は立ち止まり、足下を見た。それは本当に足下を見た様にしか見えなかった。男は大きすぎ、その視線の先、座っている拓真は、あまりにも小さく見えたからだ。

その体格の差は圧倒的だった。男がその気になれば、軽々と拓真を踏み砕けるだろう。だが拓真に、微塵も動揺は見えない。

「我々の力は、何のために授けられたのだろうな?」

 深みのあるバスの声が拓真へ語りかける。その言葉は、スタンダードな英語だった。

「世界の終わりを見た。何故かは分からない。だが、それから我々に変化が起こった。我々は、それに何か意味を持たせようとしている」

 そこで彼は一息を入れ、声を落とす。

「タクマ、私はな、あれから教会に行っていない。今まで日曜のミサを欠かしたことがない私が、だ。私は神が信用できなくなった。私たちのような脆弱な者に、力を授けてしまうような、無責任な神がな」

「神なんか、いるもんか」

 吐き捨てるように拓真が答える。だがその眼は、じっとあてもなく宙を見ている。

 しばしの沈黙。二人の姿勢は、さっきから少しも変わっていない。

突然、拓真の前で放電が走った。衝撃で風が巻き起こり、拓真の髪が後ろへと吹き流される。露わになった拓真の素顔はしかし、何の感動も動揺もない。

「……Shit……」

 大男、ハワード・ハントは小さく毒づいた。のっそりとファイルを掴み、最後の署名ページに名を書きながら、

「どうして神の存在を信じられないのだろうな。この、物理現象の外にある力が存在することこそ、神の存在を示しているじゃないか」

「……じゃあ、なんでこんなこと、しなくちゃいけないんだよ?」

 拓真の見つめるファイルを見て、ハワードは小さく肩を竦めた。

「決まっている。戦争は人が作り、人が始めたものだ。だから終わらせるのも人であるべきだ。そして私は人なんだよ、タクマ」

 ハワードはそう言うと、ファイルを拓真に投げて渡した。


【李飛音】

 髪の長い、紅いスーツ姿の女性が颯爽と歩いてくる。目つきがやや鋭い。会社帰りの、やり手の女社長のような雰囲気を持つ女性、李飛音は、人の波を音も無くすり抜け、少し人通りの少ないアゼリアロードへと入った。

 少し歩くと飛音は立ち止まり、壁際へと歩いていった。そしてすこし視線を下げる。そこには長髪痩躯の男がいた。拓真である。

彼の前に、飛音は凛として立った。彼女の左脇はどことなく膨らんでいる。均整のとれた体つきに、そこだけが不自然だった。

 飛音は無言でファイルと取り上げると、さらさらと自分の名前を書き込む。そして押しつけるように、拓真へ突き返した。それでも無反応な拓真へ向けて、言葉を放った。

「……そろそろ立ち上がったらどうだ、月岡」

 飛音は冷ややかな目で拓真を見下ろした。

「お前がこうしている間にも、人は死ぬ。力があるのに行使をためらう者は害悪だ」

 拓真がうっすらと、ほんの少しだけ唇の端を上げた。

「……大義名分、ですね」

 飛音の瞳が、酷薄そうに小さくなる。そして唐突に、飛音を中心に突風が生まれた。だがそれはすぐに収まる。通行人が呆気にとられて辺りを見回していた。

「大義名分、か。間違ってはいない。否定もしない。偽善もまた正義だ」

重い音を立てて、飛音はベンチを踏みつけた。飛音の右足は拓真の顔のすぐ横を伸びて拓真を威圧する。そのまま顔を近づけ、飛音は拓真へ詰め寄った。

「……あの夜、私はこの世の終わりを見た。腹に鉛玉をぶち込まれ、遠のく意識の先に、『荒れ狂う嵐に薙ぎ倒されていく世界』を見たのだ」

 拓真は飛音の強い視線を一身に浴びる。飛音の掌で、風を切る音が小さく響いた。まるで掌に、極小の台風が封じられているかのように。

「なるほど、これは世界を滅ぼす力だ。だがな、力などただの道具だ。銃と同じだ。それだけは自信を持って言える。振り回されるな、見誤るな。眼を背けずに前を見ろ。恐れは敵に利するだけだ」

 拓真は胡乱な眼を飛音に向けた。

「どうしてそんなに自信がもてるんですか……?」 

「当然だ。でなければ、私は、人の心まで捨てた事になるのだから」

 それ以上は何の反応も示さない拓真を見下ろし、飛音は表情を変えずに歩き出した。


【サハク・アリドゥ・アルドゥエル】

「実に興味深いね」

アルドゥエルは署名したファイルを拓真に手渡した。その顔には薄く笑いが張り付いている。

「人類史上の謎のほとんどが、説明がついてしまった。僕ら考古学者も失業だな。何せ委員会の連中は、地球史の全てを見ているのと同じなんだから」

 中東系の顔立ちで、浅黒い肌の青年アルドゥエルは、肩をすくめて苦笑交じりに言った。

「だが、発表するわけにはいかない。全くままならないね人生は。知りたいことが知れた時には、それに価値を見いだせなくなってしまう」

 アルドゥエルは人の流れに目をやった。親子連れが笑いながら通り過ぎていく。

「果たしてこの世の何人が信じると思う? 人類は四十六億年前から地球に存在し、幾度も世界や文明を滅ぼした、なんて。そしてそれは、ほんの一握りの、九人ぽっちの人間の意志だったなんてことをさ」

 拓真はその言葉を聞き終わるか否かの瞬間、アルドゥエルを見つめた。その目は、どんな人間でも気づけるほど、強い殺気を放っていた。視線が、物理的殺傷力を持っているかのようである。アルドゥエルはその視線に退き、数泊呼吸を整えてから、口を開いた。

「……悪いね。だが好奇心こそが人の証だ」

 そう言って不意に指を振る。床に落ちていたタイルの破片が、ぐしゃりとつぶれ、粉々になった。まるで見えない超重量に押しつぶされたかのような光景だった。

「僕が見たのは暗闇に落ちていく世界だった。そんな『滅び』の可能性もあるなんてね。考えもしなかったよ」

 拓真の顔により険が浮かぶ。

「勘違いしないでくれよ。僕はこの力でどうこうしようって気はさらさらない。委員会に対しても実に肯定的だ。『この世界を滅ぼさないでほしい』ということのためだけに作られた組織。実に人間らしく、共感できるじゃないか」

「……あんたには、迷いはないのか?」

片眉を器用に上げると、力を抜くようにアルドゥエルはふっと笑った。それは拗ねた弟を見る兄のような、優しい笑みだった。

「迷うことと立ち止まることは意味が違うのさ。立ち止まっては何も得られない。迷っても進めば、何かが見つかるかもしれない」

 アルドゥエルは人差し指を掲げて続けた。

「この違いは大きいよ。特に人生においてはね」


【クランツ・ベルガー】

拓真の隣に、白髪の老人が座っていた。髪だけでなく、顔を覆う髭も真っ白だ。わずかに見える眼は、深い時間を経た輝きを持っていた。彫りが深く、外国人のようである。その分皺も深く刻まれていた。作業服の様なものを着込み、ベンチにどっかりと腰を落ち着けている。

老人は歩いていく人々を眺め、見送った。

指を掲げて、銜えた煙草の先につける。一瞬だけ光が生まれ、煙草に火がついた。老人は生じた紫煙をうまそうに吸い込む。

「のう、月岡よ。ここは、ずいぶんと人が多いな」

 のんびりと言い、煙を吐き出した。

「多すぎるわ。こうして見ていると、いっそひと思いに『扉を開いて』しまおうかと思ってしまうの」

 その瞬間、拓真が横目でぎろりと老人を睨みつける。

「冗談だ、冗談。お前はカタブツだな」

 老人は髭を揺らして笑った。

「お前さんのいる前でそんなことができるわけがなかろう。そのための連名契約だからの。どれ……」

 老人は拓真の脇のファイルをとった。中身を斜め読みし、最後のページに名前を書く。「クランツ・ベルガー」というドイツ名が記された。

「儂ら九人の署名を以て、『力の行使』を認める。要は体のいい相互監視だな。誰かが勝手に力を使えば、他の誰かが阻止し、報復する。なかなかうまい手だ。そう思わんか?」

 拓真はぷいと、視線を戻した。ベルガーは苦笑して続けた。

「何のことはない。ようは東西冷戦と同じよ。力と力を均衡させて平和を維持する。なんとまあ前時代的なシステムだの。だが……」

 ベルガーは煙を吸い込み、盛大に吐き出した。 

「月岡よ。……儂らは、人を減らす為にわざわざ生き還ったのか?」

煙を吐きつつ、大きなため息をつく。

「神城も、委員会ももしかしたら誤っているかもしれん。儂は昔、よく見たよ。他人の運命を握っている、という眼をした連中を、な。そいつらの多くは、単なる思い上がりの馬鹿共だったがな。しかし、お前さんは、儂らは違う……」

そこまでいって、不意に苦笑を洩らした。

「それも思い上がりだな。ただの『世界を滅ぼす力を持った』だけのつまらん人間だ」

 ベルガーは大儀そうに立ち上がり、ファイルを手渡すと拓真と相対した。

「痛快じゃないか。忌々しい武器を葬れるんだ。どうせ滅ぼすのなら、そういうものを滅ぼしたいだろう?」

 紫煙が、雑踏へ消えていった。


【ファルコ・クローチェ】

 ホームに電車が到着した。降りてくる人波が、駅構内を埋め尽くす。人の流れはやがて、いくつかの支流に別れ、流れゆく。

薄汚れた拓真の前にも人波が流れてきた。それはものの一分もしないうちに姿を消し、さざ波のようなざわめきだけが残る。

 拓真が座る一角の、通路を挟んだ反対側の壁に男がいた。ちょうど、拓真と正対するかたちになっている。色素の薄い髪をオールバックに、白いスーツという、少々派手な出で立ちだ。  

だが、道行く者はそんな印象は持たなかった。皆、彼の前をそそくさと、足早に立ち去っていく。息を潜め、逃げるように。

 彼は嗤っていた。唇の両端を高くつり上げ、細い切れ長の眼をつり上げて、音も立てずに嗤っていたのだ。その表情と気配が、人の中の、野性的な生存本能に警戒を抱かせている。

やがて、アゼリアロードが封鎖されたように人通りが絶えた。人は皆、その通路に差し掛かると足を止め、逡巡したあと、踵をかえし道を変える。また幾人かは、そこに立ちこめる不思議な威圧感に興味を持ち、わずかながら人だかりを形成しつつあった。

 威圧感の正体。それは、嗤う男だけではない。その正面の、座ったままの拓真からも発せられていた。誰かが声を発しているわけではない。だが、空気の振動が、段々と大きくなり、一つの言葉を形作り、そして合唱のように響き出す。

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す……!」

それは、純粋にして濃密な「殺気」。眼の前にたたずむ男に向かい、矢の如く投げかけられていた。嗤う男は、ゆっくりと拓真の方へ歩み寄っていった。殺気を十二分に浴びている。だが、シャワーでも浴びているようにほほ笑み、せせらい、嘲り、笑みを絶やすことなく、男は拓真の前に立った。

「お久しぶり、拓真くん」

嘲笑の響きを持って、男は拓真を呼んだ。

「相変わらずだね、君は。とっても心地いい」

拓真の眼は、紅く、じっと男を見つめている。

「…………クローチェ……!」

「くっくっくっ……。君に殺されるのも一興だけど、やっぱり委員会は許さないだろうね。ざーんねん」

クローチェはかがみこみ、拓真と目線を合わせる。嗤ったまま、手首をスッと曲げて伸ばす。手には、細身のナイフが握られていた。それの煌めきと、照り返される自分を愛おしそうに見つめ、クローチェは語った。

「殺しは楽しくて仕方ない。けど、君たちみたいに、これだけの力を持っているのに、正義の味方じみた事をやるなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある」

 いつの間にかファイルを手にし、「ファルコ・クローチェ」と署名していた。それを拓真に投げ渡すと、クローチェは見物人の方に顔を向けた。何人かが思わず後じさった。

「ま、相手が軍隊なら、なかなか殺し甲斐もあるかな。……ここも人が多い。少し、運動してこようか……」

 クローチェの嗤いが強く禍々しくなった。

「……てめえは、考えたことねえのか。俺たちがどうして『扉の向こう』を見て、力を得たのか……」

 拓真の言葉を、クローチェが冷ややかに聞き流す。

 その向こうから、五人の警察官が走り寄ってきていた。

「考えた結果、こんなところに座り込んでいるのかい、君は? ご立派だね。拍手を送るよ。僕がその気になれば、この世界の時間はたちどころに停まるというのにね」

「俺がその気になれば、この世界は炎で灼き尽くされる……」

 クローチェは笑みを強くした。その後ろから、警官が彼を押さえつける。

「か、確保! 凶器を離しなさい!」

 両手を押さえられて、膝をつかされたクローチェはなお、嗤っている。

「僕達の力の使い道なんて、勝手に決めればいい。世界が下らなく、守る価値が無いように見えたかい? そりゃそうさ。世界は下らないし、守る価値も無いんだから……」

「うるさい! 黙らんか!」

 警官が怒鳴るが、クローチェの嗤いと余裕と言葉は消えない。

「だが、世界は下らないからこそ面白い。僕としては、今しばらくこの世界を楽しみたいと思うよ。だから委員会の命令も聞くさ。だって世界が滅んだら……」

 クローチェの目が弓なりに細くなった。

「殺しも楽しめないだろ?」

 瞬間、警官達は支えを失い前につんのめる。そんな彼らの後ろに、クローチェが立っていた。しかし、その顔は嗤ってはいない。

「……ふん。やっぱり君は、正義の味方ぶってるね」

 手に、消し炭が握られていた。

「いつか、君が僕を、殺せる日が来るといいね」

 そう言って、雑踏をこえ、その向こうへ消えていった。


【ジェフリー・ワイズ】

夜の六時頃から、会社から帰宅する者達で駅構内は混雑する。皆似たような背広を着て、慣れた様子で歩いていく。その中の一人が、それらの歩みに紛れて、拓真の前に現れた。

「やあ。何人がきたかね?」

「……ワイズさんで七人目です……」

ジェフリー・ワイズという男は、生真面目そうだが、無表情であった。見た目はごく真っ当なサラリーマンといったところだ。アジア系の風貌だが、れっきとしたイギリス人であり、歴戦の勇士でもあった。

「そうか。個人的には、あまり気が進まないがね……」

 ワイズはファイルに署名をした。美しい筆記体が、署名欄に記される。署名欄の空欄は、あと二つとなった。

「……なら、なぜ?」 

「ふむ。……私は今、ただの傭兵だから、かな。乞われれば戦う。個人的感情は二の次だ。それは扉の向こうの、『世界の終わり』を見たからといって変わらない」

「……信念、ってやつですか」

「信念、か。美しい言葉だとは思うが、いささか手垢にまみれているね。信念は頑迷の親類だ。頑迷は柔軟さを損ない、柔軟さを損なった兵士は死ぬ確率が上がる……」

 ふと苦笑し、

「結局、私はそこなのだろうな。生か死か、それだけが興味の対象なのだ。生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ、なんてね」

 拓真は声を殺して笑うワイズを不思議そうに見つめた。ワイズは拓真に笑顔を向け、

「君は、どうやら色々と迷っているようだな。迷いは心を成長させる。大いに悩むといい。だが……」

 掌をふわりと掲げ、ワイズは表情を消した。

「今、上空一万メートルに水の塊を作った。この駅舎に落下するまでおよそ一分だ」

 拓真は目を見開いた。

「数十万トンの水量だ。まあ、駅舎は崩壊し、中の人々も圧死するだろうな」

「どうして……」

「なに。多くの魂とともに、天に召されるのも悪くないだろう?」

「……できると、思うんですか?」

「…………我々は皆、そう願っているよ」

 地下通路を何人もの人間が歩いていく。幸せそうに、または不機嫌そうに、あるいは何かに追われるように。ただ誰一人、自分があと一分足らずで死ぬとは考えてはいない。

「……俺が、俺たちが見たものは、本当に『世界の終わり』だったんですか?」

「さあね。今となってはわからんよ。ただ……力だけは、確かにある」

 三十秒

「ワイズさんは、何故、と考えた事、ありますか?」

「もちろん。私は平凡な人間だよ。だからこそ、こんな私に何故、何のために、と苦しんださ」

二十秒

「だが……価値を見出すのが、そんなに重要かね? 神城教授、いや、委員会の言う事は、きっと正しい。我々は、この世界を滅ぼす者なのだろう……」

十秒

「だが……それがどうした?」

五秒

「……くそ」

拓真は吐き捨て、ワイズが薄く笑った。

一秒が過ぎ、二秒が過ぎ、何事もなかったかのように、人々は通り過ぎていく。

「……ほら。力を使っただろう。必要に迫られれば、使わざるを得ないのさ。そこに善悪の入る余地は無い」

 肩を竦め、少し得意げにワイズは言った。

「……わかってますよ、そのぐらい」

「そうか。余計なお世話だったかもしれんね」

ワイズはファイルを手渡した。じろりと見つめ返し、拓真は受け取った。


【ティト】

 少女は異質だった。駅の中を歩く人波にまぎれて、少女はごく当たり前に歩いていく。薄手のワンピースの裾が揺れ、ショートにした髪が規則正しく動く。十歳ぐらいのその少女は、肌がほんのり浅黒いことを除けば、どこにでもいる少女だった。だが、

「……ティト、か」

 床に座りこむ拓真は、ちらりと顔を上げて少女を見た。

 少女はじっと、拓真を見下ろしている。その眼は拓真に向けられていながら、拓真を映してはいなかった。それどころか、この世のどんなものにも向けられてはいない。人が認識できる枠の、さらに外にある者の視線だった。

 拓真は眼を伏せる。悔しそうに小さく歯ぎしりをすると、

「…………」

 無言でファイルを少女、ティトに手渡した。

 ティトは小さな手で、ファイルを開く。そして最後のページに、たどたどしく名を書き連ねた。

二人は視線を交わす。生まれた国も時代も、話す言葉も違う二人。だが、その眼には同じ光が宿っていた。恐怖、畏怖、絶望を目の当たりにした眼。揺らげば闇へ落ちる魂を、必死に繋ぎとめている者の眼だった。

二人の違いは、それらにただひたすら耐えている者と、受け入れて人に在らざる領域に踏み込んだ者の違いでしかない。

「……わかったよ」

 ティトは小さく、ほんのわずかにうなずくと、背中を向けて歩き出した。


【月岡拓真】

拓真はファイルをめくった。

各種の衛星写真が貼られ、論文が掲載されていた。そして、ある箇所の地図が、緯度、経度とともに記されている。それはある大陸の、砂漠のど真ん中を示していた。

「……反物質、爆弾」

 そこには、某国が反物質を弾頭に搭載したミサイルを基地へ配備したという情報が記載されていた。反物質は通常物質と反応して対消滅を起こす。その際、反物質の質量の二百パーセントがエネルギーに変換される。純粋な破壊という意味において核、純粋水爆を超える。兵器にするにはあまりに強力で、人の領域を逸脱した兵器だった。

「……こんなことして、何か変わるのかよ……」

 口の中で拓真は呟いた。

 ファイルには、反物質爆弾を最大の人類の危機と考え、これの消滅を希望する、という委員会の意思が込められていた。

 拓真は最後のページをめくった。そのページには、九つの言語が同じ言葉を綴っていた。

『世界のために【扉をかすかに開くこと】を許可する』

そしてその下に、八つの名前が書かれていた。

「エレーナ・イコリノビッチ」

「ハワード・ハント」

「李飛音」

「サハク・アリドゥ・アルドゥエル」

「クランツ・ベルガー」

「ファルコ・クローチェ」

「ジェフリー・ワイズ」

そして「ティト」。

 空欄はあと一つだった。

 雑踏の中、拓真は空欄をじっと見つめていた。

 それは、絶対の力の行使を許す調印。

『世界の終わりが始まる扉』の向こうを覗いた者たちによる同意書。

わずかに天秤が傾けば、世界を滅ぼすことになるもの。

 拓真はペンを握りしめ、一画ずつ、噛みしめるように己の名を書いた。「月岡拓真」と。

 ファイルの最後のページに九つの名が記された。

それは、「世界の終わりが始まる扉」の向こう側を見た九人が、「扉をかすかに開く」ことを許したことを意味していた。 


【終幕】

赤茶けた砂漠の中に基地があった。

その基地は軍事的、政治的に「重要な意味」を持つ場所であり、そして今、基地防衛のための全戦力が集結していた。戦闘ヘリと戦闘機が飛び交い、戦車が隊列を組み、装甲車を中心に歩兵部隊が展開している。

それを遠くに見下ろす岩山に、八人の人影があった。

彼らは互いに言葉を交わすことなく、静かに砂漠を見つめている。その中の一人、ファルコ・クローチェは唇を歪めて、楽しそうに振り向いた。

「やあ。遅かったじゃないか」

 岩肌を踏みしめて、拓真が立っていた。

「やっと動く気になったか」

 飛音は横目で拓真を見、呟いた。

「これで、全員だな」

 クランツは煙を吐き出し、煙草をもみ消した。

「では、契約通りに。『誰かが暴走したら、他の者が止める』ゆめゆめお忘れなきように」

 可笑しそうにアルドゥエルは口にした。

「一番不安な奴がいるがな」

 ハワードが苦々しく言い、クローチェを睨んだ。気にする風もなく、クローチェは肩を竦めた。

「……あの人たちは、世界に『いらない』と判断されたんでしょうね」

エレーナはぽつりと呟いた。砂漠の風が、砂ごと強く吹きぬけた。

「もっと単純な力学で思考するべきだ。我々がスマートな破壊を行えば、世界はこのまま存続するだろう。良くもなく、悪くもない世界がな」

 ワイズは双眼鏡を目から離した。

「さあ、始めよう」

 

すべては突然に起こった。

青空を切り裂いて、巨大な雷が装甲車両を貫いた。

一瞬の煌めきの後、戦車群は砲塔や装甲を光線で切り裂かれ、爆発した。

異常な強風が吹き荒れ、戦闘ヘリはメインローターを根元からもぎ取られて墜落した。

戦闘機は翼が凍りつき、制御を失って墜落した。

地響きをたて、厚いコンクリートの防護壁はぐしゃりと潰れて地面に広がった。

そして砂漠の真ん中のはずの基地が不意に翳った。

一人の兵士が空を見て、彼の母国語で、小さく呟いた。

「……この世の終わりだ……」

空を覆う津波が基地に襲いかかった。大量の水が、歩兵、戦闘機、資材、車両を押し流した。

兵士の誰かの呟きは、水にのまれて消えていく。

基地の中では、完全武装の兵士たちが油断なくアサルトライフルを構えている。ある兵士が、額に汗を浮かべた。汗の玉が垂れ落ち、頬に到達する頃、兵士たちは銃を構えたまま、皆一様に喉を切り裂かれ、壁に、床に、銃に、大量の血をぶちまけて倒れた。

 血染めになった通路に、浅黒い肌の少女が立った。ティトの顔に表情は無い。

即死できなかった兵士たちの、「ああ」とか「うう」といった、地獄からの呼び声の様な声がひっそりと聞こえる。

ティトが通り過ぎ、消えた。通路を静寂が支配した。うめき声を上げる者は、一人とていなくなった。

地上では、太陽が容赦なく砂漠を照りつけていた。そこに、月岡拓真は立っていた。暗い目は何も映してはいない。

地響きと共に、砂漠から大きな円筒形の物体が飛んでいく。それは空中で小さな羽を広げ、空高くを目指して飛び始めた。

「……くだらねえ。他の奴らも、委員会も……。こんな力があって、こんなことしかできねぇのかよ……」

 拓真は手をかざした。

「基地を襲って、爆弾を消して……だからなんだ?」

 眼をぎらつかせ、この世の全てを睨み付ける。

「全部消す以外に……世界が変わるわけ……ねぇだろ!」

その眼の奥、拓真だけが見える世界。

暗く大きな扉が、僅かに開いた。

その奥から、光と共に紅蓮の炎が溢れ出る。

ミサイルは照りつける太陽と、真っ青な空の中に、花火の様に飛んでいった。次の瞬間、眼の眩むような光が生まれた。


三秒ほどの輝きが消えた。


後には、先ほどと何も変わらない、青空が広がっていた。

                               


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