彼女は太宰治を食べたいと言った
今日は和食を食べることにした。一人分だけを自炊するのは中々面倒な作業だ。
「秋刀魚の竜田揚げにほうれん草のお浸し、大根の漬物とワカメのお味噌汁」
彼女は僕の目の前に並んだ料理を見て一つ頷いた。
「野菜がもうちょっと欲しいけどまあいいと思うわ。ところで、デザートはあるの? 」
どうやら今日はギリギリ合格点らしい。自分は全く食べないくせに、人の食べる料理にはあれこれ難癖をつけては健康についてよく語るのが彼女の癖だ。
「僕は甘いものが好きじゃない」
糖分が欲しければ、コーヒーに角砂糖を一つ溶かす。それで十分だ。
「ああでも、君の文はあるよ」
昨日買ってきたとっておき。
ショートカットの可愛らしい新人女性店員が接客するレジに並ぶのは少し恥ずかしかった。
いつものおばちゃんのほうが愛想はないが気は楽なのだ。
「ハーレクインの、新人作家。君の好きなアラビアンナイトの王子様が出て来る」
表紙には砂漠と星空の写真が印刷されている。
「わあ。新人さんのなのね、今日は甘ったるいより甘酸っぱい気分だったからちょうど良かったかも。ありがとう」
目を輝かせる彼女を見ると僕もただの紙が美味しそうにみえてくるから不思議だ。
……いや、やっぱりないな。
彼女は本が大好物だ。本を食べる。
そして正しく理解する。文字の意味を、配列を、言葉の普遍性を、作者が込めた『たましい』を。
作家になればいいのに、と以前に言ったことがあるが、「食べ専」とバッサリ振られてしまった。
「デザートは後にしよう。ねえ、良かったらだけど、本当に良かったらだけどさ――」
僕は慎重に、彼女の機嫌を損ねないように念を押す。
彼女の前に置かれた白い大きめの洋皿はまだ空だ。
その左右にはナイフとフォークが鎮座している。
僕は膝の上に置かれた校正済みの原稿用紙にそっと手をかけた。
中々の自信作である。彼女が食べ切れるように短編、それでいて隠し味に古語を所々に散りばめている。
「今日は太宰が良いの。でも、芥川にするわ。『羅生門』は何度食べても味が変わるっていうか。紙ごたえ、噛みごたえもあるしね」
「一番口に合うのは太宰なんだけどね。太りそうで怖い」
僕は太宰治に嫉妬した。
せめて『人間失格』なら許した。彼女に似合うからだ。
すごすごと原稿用紙から手を離した。
このやり取りはもはや食事前の、定番となりつつある。
彼女は立ち上がってガラス製の本棚の扉を開けると芥川龍之介短編集を取り出してきた。
本棚は昔、扉なんてついていなかったのだけど、ホコリが付くのが嫌という彼女の一言で新調したのだ。
羅生門のページにナイフを当てて何枚か切り取ると、皿の上に盛り付けた。
「ダイエット中なの? 」
短編一つで足りるのだろうか。
「噛みごたえ、あるから」
なるほど。そういうことか。わからん。
切り取ったあとの本を丁寧に閉じると、スプーンの形をした薄い金属の栞を挟んだ。
そして、そのまま残りは本棚へと戻っていった。
僕が読んで、彼女が食べる。そうやって我が家の本は綺麗サッパリ取り込まれる。
席に戻ってきた彼女に前々から思っていた疑問をぶつける。
「死体の髪を抜いてる老婆ってどんな味」
「アクが強くて独特の臭みがあるけど癖になる。ブルーチーズ? 」
そう、と短く返すと二人で食卓の前に手を合わせる。
「「いただきます」」
僕は味噌汁をすすった。
彼女はミキサーにあらかじめかけておいた『木を植えた男』をグラスから飲んでいる。
植えた木は伐採された。
「この後小腹がすく予定は? 」
「ない。ヤバイ、今日の羅生門はいつもより尖ってる。けど、二口目にはトゲを包み込むようなカタルシス。ベースがしっかりしてるとどんな味でも引き立つのよ、やっぱり。お味噌汁でも出汁が重要でしょ」
僕は感想に困った。秋刀魚の竜田揚げが香ばしくて、美味しい。
「ねえいつか僕の原稿も味見してくれるかい? 」
プロポーズをする男のように真剣な顔を作って彼女を見つめてみた。
「製本されたらね。生肉って食べたいと思うの? 」
グウの音も出ない。ダイヤモンドの指輪はどこにあるんだ。
でも、生だって食べられる食材はあるよ。
紙を器用にナイフで切り分けて口に運ぶ彼女。
皿がカチャカチャとならないのがいつも不思議でたまらない。
マナーのいい娘だ。
お互いに無言で食事を進める。
彼女がハーレクインを頬張って、機嫌が良くなってきたところで、ついに僕は禁断の奇策を繰り出した。
「聞いて欲しい」
このためのシミュレートを何度もした。台本は原稿用紙数十枚に及んだ。
「ふぁ、なに? 」
もごもごと口を動かす彼女が首を傾げた。
「僕は、沢山の本を読んでる。作家志望だからね、売れないけど。それでも君よりずっと沢山の本を読んでいると自負している」
これは事実だ。
「うん、知ってるけど。それで」
今更、というように彼女は言うが、それでも僕の気迫に負けたのかフォークをテーブルに置いて僕に向き直った。
「と、いうことはだよ。僕の頭の中には死ぬほどの食材と調理済みのフルコースが詰まっているということだ。太宰も夏目もフィリップ・K・ディックも伊藤計劃も森博嗣もローリングも上橋菜穂子も、ドストエフスキーも、なんでもなんでもござれだ。あ、ロシア文学は君、嫌いなんだっけ? 」
「まあ、要はね。これは、君が食べたことのない未知の味へ到達する近道だと思わない? 」
僕はここまでを一気に言い切った。
「ふーん。未知の味ねえ。前フリが長いんだけど、結果として言うと? 」
彼女はグラスに2杯目の『木を植えた男』を注いだ。グリーンスムージー。
「僕の作品が嫌ならね。僕を、食べてみないかい」
ついに言ってやった。歓喜が僕を支配する。彼女はきっと食べてくれるはずだ。
「あのさあ」
退屈そうにグラスをくるりと回すと、彼女はもう一度僕をじっと見つめた。
切れ長の二重の目にドキリとする。
「あなたの作品では、魔法と魔獣のファンタジーの世界でアンドロイドが逃走して、女用心棒が槍を振り回しながらそれを追いかけて、その後ろでは猫が自己紹介を始めて世界中の紛争地帯を歩きながら、虐殺の言葉を女子学生が唱えるの? 」
「その心は? 」僕は聞く。
「混ぜるな、危険」
ごちゃまぜか、それはそれで面白い気もする。
「面白いかもって顔してるんじゃない」
彼女に頭を叩かれた。僕はだから売れないのだろう。
「じゃあ、食べてくれないのかい? 」
「どうして食べると思った」
冷たい視線だ。
僕は絶望した。
「待ってるから、のんびりやりなよ」
「それはどういう意味? 」
彼女は食器を片付け始めると、キッチンの向こうへ向かう。
「あなたが本を書いたら、それを食べるのは全世界で私一人だけってこと」
「それはプロポーズと取っていいですか」
僕はすぐに背筋を伸ばしてシャキッとすると、彼女の後ろ姿に投げかけた。
「さあ? 書いてみれば分かるんじゃない? 」
振り返ってニヤリと笑う彼女を見て、僕はまだ売れない作家は止められないな、と思った。
自分が大好きな本ってどんな味がするんでしょうね。
みなさんは食べてみたい本、ありますか?