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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

目そらしの日々

作者: 茶飲吾

去年の春頃に書いたものを清書したものです。

横浜、面白いところです。ひといっぱい。ものいっぱい。

きっと私の想像だにしないような人生が、たくさん展開しているのでしょうね!


誤字脱字、文法間違い等のご指摘はありがたいです。

 一章 目撃

 景色が飛ばされていく。それは時に森になり、町並みになり、空になった。高速バスの窓に映るめくるめく似たような景色の繰り返しを森崎もりさき 琴詠ことよ愛衣あいは眺めていた。

 静岡駅六時四十五分発横浜行きの高速バスに二人は揺られていた。電車では新幹線を使っても二時間かかって片道六千円程かかってしまうが高速バスなら三時間かかる代わりに半額の三千円で済む。一時間と三千円のトレードなら琴詠の働くファミリーレストランの時給八百五十円を鑑みても得だったのが良かった。しかしそんな琴詠の財布の事情を知らぬ小学生の愛衣は寝たり、もぞもぞ動いたり、景色を眺めたりしながら退屈な時間を過ごしていた。

 ようやく中間地点の足柄サービスエリアに到着すると二人は外にでて空気を吸った。外気を肺いっぱいに深呼吸するのが気持よくて堪らなかった。

「気持いいね」

「そうだね」

「バスってくさい?」

「ちょっとね」

「やっぱり!」

 バスの出入り口の傍で伸びをしていた二人の横を一人の活発そうな女の子が走り抜けていった。背格好は愛衣と同じくらいだ。彼女の小さな身体が駐車場の車の間をサービスエリアの販売コーナーへ向かって一直線に駆けて行く。

「大丈夫かなぁ。あの子」

 琴詠は女の子に見覚えがあった。確か通路挟んだ向かいの席に座っていた子だ。保護者の男がいたはずだ。愛衣が目で遠くに行った女の子を追っていた。

「あいと同じだね」

「そうだね。背格好も近いし。でも危ないなぁ」

 バスに戻ると保護者らしい男は女の子が出て行った事に気がついているのかいないのか、足を組んでマンガ雑誌を読んでいた。

 女の子はバスが扉を閉じる直前に戻ってきた。後十秒でも遅かったらバスが発進しかねなかった。

 女の子は笑顔で両手にソフトクリームを握りしめていた。

「お兄ちゃん。ソフトクリーム買ってきたよ!」

「ああ。えらいなぁリオは」

「でしょ!」

 リオと呼ばれた女の子を撫でて男はソフトクリームを食べ始めた。男の目はソフトクリームを取る一瞬だけ女の子を見ただけで他はずっとマンガ雑誌から離れなかった。

 嫌な男だな、と琴詠は感じた。あんなに小さい子にソフトクリームを買いに行かせ自分は当然のようにマンガを読んで待っている。さらに男が「えらい」という褒めるもの気に食わなかった。偉いというのは他人と比較して初めて優劣が決まることだ。じゃあソフトクリームを買いに行かなきゃ偉くないみたいじゃないか。まるで召使のように扱われている女の子が哀れに思えてきた。

 高速バスは再び発進した。

 愛が狭い座席を精一杯使って動き回っている。このぐらいの年齢だと落ち着きが無いのが難点だが、子供好きを自負する琴詠にとってそれは愛嬌の範疇だ。

「ヨコハマってどんなところ?」

「そうねぇ。都会だから高ーい建物がいっぱいあって、人がものすっごいいっぱい歩いてる。海も近くにあるから船も見れるよ」

「おもしろい?」

「それは愛衣ちゃんが見ないと分かんないな。私は面白いと思うけど。じゃあ愛衣ちゃんはどんな所行きたい?」

「うーんとね…。おもちゃがあるとこ…」

「じゃあトイザらスもあるからそっちも寄ろうか。新しいの買ってあげるよ」

「ほんと?」

「うん。本当」

 控えめで自己主張の少ない愛衣の、底の知れぬほど深く黒いその目もこの時ばかりはきらきらと期待に光っていた。目は口程にモノを言うとは本当のことらしい。

「まだ着かないの?」

「まだよ、愛衣ちゃん。後、一時間くらいかな」

「ながいなぁ」

「愛衣ちゃんなら我慢できるよ。横浜に着いたら欲しいもの買って、美味しいものいっぱい食べようね」

「分かった。あいがんばる」

 琴詠は愛衣の頭を優しく撫でた。

「うん。愛衣ちゃんならきっと出来るよ」

「えへへ…。もっとなでて」

「よしよし」

「あははは!」

 中華街にほど近い人形の館前の停留所で二人はしっかりと手を繋いで降りた。


 二章 中華街

 中華街は昼御飯時を避けて早めに来たというのに非常な混雑具合だった。

「見てみて!赤くておっきい!!」

「鳥居って言うのよ。愛衣」

「へぇ~」

「とりあえずご飯食べようか。愛衣は何が食べたい?ラーメンとか肉まんとか餃子とか」

「ん~。じゃ、にくまん食べたい」

「よし。歩いてればお店見つかるかな」

 中華街は騒がしい場所だった。道路を挟んだ両脇から露天商や客引き声を張り上げ、通行人たちはそれに負けじと大声で会話をしている。いたるところで甘栗が焼かれ、蒸し器から蒸気が立ち上っていた。大勢の人が道路に沿って歩き、時折逆向きの流れにぶつかったり交差点で別れたりおみやげ屋に吸い込まれたりしながら止まることがなかった。

「う~ん。聞いてた肉まん屋が見つかんないなぁ」

「あっちの方からけむり!にくまんかも!!」

「あ!!こら!!」

 愛衣は突然手を振りほどいて走って行ってしまった。

「愛衣!!待ちなさい!!」

 愛衣の走っていったのは路地裏だ。友人と以前来た時に「裏路地にだけは絶対に行くなよ」と念を押されたことがあった。

 有数の国際的な観光名所である横浜中華街は、警察の厳しい取り締まりで表通りの治安はそれなりに良いが、裏路地となると中国からの不法就労者がたむろしていたり、怪しい取引が行われる現場に使われたりすることも珍しく無いという。

 その友人は中華街の傍に自転車をチェーンにかけて停めておいたらチェーンのかかっていた後輪とフレーム以外全部盗まれたという。

 そんな油断ならない場所で子供の手を離すということは迷子になる以上の危険を孕んでいた。

「愛衣!!!」

 しかし愛衣の姿は見つけられなかった。


 愛衣はカクカクと入り組んだ路地裏を曲がって進んだ。琴詠が付いて来ていないのをお構い無しで歩いて行く。

 テクテク歩く愛衣をタバコを吸っていたチンピラ三人が見止めた。ジャラジャラつけた金属の飾り物や派手でだらしのない洋服が、仕事の合間に休んでいるのではなくただニコチンで感情を麻痺させながら人生を垂れ流している類の人間であることを物語っていた。

 愛衣はすぐその傍を通った。

 そしてチンピラたちは何か言葉を交わした後、ニヤついた表情を浮かべながら愛衣の背後からその細首を乱暴に掴んだ。


「愛衣!!!どこなの!!?」

 呼びかけても返事がない。たった一本二本裏道に入っただけで、表通りの雑踏がウソのようだ。

「愛衣ー!!!」

 ここは愛衣にとっても、そして琴詠にとっても危険な場所であることは変わりなかった。突然に襲われるのではないか、連れ去られるのではないかという不安がまとわりつくのを、琴詠は愛衣のために振り払いながら必死で呼んだ。

「ことよ」

 不意に背後から声がした。

 振り向くと愛衣が立っていた。

「愛衣!!良かった!!」

 琴詠は愛衣を抱きしめた。

「もう手を離しちゃダメ!!」

「うん。分かったよ」

「さ、早く戻ろ」

 琴詠はことさら愛衣の手をしっかりと握りしめて元来た道を引き返していった。


三章 目撃②

「楽しかったね!!」

 ピカチュウのぬいぐるみを抱きしめた愛衣はまだ興奮冷めやらぬ様子だった。

「うん。私も楽しかったよ」

 これは琴詠の本心だった。愛して止まぬ幼子と二人っきりの小旅行。夢の様な愛しい時間。そしてもう、家に帰っても、どこへ出掛けてもいつもこの可愛らしい子どもと一緒に居られるのだ。

 帰りは行きと逆方向の高速バスに乗った。横浜駅YCAT六番乗り場十七時二十分発静岡駅六番乗り場行き。待合室はプレハブ小屋のようにどこもツルツルと光を反射していた。二人は床に荷物を置いて壁に添って付けられた細長い椅子に座った。

 琴詠たちよりも早く来ていた若い女性が腰掛けの端に座っていた。さらさらとした透明感のある黄色のスカートに濃紺の上着を着ていて、女から見てもスマートで綺麗だった。しかし彼女は服とは正反対につまらなそうな表情でスマートフォンを見つめていた。いかにも退屈で時間を持て余しているといった感じだった。

 後からもう一人女性が来た。彼女はお土産と思しきお菓子と小籠包の包みの詰まったビニール袋を両手に抱えていた。若い女性とは反対の端にどっかりと腰を下ろすと皺とシミの刻まれた顔をハンカチで拭っていた。見るからに疲労の溜まったその目は呆然と中空を見ていた。

 その時、彼女の携帯が鳴った。「もしもし。キミエです…っておとうさんじゃない。なによ。え。ああ~。今からお土産のシューマイと小籠包持って帰るから。それ夕飯。はいはい。はーい…」

 電話を切った彼女はため息をついた。

 そしてまた中空を眺めていたと思ったらそのまま寝てしまった。

 つまらなそうな美女と疲れきったおばさんに私は挟まれていた。

 何をするでもなく何か良いことが私の元にやって来ないかなと期待した二十代。日々の家事や仕事に忙殺されてやる気も期待もすり減らした五十代。

 わたしはまだ二十三。年齢で言えば若い女性の側ではあったが、彼女の半分も美しさを分けてくれなかった神様のおかげで将来の期待なんてすっかり失っていたから、ふたりの気持ちが少しずつだけ分かる気がした。

 だから人生の退屈さで言えば、どちらもそう変わるものが無いように思えた。

 二人とも過去には愛する男の胸の中で幸せを味わったに違いないのに、まったく彼女たちはそれを無視して自分の人生は灰色だと思い込んでいるに違いない。だからこんなにも希望のない目をしていられるのだ。

 馬鹿げているな、と琴詠は思った。人はなんでこうも簡単に自分の人生を怠惰の内にすり潰して、退屈の味を噛み締めているのだろうか。この心臓はいつかは止まるのだ、という簡単な事実を米粒ほども意識していないのだろう。だから限り在る時間という資産をもっと有意義なものに変えようとはしないのだ。そして自分にだけ特別な何か良いことが起こって幸せになれるという、蜃気楼に誘い込まれていく旅人のように、漠然とした夢想に浸るのだ。

 琴詠は愛衣を見た。愛衣は琴詠に体を寄せ、ぬいぐるみに頬をすり寄せていた。琴詠は愛衣を抱き寄せて頬ずりした。

「なぁに?どうしたの?」

「…ううん。なんでもない」

 私は違う。この女達とは。私は初めっから少数派だ。男を愛することができない上に、大人の女性が恐いという、人とは違う苦しみを味わいながら悩みぬいてきた。

 でも彼女たちに劣っているとは思っていない。なぜなら私はもう、幸せになれる方法を知っているのだから。


 高速バスに乗ると、私の向かいの席にまたあの男とリオが座っていた。日に三から四本しか便が無いとは言え、まさか席の位置まで同じだとは思わなかった。

 しかし男はこちらの気づいた様子もない。アニメキャラクターのグッズの山に埋もれるようにしてそれぞれマンガの単行本を読んでいた。

 私はこれ幸いにと愛衣を窓側に座らせた。その途中愛衣とリオの目が合った。しかし愛衣はすぐに振り返り、席に座った。リオも何事もなかったかのように単行本に目を落とした。その時に見えたリオの目も、愛衣と同じく闇の淵を覗いたように黒かった。

 

 帰りもまた、バスは休憩のために足柄サービスエリアに停車した。すると、これもまたリオがバスを飛び出していった。そして男もまたマンガを読み続けていた。

 まるで朝の光景をそのまま切り貼りしたようだ。女の子があまりに楽しそうにするだけに余計に嫌な気分だった。


 リオは走っていた。六百円。ソフトクリームふたつ分の小銭を握りしめヘッドライトの光の交差する駐車場を走り抜けた。

 売店のおじさんから「気をつけるんだよ」と言われた。「大丈夫だよ!!」と大きな声で言ってやると心配そうな目をして見送ってくれた。

 まったく。今の飼い主はろくでも無い野郎だ。その辺の男共よりかなりイカした顔をしているくらいが取り柄の真性ヲタの変態野郎。この演技も楽しいが、相手が相手で反応が鈍いからいかんせん退屈だ。

 まぁ、それももうすぐ逆転するけどね。

 バスの時計が十八時になった。同時にリオは駐車場を横切ろうとした大型バスの前に飛び出した。


 琴詠は窓を隔ててリオがバスの前に飛び出すのを見た。直後、彼女の小さい体はバスの巨体に飲み込まれた。

 それと全く同時に、琴詠の背後からガラスの割れる轟音が響いた。

 乗客の叫び声が上がる。振り向くと男が居た席に彼の姿はなく、散乱したガラスとキャラクターグッズが残されていた。

 状況が飲み込めず唖然とする乗客たちをあざ笑うように、牙を剥いたガラス窓が漆黒の口腔を広げていた。


 琴詠は愛衣とともにバスを降りた。運転手とサービスエリアのスタッフたちが現場を封鎖して、乗客は話を事情聴取のために駐車場の一箇所に集められた。

 男は割れた窓の真下、バスのすぐ横で倒れていた。男の顔面はひどく潰れていて、後頭部も割れていた。流れでた血が駐車場に大きな血だまりを作っていた。その姿を見れば素人の琴詠でも死んでいるのが分かった。

 移動中、琴詠はリオの飛び出したはずの道路を見渡したが、そこにリオの姿はなく、二つのソフトクリームが無残に押しつぶされていただけだった。


「ことよ」

 愛衣の舌足らずな口が呼んだ。

「愛衣」

 琴詠は膝を折って屈むと愛衣を抱きしめた。そのとき耳元で愛衣は囁いた。

「契約書第一項」

 琴詠の身体がビクッと震えた。琴詠の脳裏に真っ黒な皮紙に書かれた白い文字が蘇った。

 悪魔との契約書。その第一項。”契約者はその人生の半分の時間と魂を引き換えに契約を結ぶことができる”

「リオはわたしと同じだったね」

 琴詠も初めて見たときからそうかもしれないと感じていた。やはりあの男は契約者だった。彼もまた契約のために人生の半分を売ったのだ。リオはその使い魔だった。

 そして男は不可解な死に方をした。これと契約書第一項。この二つが指す答えは一つ。

「時間切れ…」

「それは少し違うよ。あの男の人は神様から与えられた分の人生を生きたんだ。寿命だよ。ただ半分になっていたけれど」

「私は…?まだ私は大丈夫だよね…?」

「大丈夫だよ。いつになるかは分からないけど。でも普通に生きていても死ぬときは突然死ぬんだ。何も変わらないよ。神様の予定より少し早いだけ」

「そう…。ねぇ、愛衣。あの男の人が死んだ時、リオが車の前に飛び出したの。もしかしてあの時リオが飛び出さなかったらまだ死ななかったのかなって…」

「ううん。どっちにしても死んでたよ。ただ…」

 愛衣が琴詠の耳を触った。

「私たちは半分ずつ命を分け合った半身なの。片方が怪我をすればもう片方も怪我をする。リオはあんまりあの男の人が好きじゃなかったみたいだね」

 つまり、最後に一発憂さを晴らしたということだろうか。

「私は愛衣のことが大好き。愛衣は私のこと好き…?」

「うん。琴詠は優しいよ」

「こんな小さな女の子としか愛し合えないような女でも、ずっと一緒にいてくれる…?」

 愛衣は口元にニッコリと笑みを浮かべた。


 運転手が消し忘れていたラジオからニュースが漏れていた。

『本日午後、中華街道路脇で男性三人の死体が発見された事件ですが、未だ犯人の目撃情報は不明。現場を立ち去る女性と子供の姿が目撃されていますが、四肢を切り刻まれ内臓が撒き散らされるという残忍な犯行とどう接点があるのかは不明。壁にアルファベットのLOVEを逆さにした文字が残されたという情報も入っております。警察は暴力団関係者の捜査に乗り出した模様…』


 愛衣は琴詠の耳元で嘯いた。

「大丈夫だよ。愛衣は琴詠とずっと一緒。死んでもその魂と、いつまでも、いつまでも…ね」

 そう言うと、愛衣は琴詠に強くしがみついた。


 私はバスの窓際の席から退屈な景色を眺めていた。

 景色も大して面白いものではなかったが、お行儀良く前の席の背もたれを眺めているよりはましだった。木々の伐採された山。人が開発するには勝手が悪いがために放置された森林。灰色の多い町並みが敷草のように、背の高いビルの群れが大木のように大地を埋めている。

 隣の席に女が一人座っている。名前は琴詠。私は彼女から愛衣と呼ばれていた。彼女は時折「きれいだね」とか「あそこが○○っていう建物だよ」とか話しかけてくるが、そんなことはどうでもいいと思った。ただこの肉体を持った人間が使う移動手段の退屈さに辟易していた。

 そのうち景色を眺めるのにも飽きて眠った。睡眠は肉体という乗り物を維持するには不可欠な要素である。

 面倒くさいことだ。と、つくづく思う。

 これは肉体に宿ってしまえば悪魔でも天使でも変わらない。魂にとってこの世は不自由すぎるのだ。

 眠っている間にバスが止まったらしい。琴詠に起こされて外に出た。深呼吸すると新鮮な空気が心地よい。

「気持ちいいね」と素直に思ったことを口にした。「そうだね」と琴詠がにこやかに言った。ふと思いついて「バスってくさい?」と尋ねてみた。

「ちょっとね」と琴詠が言ったので「やっぱり!」と無知な子供らしく返事をしてみた。

 琴詠は愛おしそうな視線を投げかけてくる。成功だ。これで彼女は私が無知で頼りない存在であることを、同時に自分の優位を確認してその卑小な自尊心を満たしたことだろう。

 私が小さな作戦の成功を悦んでいると、私たちの脇を通り過ぎて女の子がサービスエリアの販売所へ駆けていった。

 あの子も同類だということはバスに入った瞬間に気がついていた。しかし知り合いに話しかけるのは双方にとって邪魔でしかない。

 だが少し興味に駆られて話題にしてみたくなった。

「あいと同じだね」

 さて。琴詠の反応は?

「そうだね。背格好も近いし。でも危ないなぁ」

 ふん。理解力の低い女だ。だが、まぁそんなところか。いっぱしの保護者を気取ったつもりだろうが、私を娘などではなく愛人として契約した時点で保護者など名乗る資格はない。

 バスに戻るとあの同類の契約者と思しき男がだらしない格好でマンガを読んでいた。顔は地上の女を魅了するには十分なものだが、中身はフランスパンのようにスカスカなのが一瞥しただけでもよく分かる。

 男に意識を向けるとその思考が流れ込んできた。

(へへぇ…。このキャラ可愛いな。今度の夜リオにコスプレさせてみよう。体位はなにが…)

 その時点で愛衣は思考を読むのを止めた。流れ込んでくるのは性欲に濁ったピンク色の思念、男に多い支配欲の油っぽい思念、他人と関わることで”自分が信じたい世界観”が傷つくことを恐れる心。自分よりも人格の立派な人物に対するコンプレックス…。これは年上の女性に対する反感も混じっている…。そんなことがほんの一瞬で読み取れた。

 すでにこの世を去った契約者たちの例に漏れず悲しいくらいのクズ野郎だ。そして今はすべての欲望を満たすために、彼は”リオ”を利用している。

 ”今の自分は間違っていない”という勝手な思い込みを正当化するためだということに、この男は気づいていない。いや。気づいたかもしれないが黙殺しただろう。認めれば自分は間違っていたということになるのだから。

 彼の心が欲望でいっぱいで、魂が淀んでしまっているのは時折訪れる本当の理解のチャンスを誤魔化すためだ。

 欲に耽り、自己保身に必死になって、生きる意味を見失っている。そこに私たち悪魔がつけいる隙がある。この男の場合は隙というよりも玄関扉が開け放たれているようなものだが。

 

 その後にソフトクリームを買ってきた同類が「お兄ちゃん」と愛嬌たっぷりに話させているのをきいていてため息をつきたくなった。

 この男も、なんにも分かっていないのだ。自分のことだというのに。

 琴詠からも赤黒い怒りの思いが流れ込んできた。琴詠は男が「えらいな」とほめたのが気に食わないらしい。たしかに他人より「えらく」なければ小さな生活力のない子供にとって神に等しい親からの愛情が受けられなくなるのであれば、気にせざるをえなくなるだろう。「えらい・えらくない」のほめ言葉に慣れた子供は大人になっても他人との比較によって苦しむことが多いとも言う。まぁ、そうでなくても悩むやつは勝手に悩むのだが。

 

 十分程度の休憩で目は覚めたのだが、いかんせん暇だった。イスの上で落ち着きなく動き回ってほかの乗客を観察する。仕事や生活に疲れたのか目にクマを作って、蓄積した鬱憤を晴らそうと意気込んでいる騒がしい主婦とお洒落に着込んだ若い女たちが見える。そう考えると女性客の割合が多い。

「横浜ってどんなところ?」

 霊存在である悪魔にとって地上の場所というのは重要だ。その場所がもつ霊的性質、つまり磁場によって発揮できる力が弱まることがある。

「そうねぇ。都会だから高ーい建物がいっぱいあって、人がものすっごいいっぱい歩いてる。海も近くにあるから船も見れるよ」

 都会ということはさまざまなレベルの人間の思いが混じっているということ。つまり清らかな思いで満たされた聖域のように悪魔を弱体化させるには至らないだろう。

 しかし海は良くない。人を雄大で穏やかな気持ちにさせてしまう。出来る限り目の前のことに駆り立てられて余裕がなくなっているような人間ばかりがいる場所が望ましい。

「おもしろい?」

「それは愛衣ちゃんが見ないと分かんないな。私は面白いと思うけど。じゃあ愛衣ちゃんはどんな所行きたい?」

 本当は大きな駅とか繁華街とか落ち着かず欲望をそそられるような場所が好ましいが、子供の私がそこに行きたいというのも不自然か。なら…。

「うーんとね…。おもちゃがあるとこ…」

「じゃあトイザらスもあるからそっちも寄ろうか。新しいの買ってあげるよ」

「ほんと?」

「うん。本当」

 よし!!ショッピングモールなんかは良い。物欲を爆発させたいような人間も多いことだろう。性欲やコンプレックスで結びついたカップル、わがままな子供やその子供にイラついた親もいるだろう。

 逆に希望に満ちた幸せな家族やカップルなんかもいるだろうが、そんな人間ばかりではないだろう。

「まだ着かないの?」

 どうやらまだ一時間くらいかかるらしい。琴詠が愛衣に良き大人への可能性を示しながら頭を撫でた。

 私はとんだ茶番だと思ったが、こうして愛情を表現されるのは悪い気がしない。

 欲をかいてもっと撫でるようお願いした。撫でられて私は笑った。

 なぜだろうか。私は悪魔だ。心の貧しい人間をそそのかし、執着や惰性を増強し、悪霊や悪魔の仲間に加えるのが愉快でたまらない。でも、なのに、なぜ、”本当はこうされたかった”などと感じるのだろうか。

 答えの分からぬまま、二人はバスを降りた。


 降りた先は中華街だった。中国の過去の繁栄と日本人の想像力が作りあげた最も”中国らしい”ストリート。

 琴詠が食べたいものを尋ねてきた。適当に肉まんと答えたが、本当に食べたいものがべつにあった。だが、ここならそれもすぐに見つかるだろう。

 私の期待通り、五分も歩くとその気配を感じた。

 私は我慢できなくなり琴詠の手を振りほどいて走り出した。

 私はたくさんの煙を上げる表通りから二つ、裏の道に入った。

 そこは店の裏手で、素行の悪そうなチンピラがタバコをふかしていた。私はきょろきょろといかにも迷子の子供らしく振舞いながらその傍を歩いた。

 狙い通りチンピラたちは私を囲み、首を乱暴に掴んできた。


 瞬間、黒い風がチンピラの手首を切り落とした。私は返り血を避けるためにその場から飛びのいた。起こった出来事が理解できず唖然とする彼を黒い風は二度三度と切りつける。チンピラ一号は内臓を腹から吐き出しながら絶命した。

 黒い風に見えたものは、私の右腕だった。小さい子供の腕はもはやそこにない。チンピラたちには真っ黒に染まった数メートルの蛇が肩から伸びているようにみえただろう。しかし腕の先端には頭でなく鋭く長い漆黒の爪がぎらついている。

 一人が叫びだそうとした瞬間、私はその口を切り裂いた。同時に左腕でもう一人のチンピラの口を押さえた。

 最後のチンピラは助けを求めてもがいていたが、何回も殴ったり浅く切り刻んでいくうちに大人しくなっていった。

 私は興が冷めて、首を跳ね飛ばした。

 道に転がった三つの死体。まだ足りなかったが今はこれで満足しておくほかないだろう。

 私は両手を広げて呪文を唱えた。意識が集中するのとともに力が増してくる。すると死体からそれぞれ灰色に淀んだ球状の塊が浮かび上がって集まってきた。それを一息で吸い込むと、三つの魂が地獄に落ちていくのを感じられた。

 地獄が拡大し仲間が増えることは、私にとっての食事に等しい。時折欲しくて欲しくてたまらなく飢えてくるのだ。だから時折善心を忘れた悪霊候補たちに引導を渡してやるとすっきりする。どうせまた欲しくなるだろうが、そのときはそのときだ。

 さて、琴詠のところに戻るか。私はさっさと踵を返して殺人現場を後にした。

 少し戻ると琴詠が憔悴した顔で右往左往していた。私の姿を見つけると転びそうになりながら駆け寄ってきた。

 琴詠は本気で心配していたらしい。その心配も突き詰めれば自分の恐怖心やコンプレックスから目を逸らすために必要な私を失うという心配なのだが。

 しかし私は琴詠の乱れた呼吸や安堵の言葉や抱擁の力強さに満足した。

 琴詠と私は前よりも強く手を握り合ってメインストリートへ戻った。


 「楽しかったね!!」

と、私は有名なゲームのキャラクターのぬいぐるみを抱きしめながら言った。

 子供のおもちゃはくだらないものばかりだったが、そこで繰り広げられるわがままと怒りのストリートファイトは見ものだった。あの親たちが子供の言うとおりのおもちゃを際限なく差し出すのか、暴れるのを止め切れず折れるのか、暴力と恐怖で従わせるのか、守らない約束でその場しのぎをするのか。

 選択はいろいろあるが、まともな回答を得られる親はそう多くない。正しい答えはその子供によって変わる上に、自分の心がコントロールされていてこそ実行できるのだから。

 どうにせよ、未来で私が取り憑く対象には困らなさそうで何よりだった。

 

 帰りのバスが来るまでに待たされた部屋はツルツルテカテカしてなんだがぞんざいに扱われているように感じた。

 座って待っていると、疲れ切ったばあさんと軟弱そうな若い女がやってきた。

 どちらもなんとなく人生を生きて、本当の意味での自己確立をしなかった人間。感情に、惰性に、常識と教え込まれたものに、流されてきた人間だ。

 今日殺した三人もそうだ。どいつもこいつも、「なぜ自分は生き、死んでいくのか」なんてこと考えたこともないのだろう。活力のない濁った目をしている。

 私は内心ほくそ笑んだ。だからこそ悪魔の格好の餌食であり、天使から見たら哀れなのだ。ただ素直に、心清らかであることの価値を信じて生きていれば天国に還れるというのに。


 そんなことを考えながら、隣の琴詠もなにかほの暗い思いを湧き上がらせていることも感じていた。

 すると琴詠が私を抱き寄せて頬ずりしてきた。

 この女は自分を憐れみ、悲劇の主人公のように思っている。神が与えた生命に感謝することもなく。与えられた人生の意味を考えることもなく。


 帰りのバスにはリオとその契約者の男も乗っていた。大量に買い込んだマンガやらアニメキャラやらのグッズがうっとおしい程積まれている。

 二人ともマンガ本を読んでいたが、琴詠が私を窓側の席に座らせたときにリオがこちらを向いた。

(調子はどう?)

 私が念じるとすぐ返事があった。

(まずまずよ。もう終わるしね)

 もう終わる。やれやれといった調子の念波に私は苦笑混じりに答えた。

(そりゃよかった)

 私たちはそれ以上、念を飛ばさなかった。私はバスの揺れに身を任せて眠った。

 

 行きと同じサービスエリアに止まったとき、車内のアナウンスで起こされた。眠い目をこすっているとリオがバスを飛び出していくのが見えた。これまた行きと同じような光景を見て、私はまたまぶたを閉じた。

 次に目を覚ましたのはガラスの割れる大きな音が車内に響き渡った時だった。

 視線を向けると、あの男がいた席の窓ガラスが割れていた。

 終わったんだな。

 私は事情を察して同類を気持ちで労った。

 車内がうるさくなってきた。運転手が乗客をその場から動かないように説得している。乗客は混乱と不安からくる興奮で落ち着かない。

 琴詠の顔は青くなっていた。


 やがて到着した警察の誘導で乗客たちはバスから降ろされた。琴世は私を抱いてバスから降りた。

 途中、地面に転がったソフトクリームを二つ見つけた。それを見て、あいつはずいぶん派手なやり方をしたものだとあきれた。


「琴詠」

「愛衣」

 琴詠は私を屈んで私を抱きしめた。

 私は彼女の耳元で囁いた。

「契約書第一項」

 琴詠の身体がビクッと震えた。どうやら契約書の存在を忘れたわけではなかったようだ。

 そう。悪魔たる私と彼女をつなぐ契約書。

「リオはわたしと同じだったね」

 いづれ私も、この女が寿命の半分を生きたら地獄への引導を渡してやることができる。琴詠も第一項の内容を思い出し、彼の男の身に起こったことを察したようだ。

「時間切れ…」

 時間切れ。タイムリミット。馬鹿なこと言っている。

 私は内心で軽蔑した。

 人間は肉体を持って生まれた瞬間から寿命、つまりタイムリミットがあるのだ。そんな当然のことを意識せずに生きているなんて愚かというほか無い。

「それは少し違うよ。あの男の人は神様から与えられた分の人生を生きたんだ。寿命だよ。ただ半分になっていたけれど」

 そう。神の願いを無視した身勝手な契約によって。それをチラつかせたのは私たち悪魔だが。

「私は…?まだ私は大丈夫だよね…?」

「大丈夫だよ。いつになるかは分からないけど。でも普通に生きていても死ぬときは突然死ぬんだ。何も変わらないよ。神様の予定より少し早いだけ」

 そして神の予定を狂わせることが悪魔の狙いでもあるのだが、それは言わなくてもいいだろう。

「そう…。ねぇ、愛衣。あの男の人が死んだ時、リオが車の前に飛び出したの。もしかしてあの時リオが飛び出さなかったらまだ死ななかったのかなって…」

「ううん。どっちにしても死んでたよ。ただ…」

 これは本当だ。時間になればあの男は急激に老衰するか、生活習慣からくる疾患で死んだはずだ。

 私は琴詠の耳を触った。耳たぶが冷たかった。

「私たちは半分ずつ命を分け合った半身なの。片方が怪我をすればもう片方も怪我をする。リオはあんまりあの男の人が好きじゃなかったみたいだね」

 隠れるのが本分みたいな私たちだが、あれは少し派手好きなのだろう。

「私は愛衣のことが大好き。愛衣は私のこと好き…?」

「うん。琴詠は優しいよ」

 だが、愛してはいない。愛なんてもの、とうに忘れてしまった。

「こんな小さな女の子としか愛し合えないような女でも、ずっと一緒にいてくれる…?」

 私は口元にニッコリと笑みを浮かべて、また琴詠の耳元で嘯いた。

「大丈夫だよ。愛衣は琴詠とずっと一緒」

 やがて立場は逆転するだろう。

「死んでもその魂と」

 地獄の底で、二人で一緒に似たような女たちを引きずり落とそう。

「いつまでも、いつまでも…ね」

 

 ふと、私は彼女が抱きしめてくれたときの温かさを思い出した。

 二人で地獄に行ったとき、彼女はまた頭を撫でてくれるだろうか。

 そもそも私はなんで悪魔になったんだっけ。いつからこんなことしてるんだっけ…。


 そう思った途端、煙ったように頭が働かなくなって、ざわざわと胸が苦しくなる。

 その理由を思い出すのを避けるように、私は琴詠に強くしがみついた。


「幸せ」は努力という栄養を吸った木の果実。

ならば栄養を与えずに果実のみを求めれば、その木は己の養分を吐き出すしかなく、やがて枯れざるをえません。

栄養を与えたなら、その生涯のうちに何度も実をつけることだってできたはず。


たとえ苦しみの中にあっても、焦りが悲しい結末を生むだけなら、その時間を耐えるほかありません。

辛くとも、結果までの時間を耐えて努力する中で、その人の格が磨かれるのです。


「わたし」という名の木を大切にしたいものです。


そしてたくさんの人と果実を分かち合えたなら、

「果実」は本物の甘さを讃えられ、「木」の偉大なる一部になります。

自分以外の他人をも喜ばせたとき、

「幸せ」は本当に価値を持って、「わたし」の魂の一部になるのです。

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