雨恋
ある雨の日、僕は恋に落ちた。
その時の彼女は人がほとんど訪れない学園の裏庭で、傘も持たずに雨に濡れていたんだ。
さほど強い雨ではなかったけれど、この時期の雨はとても冷たい。きっと傘を持ってきていないのだろう。天気予報なんてないこの世界では、よくある事だ。
僕はちょっとした親切心のつもりで、傘を貸してあげようと彼女の元へと歩み寄った。そして声をかけようとした時、気付いてしまったんだ。
彼女の目が真っ赤である事に。
雨の中、彼女は一人で泣いていたんだ。きっと強い人なのだろう。誰にも弱みを見せたくなかったのだろう。
ただ一人、何かに必死で耐えていたのだ。
失敗したと思った。
せっかく人目に付かない場所で泣いていたのに、僕はそれを見てしまった。そして何もしないでこの場を去るには、もう手遅れな程に近づいてしまった。どうするべきか僕が答えを見つけるよりも早く、彼女が振り向いた。
雨に濡れたせいで彼女の金髪はぐちゃぐちゃで、寒さのせいで唇は紫色に変色していて、泣き腫らしただろう目は真っ赤になっていた。お世辞にも綺麗というには程遠いはずなのに、その時の彼女は僕が今までに見たどんな女性よりも魅力的に見えた。同時に酷く儚げで、何かが僕の胸を強く締め付けたんだ。
「えっ!?あっ!こ、これは違うんです!」
必死に涙を誤魔化そうとしているのは、この学園でも一、二を争う才女だった。
彼女の名はセシリア・シフォン。公爵家の令嬢で第一王子、ロン・デニッシュの婚約者でもある。
でも……。
彼女は近い将来、婚約を破棄される。
「風邪ひきますよ」
余計な事は何も言わないで、彼女が濡れないように傘を差し出した。
「あっ、でもあなたが濡れてしまいます」
「どうぞ」
少しだけ強引に彼女に傘を押し付けて、僕は来た道を引き返した。冷たい雨が頬を打つ。こんな中に彼女は一体どれだけの時間居たのだろうか。その事を考えて無性に胸が苦しくなった。
「あのっ!」
後ろから大きな声が聞こえて来て僕は振り返った。
「何でしょうか?」
「お名前を教えてください!」
ほんの十メートル程度の距離を挟んで僕らは向かい合っていた。彼女が雨に濡れた身体を振るわせているのがその距離からでもわかった。
「アラン・ブラウニーです。早く部屋に戻らないと本当に風邪ひいちゃいますよ?」
「はい。アラン様ありがとうございます」
彼女が微笑んだ。
泣いている癖に無理に笑っているのが分かる痛々しい微笑みだった。だけど僕には何も出来ない。軽く頭を下げて部屋へと戻った。
僕は男爵家。しかも三男だ。彼女とは、どうあがいても釣り合わない。
前世の日本にいた頃ならば、身分なんてモノはなかった。相手との家柄の違いに驚く事はあっても当人同士が望めばそんなものは簡単に乗り越えられた。
でも、この世界は違う。
前世の僕は非常に病弱でまともに恋も出来ないまま十代の内に命を落とした。そんな僕が死ぬ前に好んで読んでいたネット小説。その一つに転生してしまったらしい。
転生した先は魔物がいて、魔法が存在する不思議な世界。その世界で僕は男爵家の三男として生まれた。貴族としての階級はあまり高くないけれど、身体は健康だしそれなりに恵まれていると思った。
だけど……。
ここが知っている世界だと気付いた時、僕はガッカリした。
なぜなら僕はその小説に一文たりとも出てこない。モブキャラにもなれない存在だったからだ。その小説は平民のヒロインが様々な試練を乗り越えて王子様を射止めるという物語だった。
王子様として生まれていれば良かったのに。何度そんな事を思っただろうか。
だけど、ついさっき彼女の涙を見た時、僕の浮ついた考えは全て吹き飛んだ。あんな涙を見せられてしまった後では、王子になりたいなんて思えなかった。
だってもし、あの涙が僕のせいだったとしたら……。
そう考えただけで胸が苦しくなる。
次の日、彼女が直接傘を届けてくれた。
「昨日はありがとうございました。おかげで風邪をひかずに済みました」
昨日の涙が嘘のように凛とした姿で立っていた。彼女には一切の隙がなくて、まさに完璧と言える程の美を備えているように見えた。だけど昨日の姿を見てしまった後では、今の彼女が無理をしているのが分かってしまう。
僕は彼女を見送った後、どうするべきか途方に暮れていた。
彼女を助けたい。
だけど彼女がこのまま王子と結婚してしまうのは辛かった。
結局僕は何も出来ないまま。
酷い奴だ。
一日おいて再び雨。
この前の場所に行けば何となく彼女に会えるような気がした。
「またお会いしましたね」
今度はしっかりと傘を差した彼女が、柔らかく微笑んだ。水色の傘が彼女に良く似合っていた。
その日から僕らの不思議な関係が始まった。
雨が降る度に学園の裏庭で僕らは会った。特に理由はなかった。試しに晴れた日に出かけてみても彼女はいなかった。雨の日の決まった時間にだけ彼女はそこにやってきた。
本当は僕に会いに来ている訳ではないのかもしれない。雨の日のこの時間に他の目的があるのかもしれない。でも僕はそんな事は考えなかった。いや、考えたくなんてなかったんだ。
僕らは会うたびに、色んな話をした。それぞれの生い立ちや、領地での事。好きな食べ物から最近学んでいる魔法まで。どんな話をしていても彼女と過ごす時間は楽しくて、あっという間に過ぎていった。
ある時、彼女が思いつめた表情で話し出したのは婚約者の事。
「もうダメかもしれない」
今にも泣き出しそうな顔で彼女は言った。
今まで何も行動を起こせずにいたのに、彼女のその表情を見た瞬間、僕はようやく覚悟を決めた。そして、ヒロインである女の子が次にとる行動とその対処方法を彼女に教えた。
初めは半信半疑だった彼女も僕の真剣さに気付いて、信じてくれた。
「どうしてそこまでしてくれるの?」
彼女は未だに泣き出しそうな表情でこちらを見ている。
「泣き顔を見たくないから」
「え?」
「初めてリアを見た時、胸が締め付けられたんだ。僕はもうあんな思いはしたくない。僕はリアの事が好きなんだ。身分違いの恋だって理解している。でも片思いくらいは許されるよね?」
言葉が震えた。緊張を雨のせいにしたい所だけど、無理があるだろうか。僕って格好悪い。
「ありがとう」
彼女の声も震えていた。その頬を一粒の涙が伝う。僕は持っていたハンカチで彼女の涙を拭ってあげた。リアに涙は似合わないから。
十日後。彼女は婚約を破棄された。
その事が学園中の話題となっていたが、詳細は不明だった。本来の物語だったら大勢の生徒の前で彼女が晒し者になるはずだったから、その未来は回避されたのだろう。
だったらなぜ彼女は婚約を破棄されたのだろうか。
彼女から話を聞きたかった。でも僕が会えるのは雨の日だけ。そんな時に限っていつまで経っても雨は降らない。天気なんて関係なく、直接彼女の元に行く事も考えた。でもそんな事をしたらきっと迷惑をかける。
彼女に会いたいけど会えない。そんな日が続く中、彼女が学園を辞めた。
噂によると貴族ですらなくなったらしい。
どうして?
彼女が学園を去って三日後。ようやく雨が降った。
今さら遅い。そう思っていても僕の足は裏庭へと自然と向かう。
「え?」
そこには当然のように水色の傘を差した彼女が立っていた。
「久しぶり」
驚いている僕に彼女が微笑んだ。いつか見た、何かを堪えているような笑みではない。
彼女は晒し者になる事は阻止したけれど、これまでヒロインがしてきた事を公にしなかったらしい。僕が渡した証拠は使わなかったみたいだ。
「どうして?」
「これでよかったの」
「だったらなんであの日、雨の中で泣いていたんだよ!?」
ずっと自分は関係ないと思って忘れていたけれど、あれは間違いなく小説のワンシーンだった。あの日はヒロインに嵌められて王子と大喧嘩をしてしまったはずなんだ。
「あの時は本当に辛かった。でも……」
「でも?」
「アランに会えた。あの日から私の中で何かが変わったの」
「え……」
予想外の言葉に僕は固まってしまった。パラパラと雨粒が傘を叩く音だけが響いていた。
「私ね、ずっとロンの事が好きだと思ってた。でも違った。私が好きだったのは王子という彼の肩書だけ。王妃になれる事を夢見てただけだったの」
彼女は自嘲気味に笑った。
「そうだとしても、何も悪役になる必要はないじゃないか」
「そうね。でも他に思いつかなかったの。私はアランと一緒にいたいと思ったの」
「バカだろ」
ちくしょう。そんな事言われたら……。
「ええ、バカなの。ついでに貴族ですらなくなっちゃった。それでも好きって言ってくれる?」
そんなの……。
「当り前だ。バカでも貴族でなくてもリアが大好きだ」
彼女の頬を涙が流れた。
涙を見るのはこれで三度目だけど、その涙は今までとは違って宝石のように輝いて見えた。
雨の中を並んで歩く。
「私ね、ずっと雨が待ち遠しかった」
彼女が空を見上げたから、僕も釣られて空を見る。どんよりとした空から、無数の雨粒が落ちてきている。全然良い景色なんかじゃない。
「僕も同じだよ」
彼女がこっちを向いたのが分かった。
「ねぇアラン」
「なに?」
彼女が立ち止った。それに合わせて僕も立ち止まる。目がった時、彼女がニヤリと悪戯っぽく笑った。
彼女の傘が宙に舞う。
驚いている僕に向かって彼女が勢いよく飛び込んできた。僕は慌てて彼女を抱きとめる。
僕の傘も宙に舞った。
地面に落ちた二つの傘に挟まれて僕らは二人でずぶ濡れになった。
「やっぱりバカだろ」
「うん」
僕は彼女を強く抱きしめた。
あの日と同じ冷たい雨の中で、あの日と違う何かが僕の胸を締め付ける。
僕は再び、恋に落ちた。