豪雪と粉雪が教えてくれたもの
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トゥルルルル。トゥルルルル。
「はい、もしもし?」
「楠雄です」
「ああ、わかるわ。なんか電話なんて久しぶりだな。どうした?」
「実は相談事があってさ」
「今、お前は田舎いるんじゃないの? 武者修行だっけ」
「うん、まあ」
「で、そこで悩み事ってなんだ? 生活で困ったことでもあったのか?」
「いや、そうじゃないんだ……遼平……いま、彼女いる?」
「え? え? そっち?」
「うーん、そっち」
俺が女性関係の相談をできる相手なんて、こいつしかいない。土屋遼平は俺とは小学校からの知り合いで、小中と学校が一緒だった。別段、恋愛に強いとかではないが、いわゆる幼馴染のようなものは彼しかいないから相談できる。
「女の子なんているのか? だって、田舎すぎる上に、近くの家も空き家だって言ってなかったか?」
「そうなんだけど……その空き家に女の子が来てて……」
「で、その子にほの字なのか?」
「まあ。なぁ、どうすりゃいいんだ? 俺、まともに告白とかもしたことないんだよ」
「そんなもん、簡単だよ。ボディーに一発決めて、気絶したところを……」
「遼平! こっちは真面目なの!」
「冗談だよ!」
「冗談じゃなかったら困る、で、どうすればいいかな?」
「実際な、その人がどんな女性であろうと、やることは一つなんだよ。ただ、その思いを飾りもしないで正直に伝える。それだけだよ」
「やっぱ、彼女のいる奴が言うことは違うな。もう彼女と長いの?」
「言ってなかったっけ? 大学三年から付き合ってるから、もう五年目?」
「まじかよ! 長すぎだろ?」
「うーん、だから結婚するー」
「軽っ! いつするの?」
「わからない。プロポーズはしてあるけど、式場は決まってないし、ハネムーンもどこ行くかも決まってない。地味婚にするにしても貯金もしなくちゃだし。でも、結婚式は十月までにはあげようって言ってるけどさ」
「おお、結構先だな」
「披露宴ではご祝儀いらないから、ヴァイオリン頼むわ」
「ご祝儀も出すし、ヴァイオリンも弾くよー。じゃあ、突然電話して悪かったな。また電話するよ!」
「おう」
久々に彼女以外と話した気がした。彼に相談した通り、彼女の存在が俺の中で大きくなっていると感じているからだ。彼女は演奏中はなんにも話さない。でも、終わると音楽を食べ物にたとえて感想を言ってくる不思議な子だった。例えば、インゲンだとかピーマンの味がすると彼女が言った場合は俺の嫌いな曲だったり、火が通ってないとか煮込みが足りないと言ってくる時は俺の練習が足りない曲だったり、味で例えているのに、彼女は俺の演奏の本質を捉えてくる。彼女の耳……いや彼女の舌にはどのように聴こえているのだろうか?
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遼平と電話をした二週間後、山は荒れに荒れた。まさに豪雪といった感じで、部屋の窓に雪があたっている。はめ殺しではなかったら、開いてしまいそうなくらい風もすごかった。彼女は午前中から遊びに来ていたため、二人で外の様子が収まるまで待つことにしていた。
「ねぇ? 雪すごいね」
「ああ、今晩までに止むといいけどね。雪がひどくなる前に、灯油買っといて正解だったよ」
「うーん、そうね。ねぇ、楠雄さん、なにか演奏してよ! なんか不安になってきちゃった。気を紛らわしたいの!」
「うーん、そうだね。じゃあ、テキトーに選ぶわ」
俺はダンボールの中に手を突っ込んだ。どの紙の束にしようかと、テキトーに手を動かしたあと、一束を出した。出てきたのは……。
「何が出てきたのー?」
「すっごく季節外れの曲が出てきちゃった」
「え、なになに?」
「ヴィヴァルディ、四季より春」
「うわ、すっごく季節外れね。どうせなら、冬を聴きたかったわね」
「まあ、こういう主義でやってるし、せっかくだし弾くわ」
「うん!」
雪が窓に当たり続け、音に集中しづらかったので、久々にメトロノームを使ってみることにした。そのメトロノームは両親が音大に受かった際に俺に新しいヴァイオリンと一緒にプレゼントしてくれたものだ。メトロロームの針に付く重りをAllegroの位置に移動させた。そっと針を端まで倒して、離した。
カチカチ
メトロノームの音は俺に中学校の時の記憶を思い出させた。中学校の時のヴァイオリンの先生はメトロノームが大好きで、テンポを重視する先生だった。彼女は俺が合図したら止めてくれると言ってくれたので、Largoの部分に入ったら止めてもらうことにした。
……
今日の音色は何故だか、安定していた。外の天気が荒れているのに音がキチンと整っていてそれでいて強く野太い音が出ていた。実際、このような音を出せたのは初めてではない。こんな音が出せていたのは彼女が演奏を聴きに来てくれるようになってからたまにあることだった。そして、この音は俺が大学時代に調子が出ていた時に似ているけど、すこし劣化させたようなものだった。音が家中に充満していくのを感じた。俺はそのまま演奏し続けている。しかし、突然
ドギャーン
電気が突然消えて、俺は演奏を一度止めた。雷がどこかに落ちたようだった。彼女は悲鳴を上げることはなかったが、少し呼吸が早くなっていた。表情は暗くて確認できなかった。
「雷か! 近くに落ちたみたいだね。大丈夫?」
「う、うん」
声からは不安が感じ取れた。ヴァイオリンを一度椅子の上に置き、俺はとりあえず懐中電灯を持ってきて、上を向けて光を出した。天井に向かった光は円状に照らした。部屋全体がなんとなく明るくなった。
「ちょっとブレーカー見てくるね」
「うん……あ、ちょっと待って」
「うん?」
「もうちょっとだけ演奏してくれない。このままで……」
「え? なんでまた?」
「……なんとなく。楠雄さんの演奏を聴きたいの」
「うーん、いいけど」
俺は椅子に置いたヴァイオリンを手にとり、首に当てた。すると、景色がいつもと違った。いつもなら、指の位置がしっかりとわかる。でも、暗いせいで指の位置が微かにしか見えない。それは初めての感覚だった。
「あのさ、指の位置がちゃんと見えないからミスするかもしれないから、ブレーカー直してきていいかな?」
「いいよー、間違えたって! 私は楠雄さんらしい演奏を聴ければ!」
その言葉はどこかで聞いた言葉だった。「俺」らしい演奏……、よく墨田先生に言われた言葉だった。今日はなんだか昔をよく思い出す日だ。彼女の言葉に押され、首にヴァイオリンを当て直し、首に出来たタコに当たるように密着させる。何度か首を揺らして、顎当てが首にフィットしたのを感じるとネックに当てている手のひらを一度離して軽く着ている服でその手のひらを拭く。いつもルーティンだ。だが、指を指板に置き直しても指は見えなかった。俺は指に神経を張り巡らせ、ヴァイオリンを弾いた。
すると、どうだろうか。指板が見えないのに、譜面がほとんど見えていないのに、なぜだか指がスラスラと動いていく。それはある意味を指していた。俺はヴァイオリンを弾くときに間違えることを恐れ、周りと異なることを恐れ、指板や自分の指を見すぎて自分の弾き方を忘れていたということだった。その音はまさに大学の最盛期いや、オーケストラでの経験も相まって、それ以上のものになっていることを確信できた。
……
弾き終わると、彼女はこちらを見ていた。表情は完全には読めなかったけど、でもその顔は満面の笑みだったと思う。
「すごい演奏だった! チョコレート味というか……なんというか、とりあえずすごくうまかった! これまでに聴いたことのないような音だったよ!」
「だよね!? 俺もそう思う! すっごくうまく……いや、思ったように弾けた!」
「うんうん、とてもうまかったもんね! ……そろそろブレーカー付けよっか?」
彼女はちょっと笑いながら言った。
「うん、そうだな!」
確かに、その腕の変化に確信した日だった。
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あの豪雪の日、腕の変化を感じた日、あれから一ヶ月はたった。あの腕を定着させようと彼女の前で今日も弾き続けているが、なかなか身につかない。そこで、彼女の提案で外に散歩に出かけることになった。ここのところ、雪が降り続け外には出にくかったので、その提案は最高だった。彼女は厚着をして家にやってきて、俺も厚着をしていた。彼女は俺がこちらにきた頃に散歩していたコースを歩きたいと言ってくれた。だから、そのコースを久々に歩くことにした。
外は端から端まで真っ白。まさに『銀世界』だった。一面の雪に見とれながら、あの散歩コースを歩いた。前、歩いた時と違うことは全部で三つあった。一つは景色が違うこと。木々が真っ白になり、夏のような生命の伊吹はほとんど感じず、しかしよく見ると木の芽が先についていたり小さな青葉があったりと元気を春まで取っておいているのかな? なんて思わせる。違うところの二つ目は横に彼女が居ることだ。彼女は俺の横を歩きながら、景色をずーっと見ていてたまに話しかけてくる。話は他愛もないものだったが、でも楽しかった。三つ目は背中にヴァイオリンがいることだった。彼女いわく、ヴァイオリンもずっと室内じゃ可哀想だそうだ。だから、今日はヴァイオリンケースに入れて外に連れ出してみた。
歩いていくと、例の広場があった。彼女はそこに着くと軽く走り回ったあと、話しかけてきた。
「すごいね! 自然にこんな場所ができるなんて、まさに生命の……いや自然の神秘!」
「うん、俺も始めてきた時、そう思った」
「なんか、自然のコンサートホールみたいだね……。ねぇ、楠雄さんはここで昔演奏したんでしょ?」
「うん、まあ」
恥ずかしがりながら笑って答えると、彼女は寄ってきて言った。
「ねぇ、弾いてくれない?」
「え?」
「せっかくだから聴きたいの!」
「う、うん。いいよ!」
「やった!」
彼女はすこし周囲を見渡したあと、雪をかぶった大きな石を見つけ、その上の雪を払うと、そこに座った。俺はレジャーシートを敷き、その上にヴァイオリンケースを置き中から小さなホッカイロを出した。そのカイロを手袋の中に入れて、手を温めた。その間にヴァイオリンの弓の調子を軽く見て、松脂を薄く塗った。手が十分に温まったところで、俺は彼女に質問をした。
「今、完全に暗譜できてる確信があるのってメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』なんだけど、いい?」
「いいよ!」
俺はその返事を聞いたあと、手袋を外し温まった手でヴァイオリンを持ち、いつものルーティンをした。そして、弾きだした。偶然にも……いや必然的にこの曲はあのコンサートの曲目で課題曲、さらに昔ここで弾いた曲だった。
曲の中盤、集中して弾いていると、手は十分に暖かったはずなのに突然、冷えだして視界に何かが入った。それは……粉雪だった。俺は演奏するのをやめようと考えたが、ふと見ると、鼻の頂辺を真っ赤にして頭にちょっと粉雪が積もった彼女は一心にこちらを見て、曲を聴いている。その時に、一種のプロ根性というか、そんなものを思い出した。俺はお客さんが一人とは言えど、最後まで弾ききらなくてはと思い、弾き続けた。
粉雪が燦燦と降る森の中にぽっかりと開いた自然のホール。その真ん中でヴァイオリンを弾き続けるヴァイオリニスト。そして、その片隅に座り、演奏を聴く色白の美少女。ヴァイオリンが奏でた音は森にわずかに反射し反響している。その時間と空間はこの世とは思えないほどの美しい時間であり、美しい空間だった。
演奏をおえると、急ぎながらもヴァイオリンを丁寧にケースにしまい、雪も拭き取った。手袋もすぐにはめ直した。彼女は呆然としていた。
「ど、どうだった?」
「う、うん。なんかうっとりとしてた。すっごくよかった!」
「そ、そうか。喜んでもらえたのならよかった」
「ごめんね、無理なお願いして。でも、あの豪雪の日とおんなじくらいうまかったよ!」
その言葉で俺は自分の演奏が出来ない理由が完全に分かった。家に帰り確認するとヴァイオリンの弓のヘッドの木枠が、雪が完全に拭き取れていなかったせいか、ニスが少し禿げていた。
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俺が調子を取り戻せない理由は大きく分けて二つあった。一つは余裕と自信のバランス。俺のオーケストラでの演奏は失敗を恐れた自信がない、余裕のない演奏だった。でも、豪雪の日の演奏は焦りがなく余裕があり、なんども練習したという自信もあった。
そして、二つ目は自然のホールで演奏した時に気づいたこと。それは無我夢中になることだ。俺はこれまで指板を見るような、どこかで冷静に自分の行動を見ていた。でも、今日のように手が十分に動かず、自分の演奏をするという意識も忘れ、ヴァイオリンにただ没頭すると、自分の演奏が出来た。この二つをクリアするのを大学生の頃の自分が無意識にやっていたのは驚きだが、それ以上にこの二つに気づけたのは大きな収穫だった。俺は大きな腕の変化を感じながらも、新しい自分のスタイルを見出し始めていることに気がついた。