冬の一コマと彼女との出会い
△
十一月中旬、初雪が降った。ここに来て五ヶ月、山の景色には慣れたつもりだったが、雪降るその景色は非常に美しいものだった。しかし、冷たく体温を奪う雪が降っている間は、あんまり外に居られない。俺は灯油を外のタンクに入れてもらうために街のガソリンスタンドに電話したあと、ヴァイオリンに手を付けることにした。最近は弾く曲はいつもとは異なり、一度も弾いたこともない曲や全然弾いてなかった曲ばかりだ。ここの持ち主の叔母さんから、十一月の始めに電話があって、もしも東京とかで欲しいものがあるのなら早めに一度戻りなさいということで、俺は一度家に戻って親しみのある楽譜屋や音大時代の友人の家を回りいくつか新しい曲のスコアを買ったりコピーしたり安く譲ってもらったりした。
一週間くらいはこれまでと同じようにその大量に集めたスコアからランダムに一冊選んで弾いていたが、どれだけあるのか気になって、とりあえず床にそれぞれの曲を束として敷き詰めてみることにした。平屋の馬鹿デカい叔母さんの別荘でも、床が埋まるほどだった。数えてみるとざっと百二十曲くらい。はっきり言って集めすぎた。それを実感しながら、端から積み重ねていく。すると、懐かしいスコアが見つかった。大学に入学して初めて演奏会で弾いた、シューベルトの「ヴァイオリンソナタ」だ。大学時代にピアニスト志望の早矢仕雄輔と一緒に弾いた曲で、スコアとかは全部雄輔が持っていた。懐かしくなって、今日はこれを弾くことにした。
いつも通り、譜面台を立て、そっとスコアを置く。そして、首にヴァイオリンを当て、首に出来たタコに当たるように密着させる。何度か首を揺らして、顎当てが首にフィットしたのを感じるとネックに当てている手のひらを一度離して軽く着ている服でその手のひらを拭く。俺は一気に集中してヴァイオリンを弾きだした。
ピーピーピー
突然の電子音で集中力が切れ、我に返った。どうやら、電気ストーブの灯油が切れたらしい。俺はラガーシャツの上にセーターを着て、更に厚い上着を着た。全く、灯油を届けてくれるのはいいけど、こういう時にわざわざ着込んで外に出なくちゃいけないのが厄介だ。上着のチャックを上まで上げて、何の気なしに窓の方を見た。すると、ピンクのニット帽を被っているであろう人の顔が見えた。窓についている霜で窓が曇っていて、どんな顔か表情かは読み取れないが、人だった。こんなところで人を見たという好奇心から、覗かれていたなんていう恐怖は忘れて、ゆっくりその窓に近づいた。すると、外の人は俺が気づいたことに気づいたみたいで、どこかに去っていこうとした。俺も急いで、長靴を履いて外に出た。
その例の窓の外側の足元には雪のせいで足跡が残っていて、その先にも延々と続いているようだった。俺はその足跡を目印にその人を追いかけてみることにした。すると、案外そのゴールはすぐだった。それは例の唯一の近所の空き家だった。でも、もはや空き家ではなく家には電気がついていて、駐車場にはチェーンのついたミニバンが停めてあった。どうしようかと思ったが、普通に隣人に挨拶をするのは普通かななんて思い、ドアをノックした。
コンコン
「は、はーい」
ちょっと、強ばった女性の声が聞こえた。ガチャとドアが開いたのはよかったが、何を話せばいいのか考えていなかった。
「えっと、どちら様でしょうか?」
中から出てきた女性は、色白で整った顔をして、年齢は俺よりもちょっと年下位に見える。鼻は赤くなっていて頭には雪を少し被ったニット帽をかぶっていた。服装的にやっぱり彼女はさっきまで外に居て、窓から家の中を覗いていた人だと確信した。
「いや、近所のあそこに住んでいる……というより貸して頂いている者でして、最近までここのおうちは空き家だったのに誰かが住み始めたと思いまして、そこでご挨拶のほうに」
「ああ、すみません。わざわざ挨拶なんて……」
「あの、ここにはいつから?」
「今月の五日からです。そのときは誰もいなかった、あのおうちには居ないと思ってしまって、こちらこそ挨拶できなくてすみません」
十一月五日といえば、一度帰省していた時だ。そりゃ越してきたのを知らないわけだ……。
「いえいえ、その時、ちょうど帰省してました。こちらこそごめんなさい。あと……なんか楽器の音とか聞こえてますか?」
「あ、えっとそれは……」
「いえいえ、あのもしも聴こえていて、騒音なら止めるので」
「騒音なんて、そんな訳ないです! 逆に音が小さくて、聴きに行きたいくら……い……」
彼女は見るからにまずそうな顔をした。
「あ、やっぱり」
「あ、すみません。ホントにすみません。いや、覗くつもりはなかったんです。いや、覗く気はあったのか……でも、そのわざとじゃないというか……」
「いや、いいんですよ。逆に嬉しいくらいです。もしもよければ是非聴きに来てください! 全く売れていませんが、一応音楽家の端くれ、お客さんが欲しいんです。特にこんな田舎で一人ぼっちで練習しているとね」
「え、本当ですか! 是非、今度行かせてください!」
「じゃあ、待ってますね! では!」
俺はそのまま、彼女の家を後にした。表札には田所とあったが、彼女はなぜこんな辺境の地に越してきたのだろうか?
△
雪がよく降るこんなところでは、毎日のように車で街まで降りるのは面倒で家に篭もりがちだ。だから、俺と彼女はすぐに仲良くなった。彼女は毎日のように演奏を聴きに来てくれた。まあ、彼女が来るのはおそらく演奏を聴きに来るだけじゃなくて、話し相手が欲しいんだと思う。会って一ヶ月なのに、最近では一緒の車に乗って買い物に行ったり、彼女の家に御呼ばれして料理を振舞ってもらったりもする。
そうやって話しているうちに彼女のことがわかってきた。彼女の名前は田所由紀と言って、俺と同じ東京が出身地らしい。昔から喘息持ちで今回は大学を休学して、こちらに期間限定で越してきていると言っていた。なんでも喘息だけでなくて、それに併発する発作もあり、その危険性が下がるまでこちらにいるらしい。そのような病人だったからか、色白で控えめでお淑やかに育ったのかもしれない。今回の引越しはずっと前から検討されていたらしく、俺が時折見た空き家に停まっていた車は彼女のお父さんのものだったらしい。言葉遣いやお金の使い方から裕福な環境で育ったみたいだった。