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Snow‘s Score  作者: 無駄に哀愁のある背中
2/8

ヴァイオリンとの再会

     △

 プロのヴァイオリニストになって、もう三年が経つ。四捨五入してしまえば三十路という年齢になってしまった。同じ年に音大を卒業した友人は若手のホープと呼ばれて海外に進出しているやつも数人だが出ている。そんな中、俺は日本の中堅のオーケストラでヴァイオリンを弾く毎日をただ過ごしていた。定期公演とそれに向けての個人練習と団体練習をするだけの毎日。弾く曲は毎シーズン変わっていくが、練習自体は大きく変わらない。俺と同じように三年前にこの団体に参加した人たちの何人かはもっと上の団体に引き抜かれたり、呼ばれたりする中、俺はここでヴァイオリンを弾き続けている。別にそんな繰り返しの毎日が嫌だったわけじゃない、自分の才能の無さに絶望したわけでもない。俺は充実していた。お金は一人暮らしには十分だし、それでも余って溜まっていく一方、彼女もおらず、ヴァイオリンのみに時間を費やす毎日。音大に入って趣味が学問になり、プロになって学問が職業となった今ははっきりと言って充実している。個人のCDが出せなくても上のオーケストラに行けなくても俺はよかった。

 年末前になり音楽家にとって忙しくなる頃、俺は一団体にしか所属していなかったし、ヘルプもなかったため、忙しくはなかった。すると、母校の大学から手紙がやってきた。卒業三年目の卒業生を中心に集めてコンサートをするという知らせで、そのコンサートは毎年恒例のものだった。忙しくなかったこともあるが、音楽の世界では繋がりが重要だと聞いたし、久しぶりに恩師の先生に会いに行くためにも参加をすることを決めた。案内によると、今年の目玉のチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトの協奏曲は、同学年で2年前に渡欧をした若手の超新星とも呼ばれている若林がやるらしい。だからと言ってどうっていうわけでもないけど。


     △

「あら久しぶりね、才葉君。元気だった?」

「お久しぶりです、墨田先生。元気ですよ。墨田先生もお元気そうですね」

「そうよ。元気よー、でも最近の生徒はダメね。あなたたちの代が優秀すぎたのかしらね? あなたも居心地がいいからっていつまでも中堅にいたらダメよ」

「あー、はい、そうですね」

 第一回の合同練習に来ると、恩師の墨田椋乃先生に会った。墨田先生はこの音大の卒業生で先生陣としては一番若く三十代半ばだった。とても優秀でたまにヴァイオリンの演奏会などもやっている。

「毎年、年賀状もらってるのに演奏会行けなくてごめんね」

「いえいえ、別に先生がわざわざ来て聴くようなものではないですよ。そんなことより今年の卒業生のヴァイオリンコンチェルト、若林がやるらしいじゃないですか?」

「そうなのよー、若林君すごいわよね。たった二年でヨーロッパデビュー、あなたの代の天才ね」

「なんかそんな奴が自分の横で音楽を学んでたと思うと、すごく誇らしいです」

「そうね、でも、あなたもすぐに向こう行っちゃうと思ったんだけどね。だって、若林君に匹敵してたじゃない?」

「そんなことないですよ。もう昔ほどうまくないですし」

「まあいいわ。口でどう言っても今日は演奏を聴くから。私も卒業生代表として私がコンマスやるし、みんなの平均レベルを知りたいから一人一人聞いていこうと思ってるの。じゃあ、あとでその時に聴くから」

「はい」

 墨田先生は昔から俺を評価してくれている。久しぶりに墨田先生に会いたかったが、そこまで俺を評価してくれているのに未だに中堅オケの自分にちょっと恥ずかしさを感じた。しかし、恥ずかしくとも自分には上手くなった自信があった。中堅オケだとしても、プロとして毎日ヴァイオリンに触れて、演奏してきたことによる自信だった。


     △

「はい、入ってきて」

 墨田先生の声が聞こえて、俺はその小部屋に入った。

「なんか懐かしいですね。この部屋で何回も課題曲を弾きました。にしても、参加者全員の曲を耳で聴いてファーストとセカンド分けるなんて、大変ですよね」

「まあ、そうだけど。コンマスを任されて、ヴァイオリンを主役にする曲をやるならこれくらいは、って思ってね。じゃあ、早速弾いてちょうだい」

「はい」

 首にヴァイオリンを当て、首に出来たタコに当たるように密着させる。何度か首を揺らして、顎当てが首にフィットしたのを感じるとネックに当てている手のひらを一度離して着ている服で軽くその手のひらを拭く。別にとても脂ぎっていていなくてもする、俺にとっては一種のルーティンのようなものだ。これをやると力がいい感じで抜けてヴァイオリンに集中できる。俺はゆっくり手のひらをネックに戻して指板を見つめる。墨田先生が手拍子を始めて、そのタイミングで始める。

タン、タン、タン、タン。

……

四回の手拍子のあと、俺は課題曲を弾きだした。ファーストとセカンドを分ける課題曲はメンデルスゾーン作の『ヴァイオリン協奏曲 第一楽章』。初心者から熟練者まで、多くの人に親しまれ、個人の演奏会から文化祭の室内楽まで弾かれる機会が非常に多い曲だった。しかし、この曲の特徴は上手い下手がホントに顕著に出ることだ。ある程度の完成度にすることは簡単。しかし、比例のグラフのようにうまさに準じて曲の完成度が変わってくる。

俺は完璧な演奏をしたつもりで、墨田先生のほうを見た。すると、先生は笑った。

「流石ね。うまいわ。ファースト決定」

「ありがとうございます!」

「でも、」

 先生の顔がこわばった。一体、何を言うのだろうか。

「私は悲しいわ。あなたの演奏……変わったわ」

「えっと、それは悪くなったってことですか?」

「いいえ。上手くなってる……でも、昔のようなアイデンティティに満ちあふれて、誰にも似ていない演奏をしていた頃とは全然違うわ。あなたが中堅オケにまだ溜まってると聞いてオケにいるには個性が強すぎるだろうなーって思ってたのに……」

「のに?」

「あなたは落ち着きすぎてしまった。これじゃ、確かに上からのお誘いなんて絶対ないわ。私はあなたがここで昔のままの演奏をしてくれたなら、オケに向いてないからもちろんセカンドにするわ。でも、あなたは安定してオケ専用の弾き手になってしまった。なんだろう、嬉しいような悲しいような……別にいいのよ」

「そ、そうですか。でも、言いたいことがあるならもっとはっきり言ってください」

「……言いますね。あなたはアイデンティティのある素晴らしい天才だと思っていたけど、個性ない普通のプロだったってことよ」

「え」

 はっきりと言ってかなり凹んだ。おそらく俺は自分から昔のようなアイデンティティがなくなってきていることをどこかで認識していたからだと思う。

「じゃあ、次の練習は一週間後、その時に全体で合わせるから個人練習よろしくね」

「は、はい」

 先生は見るからに、かなり落胆していた。しかし、俺はそれ以上に落胆していた。自分がとても信じていて、自分のことを信じてくれた墨田先生に申し訳がなかった。そして、自分がいつしか安定を求めて、学生時代先生に言われた、

「音楽家はいつまでもハングリーであることよ。向上心を失ったら、音楽家は一気に停滞してすぐに廃れる。わかったわね」

 という言葉を思い出し、その言葉を心に響かせていた若い自分に申し訳なかった。

なあ、どうなんだ、昔の俺?

 おそらく、こう言うだろう。

「死ね! 自分の音楽も貫けないクソ金稼ぎ人間なんて、ヴァイオリンを弾く資格なんてねぇよ」

 若い自分は金だけのために頑張る音楽家を嫌っていた。俺はそんな音楽家になってしまった。俺は家に帰る道中で、今回のオーケストラを断ることを決めた。これ以上、墨田先生にとっての自分の株を落としたくなかったからだ。そして、今のオーケストラも次の五月の定演が終わったら一時的に休むことにした。はっきり言ってもう自信がなくなってしまったのだ。


     △

 すべてを一度凍結させて実家に帰った俺は両親にすべてを話した。すると、親戚のおばさんの別荘で、一年間くらい過ごすのはどうだろうかと言ってくれた。母さんも父さんも俺の音大への進学は反対だったが、俺がプロになって仕送りをするようになってから、友好的に相談事に乗ってくれる。おそらく音楽の世界で一応食えるようになって、仕送りをする余裕もある、そんな俺に安心してくれたからこうやって相談に乗ってくれるんだと思う。そんな両親と昔から俺の音大進学を応援してくれていたそのおばさんのおかげで、俺は荷造りをして別荘に行くことになった。母さんもその手伝いをしてくれた。

「アンタ、あそこはとても田舎よ。すぐに無理になったら戻ってくるのよ」

「わかってるよ、母さん。一度行ったことあるし。そういえば、あそこは何県だっけ?」

「岐阜の飛騨高山の近くよ。めっちゃ田舎よ。ここだって八王子で東京の田舎だけど、比じゃないわよ」

「聞いたよ。なんだっけ、家から一番近い街が車で三十分。冬は灯油とチェーンが必要」

「近くには一軒以外まったく家がないの。その一軒も空き家。電気しかなくて、ガスは簡易コンロを使わないといけない」

「完全なる孤独だね」

「まあ、私は心配だから行きたいけど、車の免許ないしたまに仕送りしかできないからね」

「大丈夫だよ、母さん。大学二年から六年間はずっと一人暮らしだったし、料理も洗濯もできるしね」

「そうそう、洗濯で思い出したんだけど、あそこは冬は水道が凍結する可能性があるからちゃんと使わないと、凍るわよ。あと……」

「母さん、大丈夫だって」

「そ、そう。私は心配なのよ」

 母さんはとても心配そうにしていた。そりゃそうだ、一人息子が仕事を休んで、田舎で武者修行をするなんて言っているんだから。そんな母さんの心配には悪いが、俺は少しこの田舎の滞在を楽しみにしていた。なぜならヴァイオリンをこんなにも真っ直ぐ見る機会を設けるのは久しぶりだからだ。多分小学校以来だ。中高は他の勉強もあったし好きな人もいたから、ヴァイオリンに熱中していたとは言えないし、大学に入ってからは音楽には集中していたかもしれないけどヴァイオリンだけとは言えない。プロになってからは金のことを考えることが増えた。ホントにヴァイオリンと向き合うなんて久しぶりだ。

 俺の田舎生活にはなにが待っているのだろうか?

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