8 欲まみれな彼
先程から何度時計を見ているだろう。そわそわして落ち着かない。こんな事ならやっぱり迎えに行けばよかった。彼女の携帯に連絡を入れても一向に繋がる気配が無い。
まさか迷子にはなっていないだろうが道中よからぬ連中に絡まれているとも限らない。駅まで行ってみようか、そう思って玄関に向かうと何やら使用人が揉めている。
「何て事をしてくれたの!」
「すみません」
「宇佐美どうかしたの」
「秀明様、申し訳ありません。先程新井様がお見えになったのですがお帰りに為られました」
「帰ったって、どういう事?」
「……坊ちゃんの御学友とは知らずに門前払いを…」
「秀明様!」
なんだって彼女がこんな目に合うんだ。何一つ彼女の落ち度じゃない。くだらない嫉妬や妬みで彼女を苦しめて今度は門前払いだって?
ふざけるな!
日頃の運動不足が呼吸を乱して上手く息が出来ない。
こんなに真剣に走ったのは何時以来だろう。体育祭だって面倒で適当に流してリレーをやっていた。
でも捕まえないと、きっと後悔する。流れる汗も気にしないで駅に向かって走る。信号待ちをしている小さな人影を見つけた。
彼女だ。
振り向いた彼女は不安気で今にも泣き出しそうだ。
「行き違いがあって……ごめんね」
そう言うと、とうとう泣き出す彼女。
切なくてこっちまで泣きたくなって来る。抱きしめて心に寄り添ってあげる以外何も出来ない。
ただ愛しい気持ちが少しでも彼女に伝われば良いと思った。
「何時までもこうしていたいけど、ふたりとも干物になっちゃうよ。屋敷に戻ろう」
「でも私……」
「僕の大切なお客様だから何にも遠慮はいらないよ。新井さん涙でぐちゃぐちゃだよ」
頬を赤らめてバツの悪そうな顔をする彼女はちょっとふらついている。僕ももう体力の限界で1分でもこんなアスファルトの熱を受けたくない。電話で迎えを呼んで車で戻ると玄関で宇佐美が待ち構えている。
「まあおふたりとも汗が……」
「話は後。新井さん着替えないと」
「はい。そうですね。シャワールームにご案内致します」
宇佐美に連れられて行く彼女を見送って僕もシャワーに向かう。酷い有様だ。彼女の事を考えてコーディネイトしたTシャツも彼女の目に留まったかどうかも怪しいまま着替えないといけない。
何だか最近の僕は走ってばかりいる。
彼女を追いかけてあっちに走り、こっちに走り休む間もなく動いている。
こんなに振り回してくれる彼女は相変わらずマイペースで僕の事を好ましく思ってくれているのかも怪しい。
強引に関係を結ぶのは容易い。
至極簡単。
なんなら今すぐにでも出来る。毎晩想像する事を実行すればいいだけの事。
でもそれをしたらもう二度と彼女の笑顔は見れない気がする。
彼女が僕を見る目は曇りが無い。その目が好きだから今は必死に我慢するしかないのだ。
クーラーが効いた部屋に入るとそこにはすでに彼女がいた。遠慮気味にソファーの端に座っているのを良い事に隣に掛ける。
シャワーの後のシャンプーの匂いがする。
僕と同じ匂いを纏っている。
「色々とごめんなさい。先輩、大丈夫ですか」
「それはこっちの台詞だよ。大丈夫?」
「はい宇佐美さんから事情は聞きました。取り乱して泣いたりしてごめんなさい」
「そんなに良い子でいなくてもいいのに」
「先輩こそ優し過ぎです」
「好きな子にやさしくするのは当たり前だよ」
「……先輩は私の何処が好きなんですか」
「全部好き。容姿も声も性格も全部好きだよ」
「ぷふっ……」
「何が可笑しいの?」
「だって、先輩の前では猫被ってるのに、全部って私の事知らな過ぎです」
「だったら教えてくれる?もっと君の事知りたい。もっと君の事を好きになりたい」
「……物好き…」
「言ってくれるね。僕だって君の前では羊の皮を被ってるんだよ」
「先輩も?同じですか?……うん。私も先輩の事をもっと知りたい!」
「それは、ちゃんとお付き合いしてくれると言う事?」
「はい。宜しくお願いします」
あっけないほどにOKをくれた。
付き合う意味を分ってるのか不安が過ぎる。だけど彼女の瞳は優しい色に満ちて僕を見ている。
良い人も悪くないけど、散々待たされた御褒美を貰わないとわりに合わない。ちょっと強引だけど軽く触れるだけのキスをひとつ落とす。
びっくりして目も閉じない君はきっと初めてだったはず。
この先の初めては全部僕が頂くから、代わりに僕の最後を君にあげる。
最後の恋になる。
予感じゃなくて決定。
これは運命だ。
君の瞳に囚われた日から僕の生きる場所は君の中以外に無い。
だから諦めて僕の手に堕ちておいで。
そして僕の欲に溺れてしまいなよ。
腕の中の君に願った。
ふたりの恋は始ったばかり。これからどうなるのかはまだ分りません。
読んで下さったみなさんありがとうございます。