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第9話  レシュノルティア―れいの場合



 合宿の最終日。失恋して落ち込んでいる私に気づいて連れ出してくれたのが、辰巳さんだった。

 行動は強引なのにちょっとした仕草に思いやりがあって、私を見る瞳に優しい光を帯びているから、いつもだったら緊張したり男性に対する苦手意識から話す事も出来ないのに、辰巳さんとは友達みたいに普通に話すことが出来ていた。

 男性なのに男性って意識することがなくて、だから自然と話すことが出来たのかもしれない。

 心にもやもやしていた気持ちを聞いてもらって、「頑張ったね」って言ってもらって、すごく安心して泣いてしまった私に、嫌味一つ言わずに、泣きやむまでずっと優しく頭を撫でてくれていた。

 強引だし、見た目はクールでとっつきにくい感じがするのに、実は優しくて。

 心を穏やかにする言葉をくれる人で。

 私が心を許すには十分すぎるいい人だったから。

 泣きやんだ私に、辰巳さんはどこから取り出したのかハンカチを貸してくれて、夜遅いからと家まで送ってくれた。



「遅くなってしまって申し訳ありません」

「いえ、私こそ送ってもらっちゃってすみません」


 私のアパートの前まで送ってもらって恐縮して頭を下げると、辰巳さんはふふっと皮肉気な笑みを浮かべる。


「いいんですよ、俺が連れまわしたんですし。それに、俺の家もこの近くなので」

「そうなんですか?」


 顔を上げて聞いた私に、辰巳さんは目元を細めて。


「そうなんですよ」


 今日何度目になるか分からないそのやり取りに、どちらからともなく笑みを浮かべる。

 笑いが収まった頃、居住まいを正して目の前に立つ辰巳さんを見る。


「今日は本当にありがとうございました」


 改めてお礼を言っていないことに気づいて、頭を下げると。


「どういたしまして」


 辰巳さんは目元を和ませてふわりと微笑んだ。


「また、お店に来て下さいね」

「はい」

「お休みなさい」

「おやすみなさい」


 そう言って街灯と月明かりに照らされた夜道を歩き出した辰巳さんの背中をしばらく見送って、アパートの二階へと続く階段を駆け上った。

 この日まで、ほとんど辰巳さんのことを知らなかったのに、私の中で辰巳さんは友達というポジションにすっかり落ち着いて信頼できる人になっていた。



  ※



 三日後。大学に用事があって、学校に行ったついでに図書館で休み中のレポートに必要な参考書を借りて、十一時少し過ぎた時間にカフェ・ブルーベルへと向かう。

 学校がある期間は帰りにコーヒーを飲みに行くぐらいだけど、今みたいな夏休みで講義がない時期はランチを食べて、少し勉強したり読書したりしていくのが定番になっていた。

 夏場はアルバイトで忙しくて、ランチを食べに来るのはすごく久しぶりだった。

 黒塗りの縁のガラス扉を押しあけると、扉の上部に掛けられたパイプチャイムが涼やかな音色を奏でる。


「いらっしゃいませー」


 八十席の店内にはオーナーの他に三人の従業員がいて、鈴の音に一斉に声が上がる。

 店内にはランチ目的のお客がぱらぱら入っている。

 私は従業員が案内に来る前に、一人で来る時の定位置となる絵の描かれた壁側、窓際の二人掛けの席へと進む。

 椅子に座ったのとほぼ同時にテーブルにお冷の入ったグラスが置かれ、顔を上げると半袖の白いYシャツに黒ズボン、腰に黒いロングエプロンを巻いた辰巳さんが立っていて、警戒心を完全に解いた顔で微笑む。


「こんにちは」

「いらっしゃいませ。こんにちは、羽鳥さん」


 笑い返してくれた辰巳さんのトレードマークのハーフアップされた髪の毛を見て、伸ばしているのかな――なんて考える。


「ご注文はお決まりですか?」


 辰巳さんがお冷を運んできたトレンチを脇に持ち、営業スマイルで尋ねてくるから、慌ててメニュー表を開かずに注文する。


「今日のランチってなんですか?」

「ペンネパスタのカルボナーラでございます」

「じゃー、それをお願いします」


 テーブルの上に腕を乗せて、頭で注文を考えながら辰巳さんを見上げる。自称常連と思っているくらいだからメニューはほぼ覚えているわけで、メニュー表を開かずに注文することが出来る。ただメニューは時々変更になるから、注文後、料理が運ばれてくるまでの間に眺めたりする。


「お飲み物は何になさいますか?」

「……っ」


 聞かれて、おすすめブレンドと言おうと開いた口を止める。戸惑いがちに辰巳さんを見上げて。


「あの、以前オーナーに試作品のブレンドを頂いたんですけど、それってありますか?」


 試作品の言葉に辰巳さんの片眉がぴくっと動いたのに気づいて、慌てて付け加える。


「あっ、なければいいんですっ!」


 ランチセットのドリンクは基本コーヒーならどの種類からも選べるんだけど、試作品はさすがに無理かなと肩をすぼめて返答を待っていると、掠れた小さな声で辰巳さんが聞き返す。


「試作品って……もしかしてブルームーンのことですか……?」

「はい」


 頷いた私に、一瞬、眉間に皺を深く刻んだ辰巳さんは、直後には完璧な営業スマイルで。


「オーナーに確認してきますので、しばらくお待ちください」


 丁寧に頭を下げてカウンターに戻っていくから、眉間の皺は私の見間違いかと思ってしまった。

 しばらくして戻ってきた辰巳さんに大丈夫と言われ、私はまたあの美味しいコーヒーが飲めることにうきうきしてて、その時辰巳さんが私をどんな顔で見ているかなんて気づきもしなかった。



 料理が運ばれてくるまでの間、私はさっき図書館で借りた参考書を全部机の上に出し、ルーズリーフを出して課題に取り掛かる。初めてすぐに店内にきいた冷房で体が冷え始めたのに気づいて、カーディガンを取り出して半袖の上に羽織る。

 ルーズリーフには調べることが箇条書きされていて、それを見ながら参考書を端から読んでいく。しばらくして。


「お待たせ致しました」


 その声に顔を上げると、辰巳さんが立っていてふわりと薫るような綺麗な笑みを浮かべる。手にはトレンチを持っていて、私は慌ててテーブルの上に広げた参考書とルーズリーフをまとめて鞄の中に片付ける。

 それと入れ違いにテーブルに置かれた仕切りの付いた磁器の白いランチプレートにはペンネのカルボナーラとグリーンサラダが綺麗に盛り付けられている。

 ホワイトソースと卵の匂いに混ざってフローラルな香りが漂い、コトッとソーサーに乗ったコーヒーカップが置かれる。


「あっ……ありがとうございます」


 あの日、オーナーが出してくれたブルームーンブレンドを飲んだ瞬間、胸に渦巻いていた苦しい気持ちを吹き飛ばしてくれた。飲んだことのない不思議な味わいで、試作品じゃなくてちゃんとしたメニューになったらいいのにと思うほど美味しかった。

 そのコーヒーをもう一度飲むことが出来て、逸る気持ちにカップに手を伸ばし、香ばしさの中に混ざったフローラルな香りを肺いっぱいに吸い込んでからゆっくりと口をつける。

 喉の奥に広がる程良い酸味と、コクと甘さのハーモニーにうっとりと目を細める。


「お味はいかがですか?」


 オーナーにも聞かれた質問に、私は同じように答える。


「美味しいです。いままで飲んだどのコーヒーよりも美味しくて、私、好きです」


 カップの中に揺らめく茶色い液体に視線を落として言う。辰巳さんの気配が和らいだ気がして仰ぎ見ると。


「ごゆっくりお過ごしください」


 マニュアル的なセリフと動作でカウンターに戻って行ってしまった。

 またしてもこのブレンドを作った人のことを聞きそびれてしまって悔やむけれど、まあいっか、と思う。

 コーヒーを置き、店内にぐるりと視線を向ける。

 従業員はみんな男性で、「うちの従業員」というオーナーの言い方からしてブレンドしたのがオーナーではないことは分かっている。辰巳さんでも……ないのかな。そうしたら、他の従業員だとしたら、作った人が誰か教えてもらったとしても人見知りの私が話すことは出来ない。

 きっとこの中の誰かなんだな――そんな風に曖昧にするほうが、理想像が崩されなくていいように感じた。

 ブルームーン――ネットで調べたら、そのまま満月のことだったり、カクテルや薔薇の名前だったり。極めて稀な事、滅多にないという意味で使われる言葉らしい。

 青い薔薇の別名がブルームーンで、青い薔薇を作ることは不可能とされていることからブルームーン=不可能っていう意味が含まれる。

 そのことを知って、なんだか既視感を覚える。

 初めから不可能だと思っていたんだ――だけど。

 人工的に青い薔薇が作られるようになって、不可能から奇跡という意味に変わったという。

 不可能だった恋、だけど奇跡だった恋――

 私の初恋、そして失恋を慰めてくれるような味。心をとろかすような馥郁たる香りに、ブルームーンブレンドに惹かれない理由がなかった。

 ランチを食べながらそんなことを考えて、ふっと視線をテーブルの脇に置かれた小型のスーツケースに移し、口元をほころばせた。

 こんな穏やかに気持ちになれたのは――本当にこのコーヒーのおかげなんだ。




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