第8位 愛を奏でる天使―ハートブレーク
ゲームセンターの向かい、細いバス通りに面した建物の二階にあるイタリア料理のお店に入る。
時刻はすでに二十時半を過ぎていて、私はあまりお腹は空いていなかったけれど、辰巳さんもそうとは限らないから飲食店に行くことになった。
細長い店内は黒塗りの床、白い壁の所々にレンガが埋められ、カウンターはチェス盤模様になっているお洒落な雰囲気。木製のチョコレートブラウンの丸テーブルをはさんだ向かい側に辰巳さんが座っている。
メニュー表を広げると美味しそうな写真が載ってて、お腹すいてないとか言いながらエビとカニのトマトソースパスタとラザニアのハーフプレートとライムチューハイを頼んでしまった。
しばらくして料理が出てきて、辰巳さんの前に置かれたのがオムライス風グラタンと大盛りのカルボナーラで、その量の多さに目を見張る。
わぁー、男の人ってこんなに食べるんだ。繁々とテーブルに並べられたお皿を眺めて、こんな風に男性と二人きりでご飯を食べることが初めてと気づいて、また驚く。
親友の七海を挟まないで話せる男性なんて数人しかいないのに、人見知り体質で人と距離を置いてしまう私の側に辰巳さんは一足飛びで近づいてきた。
まるで青空に浮かぶ月のように影もなく側に寄ってきて、それでいて包み込むように見守っていてくれるような優しさがあるから、安心してしまうのかもしれない。強引な行動に戸惑うばかりで、男性に対する苦手意識や緊張することも忘れてて、気が付いたら普通に話していた。
人見知りとか男性が苦手というのも、私の方から距離を置くから相手のことが分からなくて距離が縮まらない――のかもしれない。
人見知りと言って他人と距離を置いていたのがなんだか恥ずかしくなって、苦笑がもれる。
「どうしました?」
笑っている私を怪訝そうに片眉を上げて見る辰巳さんを見上げる。
「初対面の人とこんな風に外でご飯食べるのなんて初めてだから、不思議な感じがして」
店員さんが持ってきてくれたチューハイを一口飲んで苦笑すると、星空の瞳が一瞬揺らいだような気がする。
「そうなんですか……?」
「そう、なん、です。人見知りだし、男性とは本当に親しい人以外とは面と向かって話せないし……」
お酒は一口飲んだだけで、酔ってもいないのに饒舌になるのは感傷に浸っているからなのかもしれない。
親しい人――そう言って頭の中に思い描いたのは、言うまでもなく秀先輩だった。だけど、もう秀先輩とは今まで通りに接するなんて出来そうになくて、顔を切なく歪ませて乾いた笑いが漏れる。
この間、ヤケ酒して酔いつぶれたばかりだという事も忘れて、誤魔化すようにチューハイをあおる。アルコールが一気に体中を廻り、ふわふわしていい気分になって、へへへっと笑いながらお酒の追加を頼む。
その時、飲み物を何も頼んでいなかった辰巳さんがビールを頼むのをぼーとする頭で聞く。
私はラザニアを一口頬張って、向かいに座る辰巳さんをじぃーっと見る。
「辰巳さんって不思議な人ですね。親しみやすいというか話しやすいというか、今日が初めて話したなんて気がしないです」
ラザニアを食べながら言うと、辰巳さんは出されたビールをぐいっと半分ほど飲んでから、鮮やかな笑みを浮かべる。
「それなら――羽鳥さんのもやもや、俺に話してみるのはどうですか?」
思いもよらない提案にしばらく瞠目し、テーブルの上のお皿に視線を落としてフォークでラザニアをぐさりと刺す。
核心をつかれて胸が切なくざわついて、だけれどもそれが嫌ではなくて、ぽつりと小さな声で話しだす。
「失恋しました……さっき」
自虐的な笑みを浮かべて、傷ついた心に気づかれないようにラザニアをぱくぱく口に運びながら喋る。
「初めて好きになった人だったから、とても大切な気持ちで……もっとちゃんと言うはずだったんです。まっすぐに先輩の目を見て言うはずだったんですよ。それなのに、先輩は私のことどう思っていたと思います? 羽鳥のことは妹みたいに思ってる――って、完全に恋愛対象外としてしか見られてなかったんですよ。どうしようもない失恋なんです……」
泣き笑いを浮かべて、へへっと変な笑いをする。
ラザニアから視線を上げると、丸椅子に深く腰掛け姿勢よく座っている辰巳さんが無表情で私を見ていて、だけれども瞳が優しく私を見つめているから、胸に溜まっていたドロドロしていたものがすぅーっとどこかへと消えていく。
もし辰巳さんの顔が痛ましげな表情だったら、同情されているようで辛かったけど、気持ちがとても楽になった。
三杯目になるチューハイのグラスを空にした私に、辰巳さんがくすりと笑う。
「そんなに飲みたい気分だったのなら、居酒屋にすれば良かったですね。酒に付き合うくらいなら出来ますよ」
「そうですね……」
大酒飲みと思われたことに苦笑して、あいまいに答える。
「辰巳さんはお酒好きなんですか?」
私に付き合う様にビールを注文してたから、お酒を飲む方なのかどうか判断できなくて聞いたんだけど、一つ質問するとどんどんと疑問が湧いてくる。
「っというか、辰巳さんはいくつなんですか? ビール飲むんですから、もちろん二十歳は過ぎてますよね?」
一つか二つくらい年上だろうと思っていたけれど確認のため聞いてみる。
辰巳さんは数回目を瞬き、口元に微苦笑を浮かべて首を傾げる。
「二十歳ですよ」
「同じ年なんですか!?」
驚いた声を上げると、目を見張ってなにか諦めた様な寂しげなため息をつく。
「そうですよ、年上だと思っていたんですか?」
「二十一か二十二くらいかと思っていました。じゃあ辰巳さんも大学生ですか?」
質問責めにする私に少し困った顔をしながらも、辰巳さんは真摯に答えてくれる。
「大学には行っていません。高校卒業と同時にブルーベルに就職しました」
「えっ、そうなんですか?」
高校を卒業したら大学に行くのが当たり前だと思っていて、高校の友達も大学生か浪人生のどちらかが多いから、同い年ですでに働いていることに驚きを隠せなかった。
辰巳さんは目元に優しい笑みを浮かべて頷く。
「俺の夢はカフェで働く事なんです。だから少しでも多く実務経験を積みたくて大学には行かなかったんです」
大学に行くのが当たり前だと思っていたのが恥ずかしくて、だけど夢だと言った辰巳さんの口調は甘美な響きだけれども現実を見据えて着々と夢に近づいているのが伝わってきた。
目標に向かって着実に歩いている辰巳さんが、すごく誇らしげで眩しく感じた。
私なんて、理科が得意だからって理由で薬剤師を目指して、大学に入ることが当たり前だと思って高校卒業と同時に就職するという考えは全くなかった。
同い年なのに、なんだか辰巳さんがすごく立派にみえて、へこんでしまう。
失恋の辛い気持ちはどっかに消えたと思ったのに、違うもやもやが浮かんで気分がへこんでしまう。
黙り込んだ私に、辰巳さんは空になった四杯目のグラスを指す。
「追加、頼みますか?」
思わず頷いてしまって、くすりと小さな忍び笑いが聞こえて顔を上げる。辰巳さんが星空の瞳を和ませて私を見つめる。
「どんな形で夢を追うかは人それぞれです。俺はたまたま高校卒業してすぐだったけれど、羽鳥さんだってちゃんと目標の為に大学に通っているのでしょう?」
私の些細な気持ちの変化に気づいて辰巳さんが言うから、胸がぎゅーっと締め付けられる。
「恋だって――そうですよ。羽鳥さんはちゃんと自分の気持ちを伝えられました。先輩だって、羽鳥さんの気持ちを聞いて嬉しかったはずですよ」
告白現場にいたわけでもないのに自信満々にそんなことを言うから、自分の瞳が泣きそうに揺れる。
「どうしようもなくなんかありませんよ。よく、頑張りましたね」
一つ一つの言葉に慈しみが込められて、ぽろっと瞳の端から雫が流れ落ちた。
もう涙なんて枯れるほど泣いたと思っていたのに……
私の想いは無駄なんかじゃなかった――て、誰かに言ってほしかった。
今一番欲しい言葉を、辰巳さんがくれた。
肩を震わせて泣く私の頭を、辰巳さんが温かくて大きな手で静かに撫でていく。最後の一滴が流れ落ちるまで、ただ優しく頭をなで続けてくれた。