第6話 愛を奏でる天使―強引な人
私の腕を引いてずんずん歩く男性はすらりと背が高く、紺のカーゴパンツに白いシャツ、ダイス模様の臙脂のカーディガンを着ている。艶めく漆黒の髪は肩につくくらい長くて、上半分だけ結んでいるのを、後ろから見上げる。
運河駅に着くと二人分の切符を買って電車に乗りこむ。どこに向かっているのかも分からないのに、私は黙って腕を引かれるままに従っていた。
突然、声をかけてきたこの人は強引に私の腕を引いて歩き出したのに、店を出て鞄を持っていないと気付いた私の鞄をちゃっかり持ってたり、黙々と歩いているけれど私の歩調に合わせてゆっくり歩いている事に気づいて、強引なのか優しいのかよく分からなくなってしまった。
いつもだったら知らない人と二人きりなんて状況は絶対にありえない。人見知りで緊張しているから黙って従っている訳じゃない。失恋でやけっぱちになっているのとも少し違う。
ただ、電車の中で見たこの人の瞳が心配そうに私を見ているから――なんとなくついて行ってもいいかなって思ったの。
それに一人でいるのは辛いことばかりを考えてしまって嫌だったから……
運河駅から電車に乗り柏駅で降りる。土曜日の十九時過ぎ、お盆期間という事もあって柏駅前のコンコースは学生や会社員、飲食店の勧誘の人でごった返していた。
彼はその中を上手にすり抜け、私の手を引いて歩いて行く。
時々、すれ違う女性の囁きが聞こえ、何人もの人が振り返ってこっちを見ている様な気がしたけれど、たぶん気のせいだろう、と思うことにした。
東口を出て駅前の大通りをまっすぐ歩き、辿り着いた場所に――私は唖然として大きく口を開いて入り口の前で立ち止まったのだけれど、そんな私の様子には気づいていない彼にまたしても強引に腕を引かれ店内に足を踏み入れることになる。
自動ドアが開いた瞬間、耳を塞ぎたくなるような騒音と店内のBGMに、私は眉根を寄せる。
迷うことなく店内を進み、振り返った彼の瞳が心なしか輝いているように見えて、眉間の皺を深くする。
「どうしますか?」
その質問の意味が分からなくて、そのまま聞き返す。
「どうしますかって……?」
彼も私の質問の意味が分からないように首をかしげる。
「UFOキャッチャーやりますか? それともレースゲー? 格ゲーがいいですか? マジアカも楽しいですよね?」
ね、と言われても……
ところどころ日本語なのかどうかも分からない単語に私は首をひねる。
「あの……カクゲーってなんですか?」
分からないから聞いてみたんだけど、彼がぽかんとした顔で私を凝視するから、どうしていいか分からなくなってしまう。
「格闘ゲームのことですよ? ゲームはあまりやりませんか……?」
少し困ったような声で彼が言うから、私は苦笑して首を横に振る。
「あまりというか……全然。ゲームセンターは一回目は少し入口のあたりに入っただけで、今回が二回目です」
「えっ、二回目ですか!?」
彼は目を見張り、私の手を握っていない方の手で戸惑ったように首を触って横を向く。
あんまり彼が黙っているので、私は掴まれた手をちょんっと引いて彼を見上げる。
「あの、どうしてゲームセンターに来たんですか? なにか用事でもあるんですか?」
普通に疑問に思ったことを聞いただけなのに、彼ははっとしたように動きを止め、ぎこちない動きで俯いてしまう。何か気に障ることでも言ってしまったのかと思ったら、顔を上げた彼はばつが悪そうに額にかかった髪をかきあげて皮肉気な笑みを浮かべる。
「ははっ……。いえ、俺が用事があった訳じゃなくて」
そこで言葉を切り、顔を間近に近づけられる。うっとりするような漆黒の瞳に真剣な光を帯びて私の瞳を覗きこむ。
「あなたが落ち込んでいるようだったので、ゲーセンにでも行けば気持ちを紛らわせられるかと思ったんですよ……」
口元に手を当てて、言い訳するように言う彼の瞳が優しい光を宿していて、胸に温かいものが込み上げてくる。
私が落ち込んでいるからお店から連れ出してくれたの――?
そういえば――秀先輩の事で悲しかった心が、今は彼の行動の奇怪さに戸惑って、すっかり失恋のことを忘れていた。
その時になって、ずっとひっかかっていた違和感の正体に気づく。
「あなた、もしかして……」
至近距離にある彼の顔をさらに一歩近づいて覗きこみ、バラバラになっていた記憶のパズルがかちりとはまる音がする。
そうだ。見覚えのある顔だと思っていたのは、初めてカフェ・ブルーベルに行った時、私と話しているオーナーに声をかけてきた従業員の人だったからだ。
えっと、確か名前は――
「たつみ、さん……?」
私の声に、たつみさんはぴくっと肩を揺らして星空のような漆黒の瞳を大きく見開く。その瞳の奥には、焦がれるような熱と何かを強く求めるような光があって、掴まれていた手にぎゅっと力が込められる。
あれ、違ったのかな……?
私が首を傾げ尋ねようと口を開くと、ぽつりと戸惑いがちな声が聞こえる。
「どうして名前……思い出したんですか……?」
「えっと……オーナーが確かあなたのことをたつみさんって呼んでましたよね? 違いましたか?」
私が困ったようにたつみさんを見上げると、一瞬鋭く瞳が光って、宿っていた熱がすっと引いて涼やかな瞳になる。
「ああ……そんなことがありましたね」
たつみさんは皮肉気に笑うと大きく息を吐いて、綺麗な笑みを浮かべる。
お店からずっと掴まれていた手を離して私の正面に立った辰巳さんが小首を傾げて私を見下ろし、さらさらの前髪が瞳の上で揺れる。
「自己紹介がまだでしたね。俺の名前は辰巳 奏です。よろしく、羽鳥さん」
「あっ、はじめまして。私は羽鳥……って、あれ?」
差し出された手を掴もうとして、辰巳さんをぱっと振り仰ぐ。
「どうして私の名前を知っているんですか……?」
喫茶店で何度も会っているとしても、名前を教えた覚えはなくて怪訝に見上げると、一瞬、寂しげに顔を曇らせてくすりと笑う。
「あなた、常連のお客様ですし。虎沢オーナーから聞きました」
「あっ、そうなんですか……」
もっともな理由に納得して、警戒したのが少し恥ずかしくて俯きながら改めて差し出された手を握る。
辰巳さんはふわりと薫るような妖艶な笑みを浮かべて、私の手を握った。
「では気を取り直して、羽鳥さんのゲーセンデビューと行きましょうか」
「えっ、えっ……!?」
また手を強引に引かれ、ゲームセンターの奥へと足を踏み入れた。
―人物紹介―
◆辰巳 奏
カフェ・ブルーベルのイケメン従業員