第5話 恋愛対象外
気持ちを伝えないまま終わりにしたくない恋を見つけた。
その気持ちを伝えるだけでも、人見知りの私にとっては大きな進歩で。だから頑張ろうって思ったの。それなのに――
どうしても秀先輩のことを意識してしまって声をかけられなかった。流星群の観察会から後――先輩とはほとんど話さず、もちろん二人きりになって告白するなんて出来るわけがなかった。
私の気のせいじゃなくて、秀先輩は飲み会中も私の方をじぃーっと見てて。何度も声をかけられそうになっては、七海と話している振りやトイレに逃げたりしてしまった。
七海はそんな私を緊張していると思っていたのか、ため息をついても、煽るような事を言ってくることはなくて、少しだけほっとしていた。
帰りのバスの中、眠くはなかったけどほとんどの部員は寝てしまい、斜め後ろに座った秀先輩が起きているのを感じて、なんだかいたたまれなくて寝たふりをした。
こんな風に逃げてばかりいてもどうしようもないのに、心が不安に押しつぶされそうで、秀先輩の顔をまともに見る事も出来なかった。
「羽鳥っ!」
バスから降ろした鞄を持って素早く校門に向かおうとした私の腕が力強く引かれ、ぴくりと足を止め、視線を足元に落とす。振り返らなくても、呼びとめた声が秀先輩だって分かってしまって、切なさと不安とない交ぜな気持ちで鼓動が早鐘を打つ。
「な、ん、ですか……?」
振り返る事も出来ず、震える声で聞き返すのがやっとだった。
掴まれた腕から心臓の音が聞こえてしまいそうで、離してほしくてみじろぐと、察したように少し困ったような秀先輩の声が後ろから聞こえた。
「あっ、ああ、悪い。少し話があるんだけどいいか?」
有無を言わせない言い方ではなく気遣わしげな声に秀先輩の優しさが伝わって、心が切なく震える。
私はゆっくりと振り返り、秀先輩の顔ではなくて繋がれた手に視線を向けて、こくんと頷いた。
秀先輩はさりげなく私の手を離して歩き出し、私もその後、三歩離れた距離を歩く。
バスの中で牛丸部長の解散宣言がされ、バスの荷台から荷物を下ろした部員が次々と校門を出ていく中、私と秀先輩は逆方向――校舎へと向かって歩く。
途中、秀先輩は他の三年生に「どこ行くんだ?」って声をかけられると、「ちょっと」と笑って返した。
七海は私が秀先輩と一緒なのを見て、頑張れっというように手を振ってくれて、私は複雑な気持ちで少しだけ手を振り返し、秀先輩の後を追った。
車両門からすぐ横にある部室棟の前に止まったバスから、まっすぐ伸びる桜並木――今は青葉だけど夜で分からない――を進み、食堂の手前で秀先輩は立ち止まった。
お互い大きな鞄を地面に置くと、秀先輩が振り向いて私を見つめる。
呼び止めてこんなところに連れてきてまでする話ってなんだろう――そう考えて、合宿所でも頭を廻った期待と不安が渦を巻いてぐるぐると胸に押し寄せる。
秀先輩の目の前に立っているだけで緊張して、逃げてしまいたい衝動にかられる足を、必死にその場に繋ぎとめた。
「あの……」
「あっ……」
私と秀先輩が口を開いたのは同時だった。ぱっと顔を上げた私は秀先輩の瞳と視線があって、お互い大きく目を見開く。
まさか秀先輩が何か言おうとしたのと被るとは思わなくて、ばつが悪くて私は視線を横にそらしてきゅっと両方の手のひらを握り合わせる。
「その……」
秀先輩には珍しく歯切れ悪く口ごもるから、思わず仰ぎ見てしまう。そこには星のような優しい煌めきの瞳があって、ドキンッと大きく心が震える。
「天文台でのことだけど……」
天文台? 初めは何の事を言いたいのか分からなくて――すぐに手を握られた事だと気づいて、ぼぼっと湯気が顔から出そうなほど顔が赤くなったのが自分でも分かって、慌てて俯く。
「びっくりしただろ? 突然手を握ったりなんかして、ごめん。流星があまりに綺麗で興奮して……」
無邪気な子供みたいな理由で、秀先輩らしいと思って苦笑する。
「はい、驚きました」
温かくてくすぐったい気持ちで胸がいっぱいになって、くすりと笑って頷いた。
「本当にごめん。そのことをずっと謝りたくて」
私と同じように、秀先輩もずっと手を繋いだ事を気にしてくれてたことに、気まずくて避けてしまっていたことが申し訳なくなる。気にしていません――嘘だけどそう言ってこの話を終わりにしようとしたんだけど。
「妹みたいに思っている羽鳥とは気まずくなりたくないんだ」
その言葉が鋭い刃物の様に胸に突き刺さる。
ツキン、ツキンと胸が締めつけられて苦しくなる。
もしかしたら、秀先輩も私のことを好きでいてくれるかもしれない。意識してくれているのかもしれない――その淡い期待が、無残にぼろぼろと音を立てて崩れ落ちる。
妹みたい――その言葉で恋愛対象外だと言われていることが分かってしまって切なかった。
「――っ」
秀先輩からそらしていた視線をくっと上げ、星の輝きの瞳をまっすぐに見据える。
「私は秀先輩が好きですっ」
気がついたら勢いで告白していた――
目の前の秀先輩の瞳が驚きで大きく見開かれ、それから困ったように眉尻が下がるのを見て、ぎゅっと胸が痛み視界の端が滲みだす。
こんな風に投げやりに言うつもりじゃなかった。
もっと慈しみを込めて言うつもりの言葉が、ぽろっと瞳から落ちる冷たい雫と一緒にこぼれ落ちた。
「……羽鳥、ありがとう。だけど」
続きの言葉なんて聞かなくても想像が出来て、くしゃくしゃに顔を歪ませる。
「羽鳥のことは好きだけど、それは大事な後輩としてで――」
困ったような秀先輩の言葉を最後まで聞かずに、私はその場をかけ出していた。
地面に置いた合宿の鞄も忘れ、手持ち鞄一つでただ無我夢中に走っていた――
※
食堂の前からどこをどう走ったのか覚えていない。気がつけば、見慣れたウッドテラスの横の黒い縁の硝子扉を押し開け、右奥のラベンダーブルーの壁画の前の席に座っていた。
「いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか」
お決まりのフレーズが遠くで聞こえても、私は何も答えられなかった。
走っている間、瞳から涙が溢れて零れて夜風に飛ばされて、今はもう涙は出ていなかったけど、ぼんやりとした視界の中にはラベンダーブルーの絨毯のようなブルーベルの絵だけがしっかりと写されていた。
子供の頃に見た北海道のラベンダー畑。
昨日見た玉原のラベンダー畑。
そのどちらよりも鮮明で匂い立つような美しさの絵に焦点の定まらない視線を向けて、テーブルに頬杖をついてふぅーっと深呼吸の様な小さなため息をついた。
ラベンダーは甘くて爽やかな香りだけど、ブルーベルはどんな香りなのかしら。そんな事をぼんやりと考えた時。
甘く爽やかなラベンダーの香りではなく、香ばしさの中に気品に満ちた薔薇の花のような香りがふわりと漂う。
すっと、頬杖をついたテーブルの端にコーヒーカップが置かれ、そこからフローラルな香りが漂う事に気づいて顔を上げると、トレンチを脇に持って虎沢オーナーが立っていた。
オーナーとは初めてお店に来た時少し話しただけなのに、その後足しげく通うようになった私にいつも話しかけてくれて、時々サービスもしてくれる。私にとってオーナーは、七海を挟まずに話せる数少ない男性で信頼している人だった。
「オーナー……」
オーナーは片眉を上げ心配そうな顔で私を見てて、その時になってお店に来てから一言も話していない事に気づく。
涙の後の残る頬を慌てて拭う。
オーナーの顔とテーブルの上のコーヒーとを見比べて、カップを手元に引き寄せて口をつける。カップを口元に近づけた瞬間、香ばしさの中にある花のような香りがふわりと鼻腔をくすぐり、馥郁たる香りが立ち込める。
口に含むと、果実酒の様な酸味と甘さとコクがほどよく調和された絶妙な味わいのコーヒーだった。
「このコーヒーは……?」
今まで飲んだどのコーヒーとも違う味わいに首をかしげると、太陽の様なふわりとした笑みを浮かべてオーナーが言う。
「ブルームーンブレンドです」
「ブルームーン……そんなブレンド、メニューにありましたっけ?」
週三回くらいは来ているから、メニューもほとんど覚えてしまっている。だけどそんなメニューはなかったはずで、確認しようとメニュー表に手を伸ばすと、オーナーが苦笑して首を振る。
「いえ、メニューにはありませんよ。うちの従業員がブレンドした試作品です。お味はいかがですか?」
試作品と聞いて片眉を上げ、それからすでに半分ほどの量になっているカップに視線を落とす。
「美味しいです。甘さとコクがちょうどよくて、香りもすごく良いし。私、好きです」
目を閉じてブレンドコーヒーの香りを吸い込むと、さっきまで胸に渦巻いていた苦しい気持ちを吹き飛ばしてくれるよう気がする。
オーナーは福福とした笑みを浮かべてカウンターへと戻っていく。
私はブルームーンブレンドの香りを最後まで堪能した。
ずずっと鼻をすすって、今更だけどティッシュを取り出して鼻をかんで頬に残る涙の跡を拭う。オーナーには泣いた事に気づかれたかもしれないけど、仕方ないと思ってしまった。
それよりも、失恋の辛さを消してしまいそうな不思議な味わいのコーヒーをじぃーっと見つめる。
こんなに美味しいコーヒーを作ったのはどんな人なんだろう――という好奇心が湧いてくる。だけど。
ブー、ブーと鞄の中で携帯が振動し、取り出して画面を見てツキンと胸がまた痛み始める。
ディスプレイは秀先輩からの着信を知らせていた。
優しい秀先輩のことだから、話の途中で駆けだした私を心配しているんだろうと想像がつく。だけど今は、その優しささえひどく切なくて、私は泣きそうに顔を歪めて携帯を鞄の中に戻した。
ブー、ブーとバイブレーションがしばらく続き、やがて途切れて、はぁーと大きなため息をつく。
電話を無視するのはよくないって分かってるけど、今は秀先輩の口から聞くどんな言葉も失恋を思い知るだけで辛いから。とてもじゃないけど電話に出ることは出来なかった。
そうだ、私……失恋しちゃったんだ。
今頃になってその事を自覚して、胸がじくじくと痛む。
叶う恋だとは思っていなかった。両思いだなんてそんな期待はしていなかった。だけど――妹みたいという言葉は、好意を持ってもらってるのは分かるけど、私が欲しい気持ちとは全く違う。愛情じゃない。恋愛対象としてさえ見られていなかったことが、悲しすぎる。
もう涙は出ないと思っていたのに、ブルーベルの壁画に向けた視界の端がぼやけてくる。こぼれそうになった嗚咽を堪えて目元をぬぐおうとした時。
その腕を後ろからぐいっと引かれ、反動で振り返ったそこには二十代くらいの男性が立っていた。驚いて目を瞬いた瞬間、ぽろっと涙が零れ、はっと我に返ったんだけど。
「ちょっと俺につきあって」
声は綺麗なバリトン。あまり抑揚のない声からは感情は読みとれないのに、言葉と行動が強引に私を引っ張り、立ち上がらせる。
「えっ……」
人見知りとか男性が苦手とかそんなことを言う間もなく、有無を言わさずお店から連れ出されてしまって――
わっ、私、どうなっちゃうのぉ――!?
―人物紹介―
◆虎沢 誠一郎
カフェ・ブルーベルのオーナー、三十六歳